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September 27, 2010

『君に届け』と『とめはねっ!』

 もうすでに誰かが指摘してるかもしれませんが。

 今さらながらで申し訳ありませんが『君に届け』が多部未華子主演で映画化されてることを知りました。なるほどそうきたか。多部未華子ちゃんは最近のTVドラマでは明るい役が多いみたいですが、「夜のピクニック」あたりでは暗ーい地味ーな感じだったから、貞子にはいいかもしんない。

 最近12巻が発売されましたし、椎名軽穂『君に届け』を全巻読み直してました。といっても、わたしが読んだことがあるのは最初のほうだけ。なのでかなりの部分は初見です。ウチにあるのはわたしのじゃなくて娘がこづかいで買ってる本なので、よごさないから、と約束して娘から借りました。

 で、読みながらずっと、なんかこのふたり、どこかで見たよなあ、と思ってたのですが、誰のことかといいますと、貞子と友達になる吉田千鶴と矢野あやね。

 「ちづ」は背が高くて細い目、元ヤンで少し天然、ケンカ強し。「やのちん」はギャル系の美人で、腹黒(?)の陰謀家。

 うーん、どこかで見たんだよ、と考えてたら、そうだっ、河合克敏『とめはねっ!』の加茂ちゃんと三輪ちゃんだっ。

 こっちは9月末に7巻が発売予定。とくに吉田ちづと加茂ちゃんは髪型とかビジュアル的にもよく似てる。

 なあなあ似てるよな、と言っても我が家ではあまり同意を得られません。そっくりだと思うけどなあ。

君に届け 2 (マーガレットコミックス (4094)) とめはねっ! 4―鈴里高校書道部 (ヤングサンデーコミックス)

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September 20, 2010

廃墟とラブコメ『地球の放課後』

 日本のあちこちに遍在している「○○と美少女」というのは日本マンガ/アニメが獲得した大きなアドバンテージだと感じるわけです。○○のところには何が入ってもOKで、「国際社会と美少女」「数学と美少女」「建築と美少女」「忍者と美少女」、なんでもあり。エヴァだって「ロボットと美少女」ですし、もちろん日本マンガの古典的題材となってきたのが「SFと美少女」ですね。

●吉富昭仁『地球の放課後』1・2巻(2010年秋田書店552円+税、amazon

地球の放課後 1 (チャンピオンREDコミックス) 地球の放課後 2 (チャンピオンREDコミックス)

 つい最近、2巻が発売されました。

 書影カバーがステキです。1巻は水没した街でくったくなさそうに遊ぶ三人の美少女とひとりの少年。2巻はアスファルトを突き抜けてはえたヒマワリに水やりをする少女。この静かで楽しげなイメージどおりのマンガ。

 この世界では謎の怪物「ファントム」の襲撃により、全人類が消えてしまっています。残されたのが、ひとりの少年と三人の少女。

 自分たち以外、無人になった都会の生活とは。こういうのはこれまでもどこかで見てきたようなイメージですね。映画「うる星やつらビューティフルドリーマー」もそうだったし、最近の映画「アイ・アム・レジェンド」もそうか。

 この状況、いかにもサバイバルものになりそうです。まあ怖いのは、ケガと病気、不潔な環境、野生化した動物、火事や洪水、人間関係のあつれき、などいくらでも考えられます。

 しかしこのマンガ、そういうのはわかっててスルー。四人ともよくできた性格で、ケンカしない、男の子をとりあわない。煮炊きはカセットコンロがあるし、風呂はドラム缶。クルマで海水浴に出かけ、街にあふれる洪水化した水は「循環作用」でとてもきれい。菜園でキュウリやトマトつくってます。

 淡い恋のさやあてがあって、もちろんあざとい入浴シーンやパンチラもありで、いやもうサバイバルじゃなくてラブコメのハーレムの楽園の、なわけです。

 ところが。この世界ではところどころ時間のずれみたいなものが発生するし、やはり奇妙な「ファントム」が出没する。「ファントム」とは何か、消えた人類はどこへ行ったか、こういう大きなSF設定がお話をひっぱってて、2巻でもまだ謎が提出されてるだけ。こりゃ最後まで読まないわけにはいかんでしょう。

