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January 31, 2011

アニメ対ジャパニメーション

 先日ツイッターで、ある日本アニメーション関係者の主張を読みました。

 彼によると、

ジャパニメーションの語源は「放映権はおろか編集権まで売り払った」マクロスやオーガス等のアニメを米国がメチャクチャに編集し台詞も変えたモノを観た日本語の解る日本のアニメ好き米国ファンが「コレは僕達が知ってるアニメじゃ無い「ジャパニメーション」だ」です

ジャパニメーションは米国発祥の「差別語」です

語源は差別語だし、ソレを尊敬語と誤訳して日本中にばら撒いたのも「単なる無知」でしょう?

 このかたは「ジャパニメーション」という言葉が、もともと差別語として発祥したという主張をされています。

 ただしその根拠については言及されていません。そこが残念なのですが、かつて彼に似た主張をしていたひとに岡田斗司夫がいます。

●岡田斗司夫「日本文化としてのアニメ」(キネマ旬報1995年10月上旬号掲載)

 リンク先の文章によりますと、

(1)1975年ごろ、アメリカで「ジャパニメーション」という言葉がつくられた。日本でもマスコミで評判になった。

(2)しかし「ジャパニメーション」とは、アメリカでずたずたに再編集され、テレビでお子さま向けに放映されていた日本製アニメーションのことである。

(3)対して「アニメ」とは、日本製アニメーションをそのまま英語化したものであり、字幕版である。登場人物名も、ストーリーもオリジナルの日本語版に忠実である。

 つまりすごく単純化された「アニメ=善玉、ジャパニメーション=悪玉」論です。

 たしかに現在、日本製アニメーション Japanese Animation は、アニメ Anime と呼ばれることが多く、ジャパニメーション Japanimation と呼称されることは少なくなってるみたいですね。それはなぜでしょうか。

 「ジャパニメーション」という言葉は日本でも1990年ごろには有名になっていました。雑誌「ユリイカ」がジャパニメーションを特集したのは1996年のことです。日本ではどちらかというと、「かっこいい」系の言葉としてとらえられていた、という記憶があります。

 しかしそれ以前から、アメリカのアニメファンは「ジャパニメーション」という言葉にはもひとつ良い印象を持っていなかった、みたいな文章も見かけます。

 かつて日本ビジュアルSFの牙城であった旧「スターログ」誌1987年2月号に、トーレン・スミス「日本製アニメーション(ジャパニメーション)をいじめないで」(大森望・訳)という記事が掲載されてます(目次では「アメリカのジャパニメーション」というタイトル)。

 この記事はジャパニメーションの語源について語られたものではありません。1987年ごろにアメリカで見られる日本製アニメーションは、再編集ものばっかりで困ったものだ、という記事です。つまりそのころジャパニメーションとして販売されアメリカのファンに受容されていたものは不完全なものであるという、在米アニメファンからの不満の表明です。

 この記事からはジャパニメーションという言葉は成立時から揶揄的差別的意味合いがあったとは感じられませんが、そのあたり、じつははっきりしません。

     *****

 さて、上記のようなことをツイッターでつぶやいていたら、いろんなかたから、いろんなことを教えていただきました。ほんとにみなさん、ありがとうございます。

 そのなかでジャパニメーションの語源について書かれた文章としてもっとも信頼性が高いと思われたのが、フレッド・パッテン「"Anime" Versus "Japanimation"」(初出は「Newtype USA」2003年11月号)というエッセイです。

 フレッド・パッテン(Fred Patten)氏は1940年生まれ。アメリカにおける日本アニメ・マンガのビッグネーム・ファンで、Wikipediaにもその名が記載されるほどの有名人です。このエッセイは2004年に刊行された「Watching Anime, Reading Manga: 25 Years of Essays and Reviews」(amazon)という書籍に収録されています。

Watching Anime, Reading Manga: 25 Years of Essays and Reviews

 この本、今ではかなりの部分がグーグルブックスとしてネット上で読めるようになっています。グーグルブックス、すげぇなあ。「"Anime" Versus "Japanimation"」の原文はこの本の85ページから86ページにあります。

 それでは、漫棚通信による和訳をどうぞ。そうとうな意訳ですみません(わたし英語のせいで大学受験を失敗したという過去があります。ご指摘があればすぐに修正しますのでよろしく)。今回の和訳掲載にはフレッド・パッテン氏から許可をいただいていますが、日本語訳の文責はすべて漫棚通信にあります。

     *****

●“アニメ”対“ジャパニメーション”


