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September 21, 2012

手塚治虫は大卒か?

 NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」って「ゲゲゲの女房」や「カーネーション」と比べてもぜんぜんデキが良くないと思うのですが、なぜかふと見てしまうのが不思議ですねー。真剣に見る必要がない、というのが朝にいいのかな。

 それはともかく「梅ちゃん先生」を見てると戦後すぐの医療制度がどうだったかの参考にはなります。梅ちゃんって手塚治虫とほぼ同い年なんですよね。

 本日のネタは重箱の隅でもうしわけない、手塚治虫の学歴は、大卒なのかどうかというお話。

 手塚治虫は第二次大戦中の1945年(昭和20)、大阪大学附属医学専門部に入学、五年制のところを一年留年して1951年卒業。大阪大学医学部付属病院で一年間インターン。1952年第12回医師国家試験(これは梅ちゃん先生と同期)に合格して、満を持して上京。フルタイムのマンガ家生活に入ります。

 手塚先生、卒業前の学生時代に『ジャングル大帝』の連載開始してるし、『アトム大使』だって卒業とほぼ同時の連載開始ですからね。そりゃ留年もするよなー。

 さて手塚治虫の入学した医学専門部、これはかなり特殊な事情でつくられた教育機関でした。

 現在、医師になるには大学医学部、あるいは医大を卒業することが必須。つまり全員が「大卒」です。しかし看護師さんはまた違ってて、「看護大学」「看護短大」「看護専門学校」など、複数の道があるのですね。

 これと同様に、戦前の日本では医師になるのに複数の道がありました。

 明治以来の日本の医学教育は、病院に附属する医学教場、医学校などを経てしだいに整備されていきます。明治36年の「専門学校令」によって、医師になるには帝国大学医科大学あるいは官立私立の医学専門学校を卒業することが求められるようになります。つまり医大か医専のどちらか、という二本立て制度ですね。

 ただしここでいう「専門学校」は現在とはまったく別のものなんでご注意を。

 さらに大正7年「大学令」が公布され、歴史の長い医学専門学校の多くが医大、あるいは大学医学部に昇格していきます。

 戦時下になりますと、医療をめぐる環境が激変します。昭和12年の日中戦争勃発以来、軍医として応召する医師は増加してゆき、国内の医療に支障をきたすことが予測されていました。実際に日本国内の医師数は、昭和16年の6万7千人から昭和19年には1万1千人まで減少しているのですから、これはとんでもない数字。戦争末期には50歳代の医師まで軍医としてかり出されていました。

 昭和14年に陸軍・海軍・厚生省の三省は、帝大や官立医大に「臨時附属医学専門部」の設置を要請します。国内医療のこともありましたが、なんせ軍医が足りなかった。

 急な話で予算もなし、専従の教授もなし(教官は大学医学部と兼任するのですな)。大学からは反対も多かったそうですが、これが通ってしまうのが戦時下というもの。

 結局、昭和14年5月に七つの帝大と六つの官立医大に「臨時附属医学専門部」ができました(「臨時」の名称はのちにはずされます)。「大阪大学附属医学専門部」はこのときできたものです。

 同様の趣旨で昭和17年以降終戦の直前にかけて、新しい医学専門学校が、どちゃっと26校(多すぎ!)もつくられています。そうとうにムチャしてますが、この時期につくられた医学専門学校は、どこも第一回の卒業生を送り出す前に戦争が終わってしまいました。なにやってんだか。

 手塚が入学した「大阪大学附属医学専門部」はこういう時代背景があってつくられたわけです。ならばこの大阪大学附属「医学専門部」は「大学」かといいますと、残念ながらこれが違うのですね。

 戦前の「大学」はあくまで大正7年の「大学令」に規定されているもので、入学資格として旧制高等学校、あるいは大学予科(現在の大学教養部に相当する学校)を卒業していることが求められます。

 これに対して「専門学校」は、「旧制中学」あるいは「商業学校」や「女学校」みたいなところを卒業していても受験できました。「大学」と「専門学校」は、もともと入学するための資格が異なるものなのです。これが現代と大きく違うところ。

 手塚治虫は1945年に「旧制北野中学」を卒業しました。この時点では、手塚は大学を受験する資格がありません。彼が受験できるのは、旧制高校か大学予科、になります。

 手塚治虫は旧制中学卒で「大阪大学附属医学専門部」に入学しました。つまり「大阪大学附属医学専門部」は「大学」じゃなくて「専門学校」に相当するところだったのですね。

 手塚が入学してすぐに終戦。

 手塚治虫は「大学」に通って「大学教授」の教えを受けていましたが、「大学生」であったわけではない、という複雑な状況が続きます。大阪大学での教育ですからカリキュラムもしっかりしてたでしょうが、でもやっぱり「大阪大学医学部」とは違うもの。

 戦争中の医専は四年制でしたが、昭和22年に五年制に変更されます。同時に医学専門学校の多くは医大に昇格することが決定されましたが、手塚治虫が通ってた「大阪大学附属医学専門部」は廃止が決まります。

 昭和26年、一年留年した手塚治虫の卒業と同時に医学専門部は廃止。この年に卒業できなければ退学するしかなかったのですから、手塚先生、あぶなかった。

 大学に通い、大学レベルの教育を受け、医師となり、のちに医学博士となった手塚治虫ですが、「大卒」かどうかというとこれが微妙なところなのです。

 手塚治虫は若いときから年齢を二歳上にごまかしていました。さらにこの「医学専門部」卒というのをあまりはっきり語らなかった(そこを書いているエッセイもあるのですが、年齢については生涯ごまかしてました)。二重のウソのおかげで手塚が自称する経歴はじつに変なものになっていました(→わたしの過去記事「手塚治虫と学歴」もどうぞ)。

 現代の「大卒」とはまったく価値が違う時代のお話ではありますし、大卒であろうがなかろうが、天才・手塚治虫の価値はなんら変わらない。でも本人はけっこう気にしてたみたいで、そこが人間っておもしろい、などと思うわけです。

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Comments

手塚先生が「大卒」といわれるのと同じように
白土三平先生もよく「中卒」と語られますけど、
中学校中退してるんですよね(^^;

Posted by: くもり | September 22, 2012 12:25 AM

白土先生が行ってたのも「旧制」中学ですね。戦前は教育のコースが複数あるし年齢もけっこうばらばらで理解するのがたいへんだったりします。

Posted by: 漫棚通信 | September 22, 2012 09:10 AM

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