この表紙イラストがスゴイ『シャーロッキアン!』
日本マンガがいつのまにか絵よりストーリーを重視するようになったのはおそらく、絵がヘタでもやたらとおもしろい作品が実際に存在しえたからでしょう。
それでも最近はみんなそうとうに絵がうまくなってるし、ヘタでもそれなりに味のある絵を描くひとが多い。しかしまあこの表紙カバーイラストはどうか。
●池田邦彦『シャーロッキアン!』3巻(2012年双葉社、600円+税、amazon)
ホームズ作品のウンチク+日常系ミステリを人情話で落とすシリーズの三巻目。この著者の作品は好きでそろえてるのですが、この表紙イラストにはまいった。
どこかおかしい、ような気がする。
作者は消失点が画面奥と画面下にある、という複雑な絵を描こうとしてます。斜めに描かれた書架のパースがすごいですね。しかし消失点が両方ともずれてる、パースの付け方が決定的に変。と見えるかもしれませんが、もしかするとそういうふうに奇妙にねじって作られたポストモダンの建築物なのかもしれません。
女の子の髪型はあり得ないような気もしますが、マンガだからそこは問いません。現代の大学生としてその服はどうよ、と思いますが、不思議の国日本では何でもありだし。
女の子が体をこちらにひねって左手ではしごをつかんでます。左ヒジの関節はかなりきつそうですが、こういうこともありうるでしょう。
右膝が読者方向から見えてる。それなのに右のカカトも読者から見えるように描かれてる。右の下腿は90度ねじれていて人体としてはありえないような気もしますが、アクロバティックなことが可能なひとも存在するから。
女の子、そうとう大きく左足を上げてます。しかも書架があるのは二階で、その階は透明な手すりで囲まれてるじゃないですか。そう、このポーズでは一階のフロアからパンツが丸見えなのです。
いやしかし、これは長めのショートパンツ(昔でいうところのキュロット?)。しかも下には見せパンを履いてるに違いないから、なんら問題なし。
女の子と大学教授が楽しそうに書架の本を取り出しているシーンのはずですが、謎なのが女の子の視線。
教授の視線は女の子の後頭部。あるいは背中に見えるブラジャーの線か。しかし女の子は教授を無視して、遠く一階のフロアにある何かを見て笑っています。
その先にいるのは友人か恋人か。教授より大切な人物であることはまちがいないでしょう。楽しそうだけどじつは不穏なイメージが秘められている。
わたしがいちばん気にしているのは、じつはこの建物のレイアウトです。
二階のこんなところにでかい書架を置いてると、本の重さで二階が崩れるぞ。さらに地震のときはどうなるんだ。
そして。はしごに登って本を引っぱり出してる最中に、もしバランスをくずしたりすると、一階まで真っ逆さま。
このような危険な書架は、わたし許しません。
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Comments
絵のうまいヘタの話題なので、ご相伴させていただきます。
ガロ系の絵を画風で分類すると、アンリ・ルソーに代表される素朴派に入るのではないかとにらんでいます。
そう思いついた理由の一つは、藤田嗣治が一時期アンリ・ルソーに傾倒してルソー張りの絵を描いていたことを知ったからです。白磁のようなキャンバス面に面相筆を走らせて描く彼一流の画境に達する以前のことです。
藤田に限らず、ルソーの絵を見て、絵はこう描いてもいいのだ、という解放感を得、日本人の描く洋画はどうやっても本場の作品の物まね以上には出られないのではないか、洋画家として一流の西洋人画家に互して行くことはできないのではないか、といった悩みから抜け出せたといわれています。
つまり西洋画の基準(カノン)から外れた絵を描いたって、一見ヘタくそな絵だって、見る人の心に訴える内容を具えていればいいのだ、といったところでしょうか。
それで大正末から昭和初期、日本ではアンリ・ルソー風の絵が大流行したそうです。安直な物まねはすぐに廃れたでしょうが、ルソーの影響を消化した岡鹿之助の絵を美術の教科書で見た記憶のある人もいるかもしれません。(『ルソーの見た夢、ルソーに見る夢』2006など参照)
今年生誕100年を迎えるということで、地元岩手やゆかりの地横浜市をかかえる神奈川他で展覧会が開かれている松本俊介もルソーから大きな影響を受けた画家です。
黒衣に勲章を付けパレットと絵筆を持った自分の姿を画面いっぱいに描いたルソーの自画像を消化した松本の自画像「立てる像」を、どこかで目にした人は多いと思います。
