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February 24, 2011

上品で怖い『夢みごこち』

 フジモトマサルの新刊が出ました。

●フジモトマサル『夢みごこち』(2011年平凡社、1400円+税、amazon

夢みごこち

 著者は週刊ポストでのイラストのお仕事とか、一昨年だったっけ、朝日新聞に連載された森見登美彦の小説『ぽんぽこ仮面』、じゃなくてえーと『聖なる怠け者の冒険』の挿絵などで有名。あの挿絵はステキでしたね。

 著者のマンガとしては以前に『二週間の休暇』という作品を紹介したことがあります。

 本書もマンガです。ハードカバーで二色刷。造本もオシャレ。

 今回登場するキャラクターはヒトではなくて、すべて動物。カモノハシだったりウサギだったりイヌだったりヒツジだったりが、二本足で歩いたりしゃべったりします。フジモトマサルの絵で動物ですから、これはもうカワイー、となるはずなのですが、これがとんでもない。本書は悪夢を描いたマンガなのです。

 主人公がある夢から目覚めます。そこで彼はある事件に出会うのですが、それもまた夢。彼はさらに別の人格として夢から目覚めます。これがえんえんとくり返される。

 7~8ページのショートストーリーが連続しますが、それぞれのお話はぜんぜん別のもの、と思っていたらじつは…… 

 たんたんと語られててしかも著者の端正な絵柄でごまかされそうになりますが、そうとうにブラックな話が多い。この奇妙なバランスはほかでは見たことがない独自の世界ですね。WEB上で連載されたものですが、マンガ誌にはまず掲載されることのない大人のマンガ。

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February 18, 2011

梶原一騎の「小説」は「原作原稿」そのものだ!

 2008年、すべて消失したと思われていた『あしたのジョー』の梶原一騎による自筆原作原稿が、連載一回分だけですが発見されました。これはNHKニュースで放送されたから、おぼえてるひとも多いかも。

 「文藝別冊 総特集ちばてつや」(2011年河出書房新社、1200円+税、amazon)に、夏目房之介「『あしたのジョー』原作に見る作家ちばてつや」という文章が寄稿されています。

文藝別冊 ちばてつや 漫画家生活55周年記念号

マンガの原作原稿は後世に残らない。(略)例外的に残ったものの一つが梶原一騎・ながやす巧『愛と誠』(1973~1976年)で、ながやすがそのすべてを保存し、梶原夫人・高森篤子さんのもとに返却されたと聞く。(略)

実は、ちばてつやも『あしたのジョー』(1968~1973年)原作を保存していた。ちば本人から聞いた話だが、あるとき雨漏りで水濡れしてしまい、捨ててしまったと話していた。が、一話だけの原稿が残っている。戦後マンガ史に残る『ジョー』という作品の原作が、一話でも残っているというのは、ほぼ奇跡といっていいだろう。

 『愛と誠』の原作原稿は、「梶原一騎直筆原稿集『愛と誠』」(1997年風塵社)という豪華本にまとめられています。かつてわたしがこの本を通読して書いたエントリがこちら。

●梶原一騎の原作作法(その1)(その2)(その3

 そして2008年に発見された『あしたのジョー』原作原稿が、「週刊現代」に掲載されたときに書いたエントリがこれ。

マンガと原作「あしたのジョー」

 このときは原稿の一部だけしか読めませんでしたが、「文藝別冊」および、このたび復刊された梶原一騎『劇画一代 梶原一騎自伝』(2011年小学館クリエイティブ、1600円+税、amazon)には、『あしたのジョー』連載一回分の原作原稿がまるまる掲載されてます。いやー、ありがたやありがたや。

劇画一代―梶原一騎自伝

 梶原一騎作品のうち、現存している原作原稿はこの二作ぐらいしかないだろうと思われています。じつはわたしもそう考えていたのですよ。

 ところが。

 最近、梶原一騎の書いた「小説」なるものを読む機会がありました。おおっ? これって「小説」じゃなくて「原作原稿」そのものじゃないのか?

