『鼻紙写楽』はまちがっている
日本でもっとも絵がうまいマンガ家にして、きわめて寡作。オビに「伝説」と書かれる一ノ関圭の新作がついに発行されました。
●一ノ関圭『鼻紙写楽』(2015年小学館、1800円+税、amazon)
連載されたのは不定期刊だった小学館の雑誌「ビッグコミック1(ONE)」。2003年から2009年にかけての連載も不定期でした。雑誌休刊とともに連載は中断されていましたが、連載一回分が描き下ろされ、2002年に描かれた10ページの短編「初鰹」を加えて単行本化されました。単行本編集・企画としてビッグコミック1の編集長だった佐藤敏章の名がありますね。
わたしが雑誌休刊時に描いた記事はコチラ。→(※)
堪能しました。超絶的な絵のうまさ、マンガ的な人物造形の色気、これでもかという考証と歴史を絡めて練られたストーリーの妙、緻密な構成と演出、どれをとっても一級品です。
しかし。
連載一回一回がとんでもない濃密さですばらしい仕上がりなのに比して、全体を通して読むと、このアンバランスさはどうしたことか。
これは本作が未完であるのに、全体の構成をやや無理に改変して刊行したせいでしょう。本書の章立ては連載時とは異なり、エピソードが時系列になるように変更されています。でも雑誌連載で読んでたわたしにいわせていただければ、ここはどう考えても、発表順に読んだほうがよいと思われるのですよ。
以下、ストーリーや謎に触れます。
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雑誌連載第一回は「卯の吉その二」です。上方から江戸に出てきた絵師・伊三次と、威勢のいい芝居茶屋の娘が出会います。彼女には徳蔵という幼い弟がいますが、彼が誰かもわからない。背景にあるのは、寛政の改革による芝居や出版への弾圧。
連載第二回が雑誌に掲載されたのはその半年後。本書では「卯の吉その三」。
幼い徳蔵は五代目市川団十郞の子供であり、小海老の名を持っていることが明かされます。調べてみるとわかりますが、徳蔵が六代目団十郞ですね。徳蔵はかつて誘拐されたことがあり「心に傷」を負っている。いっぽう、伊三次といい仲になっている芝居茶屋の娘・ひわは、じつはすでに結婚しているらしいことが匂わされます。
連載第三回の掲載はさらにその半年後でした。本書では「卯の吉その一」。徳蔵の付き人、卯の吉による回想。彼の目から見た徳蔵の姿が描かれます。
この回で初めて、徳蔵が誘拐されたとき、男性の陰部を傷つけられたことが明らかにされます。さらに「ひわ」の名はじつは「りは」であり、五代目団十郞の娘。芝居茶屋に嫁いでいることもはっきり描かれました。
つまり連載時には、人間関係や徳蔵の事件の真相が小出しにされ、読者の前にじわじわと明かされていったのです。これぞ構成の妙、マンガを読む楽しみ。ところが単行本化で変更されたエピソード順では、こういう事実や人間関係は冒頭の「勝十郎その一」ですべて語られています。それなのに、後の章でこういうじっくりした謎解きを読まされてもなあ。
以下、連載では、徳蔵の役者としての才能の発露や、父親・五代目団十郞との微妙な関係、伊三次が写楽として開花していく過程がじっくりと描かれ、さてお話は過去へ。
連載第七回ではエピソードは過去にさかのぼり、同心・綴(つづり)勝十郎が主人公となります。徳蔵の誘拐事件が描かれ、第八回で勝十郎は、田沼意次と松平定信の政治的暗闘に巻き込まれます。
描き下ろしとして描かれた部分を含めたこの三回、「勝十郎その一、その二、その三」はミステリとしても読める、もっともおもしろい部分です。とくにこの部分で主人公となる勝十郎は、御家人からドロップアウトして芝居小屋で笛を吹いているけど、腕も頭も切れる男。時代劇ヒーローとして完成されてますね。連載時、彼の姿は雑誌表紙も飾りました。
『鼻紙写楽』は実質、描き下ろしの「勝十郎その三」で未完のまま終了しています。勝十郎が主人公の部分を冒頭に置くという単行本の構成では、読者は主人公らしい主人公である勝十郎が出てこないまま(一瞬だけちらっと出てきますが)、時間的にはその後となるエピソードをずっと読み続けることになります。時系列としては正しいが、マンガの構成としては、やっぱりこれはおかしい。未完なんだから未完のまま、読者にあずけてもいいのじゃないか。
『鼻紙写楽』を読むかた、読み直されるかたは、ぜひとも、連載時と同様の順番で読み、最後に七代目団十郞の出生の秘密を明かす短編「初鰹」を読むことをおすすめします。
本書では語られなかったいろいろなこと、写楽がいかに写楽になっていくか、六代目団十郞がどのように成長していくか。わたしたちはそれらを読める日が来るのか。読者としては気長に待つだけです。
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