アチラ版少女マンガ『GIRL(ガール)』
ジュリアン・タマキ/マリコ・タマキ『GIRL(ガール)』(2009年サンクチュアリ出版、800円+税、amazon)について。
著者はカナダ在住、日系三世のいとこ同士のふたり。
トロントの女子校に通う日系少女のお話。少女の日常をフィクションで描く、というのは日本マンガのお得意ですが、それ以上にジミでリアルな作品。モノクロで描かれたオルタナ系のマンガです。
原題は「Skim」。スキムミルクのスキムですな。主人公の体形が太めで名前がキムバリー・ケイコ・キャメロンであるのをもじり、友人たちは彼女をスキム(低脂肪)と呼んでいます。まあイジメに近い呼び名なんでしょう。
彼女はいわゆるゴスです。魔法使いにあこがれ、実際に森で魔術を試したりしている。両親はすでに離婚。母親と一緒に住んでいますが、母親は元夫のグチばかり。学校の友人たちはスキムから見ると偽善者。同級生男子が自殺したり、そのガールフレンドが屋上から転落したりという事件が起こります。うつうつした日々が続きます。
スキムは女教師に恋をして彼女をストーキングしたり、友人にさそわれて他校の男子と会ったりしますが、彼らがいわゆるオタクであったりして、さえないことおびただしい。
という、まったく花のないマンガ。デートの前に鼻の下のヒゲの処理をするシーンがあったりしますから、日本の少女マンガがあえて描かない部分にも踏み込んでます。
コマ構成などは日本マンガに近い部分もあります。ヒトコマにフキダシひとつかふたつ。フキダシのないコマもはさまってこれがくり返され、ワンシーンに多くのコマが費やされる。こういうのはアチラのマンガとしてはめずらしく、日本読者にも読みやすい。
驚くべきは日系少女の造形で、のっぺりした顔と太めの体形をみごとに表現していて、白人と描きわけてます。こういう描き方をする日本マンガはまったく存在しませんから、じつに新鮮でした。対して白人少女の顔は古典的カートゥーンアニメーションによくあるような造形で、これにもちょっと驚いた。
小さな事件が起こり小さな変化はありますが、終幕にいたっても何の解決があるわけでもありません。それが現実。主人公の悩みは、おそらく性差、国籍をこえて青少年が抱える普遍的なものでしょう。
絵はびっくりするほどうまく、少女たちの微妙な感情は背景や風景をとおしても描写されます。こういうのは絵そのものの力に劣る日本マンガは不得意ですね。
惜しいのは印刷で、線が線じゃなくてドットの集合になってること。原書もそうなのかしら。筆で薄墨ふうに描いてるからしょうがないところもあるのですが、やっぱ線は線として印刷されてるのが読みたいです。
世界にもいろんなタイプのマンガが登場していることを感じさせる、優れたマンガだと思います。
本作は2008年のイグナッツ賞のグラフィック・ノベル部門を受賞しています。イグナッツ賞(Ignatz Awards)というのは英語圏のオルタナ系コミック/カートゥーンに与えられる賞です。イグナッツとはアメリカの古いマンガ『クレイジー・キャット Krazy Kat』に登場するネズミの名前。クレイジー・キャットはイグナッツ・マウスをダーリンと呼んで愛していますが、イグナッツはそれに答えてクレイジーにレンガを投げ続ける、というシュールな関係を描いたナンセンスマンガです。
『クレイジー・キャット』は大衆的な人気を得たマンガですが、オルタナ系の賞にイグナッツの名を冠しているのはおもしろい。とくに本作のスキムは、イグナッツやクレイジーに何となく似てる感じがするのです。
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Comments
「絵そのものの力に劣る日本マンガ」というのは身も蓋もない言葉ですね。
でも事実だからしょうがない。
擬音語・擬態語が多用されるようになった理由もそこにありますかね。絵がヘタなので文字言語に頼る。