 静かな無人の街=廃墟の描写がいいですね。「無人」や「廃墟」が少年少女にとって楽園=ラブコメとして描かれるというアクロバティックな作品。

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September 15, 2010

マンガからながめる日本経済『サラリーマン漫画の戦後史』

 真実一郎『サラリーマン漫画の戦後史』(2010年洋泉社新書y、740円+税、amazon)読みました。

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)

 じつは最初タイトルを見たとき、イマドキにしてなんと地味な、と思ってしまいました。『アサッテ君』とか『フジ三太郎』を思い浮かべちゃったのですね。

 しかしこれはわたしの考えが浅かった。本書ではサラリーマンマンガの歴史を概観することで、日本の戦後史をふりかえる試みがなされてます。わたし自身は給料取りの身分ではありますがサラリーマンとしての自覚に乏しいので、盲点だったなあ。

 こういうタイプのマンガ論は(1)マンガを通して現実社会を語り、同時に(2)現実社会を見直すことでマンガを読み解くということをしています。じつは前者ばっかりだと読んでて腹立ってくることが多いのですが、本書は(1)と(2)のバランスが絶妙でおもしろく読みました。

 「サラリーマン」という和製英語ができたとき、それはスマートでかっこいい職種、おそらくあこがれの言葉だったはずなのですよ。それが高度成長期からオイルショック、その後バブルを経て現在の不況。言葉の持つイメージもいろいろと変遷して、今、サラリーマンといえばNHKのコント番組「サラリーマン NEO」で描かれてるように、自虐と揶揄とささやかな誇り、を持った言葉なのかな。

 本書は1950年代、源氏鶏太のサラリーマン小説から説きおこされてます。おお、源氏鶏太。私の子ども時代は文庫でいっぱい出てました。さすがに一冊も読んでません。

 そして著者は、彼の小説の特徴である「勧善懲悪」「家族主義」「人柄主義」を<源氏の血>と命名します。これが戦後サラリーマンを扱うマンガや映画の本流となり、そして「島耕作」こそ<源氏の血>の正しき継承者である。なるほどー。

 以下、戦後日本経済の盛衰にともなって、サラリーマンマンガがどのように描かれてきたかが述べられます。そこにあるのは、働くことの喜び、「宮仕え」「歯車」という苦しみ、さらに植木等的「気楽な稼業」という感覚が渾然と、あるいは(マンガですから)極端に提示された諸作品。

 著者が提示する作品はきわめて多く、そうかあれもこれもサラリーマンものだよなあ、というものばかり。例を挙げますとメジャーどころではもちろん『釣りバカ日誌』『山口六平太』『サラリーマン金太郎』がありますし、藤子・F・不二雄『中年スーパーマン左江内氏』、諸星大二郎『会社の幽霊』、柳沢きみお『妻をめとらば』『特命係長只野仁』、窪之内英策『ツルモク独身寮』、ホイチョイ・プロダクションズ『気まぐれコンセプト』、新井英樹『宮本から君へ』、高橋しん『いいひと。』、うめ『東京トイボックス』、ねむようこ『午前3時の無法地帯』、さらに田中圭一『サラリーマン田中K一がゆく!』、よしたに『ぼく、オタリーマン。』などなど。

 しかしまあ、どの作品もいかにも「日本的」ですねえ。

 戦後50年以上が経過し、日本経済が極端な浮き沈みを経験してきた結果、日本のサラリーマンマンガはこれほどの多様性を持つようになりました。そしてバブル崩壊から現在の大不況にいたって、かつてファンタジーであったサラリーマンマンガは<源氏の血>を失い、解体されつつある、というのが終章のまとめですが、このあたりは少し羅列的、説明不足の印象で惜しい。

 しかしこういう経済史的な視点からマンガ史を読み直すというのは新鮮な体験でした。

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September 08, 2010

1984年のアラン・ムーア『スワンプ・シング』

 『1984年』はディストピアを描いたオーウェルの作品として有名ですが、現実世界で1984年に何があったか調べてみますと、グリコ・森永事件ってこの年だったんですね。映画「風の谷のナウシカ」もそうか。ああっ、「さよならジュピター」と復活した「ゴジラ」もこの年だっ。