 フレッドへ、質問です。

 日本製アニメーションを示す言葉として、「アニメ Anime 」と「ジャパニメーション Japanimation 」はどこが違うのでしょうか。同じものだっていうやつもいるし、ジャパニメーションは古い言葉でアニメがそれに代わって使われるようになった、というのを聞いたこともあります。日本製アニメーションをアニメと呼ぶのを知らないビデオショップがジャパニメーションという言葉を作ったという話は本当でしょうか。ジャパニメーションはジャップ+アニメーションという差別的略語だから、真のアニメファンはそういう言葉は使わない、と主張するやつもいます。本当のところはどうなんでしょう。(複数の質問から構成した文章です)


 二番目までが本当だね。それに残りの部分にもちょっとだけ本当のことが含まれてる。1976年から1977年ごろ、日本製テレビアニメーションを見始めた最初のファンたちは、それを「ジャパニーズ・TV・カートゥーンズ」と呼んでた。当時アメリカでアニメーション研究は始まったばかりだったんだ。ファンたちはテックス・アヴェリーやボブ・クランペットのような偉大なアニメーターにインタビューしたり、ワーナーブラザーズやフライシャースタジオの歴史を調べたりしてた。そういうときには「カートゥーンズ」じゃなくて「アニメーション」という言葉を使うように推奨されてたんだ。カートゥーンズはアニメーションのいち形態にすぎない。アニメーションには、ほら、人形アニメーションとかいろいろあるだろう? だから、すぐに初期のアニメファンたちは「ジャパニーズ・カートゥーンズ」じゃなくて「ジャパニーズ・アニメーション」という言葉を使い出した。

 「ジャパニーズ・アニメーション」は、そのうち「ジャパニメーション」と短縮されるようになった。1980年代初めには、この言葉はあっというまにファンたちの間で広まった。この言葉を誰が発明したのか議論されたこともあったね。古いアニメサークルのニュースレターや会報を調べると、もっとも古いのは1978年後半ににカール・ギャフォードという人物が使用した例だ。彼はそれまでにも何回かその言葉を使ったことがあると言ってる。「ザ・ギャフ」がジャパニメーションという言葉を造語したのかどうかは別にして、彼はこの言葉を最も早く使い始めた連中のひとりだろう。ジャパニメーションはファンたちの間で普通に使われる言葉になった。このころには差別的な意味などなくて、80年代に創設されたサークルのいくつかはこの名を名のってる。

 しかしアニメファンの数は少なかった。アニメファン以外の多数の人たちにとって「理解できない言語のカートゥーンズを見ている」連中は、奇妙なオタクだったんだ。「ジャパニメーション」はすぐに「ジャップのアニメーション」という意味を込めて軽蔑的に使用されるようになった。「うろつき童子」みたいに超バイオレントで超エロティックな作品は「ジャポルニメーション JaPORNimation 」なんて呼び方をされたし、すべての日本アニメがそんなものばかりだという連中もいたんだ。80年代後半になると、日本のアニメ雑誌を翻訳するファンも現れるようになって、日本じゃ自分たちのアニメーションのことを「アニメ」と呼んでることが知られるようになった。ジャパニメーションの代わりにアニメという言葉を使えば、まわりの連中から知識が豊富だと思われるし、なにより侮辱してると誤解されることもない。それに「アニメ」のほうが「ジャパニメーション」より、言いやすいし書きやすいじゃないか。80年代後半から90年代初めには、ジャパニメーションという言葉は「アニメ」に置き換わっていった。

 ところが皮肉なことにちょうどそのころ、正式なライセンスのもと日本製アニメビデオがアメリカで販売され始めた。初期の多くのビデオショップやコミックショップは、この新しい商品を売るにあたってジャパニメーションという言葉を使用した。90年代初めのアニメファンは、「偉大なる新しい娯楽=ジャパニメーション」という名で販売されたアニメビデオを喜んで買った。しかしアニメという言葉はすぐに市場でもジャパニメーションを駆逐していった。「ジャパニメーション産業」は「アニメ産業」と呼ばれるようになったんだ。

