私的で普遍の美しい物語『青い薬』
恋人から自分がHIV感染者であると告白されたマンガ家はどういう行動をとったか。
●フレデリック・ペータース『青い薬』(原正人訳、2013年青土社、2400円+税、amazon)
出版社からご恵投いただきました。ありがとうございます。
B5判よりちょっと小さいソフトカバー、モノクロ200ページのバンドデシネの邦訳です。
エイズ/HIV感染が発見され世界的問題になったのが1980年代。HAART療法(Highly Active Anti-Retroviral Therapy)が始まり長期生存が可能になってきたのが1990年代後半。
フィクションの世界では、登場人物の多くがHIV感染者という設定のブロードウェイ・ミュージカル「レント」が始まったのが1996年。そしてフランスで本書が刊行されたのが2001年です。
主人公は作者自身であるフレデリック。彼は20代後半のマンガ家で、スイスのジュネーヴに住んでいます。カティは離婚後ひとりで三歳の息子を育てている女性。フレデリックはカティとデートするようになりますが、ある日、彼女から告白されます。自分と息子はHIV感染者であると。その瞬間、フレデリックの頭に浮かんだ思いは。受難、憐憫、欲望、逃亡、拒絶、所有、嫌悪……
そして彼ら三人はいっしょに住み始めることになります。
本書は作者の自伝的物語です。最初は発表する予定もなく、ただ自分の気持ちを整理するために描き始めたものであると。脚本もなく、下描きもなしで、直接筆で描かれています。
病気とともに生きるということ。世間からの偏見をどう受け流すか。死の恐怖。そして夫婦間の大きな問題、セックスをどうするか。感染の恐怖。
キスがオッケーなのは知られている。コンドームを使えばいいことはわかっている。しかしそれ以上のこまごましたこと。こんなことやあんなことにリスクがあるのかないのか。
実際にフレデリックはコンドームが破れていることを見つけてパニックになったり、傷のある指でコンドームをさわってしまい病院に駆け込むことになります。
カティの血中ウイルス量は少なく、医師からは「あなたがエイズに感染する可能性は、ここから自宅に帰る途中で、白いサイに遭遇するのと同程度の可能性ですよ!」と言われる。しかしそれ以後、フレデリックの周囲にはサイが出没するようになる……!?
本書は私的な動機で描かれ、内容もその当時の作者のとまどいや悩みがそのまま提出されている。しかしだからこそエピソードのひとつひとつが読者の心に響いてきます。
カティの息子のウイルスが活動し始め、治療を開始することになります。現在のHIV感染の治療では、ウイルスを押さえ込むことは可能ですが、治療をいったん始めると薬を一生飲み続けることになります。飲み忘れは許されない。ウイルスが変異する原因となるからです。
息子の病気の原因はまさに母親であるカティです。罪悪感と、息子への愛、将来への不安。そして彼女に寄り添うフレデリック。タイトルとなる「青い薬」とは一生飲み続けていかなければならないエイズ治療薬のことです。でもこれってわたしたちの足を縛ってる他の何かと取り替えて考えることも可能ですね。
展開でわかりにくいのが、医師がフレデリックを介してカティの治療開始をすすめるシーン。無症候期のHIV感染者に対して、かつてはウイルス活動が確認されてから治療を開始していましたが、現在では治療開始が早くてもオッケーという考えかたが有力になっています。治療には副作用もあるし金銭的にも負担だし治療中止はできない。ただし治療が成功すれば発病や感染の危険性はほとんどなくなる。
医師の言葉を理解するにはこういう知識が必要のようです。わたしも含めてエイズ/HIV感染治療にうとい日本人読者には少しむずかしい部分です。
ラスト近く、フレデリックは幻想のマンモス(!)と対話します。内容は愛と病気と死について。「たぶん病気はおまえさんの最大の不幸である一方で、最大の幸福だったんじゃ… たぶんそれがいくつかの本質的な事柄についておまえさんの目を開いてくれたんじゃないのかね?」
「青い薬」は病気の象徴でもあり、愛の象徴にもなりました。ラストシーンの一文がなんと美しいことか。
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Comments
読了しました。
日本でもこういう作品が創られると良いのに。
増補されたページ、短いけれど読み応えがありました。
Posted by: さざなみ | September 30, 2013 01:04 AM
「青い薬」さっそくamazonでポチりました。
自分の大切な人がHIV+なので、一緒に読もうと思います。
その人も青い色の薬をのんでいるので、もしかしたら同じ薬かも…。
本の到着が待ち遠しいです。
Posted by: さざなみ | September 23, 2013 06:40 PM