アラビアの言霊『ハビビ』
アラブ世界を描いたマンガだけどBDじゃなくてアメリカ発のグラフィック・ノヴェル。これがなんというか空前の作品。
●クレイグ・トンプソン『 Habibi 』1・2巻(風間賢二訳、2012年TOブックス、各2800円+税、amazon)
「ハビビ」とはアラビア語で「愛する人」という意味だそうです。本書では上巻にこの説明がないので、最初にこの言葉が出てきたときアラビア語になじみのない日本人はちょっと混乱します。
本書を要約して紹介するのはちょっとむずかしいです。ストーリーは時系列に沿っては語られず、エピソードはコーランの説話と二重写しになり、絵には図像的暗喩が秘められており、さらにアラビア文字や魔方陣が組み込まれた表現。その結果、全体の印象は複雑なものになり、めくるめく、という感想がぴったり。
ストーリーを追うとこんな感じ。少女ドドラは9歳にして、父親のもとから売られるようにしてある中年男に嫁ぐことになります。彼女の夫となった男はアラビア文字を装飾的に書く書士で、幼い彼女に文字や物語を教えます。
彼女が12歳になったある夜、盗賊がドドラの夫を殺し、彼女は誘拐されます。盗賊のすみかで自分より9歳年少、3歳の黒人少年ザムと出会った彼女は、ザムを連れて盗賊の元から逃げ出し、砂漠に置き去りになった船で生活することになります。
この世界は生活汚染物質で満ちています。ドドラは砂漠を行く隊商の男たちに体を売り、ザムは川をせき止めるダムの水を近くの街に売りに行きふたりの生活を支えます。ドドラはザムに物語を語り聞かせ、ふたりは貧しいながらも奇妙に平穏な生活を送っていました。
ところが。21歳になったドドラはサルタンに捕らえられ後宮に入れられてしまいます。別れ別れになったふたりがいかにして再会するのか、そしてそのときふたりを待ち受ける過酷な運命とは……!?
上下巻で700ページ近い大著。モノクロです。
舞台となるのはアラブ世界。一見、アラビアンナイトのような中世に見えますが、この世界にはダムがあり建設中の大都会があります。ここはどこでもない架空の現代アラブ世界です。
物語の推進力となるのはドドラとザムの悲しいラブストーリーです。つらいエピソードが連続しますが、彼らはそれを機知と勇気で克服してゆきます。彼らを助ける魅力的なキャラクターが登場するとほっとしますね。
このマンガの仕掛けが「文字」と「物語」です。
ドドラがザムに語るコーランの説話、アブラハムやソロモン王のそれが、ドドラやザムの身に起こる事件と二重写しになります。まずこれが第一のたくらみ。
コマ構成そしてコマ外はわたしたちが考えるアラビア風の様式美に満ちていて、これが第二のたくらみ。いやもう徹底的な描き込みがすごい。これだけで圧倒されます。
それと同時に作者はもっと暗喩的な絵も描いています。
たとえばこの絵。しばられたドドラと共に海に沈むザム。その後ろには同じように海に投げ込まれた他の女たちの姿が見えます。
この絵は子宮と卵巣をイメージしています。つまりこの絵は主人公たちの死と再生を暗示しているわけですが、こういうのって日本マンガの読みかたをしていたのでは気がつかないなあ。
さて本書では、アラビア語のカリグラフィーをマンガに取り入れる、というびっくりするような仕掛けがなされています。
アラビック・カリグラフィー Arabic Calligraphy あるいはイスラミック・カリグラフィー Islamic Calligraphy とはこういうもの。(画像検索結果→※)
日本では「アラビア書道」と訳されるようですが、まさに字で描いた絵。アッラーの言葉を美しく書くことには宗教的意味が込められているそうです。
作者はこれをふまえた上で、字と絵の融合を試みました。水面のさざなみは文字となって主人公を導く。降り注ぐ雨はすべて文字。主人公の体を占める文字。
日本人読者としては「言霊」という言葉を思い浮かべてしまいます。
木の枝は文字に変化する。蛇は文字の形をとって主人公を導く。この世界で病人は聖なる文字を薬として飲みます。本書にはこれら以外にも多くの文字が登場します。
文字と絵の同居はもっともプリミティブな形式のマンガでもあります。最新のグラフィック・ノヴェルが先祖返りの表現を選んでいるのです。
作者クレイグ・トンプソンはアメリカ人。キリスト教原理主義者の家庭に育った彼は、自伝的作品『 Blankets 』で高い評価を得ました。
そういうアメリカ人が、コーランとアラビア語について描く。本書は著者の長編第四作で昨年九月に発売されたばかり。本書の成立は現代の政治的背景と無関係のはずがありません。西欧とイスラムの対立がある9.11後の世界で、描かれるべくして描かれた物語なのです。
本書で象徴的に取り上げられているのがアブラハムとその息子たち、イシュメイルとイサクの寓話です。アブラハムは息子を生贄として神に捧げようとしますが、コーランではそれはアラブの祖イシュメイル、創世記ではユダヤの祖イサクであると書かれています。
どちらの息子が生贄に捧げられたのでしょう。
イシュメイル対イサク。イスラム対ユダヤ。本書の第一章で投げかけられたこの問いの答えは最終章になって明らかにされます。
コーランの説話を使い、アラビアンナイトの外見を持ち、文字の魔法について解説された、寓話的なラブストーリー。しかしもっとも現代的な作品が本書なのです。
Comments
9.11が「文明の衝突」の証拠であるならば、3.11は「人類文明の危機と限界」の証拠に他ならず。
四種類の原発事故調査報告書を総括すれば
「ようするに、現在の体制のままでは、どーにもこーにもできんかったよな、おまんら。よって人災。決定。」
原発を動かすな動かそう、という前に、危機管理を理解せず実践できない近代~現代日本人の心理構造にとても大きな問題があるように思います。
内田樹的に言うならば「米帝属国の悲哀=危機状況に対して自主管理不可能な統治機構と人民精神の構造」と呼ぶべきでしょうか。
旧世代は解決できなかったし、これからもできないので、生まれていない未来の世代へ大きな宿題(つけ)として残されたわけです。
頼んだよ、みんな。
Posted by: トロ~ロ | July 11, 2012 12:30 PM
あ、ものすごいまちがいを書いてしまった。無意識ながらなんというか…… 修正しました。
Posted by: 漫棚通信 | July 11, 2012 08:22 AM
>西欧とイスラムの対立がある3.11後の世界
本当は9.11なのでしょうが、3.11となってしまうのが、今を生きる日本人の集合無意識的トラウマなのでしょうか。
エーと。
昨月まではえろえろでイタリアーンなチョイわるだと思っていたのに、アラブにまで触手を伸ばすなんて。
こ、こんな面白そうで、たっかーい本なんて、かかか買ってやらないんだからね!
うわぁーーーん。。。泣
Posted by: トロ~ロ | July 11, 2012 02:31 AM