『沓掛時次郎』と光明真言
小林まことによる長谷川伸シリーズ第二弾が発売。
●小林まこと/長谷川伸『沓掛時次郎』(2010年講談社、933円+税、amazon)
書影右の前作『関の弥太ッぺ』についてのわたしの感想はこちら。
○股旅モノ復活「関の弥太ッぺ」
○脚色とは 「関の弥太ッぺ」の場合
今回はご存じ『沓掛時次郎』。
でもねー、「ご存じ」とか書いても実はどうでしょ。8回も映画化された有名作品であるはずですが、最後の映画化は加藤泰監督、中村錦之助主演のもので、これがもう1966年公開というから40年以上前の作品。沓掛時次郎といっても知らないひとのほうがおおくなっちゃったかな。
すでに忘れられつつある股旅モノの再生。義理と人情のはざまで苦悩する主人公としては、『関の弥太ッペ』より『沓掛時次郎』のほうが純粋ですね。今回もすばらしい作品となってます。
現代の多くのひとの記憶に残ってる中村錦之助版「沓掛時次郎 遊侠一匹」は、原作にない弟分の渥美清などが登場してて(あっさり死んじゃいます)、映画としては傑作だと思いますが本来の長谷川伸の戯曲からは離れすぎ。今回の小林まことのマンガ版のほうが原作戯曲によっぽど近い仕上がりになってます。
しかも現代のマンガとしての完成度も高い。現代の読者を泣かせる脚色は前作同様お見事。堪能しました。
さて、ここからは少し違う話。
『沓掛時次郎』の終盤にこういう文章が出てきます。
ウン字を唱うる功力には
罪障深き我々が
造りし地獄も破られて
忽ち浄土となりぬべし……
マンガでは誰の言葉か不明の、宙に浮かぶキャプションとして登場しますが、原作戯曲では時次郎と行動をともにする少年がこれを唱えています。
おー、これは光明真言和讃じゃないですか。
まず和讃というのは、仏教のお経がいかにありがたいものであるかを日本語で解説し、しかも民衆にわかりやすく布教するため歌にしたものです。有名なところでは「地蔵和讃」というのがあります。
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原の物語
聞いたことあるでしょ。不気味な始まりですが、このあと地蔵菩薩のありがたさが語られます。
光明真言和讃は光明真言を解説、というより、光明真言がいかにありがたいものかを歌ったもの。うちは四国在住ですので当然のように真言宗で、光明真言もおなじみ。
おんあぼきゃ
べいろしゃのう
まかぼだら
まにはんどまじんばら
はらはりたや
うん
これを民衆向け解説したのが光明真言和讃で、「おん」「あぼきゃ」などがそれぞれいかにありがたいのかが説かれます。本来の意味とはずいぶん違ってるみたいですけど。
もともとはずいぶん長い歌で『沓掛時次郎』に出てくるのはごく一部、「うん」を解説した部分だけです。戯曲が書かれた昭和3年なら、だれでもこれから光明真言和讃を思い浮かべることができたのでしょう。でも現代の日本人にはちょっと無理。
昭和初期に大衆の常識であったものが、今は解説を要するものになってしまいました。
マンガ版『沓掛時次郎』にはもうひとつ、印象的な歌として「小諸馬子唄」が出てきます。
小諸出てみよ浅間の山に
今朝も煙が三筋立つ
これも何のこっちゃわからん、と言われてしまうともうどうしようもないわけで、大衆文化は時代と離れては生きていけない。本作などはもうぎりぎりのところを歩いているのですね。
Comments
始めまして。いつも漫画選びの参考にさせてもらっています。
『関の弥太ッペ』一冊のときは「良作だな。」程度の認識でしたが、
『沓掛時次郎』が隣に並ぶと『長谷川伸まんが傑作選』の様相を帯びてきて、何だかワクワクします。
これから何冊も続いて欲しい。
また、本編の「番場の忠太郎」の扱いにニヤリとしました。
今後の作品にも同じようなパターンで登場して、
シリーズ最終回は『瞼の母』(as『1・2の三四郎』)でグランドフィナーレなのかもと想像しています。
いや、楽しみだ。
Posted by: 鬱柴 | November 30, 2010 02:00 PM