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March 10, 2010

マンガで叙述ミステリ『フラクション』

 バカミスとは、おバカなミステリのこと。バカという言葉を使いながらも称賛の意味が込められてます。かつては宝島社『このミステリーがすごい!』での年一回のお楽しみだったのですが、最近は載らなくなっちゃたなあ。

 マンガ作品としては、さいとう・たかを『ゴルゴ13』の一篇「シャーロッキアン」や、あさりよしとお『少女探偵金田はじめの事件簿』なんかがバカミスとして紹介されたことがあります。

 近年のバカミス界がどうなっているかといいますと、イベントとして毎年この時期に「世界バカミス☆アワード」が開催されているそうです。世界と銘うってますが、あらかじめ選ばれた候補作の中から来場者の投票で受賞作を選ぶというもの。

 本年が第3回で、過去の受賞作はジェイムズ・グレイディ『狂犬は眠らない』(→amazon)、鳥飼否宇『官能的 四つの狂気』(→amazon)。アマゾンの紹介文によると、前者が「スパイとして働きすぎて頭のいかれた五人組」の話で、後者が「変態する数学者、暴走する助手」の話だそうで、わはは、これは読みたくなりますね。

 で本年、倉阪鬼一郎『三崎黒鳥館白鳥館連続殺人』(→amazon)と並んで第3回バカミス☆アワードに選ばれたマンガ作品が、これ。

●駕籠真太郎『フラクション』(2009年コアマガジン、1500円+税、amazon

フラクション

 ご注意をひとつ。著者のいつもの作品と同じように、エログロ描写が多いです。残酷にも生きたままの人間がスプラッタされちゃいますので、読まれるかたはそれなりの覚悟でどうぞ。

 ただしこの作品、事件が起き、推理があり、論理的でフェアな解決がなされるという点では、きちんとしたミステリ。ただしその解決が、読者の斜め上どころか、後頭部の右78度の高層あたりにあるという、とんでもないオチなので諸兄は覚悟されるように。

 目次を見ますと、「輪切り魔の章」と「マンガ家の章」が交互に語られる構造になってる。おお、本格ミステリっぽいぞ。

 「輪切り魔の章」では、連続人体輪切り魔事件が世間を騒がせています。この事件を推理する喫茶店ウエイターとウエイトレス。いっぽう「マンガ家の章」では、エログロマンガ家「駕籠真太郎」が、なんとかマンガで叙述トリックを使ったミステリを描けないものか、と構想を練っています。このふたつの章が、どのようにクロスするのか(あるいはしないのか)。

 この過程で、マンガにおける叙述トリックとはどのようなものかという「駕籠先生の叙述ミステリ講座」が披露されます。ここがすごくおもしろい。

 マンガの絵は動かない。マンガ内の動きは動線などの漫符で表現されたものですから、動いていると感じるのは読者の錯覚であるともいえます。またフレーム(=コマ)の外に何があるのかは、かなりの部分、読者の想像で補完されている。などなど。こういうマンガの読み方のお約束をミステリのトリックに利用できるのじゃないか。

 マンガというものの本質に立ち返り、マンガを分解することでトリックを創造しようとする試みであります。その結果、本作のトリックはマンガ作品以外では成立しないものとなりました。

 本作のメイントリックはふたつありますが、わたし、読んでて両方ともにあ然としました。残虐にして精緻。驚天動地そして全身脱力。本を投げ出しはしませんでしたが、妻のところに持っていって、なあなあ頼むから読んでくれと「仲間」を作ろうとしました(妻は表紙イラストをいやがって読んでくれませんが)。

 ラストのオチに時間的空間的整合性がないとか、瑕疵はないことはないのですが、そんなことはどうでもいいです。このトリックだけで前代未聞の傑作というか怪作というか。

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Comments

これは凄いですねえ。完全に打ちのめされました。記号論(よく知りません)なんて見地から語るべきなのか。なにより、理屈じゃなくて、画力で納得させるのが凄いし、まさにマンガの力です。