で、話はガロ系の漫画家にもどるのですが、松本俊介展は過去何回も開かれいて、つげ義春の「夢の散歩」(1972)以降の絵の変化のきっかけは、同年の松本の展覧会(「南天子画廊特別展 松本俊介」於京橋)をつげも見たからではないかと夢想するのです。
Y市の橋の上に佇むぼやっとした黒い人影は(このモチーフは藤田嗣治の絵にも登場しますし、その淵源をたどればルソーの絵のところどころに点綴された不可思議な小さな黒い人影に行き着くようです)、わかりやすい形では、つげの「夢の散歩」(1972)「夜が掴む」(1976)「外のふくらみ」(1979)に転生していると思われるのです。
思いつきにすぎません。
ガロ系の絵を素朴派に分類すれば、すこしは彼らの絵の理解と受容が進まないかという提案です。
Posted by: 留公 | July 06, 2012 05:05 AM
>本の背表紙の色はみごとにすべて飛んでしまっています
NHKの「ブラタモリ」だったか、神田の古書店街を紹介したとき、全古書店が見事に間口を東側へ向けていて「西日が店内へ差し込んで本の背がやけないようにとの配慮です」という説明がありました。
何でもよく見て覚えておくものですなぁ~~
Posted by: トロ~ロ | May 17, 2012 02:07 AM
若さと古さが混じったエロティックな絵ですね(笑)
パースはつっこみだらけですけど、色彩については文句なしに全まっている絵だと思います。
(ですので、レイアウトデザインとして黒と白抜きの文字しか持ってこれなかった。)
読みたくはなりませんが、面白いですね~一二巻もチェックしたいです。
Posted by: はな | May 09, 2012 12:45 AM
女の子の乗っているハシゴなのですが、高さが下段までしかないようですから、上の段の高い位置の本を出し入れするのは、かなり危険を伴うものと思われます。
それとも、もっと長いハシゴをわざわざ持ってくるのかな?
ガラス張りの図書館の有る施設を知っているのですが、本の背表紙の色はみごとにすべて飛んでしまっています(本棚全体が蒼ざめて見えます)。
危険です。
Posted by: 黒豆 | May 08, 2012 10:47 AM
いつも拝見し様々な本など教えていただいています。
便乗、というつもりはないのですが、
もしこの作者の池田さんがこちらに目を通される機会があり、
今後絵を描かれる時の参考になさったりするならば(そんなこと、有るかな?)
もう一つ気になる(気を付けていただきたい)点を
皆様のご意見に申し添えさせて下さい。
会話は必ずしも視線を合わさない、後ろ向きのままでもできると思いますが、
私は教授の持つ大きな書物に添えられた手の位置にどうしても違和感を覚えます。
向こう側の右手は本の上部を、こちらに近い側の左手は本の下部を
当たり前のように持っていますが、一見して不自然に思えます。
この方だけでなく、時々「?」と思えるものを描いてある作品を目にしますが、エッシャーの絵を眺めるような
不条理を意図的に取り込んでの作画なのでしょうか。
変だなと揶揄するつもりでなく、衷心より
(ストーリーも大切ですが)心を込め神経を使って描かれた作品が創り出されますよう願っています。
Posted by: 風 | May 08, 2012 12:42 AM
連投すみません。
女の子のヘアスタイルがポニーテールに、AKB風の触覚(顔の両側に少しだけ髪を垂らす)なのは、よく観察しているというか、グラビアなんかで間に合わせているというべきか、いまのトップ・ファッションは、むしろショート・ヘアなんですが。
剛力彩菜とか、AKBのモデル出身の「驚異の研究生」とかね。
いしかわじゅん氏が「ファッションに関心を持つようにしないと、登場人物にセンスの良い服は描けない」と述べていたことを思い出します。
吾妻ひでお氏はファッションには無関心だと思いますが、JKに対して超超超超関心があるので「現在」をキャッチアップできるのですねぇ、ナルホド。
Posted by: トロ~ロ | May 07, 2012 11:49 PM
「どうせ表紙の稿料は出ないんだからなあ。想像で適当にやるか」
「うーん」
「ガラス張りの図書館風の書庫なんて格好いいな」
(紫外線の図書への悪影響について考慮なし)
「そうだ、このまえ打ち合わせで行ったカフェは曇りガラスの手摺だった」
(安全性への考慮なし)
「書架って大体が1階だけど、2階ってないよね。いいね、オレって天才?」
(天災、いや人災かも)
「えーと、ガラス張りで2階で曇りガラスの手摺で・・・あれえ、誌面に収まらないなあ、いいや床面を狭くしちゃえ」
(おい!)