 マンガならサンデーの『タッチ』と『うる星やつら』。ジャンプには『北斗の拳』と『Dr. スランプ』があって、年末から『ドラゴンボール』の連載開始。

 今NHKでやってる「ゲゲゲの女房」も、今週は1984年の回ですね。まだオタクという言葉も一般的にはなっていません。

 で、アメコミの1984年は、アラン・ムーアがアメリカデビューをはたした年です。

●アラン・ムーア/スティーブン・ビセット/ジョン・タトルベン『スワンプ・シング Saga of the Swamp Thing』(2010年小学館集英社プロダクション、2600円+税、amazon

スワンプシング (ShoPro Books)

 出版社よりご恵投いただきました。ありがとうございます。

 すでにイギリスで『マーベルマン』や『Vフォー・ヴェンデッタ』を発表してライターとして注目されていたアラン・ムーアが、初めてアメリカメジャーのDCから招かれて脚本を書いたのがこの『スワンプ・シング』。

 組織に殺されそうになり、植物の成長を促す特殊な薬品をかぶって沼に落ちた科学者が、薬品の影響で「沼に住む何か」「沼のやつ」としてよみがえります。不気味な緑の怪物の外見を持つようになった彼は、いつか人間に戻ることを望みながらダーク・ヒーローとして悪人たちと戦っていく。

 これが1972年に生み出された『スワンプ・シング』の初期設定でした。ところが1984年に『スワンプ・シング』のライターとして参加したアラン・ムーアは、それまでの設定を全部ひっくりかえしちゃって主人公の科学者はほんとは初期に死んでいた、彼の意識をとりこんだ植物が怪物化していた、ことにしちゃいました。ムーアのちゃぶ台返しとして有名なエピソード。

 ムーアは三年半『スワンプ・シング』にたずさわっていたそうですが、本書に収録されてるのは三つのエピソードです。怪物の出自をひっくり返して長年の敵役を殺してしまった「解剖学講義」。大自然と植物の代弁者を名のるフロロニックマンとの戦い。コックリさんで呼び出された異次元の怪物が自閉症の子どもたちを苦しめる話。きっと現代的なエピソード、なのだと思います。

 いずれも多量のセリフ、モノローグ、キャプションがみだれとぶムーアお得意のスタイルです。ムーアは英語が苦手なわたしにはたいへん理解しにくい文章を書くひとでして、原書で読もうとしても敷居が高いのですよ。

 ムーアはまるで詩人のような華麗な文章を書きます。おそらくそこが日本マンガとの大きな違いでしょう。日本のマンガ指南書は「文章で説明しないように」と繰り返し教えてきたという経緯があります。白土三平がマンガのところどころに挿入する忍術解説ですら批判されたことがあります。

 これはマンガのライバルとして「絵物語」が存在した日本の特殊事情によるのじゃないかしら。マンガは絵物語じゃないんだから文章で説明したりしちゃダメ、なんてね。海外ではマンガと絵物語を対立する存在として見なしたりはしてなかったと思います。

 このため日本マンガの文法はちょっと窮屈なものになってしまいました。「絵」だけで表現する能力が極端に発達しますが、そのかわりちょっとしたエピソードにも長大なページを必要とするようになります。というような話はさておき。

 本書の絵は、名人レベルのひとが描いてるわけではないので、現代の日本読者が見るとどう思うかな。こまかい描き込みはなかなかですが、画力としては安定してない。コンピューターによるカラリングが始まる前ですから、原色を使ったカラリング(スーパーマンの赤青黄はアメコミでなきゃ存在しえませんでした)は、70年代ジャンプの巻頭のよう(←わかりにくいたとえですみません)。

 じつは70年代にマンガを描いてたのは、ホラー小説のイラストでも有名なバーニー(別名バーニ)・ライトスン Bernie "Berni" Wrightson。彼は名人級の絵を描くひとで、画像検索でどうぞ。アメコミアーティストのすべてがこういうレベルではないです。