 梶原一騎の書いた「小説」のうち、マンガをノベライズした、という形のものは以下の五作品があります。

●『小説巨人の星』全五巻(1968年から講談社)
●『小説夕やけ番長』(1969年秋田書店)
●『小説男の条件』(1970年集英社)
●『小説柔道一直線』(1970年朝日ソノラマ)
●『小説空手バカ一代』全四巻(1974年から日刊スポーツ出版社)

 このうちまだ一部だけしか読んでないのですが、これって、どう考えても「小説」ではない。「マンガ原作原稿」そのまんまとしか思えないのです。

     ◆

 根拠その一。文体がまるきり同じ。以下は『小説空手バカ一代』から引用。

(ゆ、ゆるせ、遠藤さん……
 もはや柔道家のスピードでは、残忍な銃弾のねらいうちを、かわしきれん)
 心にわびつつ、つぎの倍達のうごき──
 サッ!! と、両手、両足をX状に、おっぴろげた!
 パッ!! と、すぐさま、その手足をカメが甲羅にもぐるように、胴の内側へとちぢめざま、とびあがった!
 ドギュン、バギュン、バギュン!! 間髪をいれず倍達の手足の広げられていた空間に銃火の嵐が殺到!
「ギャッ!」
「グエ~~ッ!」
 反対位置のギャングどもが、それぞれ味方の銃弾にやられ、もんどりうつ!
(手足をねらえとの命令なら、やつらの射撃が正確であるほど、手足いがいは安全が保証される!)
 と、すでに倍達の空中からの頭突きが、手足ちぢめたまま一回転、
「トオーッ!!」
 ガガーッ!! 敵のひとりの鼻面へとしたたかに突入、激突!
「ブギャア~~ッ!!」
 血煙あげさせる!
「ガッデーム、ち、ちくしょう!!」
 さっきの命令者が歯がみ、
「も、もう頭だろうが胴だろうが、かまうこたあねえ、殺っちまえ~~!」
(……と、そうきたところで、どうやら一味のボスらしい、おまえに用がある!)
 と、倍達は──ゴロゴロゴロ!
 めまぐるしく地面を転がって、そいつの足もとへ!
 ビ、シューン!! 銃声が、その土煙を追うが、すでにボス格の体とクロス!

 アクションシーンを抜き出してますが、『小説空手バカ一代』の文体が「小説」として、いかに特異かわかっていただけると思います。

 一読、小説というより講談の速記みたいな感じの「語り」の芸です。その意味では名調子といってもいいでしょう。

 いっぽう以下は『愛と誠』の原作原稿です。

 と、茫然自失の火野めがけて、
「たとえば、こんなぐあいに――よ!」
 ドバッ!! うしろげりの奇襲!
 もろに、みぞおち蹴りこまれ、
「ア……ウッ!」
 のけぞり、よろめく火野!
 クルリ! それへ向きなおりざま、火野に立ちなおるいとまもあたえず、
「あーらよっと!」
 ガシーッ!! まわしげりで肩口を強襲し、さらに、ふみこみざま――
 グワン!! ストレート・パンチ胸板へ!
 ズズン!! ついに火野は尻餅!
 野球部グラウンドのホーム・ベース付近で、うしろげりの火ぶたが切られ、のけぞりよろめく火野を追ってマウンドに近い土の盛り上りの地点で、ついにダウンにもちこんだ誠の速攻、猛攻!
「やっ、やったあ!!」
 タイガー・グループの歓声!
「ケンカは先手――これぞ極意!」
 声なく息のみ、瞳みはる愛……

(中略)

「ますますもってウジムシめ!」
 平然、きめつけて火野、
「目つぶしごときボクシングの堅固なブロックには通用せず、さらにきたないキンケリもまた、どうせこんなことだろうと予想して試合で反則パンチ防止用につかうファール・カップをつけてきたわい!」
「ウ……ウ……」
 血みどろの歯がみ、四つんばいの誠を、
「立てい!」
 ムンズ!! これまた血ぞめのシャツの胸倉つかみ、ひきずりおこす!
「や……やめてえ〜っ!!」
 愛は絶叫し、ころげるようにホーム・ベース位置からマウンドへとはしりつつ、
(た、たとえ火野さんに土下座してでも、やめてもらわなければ……
 こ……殺されてしまう!)
 思いつめる、その愛めがけ――
 バキーッ!! 胸倉つかまれ、またも横面をはりとばされた誠が血ヘドの尾をウズまかせつつ、ケシとんできた!
 ズズーン!! もろに愛と激突!
 もんどりうって転倒の愛!
 誠のほうは、さらに一直線にケシとんでいき、なんとホーム・ベース真上へとホーム・スチールのごとく――ズザーッ!!
 土煙あげ、あおむけ地すべりすて昏倒!
 あたり一面、まるで赤ペンキをぶちまいたごとき血、血、血、血の海!