「うーん、開放感が無くなったなあ。そうだ魚眼レンズ風に手前と上方を広げちゃえ」
(おいおい!パースが完全に狂っちゃったぜ)
「女の子の服装はと、えへへ、昔のテニスウェア風に巻きスカートのオレンジのミニスカと半袖丸首の白いシャツでバストを強調してと、おお、下から丸見えだけど上からの視線だし、いいよね」
(むしろ下から視線の方がいい、女性は脚から舐めて迫るアングルの方が格好良い)
「女の子のバストを強調するにはこちら向きの姿勢で、読者の目線の邪魔にならないようにオジサンは彼女の後方で、ええっと二人が会話している感じにするには女の子の身体を捻らせて、でも足は梯子にまっすぐ乗せないと・・・」
(こんな態勢ねーよ!)
「出来た!! 凄くね、オレ。これ全部想像だぜぇ、ワイルドだぜぇ♪」
(・・・・下手だぜぇ・・・・)
妄想再現ドラマ風に創作過程を表現してみました。
Posted by: トロ~ロ | May 07, 2012 11:33 PM
大人のひざ丈くらいしかないガラス製の手すりとか
書架と手すりの間の幅が人一人通るのがやっとしかないとか
さらに画面奥ではどうみてもその書架が手すりと密着してるようにしか見えないとか
何かもう新手のプロパビリティの殺人トリックのような気がしてきた
Posted by: な名無し | May 06, 2012 12:11 PM
反論を。
かつて、左手こちらを見ている人物と、右手こちらを見ている人物が、視線が合っていないのにもかかわらず「正面視して対話している」という表現がよくありました。じつは日本マンガだけじゃなくて、アメリカのコミックスにもこういう表現があります。マンガの嘘であり今は忌避される表現となりました。
本作の表紙はこの表現の極端なもので、女性と男性の位置がすごくずれているのにかかわらず、ふたりが「視線を合わせて共感している」ように描かれているのです。しかし残念ながらこのずれを感知することができないひとが存在するわけで、作者はきっとそっち方面なんだと思います。
Posted by: 漫棚通信 | May 04, 2012 08:32 PM
も一つ書くと、
足元に注意して下りるために、教授のほうではなく、こちらに体をひねっているように思われます。下に出した足を見ながら梯子に着地したその後の場面ではないでしょうか。
この構図を、実際の動さを見ながら描いたのではないのなら凄いことです。
Posted by: くもり | May 04, 2012 02:55 AM
これは梯子を降りながら教授に話しかけている絵な気がします。視線は教授をとらえていませんが、態勢の限界まで目いっぱい教授のほうへ口を向けています。こういうことはありうるのではないでしょうか。視線はの先に意味はなく、意識は完全に教授に向いている気がします。
お互い視線を合わせている絵はよくありますが、こういう「途中の絵」(←表現的に正しいかわかりませんが)ってなかなか画けるものではないと思います。動きのある絵ってこういうものだと思います。
Posted by: くもり | May 04, 2012 02:46 AM