Posted by: SHIN | March 10, 2010 06:15 PM

バカミスといえば
藤岡真さんのHPでも紹介されていましたね

Posted by: とりとり | March 10, 2010 09:08 PM

藤岡先生のバカミスアワードのレポートでこの作品を知りました。絶賛するひとと怒り出すひとに別れるでしょうが、わたしはだんぜん絶賛派。

Posted by: 漫棚通信 | March 12, 2010 04:43 PM

マンガのサザエさんに、カツオくんが、線路の上によこたわって、そばに遺書らしいものが置いてある、というのがありました。サザエさんが「いそがしいのに、どいてっ」と線路を持ち上げると、かんたんに持ち上がって、線路と見えたものは、じつは庭においてあったハシゴであって、カツオ君は鉄道自殺ごっこをしていただけなのでした。

マンガは線を省略して書くので、線路もハシゴもわからないということを使ったトリックです。

もしこれを実写の映画で撮るとしたら、観客は一目見てすぐハシゴであることを見破ってしまうでしょう。

小説の「モンテクリスト伯」でも、ブゾーニ神父がカドルッスを訪れたとき、読者に神父がおなじみの人物の変装であることをしらせようが、しらせまいが、作者の描きようひとつです。

文章による伝達は不完全なもので、書きようによっては、読者には「ブゾーニ神父」の正体はけっしてわからないでしょう。映画ではこうはいきません。

映画「探偵/スルース」において、観客の一部は、登場人物の正体が、巧妙なメーキャップにもかかわらず、読めてしまいます。映画の描写力は、小説に比べて、人物の顔かたちという点にかんしては、格段に上だからです。

よくいわれることですが、小説では「絶世の美女が」とかけばよいだけのですが、映画では、実際の美女をスカウトして、さらにメーキャップで完璧なものにしなければなりません。

小説は「絶世の美女が」と書いたとき、読者が絶世の美女を想起するという約束事でなりたっています。

ミステリーというものは、作者が描写のどこかにウソをしのばせている、ということを最初から宣言し、読者もだまされるのを承知で読む、という約束事の上になりたっています。

トリュフォーの「アメリカの夜」「終電車」や、フェリーニの「そして船がゆく」、深作欣二の「蒲田行進曲」には、映画画面の枠の外には、観客の思いもしなかったトリックがしかけられていることを暴露してしまう「楽屋落ち」が見られます。映画であってもその描写力には限界があり、いくらでもトリックをしかけられるようです。これらの作品をみると、映画の約束事がわかります。

ミステリーで、「AがBを殺すところをCによって目撃された。」と書いてあって、結末でじつはCが犯人であって目撃証言はうそだった、ということになると、読者は本をひきちぎりたくなるでしょう。この書き方だとまったく作者が読者にルール違反のウソをついたことになる。本自体が詐欺になります。この書き方だと犯人はA以外にありえません。C(登場人物)はウソをついてもよいが作者はウソをついてはいけない。

しかし「AがBを殺すところを見た、と証言するCがあらわれた。」と書くと、この結末もありです。

「AがBを殺すところを見た、というCの証言があったが、その言い方には、どこかあやしいところがあった。ウソをついている感じがした。」という書き方だと、かなりフェアですが、このまま、予定の結末(C=犯人)に突入すると、「まんまじゃねえか!」と読者は本をひっちゃぶくでしょう。作者がまったくウソをつかないことはミステリーではもっとも重い罪なのです。

「フラクション」は未読なのでしょうが、マンガの楽屋落ちのひとつではないか、と想像します。

マンガで「わたしはBを殺してはいません。」というCの口元の表情はまったくすずしげで、真実をつげているようだが、額にもほおにも汗がたれていて、一見してウソっぽい。しかし回想画面で、もっとロングにひいたコマになると、それは無数の水滴がついた手前の窓ごしにCの顔をみただけだった。あるいは、Cのおちついた表情とうらはらに顔のふちに汗が飛び散る描写があって、冷静を装うCの緊張した内面をあらわしている、と見えたが、それは壁紙の模様の前にCが立っているだけだった、というのはメイントリックとしては弱いですね。

Posted by: しんご | March 27, 2010 05:19 AM

すみません、まちがいました。

『わたしは、「フラクション」は未読なのですが、マンガの楽屋落ちのひとつではないか、と想像します。』

Posted by: しんご | March 27, 2010 05:26 AM

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