 かたや「小説」、かたや「マンガ原作原稿」ですが、まるきり同じでしょ。

 『小説空手バカ一代』は小説とは名のりながら、改行の多用、体言止めの多用、セリフや擬音の多用。アクションの途中に長いセリフだけじゃなくて「心の声」がはいってくる。エクスクラメーションマークや三点リーダー、さらに「──」や「~~」までが多用されてます。わたしたちが一般的に考える「小説」の文体とは別のものです。

 これは絶対に「小説」として書かれたものではない。「マンガ」の完成形をイメージして、マンガ家に対して原作者の意図を伝えるために書かれた文章です。

 梶原一騎はもともと小説家を志望していました。この文体が梶原一騎がめざした「小説」のそれであったとは考えにくい。ならば、梶原一騎は「小説」としてどんな文体をめざしていたのでしょうか。

     ◆

 梶原一騎はまだ無名時代の1961年、「東京中日新聞」にスポーツ実録読み物として『力道山光浩』を連載しています。この作品は梶原が有名になったのち、1971年に『力道山と日本プロレス史』というタイトルで曙出版から単行本化されました(1996年に弓立社から復刊)。

 一応はノンフィクションと分類されていますが、まあ小説、みたいなものです。『空手バカ一代』や『愛と誠』よりは十年前の文章になりますが、梶原一騎が書くべき「小説」とは、こういうものではなかったか。

 こわいものしらずの向こう見ずで自他ともに許した力道山光浩が、とにかく、生まれてはじめてのように恐怖というにちかい感覚をおぼえたのは、この対ルー・テーズ、世界タイトル・マッチのマット上であったとか……。
 開始、いきなり、テーズ二三〇ポンドの重量そっくりを宙空から急降下にあびせられてのカンガルー・キックにけりつぶされ、
「ぐ、あうっ……」
 鼻っ柱からひしゃげて光浩、われにもなく、よその意気地なしがもらしたようなととてつもないうめきが、じつは自分の腹からとびだしていた。
 過去、三百余試合とつんだキャリアから、この空中からの蹴りというやつ、なかば光浩は軽蔑していた。ショーマン派むきのテクニックだ。見かけの派手なわりに、やられたほうは痛まない。何よりの証拠、しょっ鼻からカラテ・チョップでぶちのめす即決主義の光浩に対しては、ほとんど相手はフライング・キックを用いてこなかったものだが……、しかし、ルー・テーズのそれはしみじみとよく効いたのだ。
 自分の背骨のきしむ音を光浩は聞いたと思った。この連発を食ったら、それっきり、たたみこまれてフォールの危険をさとった。すぐ立たず、テーズの出方を見上げた。
 だがテーズは見下して待っている。誘いか? ……が、待たれては出るよりなく、はねおきて踏み込んだ光浩の腕の中に、あっけなくテーズは捕まっていた。
 ぎょっ、と光浩は息をのむ。あまりに柔らかなものを捕まえたのだ。剛毛にくるまれ、テーズの上体の筋肉は、ちょうどスポンジをだきこんだ手応えで、光浩には意外にもきわまった。

 後年のマンガ原作原稿に見られる文体の萌芽が、ここにあります。同一人物が書いてるんですからあたりまえですが、似てます。

 ただしもちろん、『愛と誠』や『空手バカ一代』よりよほど「小説」らしい。後年に見られるような、擬音と体言止めにいろどられた「語り」の文とはちがいます。

     ◆

 根拠その二。マンガ原作者として超売れっ子になった梶原一騎に、「小説」を書く時間はなかったはず。

 原作原稿をリライト、あるいはマンガをノベライズするにしても、新たな文章を書きおろすのは大変です。

 もともと梶原一騎の原作原稿はいわゆる小説形式で書かれています。「小説」の文体としてはそうとうに奇妙ですが、それでもそれなりに読めますし、それなりにおもしろい。読めてしまう「原作原稿」を、忙しい梶原が「小説」としてリライトしたとは考えられません。