 今では「ジャパニメーション」より「アニメ」が使用されることが多い。しかし古い言葉は忘れられたわけではない。いくつかの古いサークルやショップは、その老舗ぶりを示すためにも「ジャパニメーション」を使用し続けている。たとえば「ボストン・ジャパニメーション・ソサエティ」はもっとも古くからあるアニメサークルのひとつだし、グリーンズバーグの「ジョイズ・ジャパニメーション」はアニメ専門店のパイオニアだ。彼らはこの言葉の持つ印象的な発音が好きなのだ。それは「アニメ」よりかっこよく聞こえる。「ヤンキー」という言葉にはアメリカ植民地人に対するイギリス人のからかいが込められているが、この言葉を誇りを持って使うひとたちがいる。それと同じだよ。さらに日本語で「アニメ」といえば日本製アニメーションの意味じゃなくてすべてのアニメーションを指すのだから、日本製アニメーションのことは「ジャパニメーション」を使うほうが正確だ、と主張する言語学的原理主義者たちもいる。

 広義ではふたつの言葉に違いはない。アニメのほうが新しく、ジャパニメーションは古い言葉になってしまった。でもジャパニメーションはアニメファンが作った言葉だし、しかも現在なお多くのファンに使われている。この言葉を使ったからといって、アニメについて何も知らないおバカに見えるわけじゃない。ただし口に出すときはにっこり笑って侮辱してないことを表明するようにね(そしてジャップ・アニメーションと発音しちゃダメ)。

     *****

 このエッセイによっていろんなことがわかりました。

(1)「ジャパニメーション」は1978年ごろ、日本アニメファンによって作られた造語である。初期には単純に「ジャパニーズ・アニメーション」を短縮したものであった。

(2)「ジャパニメーション」という言葉が日本アニメファン以外のところで使用されるうちに、軽蔑的な意味合いが付加されるようになった。さらに「ジャップ」という蔑称が含まれていることも気にされるようになった。

(3)「ジャパニメーション」という言葉自体に「困った再編集もの」という意味合いはない。

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January 26, 2011

いろのはなし

 これまでの日本マンガはモノクロで描かれるのが標準でした。これについてはかつて、中国の水墨画の影響であるという珍説をとなえたひとがいましたが、そんなことはまったくなくて、戦後のマンガは安価で粗悪な紙でできた雑誌に印刷されるのが普通だった、という経済的理由からきています。

 日本マンガは色を捨てたかわりに、多量のページを獲得しました。その結果日本マンガは(1)大ゴマの多用やコマ構成の複雑化をなしとげます。もうひとつの影響は(2)モノクロ表現の先鋭化です。

 具体的にいうと、スクリーントーンを利用した表現の進歩ですね。

 粗悪な紙に印刷するのでは、ウスズミは使えない。手描きでは表現や時間に限界がある。その結果、日本ではトーンのテクニックがどんどん開発されることになりました。

 しかし、時代は変わった。

 マンガの紙もけっこうよくなったし、だいたいモニターでマンガを読む時代になるなら、モノクロよりカラーがいいのじゃないか。

 日本でも少しずつカラーマンガが増えてきてますが、マンガがカラーになると表現の幅がぐっと広がる、はず。ただしこれまでのトーンテクニックとはぜんぜん別のことをすることになるので、それはそれで大変でしょうけどね。乳首にはどのトーンを張るのか、じゃなくてどの色を使うのか、という点とか。

 アメリカやフランスで旧作品を再刊するときには、かつてモノクロで描かれてた作品に彩色したり、単調な色しか使用されてなかった作品にコンピュータ彩色でカラリングをやりなおしたりするのも珍しくありません(アラン・ムーア/ウイリアム・ボランド『バットマン/キリング・ジョーク』やメビウス『アンカル』など)。

 日本作品なら、かつて大友克洋『アキラ』が彩色されて発売されたことがあります。そして昨年末に発売されたのがこれ。

●関川夏央/谷口ジロー「カラー愛蔵版 『坊ちゃん』の時代」(2010年双葉社、3600円+税、amazon

カラー愛蔵版「坊っちゃん」の時代

 ご存じ、谷口ジローを名匠の地位に押し上げた作品。1980年代末から10年にわたって描かれたシリーズの第一作です。これがコンピュータ彩色され、B5判で再発売されました。

 あとがきを読むと、谷口ジロー自身がこまかく着色を指定して監修したらしい。色が変わると作品の印象ってがらっと変わりますからね。わたし、どれだけ新しい作品になってるかと、そうとうに期待して読んだのですよ。

 でもね、うーん、わたしにとってはちょっとハズレだったかな。モノクロ作品として完成している日本作品にカラリングするのはむずかしい。

 ひとつは淡色ばかりの彩色が、あまりに渋すぎる。だもんで全体に単調。いかに明治だったとはいえ盛り場はもっと派手な色があったんじゃないかしら。

 もひとつはこの作品、何も描いてない部分がかなり広い面積を占めているのです。そこは空や地面のつながりというわけでもなく、「空白」であったり「間」であったりなのだ、というのがよくわかりました。この作品以後、谷口ジローの特徴といえば「間」ですからね。