 本書の画家たちはライトスンには及びませんが、描き込みと黒ベタの多用でアメコミのフォーマットでのホラーを描くことに成功してると思います。もちろん彼らの作品は、わが水木しげるや日野日出志とは全然別物です。

 いずれにしても現代でもっとも有名なコミックライターの初期作品の邦訳となります。日本と欧米のマンガの違いなどを考えながら読んでるとムチャおもしろいです。

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September 03, 2010

『20世紀少年』最終感想

 浦沢直樹『20世紀少年』が完結して三年経過。さらに映画版も全三作すべてTV放映されちゃったので、このあたりで自分の『20世紀少年』に対する最終的な感想を書いておこうかな、と思って読み直してました。

20世紀少年―本格科学冒険漫画 (1) (ビッグコミックス) 21世紀少年 下 (2) (ビッグコミックス)

 わたしこのマンガ、ブログ記事のために何回も熟読したはずですが、いや読み出すと止まらない。おもしろいなあ。

 でもって付箋貼りまくった『20世紀少年』をソファの上に全冊積み上げてたら、ウチの高校生と中学生がずーっと読んでる。こいつらも以前に読んだことあるはずなのに、奪い合って読んでる。つくづく巻をおくあたわずというか、世代をこえて読者を引っ張ってはなさない能力を持ったマンガですねえ。

 これはひとつひとつのエピソードがサスペンスフルでおもしろいのと、“ともだち”が誰なのか、という大きくて魅力的な謎がどーんと存在してるからですね。

 ところが。

 ずーっとどきどきはらはら気持ちよく読んでいた作品のはずなのに、ラストのラストであの盛り下がり。

 カツマタ君だもんなあ。というか、誰よ、カツマタ君って。

 はっきりいって、カツマタ君についての伏線が少なすぎます。ミステリとしてなら、ダメダメのオチでしょう。「主人公にさえ忘れられてたカツマタ君が犯人」なのだから、カツマタ君についての伏線が少ないのはごもっともではありますが、読者が覚えてない人物が犯人じゃねえ。

 子ども時代の主人公自身が“ともだち”をつくってしまった、というアイデアはいいし、疑似タイムトラベルものとして救いのあるラストもよくできてる。でもだったら、この作品内で子ども時代から大人になるまでずーっと諸悪の根源であったフクベエの立場はどうなる。正義が最大の敵フクベエを倒す快感もないし、フクベエだけはラストでも救われることなくほったらかし。

 作者たちも「フクベエ→カツマタ君」の“ともだち”二人制には無理があると考えたのか、映画版では「フクベエ=カツマタ君」の二人一役制に変更されちゃいました。これはこれで納得できないところもいろいろとありますが、ま、映画については置いといて。

 これまでも多くの長編エンタメ(小説であったりマンガであったり)が「連載」のかたちで書かれてきました。それらは時系列に沿って物語が進行し、次はどうなる、次はどうなるという形で読者を引っ張ります。それでも長い連載期間には途中でダレることもあれば、人物の出し入れに矛盾が出てくることがある。これは名作と呼ばれるものでも同じこと。

 ところが『20世紀少年』は物語を時系列に沿っては語らない。過去と未来、現実と仮想空間、時系列を飛び越えてお話があっち行ったりこっち行ったり。連載形式ではすごく困難なことのはずです。ただでさえ矛盾が出やすい長期連載で、こんなことをやろうとするひとはそうそういない。

 これは最初からラストまで見通した構成が完成していなければできないことです。しかも「連載」で読者の反応を見ながら内容を微調整していくライブ感も生かそうとしている。完成度とライブ感、相反する二兎を追うことに挑戦したわけです。

 この壮大な実験は、少なくとも前半は奇跡的な大成功をおさめました。謎を次々と提出し、少しずつ解いていくその手腕は読者を興奮させました。『20世紀少年』、途中までは最高でした。

 しかし後半は、作者側が最初から計画していた構成と、途中のノリで描いた部分がずれてきた、のじゃないか。これは作者の意図と読者の期待のずれともなり、ついにラストになって腰くだけ。

 企画と細部のエピソードは満点、全体構成とオチは50点。惜しくも名作になり損ねた残念な作品、というのがわたしの感想です。

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