イタリアーンなマンガ:イタリアエロマンガの父、レンツォ・バルビエリ
「イタリアーンなマンガ」シリーズも回を重ねてきましたので、ちょっと一覧を。人名とかタイトルがわからないときは過去記事を参照してみてください。
●ミロ・マナラの詩情
●マニウスの『金瓶梅』
●ヒーローは複雑系『コルト・マルテーゼ』
●強烈!マダム・ブルータル
●女吸血鬼がいっぱい(その1)(その2)(その3)(その4)
●エッチなツインテール
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さて今回は。
イタリアのエロマンガの歴史は、ひとりの編集者の手によって切り開かれました。
レンツォ・バルビエリ Renzo Barbieri がそのひと。書斎でこもるようなタイプじゃなくて、女性にもモッテモテ。プレイボーイとしても有名で、『プレイボーイ入門 Manuale del playboy 』という本を書けば(一晩で書き上げたという伝説あり)これがベストセラーに。じつに興味深い人物です。
Wikipediaなどを見ると1940年3月ナポリ生まれ、ということになっているのですが、これがすでにあやしい。
実弟の有名写真家、ジャン・パオロ・バルビエリの生年が1938年といわれてて、これでは弟より年少になっちゃう。レンツォ・バルビエリが亡くなると同時に、あいつは10歳は若くサバ読んでたに違いないという噂が出回ったそうです。
1936年10月生まれと書いてある資料があって、こっちのほうが信用できそう。女性にモテるために若く自称していたのかしら。このあたり、二歳年長と自称していた手塚治虫と逆ですね。
バルビエリの父親は第二次大戦後に衣料品の卸売商をしていましたが、バルビエリはこれを嫌います。ミラノには金持ち向けにクルマをチューンナップする自動車工場があって、彼はそこの広報を担当することになりました。そのおかげで彼は、ミラノのそうそうたる有名ナイトクラブに出入りし始めます。
一方でバルビエリはマンガの脚本、小説、新聞のコラムなどを書き始めていました。このころの彼の師匠といえる人物がふたり。ひとりは「 La Notte 」の新聞記者、ニノ・ヌートリツィオ Nino Nutrizio 、もうひとりはマンガ「小さな保安官 Il Piccolo Sceriffo 」で人気を得ていた出版者兼脚本家のトリスターノ・トレリ Tristano Trelli です。
「小さな保安官」はこんな感じのマンガ(画像検索→※)。
このトレリさん、なかなか商売上手なかたで、マンガ雑誌の表紙に初めてセミヌードの女性を起用してヒットさせたりしてます。
これがその雑誌「 Caballero 」(イタリアebayでの検索結果→※)です。
マンガ雑誌っぽくない表紙ですが、まあ現代日本のマンガ雑誌も表紙は若いお姉ちゃんばっかりであることを思えば、時代を先取りしてました。
1950年代のバルビエリは、作家修行をしながらナイトクラブで明け方まで過ごし、睡眠時間四時間で走り回っていました。そのころのバルビエリの写真がこれ。いっしょに写ってる女性はミス・ローマだそうですよ。
1966年、バルビエリは天啓を受けます。
ある夜のこと、ジェノバのニューススタンドで偶然「 Killing 」という雑誌のフランス版を手にしたんだ。雷に撃たれたような気がしたね。すぐにナイトクラブ「チャーリー・マックス」に行って借金を申し込んだ。
バルビエリは「66出版 Editrice Sessantesei 」という出版社を設立し「セックス&ホラー」なポケット版マンガ単行本をニューススタンド向けに出版し始めました。
そのころイタリアでは「ディアボリク Diabolik 」に代表されるような犯罪マンガが流行していましたが、直截のエロを描いたものではありませんでした。バルビエリは「 fumetto nero 黒マンガ」と呼ばれたそれらを、もっと過激に展開しようとしたのです。
「イザベラ Isabella 」は当時映画が公開されていた「アンジェリク」を参考にしました(フランスの大長編作品で邦訳もされてます。マンガファンには木原敏江バージョンがおなじみ)。もうひとつの「ゴルドレイク Goldrake 」はジェームズ・ボンド 007 を参考に作られました。かくして、イタリア最初のポケット版エロマンガが誕生したのです。
翌1967年1月、バルビエリはジョルジオ・カヴェドン Giorgio Cavedon と共に新しい出版社「 Edizioni Erregi 」を設立します。
カヴェドンは映像畑のひとでジャズ演奏家でもありました。バルビエリもカヴェドンもマンガの脚本を量産し、上記二作の出版を継続しながらその他にも多くのキャラクター作品を送り出します。
1972年、バルビエリは多くのキャラクターの権利をカヴェドンにゆずり、自身は新しい出版社「 Edifumetto 」を設立しました。バルビエリはここでも大量のエロマンガを制作し、イタリアエロマンガ界の総元締めとして君臨します。Edifumetto は鮫のマークをマスコットとしていて、彼自身も「 Squalo (鮫)」と呼ばれていたそうです。
バルビエリは作家としての側面も持っていました。「プレイボーイ入門」を出版したのは1967年ですが小説も書いていて、1950年代に書いた作品は別にしても1970年代末から1990年代にかけて多数の小説を出版しています。
イタリア、スペイン、ドイツでベストセラーになった1980年の「プリンセス La Princera 」には、作品内ヒロインの「下の毛」と称するものが付録についていたそうです(なんじゃそら!)から、さすがというか何というか。
1975年には、マニウス Magnus のようなビッグネームも Edifumetto に参加し、マンガとしての質も上昇します。このころマニウスが Edifumetto で描いた作品は最近でも入手可能ですが、エロであってもそうとうにゲージツ的なものです。
Edifumetto はイタリアのセックス革命の一翼を担い、商業的にも成功しました。
しかし。
世界的にビデオの時代が到来すると、イタリアの成人向けマンガは次第に衰退し市場を失い、1980年代末にはほぼ壊滅状態となります。しかしバルビエリは出版から手を引くことなくふんばり、Edifumetto は2002年まで活動を続けました。
2007年没。いやー、なんかすごく豪快なひとだったみたいです。
●バルビエリの写真はすべてGraziano Origa 『 Vietato ai minori. Vamp e vampire: Jacula, Zora, Sukia e Yra 』(2007年 Rizzoli 社)より。
Comments
×多彩
○多才
訂正させて頂きます、しょぼん。
Posted by: トロ~ロ | July 28, 2012 11:08 PM
イタリア人の多能・多彩なところはルネッサンス以来の伝統なのでしょうか。
日本では「多芸多彩な人」より「××一筋○十年」のように「一芸に秀でた人」を尊ぶ傾向を感じてしまいます。
多芸多彩な方々が沢山いらっしゃるのは存じ上げていますが、社会的な評価としては、いまひとつ(の様な気が)。
そうでもないよ~~、という実例を教えて頂けると、蒙が啓けますので、大変幸甚に存じます。
う~~ん。ドイツって「一芸に秀でる」主義かも?
Posted by: トロ~ロ | July 26, 2012 03:22 PM