 「間」はセリフやコマ構成だけで成立しているものではなく、何も描かれてない「空白」の絵も「間」なのですね。そこに色を置いてしまうと、空白だったものが空白ではない何かに変貌してしまう。

 空白を空白のまま置いておくなら、カラリングをしないのと同じ。そこに色を塗れば、「間」ではなくなってしまう。これはジレンマです。

 しかしこういう試みはもっとどんどんしてもらいたい。色の存在はマンガ表現をさらに進歩させるはずですし、モノクロマンガの魅力が再認識されることにもなるでしょう。

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January 21, 2011

静かな静かな傑作『アランの戦争』

 国書刊行会から刊行されてるモノクロBDのシリーズもすでに三冊目。

●エマニュエル・ギベール『アランの戦争 アラン・イングラム・コープの回想録』(2011年国書刊行会、2500円+税、amazonbk1

 出版社よりご恵投いただきました。ありがとうございます。

 著者エマニュエル・ギベールと親交のあったアラン・イングラム・コープという実在の人物、彼の回想録をマンガ化したものです。アラン・コープは本書が描かれつつある途中、1999年に亡くなっています。

 本書は、おそらく日本人が初めて出会うタイプの作品。びっくりした驚いた。マンガでこのような内容が描けるとは。いつも言ってますが、すぐれた海外マンガってわたしたちにとってつくづく“黒船”ですねえ。

 アラン・コープはアメリカ人。1943年に徴兵され、2年間の訓練の後、1945年第二次大戦末期のヨーロッパ戦線に向かいます。

 本書は三部構成で、第一部はアランが徴兵され、アメリカ国内での訓練を経てフランスに着くまで。第二部は戦争中、そして終戦直後のヨーロッパの話。

 本書のすばらしさはまず、アランのキャラクターに依っています。

 アラン・コープは人生の成功者ではなく、一介の市井のひとです。有名人と知り合いであったとしても自身は有名でもなんでもない。

 内省的で音楽と文学を愛する若者である彼が見た戦争は、滑稽でばかばかしく限りなく愚かしいものでした。当事者であるアラン・コープがどのように考えていたのかほんとうは不明ですが、エマニュエル・ギベールによるきわめて押さえた筆致、そして静かな静かな描写でも、それは伝わってきます。

 悲壮でヒロイックな戦争と対極にある本書の物語は、水木しげるが描く愚かな太平洋戦争と、じつは表裏一体のものなのです。

 第三部はアランのその後の人生が語られます。ヨーロッパからアメリカに帰ったアランは、青春彷徨ともいうべき時間を過ごし、ヨーロッパに魅せられた自分を再発見します。愚かしい「戦争」が彼をヨーロッパに導いたという皮肉。

 本書はヨーロッパと出会ったアメリカ人の物語であり、かつ、アメリカと出会ったヨーロッパ人(有名無名を含めて多数のヨーロッパ人が登場します)の物語という構造を持ってます。そして本書の成立そのものがアメリカ人であるアランの物語をヨーロッパ人であるエマニュエル・ギベールが描く、という形で結実しているのですね。

 しかしそれは日本人読者にとって遠いものではありません。

 人生には喜びもあれば悩み、苦しみもいっぱいつまっている。人生は迷いばかり。本書は普遍的な「人間」を描いた物語なのです。

 さらに本書を驚嘆すべきものにしているのが、エマニュエル・ギベールの超絶的な絵。「風景に語らせる」タイプのマンガ家は、日本にも大友克洋、谷口ジローなどがいますが、本書ではこれが徹底している。

 本書の背景、風景は細かく描き込まれたものではなく、空白部分も多いのに、いかに多くのことを語っているか。

 薄墨を多用して描かれた風景は、これまでにわたしたちが見たことがないような奥行きを持っています。モノクロですがセピア色で統一された印刷もすばらしい。

 さらにさらに。なんと、この絵はペンとインクで描かれてるのではないらしいのです。本書は「水」で描かれてるらしい。いやもう「マンガ」の描き方じゃないですね。

 何のこっちゃわからんと思いますので、「エマニュエル・ギベールの水で描く」動画をはっておきます。下描きなしの一発描き(!?)。さあ驚いてください。

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January 16, 2011

こうの史代のキャラデザ商品

 今日はセンター試験二日目。ウチの子が受験生なもので一日何もしてないのに疲れた。いやわたしはだらだらと録画したラグビーの試合見てただけなんだけどね。

 で、小ネタ。

 おみやげでもらった、あのひとがキャラクターデザインをしてる商品。

Yakidasi01 Yakidasi02

 広島県呉市にある瀬戸鉄工という会社の製品ですから、呉マンガつながりなのかしら。「焼きだし」という商品名で袋入りのだしバックです。おばあさんキャラがいい味出してます。まだ食べてません。