 ならば他人=ゴーストライターがリライトしたかというと、これもありえません。梶原一騎の「小説」の文体は特殊すぎて、他人がマネできるようなものではありません。

 のちに梶原一騎は実弟の真樹日佐夫と組んで「正木亜都」というペンネームでいくつかの小説を書いていますが、あれは完全に真樹日佐夫の文体で書かれていましたね。

     ◆

 以上よりわたしは、梶原一騎が書いた一連の『小説○○○』は、原作原稿をそのまま出版したものである、と考えます。自分としてはまちがいない説だと思ってますが、いかがでしょうか。

 コピー機などない時代ですから、おそらくマンガ家に渡した原作原稿を返却してもらい、本として刊行したのじゃないかと。じゃあその自筆原稿はどこへ行ったか。これらは本来梶原一騎の手もとにあるはずなので、将来発見される可能性もあるのじゃないでしょうか。

 さて次になすべきは、小説=原作原稿と完成したマンガの間に異同はあるのか、という検証です。

 新たに発見された『あしたのジョー』原作原稿を見ますと、ちばてつやは、原作を自由に脚色してます。ここまで変えるか、というくらいにいじってる。

 いっぽうながやす巧『愛と誠』は、擬音やセリフの語尾を除いて、原作原稿にかなり忠実です。

 梶原一騎の『小説○○○』についてはまだ一部しかチェックしてませんが、つのだじろうあたりは、原作をけっこう変更してます。

 キャプションとセリフの順番をいれかえたり、原作では室内の会話だったものを屋外、路上の会話に変更したり。

 こういうのを調べ始めるときりがありません。現在もさらに梶原一騎の「小説」をいろいろと読むべく、鋭意努力中なのであります。

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February 14, 2011

混沌たる『あしたのジョー』

 『あしたのジョー』実写映画化の影響か、関連書籍(なのかな?)が発売されてます。

●「文藝別冊 ちばてつや 漫画家生活55周年記念号」(2011年河出書房新社、1200円+税、amazon
●梶原一騎『劇画一代 梶原一騎自伝』(2011年小学館クリエイティブ、1600円+税、amazon

文藝別冊 ちばてつや 漫画家生活55周年記念号 劇画一代―梶原一騎自伝

 前者はご存じ文藝別冊のKAWADE夢ムック。これがそうとうに良いデキで(というかちばてつやファンなので単純にうれしい)、全作品リスト、作品解説、ロングインタビュー、などなど。ちばてつやが15歳のときに描いた習作がそうとうにすごい。洋館の吹き抜け二階から一階を見おろした構図なんか、さすが双葉より芳しですな。

 この本見てますと、ちばてつやの少女マンガとか、いっぱい読み直したくなります。

 後者は1979年に毎日新聞社から刊行されたものの復刊。今回は日暮修一の挿絵がなくなってますが、そのかわりに自筆原稿を写真撮影したものが収録されています(同じものは上記の文藝別冊にも収録されてます)。梶原の自伝にはそうとうにホラが含まれてるので有名。

 これではずみがついてしまったので、梶原一騎関連のもの同時進行で読んでます。

●斎藤貴男『梶原一騎伝 夕やけを見ていた男』(2005年文春文庫、わたしの持ってるのは2001年新潮文庫版で、さらに原著は1995年新潮社)
●梶原一騎『地獄からの生還』(1997年幻冬舎アウトロー文庫、原著は1984年ワニブックス「反逆世代への遺言」)
●梶原一騎『懺悔録』(1998年幻冬舎アウトロー文庫、原著は1986年こだま出版)
●真樹日佐夫『兄貴 梶原一騎の夢の残骸』(2000年ちくま文庫、原著は1987年日本文芸社「荒野に一騎咆ゆ」)

 これらと『劇画一代』を見比べながら読んでるのですが、梶原一騎の人生は、悲しい。その絶頂のときから、というより『巨人の星』や『あしたのジョー』で頂点に駆け上ろうとしているときからすでに、不穏で何やら悲しいのです。

