文学とマンガ『ファン・ホーム』
うーむ、世界は広い。マンガも深い。
●アリソン・ベクダル『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』(椎名ゆかり訳、2011年小学館集英社プロダクション、2500円+税、amazon)
出版社からご恵投いただきました。ありがとうございます。
著者は1960年アメリカ生まれの女性。彼女が自身の少女時代を回想した自伝的マンガです。描かれているのは1960年代末から1980年代初めまで。
原題は「Fun Home: A Family Tragicomic」。タイトルの「ファン・ホーム Fun Home」からは「楽しいわが家」みたいな感じを受けますが、これは「funeral home」=「葬儀場」を略したもの。彼女とその兄弟たちは、実家である葬儀屋をこのように呼んでいたのですね。
さらに「tragicomic」なんていう言葉はありません。「tragicomedy」=「悲喜劇」ですから「tragicomic」=「マンガで描かれた悲喜劇」という意味の著者による造語です。とまあ、タイトルだけでもいろんな仕掛けを施した作品。
本書で主に描かれているのは、著者とその父親との関係と、父親の死です。ただし世間の家庭と違うところは、著者がレズビアンであり、父親がついにカミングアウトしなかったゲイであるところ。
ここがもう二重にひねくれてしまった父と娘の関係なのですが、彼らの間の愛憎、そして回想の中での和解にいたるまでが、静かに静かに描かれます。小さなエピソードの積み重ねで登場人物の内面を描くタイプの作品ですね。
その目的のために本書で使用された手法にはびっくりしました。字義どおりの意味で本書は「文学的マンガ」となっているのです。
本書の各章はすべて、著者や彼女の父が読んできた文学作品を下敷きにして描かれています。たとえば第一章はジェイムズ・ジョイス『若い芸術家の肖像』。その下敷きになったイカロスとダイダロスの関係が著者と父の関係に模されます。第二章は「死」の章。カミュ『幸福な死』。著者の子ども時代、葬儀場での生活が描かれ、カミュの書く不条理な死とカミュ自身の死が、父の死とダブります。
第三章はフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』で「父母」の章。第四章がプルースト『失われた時を求めて』、ここでは「父の性」が語られます(プルースト自身が同性愛者でした)。
第五章は児童文学の『たのしい川べ』、圧巻の第六章には少年との男色で告発されたオスカー・ワイルドが登場します。そして最終章がジョイスの『ユリシーズ』。ジョイスで始まり、ジョイスで終わる構成です。
わたしは単純化して説明してますが、実際には多数のエピソードや書名が入り乱れ、じつに複雑な作品となってます。
著者および周辺のひとがみんな、文学作品の登場人物や作者と二重写しになって読者に迫ってくる。相当に難度の高いことをやってるわけでして、これはもう「趣向」の域をこえています。文学とマンガが真正面から組み合っている。
驚くべきは父親や母親だけでなく、過去の自分に対しても鋭い自己分析をおこなってるところ。幼少期の日記をもとに自分の心理をこれほど深く考察できるとは。
絵に関しては写実を廃した、いわゆるマンガっぽい絵柄です。こういう絵であればこそ、登場人物が読んでる本のタイトル(膨大な量!)をさらさらっとコマ内に描けてしまう。そしてそれが物語にすっごい厚みを与えることになってます。
この絵によるもうひとつの魅力は、1970年代アメリカの「時代」のにおい。極私的な物語でありながら、その時代をまるごと切り取ることに成功しています。
写実的じゃない絵のほうが、物語のリアルに寄与しているという不思議。
物語は現実の時間の流れではなく、著者の思考の流れに沿って展開します。そしてラストシーンで描かれるのは、著者がまだ幼いころ、父と娘の夏の日のプールでの思い出です。ゲイの問題を抜きにしても、普遍的な親子、家族の物語として傑作です。
Comments
>物語は・・・著者の思考の流れに沿って展開します。
このへんもジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」の
Stream of Consciousness でしょうか。
Posted by: トロ~ロ | April 05, 2011 12:53 AM