 ネット上のURLはhttp://www.yakiiriko.com/です。鉄工所が海産物商品を扱ってるのはちょっとびっくりしますね。

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January 11, 2011

食は勝ち負けである『食の軍師』

 わたしのこれまでの人生で、もっともまずかった食べ物は忘れもしない、淡路島の某所で食した「タマネギカレー」でした。

 ほら、カレーって基本的にどんなカレーでもうまいじゃないですか。焦げ茶色のカレーでも黄色いカレーでもハズレなし。ところがそいつは違った。

 タマネギって淡路島の名物らしいのね。だからそれを注文したのですが、これが甘い。しかも壮絶に「タマネギ甘い」のです。すべての味を覆い隠す力を持ってるはずのカレーに勝つほどに、タマネギの甘さが脳天につきぬける。わたし、タマネギに負けました。

 そしてさらに衝撃だったのは、そのカレーの上にどーんとのっかってるカツ。こ、これはもしかして。

 そう、そのとおり。それは「タマネギのカツ」だったのです。泉昌之『夜行』だー!!(こまかくは説明しませんが、かつて「ガロ」に泉昌之のデビュー作『夜行』というマンガが掲載されましてね、これが満天下に衝撃を与えた傑作だったのです)

 さて、『夜行』の主人公、トレンチコートの本郷さんが帰ってきました。

●泉昌之(久住昌之+和泉晴紀)『食の軍師』(2011年日本文芸社、590円+税、amazon

食の軍師 (ニチブンコミックス)

食の探求者、本郷さんの行く店は、こじゃれたビストロなどではありません。屋台のおでん屋、駅前のもつ焼屋、とんかつ屋、焼肉屋など、あくまで大衆的なお店。

 本郷さんはその店で、どの順で何を食べるかを熟考して、店に勝負をいどみます。彼にとって勝つこととは、その食事で自分が満足できるかどうか。そう、本郷さんにとって食とは戦略と勝負なのです。

 今回の趣向はタイトルと書影でわかるように、三国志。

 同じ久住昌之原作の『孤独のグルメ』(新装版2008年扶桑社、amazon)や『花のズボラ飯』(2011年秋田書店、amazon)の主人公は食の勝負に勝ってばかりですが、本作の本郷さんは負けてばかり。

孤独のグルメ 【新装版】 花のズボラ飯

 『食の軍師』には、主人公と同じ店で食事をするライバルが登場します。本郷さんはライバルよりもかっこよく食べたいし、もっとおいしく食べたいといろいろ画策しますが、なかなかうまくいきません。

 しかし、彼がホントは何と戦っているかといいますと、料理の味そのものであったり、店の接客であったり、店のオヤジであったり、自分の腹具合であったり、自分の気分であったり、つまり現代人の「食」そのものであるのですね。

 食い過ぎて負け、飲み過ぎて負け、まずいもので腹をふくらませてしまって負け。たしかにわたしたちにとって三食、すべての食事が勝負です。食は日常でありながら快楽でもあります。だからこそちょっとした食事でも真剣になってしまいますが、それはぜんぜん変なことじゃない。本郷さんはえらいなあ。

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January 05, 2011

青木朋の奇妙な味『三国志ジョーカー』

 最近のお気に入り、青木朋について。

 著者の作品としては2002年にスピリッツに連載された『机上の九龍』があります。続編が幻冬舎の雑誌で連載されましたが突然の終了。さらに続きが新潮社が運営するネット上で連載され2009年にやっと完結、現在は全三巻で単行本化されてます。

●青木朋/長崎尚志『真・机上の九龍』全三巻(2009年新潮社、各600円+税、amazon

真机上の九龍 上 (BUNCH COMICS) 真机上の九龍 中 (Bunch Comics Extra) 真机上の九龍 下 (Bunch Comics Extra)