 ご存じのとおり晩年の梶原一騎は虚飾と偽悪の生活ののち破滅に向かいます。日本マンガ史の暗黒面ですね。ちばてつやと梶原一騎が組んだ『あしたのジョー』ってのは、つくづくマンガの裏表、清濁、混沌の象徴なんだなあと。

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February 07, 2011

タイムトラベルものとしては納得できないぞ『JIN -仁-』

 村上もとか『JIN -仁-』が20巻で完結しました(2011年集英社、619円+税、amazon)。

JIN―仁― 20 (ジャンプコミックスデラックス)

 連載開始から10年。現代の医師が幕末にタイムスリップします。彼が未来の知識や技量をを駆使して市井のひとびとや有名人を救いながら、歴史の流れを変えていくという大きなお話。村上もとからしく、堂々たる風格を持った作品でしたね。

 タイムトラベルものといいますと、ハインライン『夏への扉』や映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でもそうですが、タイム・パラドックスが出現しないようにいろいろと工夫されています。読者側としてはそこをああでもないこうでもないといろいろと理屈を考えるのが楽しい、という一面があります。

 ですから本作の最終巻はお話をどうたたむのかが見どころでした。第一巻に描かれた伏線はどうなるのか。

 それがねー、タイムトラベルものとしてはねー、「あれ?」なんですよ。

(以下ネタバレします)

(1)2000年、東都大学附属病院に勤務する主人公・仁(34歳)が、謎の人物を手術する。(2)謎の人物とトラブルになった仁が階段から落ちる。(3)仁はタイムスリップして幕末1862年の江戸へ。(4)いろいろあって仁は歴史を改変していく。(5)1868年、40歳になった仁はタイムスリップして2000年へ。(6)40歳の仁は、34歳の自分に出会う。冒頭の「謎の人物」とは自分自身だった。(7)再々度タイムスリップして1868年に戻った40歳・仁は、幕末明治を生き抜きそこで生涯を終える。

(8)いっぽう、2000年の34歳・仁は幕末時代の記憶を持つようになっている。(9)この世界での仁は「仁友堂病院」に勤務している。この世界は仁が歴史を改変した結果できた世界であり、もとの世界とはいろんな部分が違っているのであった。

 仁が過去にタイムスリップしたことがきっかけで新しい歴史が作られる、という「枝分かれ型パラレルワールド」タイプのお話です。

 さて、違和感のひとつはラスト、幕末で生活した仁の意識と記憶がその後、幕末に戻った40歳・仁と2000年に生きている34歳・仁の両方に共有されるようになることですね。

 ふたりの人間が同じ記憶を持つようになる。これってちょっと納得しづらい展開ですが、「意識・記憶」というブラックボックスの中のことなので、SFとしては一応OKでしょう。

 このお話の最大の問題点は、上記(5)で40歳・仁が戻った2000年は、すでに改変された歴史の延長線上にある、というところです。つまり(6)でおこったことは、「仁友堂病院」でのことなのです。

 最終20巻で40歳・仁が手術してもらったのは、歴史改変前の「東都大学附属病院」なのか、歴史改変後の「仁友堂病院」なのか。これについては20巻217ページ仁友堂病院の医師のセリフ「集中治療室からいなくなった患者」「未だ行方不明のあの患者」から、仁友堂病院であることはあきらか。40歳・仁がジャンプした先は歴史改変後の2000年だったのです。

 となると20巻に描かれた2000年で、40歳・仁が出会った34歳・仁は改変後世界に生まれ育ったひとです。冒頭に登場した34歳・仁=すなわち幕末を生きた仁とは、肉体的精神的に(厳密にいうと)別人。パラレルワールドの住人、ということになりますね。

 さてそれでは、第一巻冒頭の改変前の世界、東都大学附属病院で手術された「謎の人物」はいったい何者で、どこからやってきたのでしょうか。

 彼は幕末からやって来た仁なのかもしれません。しかし、この20巻を費やした長いお話の中で幕末を生きた仁ではあり得ない。だとするとまた別のパラレルワールド、別のお話があることになります。

 ここがまったく解明されないまま、物語は終わるのでありました。あー、納得できんっ。

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