 いや苦労なさってますなあ。原作脚本は「空論創作委員会」こと長崎尚志。じつはまだ読んでません。

 青木朋作品は、先日、昨年夏に発売された『幇間探偵しゃろく』というのを読んだのですが、これがなかなかおもしろかったのですよ。

●青木朋/上季一郎『幇間探偵しゃろく』1巻(2010年小学館、524円+税、amazon

幇間探偵しゃろく 1 桜 (ビッグコミックス)

 原作脚本は謎の人物ですが、きっと長崎尚志なんじゃないかな。

 ときは昭和二年、たよりない若旦那が花街で出会う小事件を、飲んだくれの幇間=たいこ持ちの「しゃろく」さんが快刀乱麻を断つごとく解決する、という軽めの連作。

 絵が少女マンガタッチなのに服装や背景の時代考証が的確で感心しました。オヤジマンガ読者はこういうのにひかれちゃうのです。

 で、調べてみると著者の主戦場はどうも中国モノ+ちょっとBL+ミステリらしく、こんなものを描いてらっしゃる。

●青木朋『ふしぎ道士伝 八卦の空』全五巻(2006年~2008年秋田書店、各514円+税、amazon
●青木朋『龍陽君始末記』全三巻(2009年~2010年秋田書店、各400円+税、amazon

ふしぎ道士伝八卦の空 1 (ボニータコミックスα) 龍陽君始末記 1 (ボニータコミックス)

 前者は三国時代、後者は清の時代を舞台にしたミステリ連作。原作つきじゃなくても、堅実なストーリーと考証でおもしろい作品になってます。で、最近出た著者の新作がこれ。

●青木朋『三国志ジョーカー』1巻(2010年秋田書店、400円+税、amazonbk1

 えっとですね、中国モノ+ちょっとBL+ミステリというのはいつものとおりで、今回の主人公は三国志でおなじみ、司馬仲達です。でもねー、書影を見ていただくとわかりますが、三つ揃いを着たお兄ちゃんが紙巻きタバコを吸ってます。なんぞこれは。

 本作がじつに珍作でありまして、この背広を着てるのが主人公の司馬仲達。彼が魏の曹操陣営に参加して、政治的背景のある小事件を解決してゆく……のかと思ったら、敵役に登場するのが未来人(!)の諸葛孔明。

 三国志、司馬仲達と諸葛孔明の戦いのウラに、じつは歴史改変SFが展開していたという、なにがなにやらの作品であります。本作でも堅実な時代考証が健在、さらにメガネっ娘やBL風味が加わって、まったく先が読めないストーリー。今後が楽しみ。

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January 02, 2011

謹賀新年

 あけましておめでとうございます。本年もぼちぼちと更新を続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 元旦は晴れてていい天気、でも風が強かった。家族と近所の神社に初もうで。今年が受験となる子どもたちのために絵馬を奉納したあと、実家に寄って年賀の挨拶。

 でもあれですな、最近は元旦といってもコンビニはあるし、スーパーマーケットもうどん屋もラーメン屋もフツーに開いてて、いつもの休日と変わりませんな。わたしの子ども時代などは正月に街に出かけても、映画館以外はすべての店が閉まってたんですけどねー。

 さて、年初にだらだらしながら読んだ、今年最初のマンガはこれ。

●一條裕子/内田百閒『阿房列車』3号(2010年小学館、1100円+税、amazonbk1

 百閒先生は年がら年中ご酒をいただいてらっしゃるようなので、正月のほろ酔い気分で読むにはぴったり。

 昭和20年代の内田百閒の鉄道エッセイをマンガ化した本書も三冊目。本書でも百閒先生は、意味なく鉄道旅行を楽しみ、意味なくエラソーにしてらっしゃいます。

 ひねくれたエラソーなおっさんが意味なく鉄道旅行を楽しむ、というコンセプトのエッセイがかつて世間に受け入れられ、マンガとして現代によみがえっておるわけです。

 これがなぜかすっごく楽しいのですな。無為を楽しむ、という今では忘れられた(おそらくかつてもそういうのは珍しかった)百閒先生の奇妙な行動は、彼の筆力によって鉄道趣味のないパンピーにも受け入れられたのですね。

 で、マンガではどうなってるかといいますと、一條裕子はえらい。あいかわらず内田百閒の上を行くようなことをやってのけているのですね。

それで新聞記者が這入って来て何か訪ねた。だから何か答えた。

 このコマでは新聞記者のフキダシに「何か」、そして百閒先生のフキダシにも「何か」。

 おもしろいっ。このあっさりした脚色で、どれほど高度なことをなしとげているか。石原某にも教えてあげたいのですけどねー。

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