山道の森閑とした様子を絵で描ききれないものだから「シーン」と擬音を書いて逃げる。(石ノ森章太郎『龍神沼』。印刷物にくらべて原稿の絵はもう少しましなんでしょうが。なお静寂を表す「シーン」は「深々」あたりの漢語がもとでしょうか)
コマに描かれた擬音語・擬態語は本来文字なのだから、吹出しのセリフに使われている文字と同じ書体の活字で書いてもよいのですが、マンガ家は絵としてもふるまうことをこの擬音語・擬態語に要求します。作品の一部として、芸術として見られるものであれと要求するわけです。絵画であれ、というわけです。
しかし文字言語にとって、それがどのような書体で表現されるかは本質的なことではありませんし、まして鑑賞の対象となる絵としても扱われるというのは非本来的なありかたです。(蛇足ですが、言語とは概念と呼ばれる種類の認識を何らかの物質的な記号で表現したものです。つまり概念的認識の記号的表現が言語です)
マンガの中に描かれた擬音語・擬態語は(文字)言語であると同時に絵画でもあるという矛盾した性質を持たされています。
日本マンガは、描かれた擬音語・擬態語のこの絵画としての面をとても発展させています。
もとは画力の不足を補うために多用された擬音語・擬態語でしたが、絵としての面で様々な表現上の工夫が重ねられたため、今では日本マンガの表現に欠かせぬものであり、十分鑑賞の対象となるものもあります。
ちょうどトーキー映画や劇に効果音やBGMが欠かせないし、それだけ取り上げて鑑賞の対象になっているのと同じです。
(活字用書体の多くは読みやすさという実用性第一で開発されたものですが、美しさやおもしろさといった鑑賞が主目的としか思えないものもあります。現在ではマンガで使われることをねらった擬音専用の書体まで登場しています。)
矛盾しているといえば、枠線もそうです。
本来は作者の認識の枠組みの表現にすぎない線なのに、マンガのコマの一部だから、絵という性質を持たされてしまいます(手塚、石ノ森、真崎守らの実験や遊びが思い浮かびます)。
ルオーの作品には、認識の枠組みにすぎない額縁まで絵具で濃厚に彩って完全に油彩画の一部にしてしまったものがあります。
(少女マンガでは枠線が一見解消されてしまう場合がありますが、認識の枠組み自体がなくなったわけではない。強いて言えば零記号化しているだけでしょう。枠線のない一コママンガなんていくらでもあります)
日本のマンガの表現の分析にあたって、「絵そのものの力に劣る」という視点はとても大切だと思います。
腕前があれば絵でも十分表現できる作者の認識(対象の現実のありように即した客体的認識と作者の感情や気持ちに即した主体的な認識の両方)を、概念的認識の表現にたけた文字言語に頼ったり、いわゆる漫符を使って補っているのだと考えればよいのでしょう。
絵の技量の不足を補う工夫が、日本のマンガの発展の方向を大きく左右してきたし、それがまた日本マンガの特色の一つにもなってきたというのが漫棚さんの日頃の主張だと思っております。
マンガ家の側の認識に即して一つ一つの作品を丁寧に読み解き、筋道立てて説明する地道な作業を通じて、漫棚さんの主張は支持されていくと思います。
Posted by: 留公 | November 17, 2009 07:28 AM
カナダ在住って事はBDじゃありませんでしたね。
漫棚通信で外国漫画と日本漫画の比較を通して
日本人論をやってらっしゃる訳ではないので
ブログを読んだ側が勝手に複雑な気分になられてもブログ主さんも困ると思います。すいませんでした。
失礼しました。
Posted by: | November 14, 2009 10:18 AM
直近にある日本漫画との差異でBDを語るのは辞めた方が良いと思います(難しいですけど)
日本の大衆消費材である漫画と、大学教育を受けて
モダニティに目覚めた様な人々が好む
外国漫画(アメリカのグラフィックノベルやバンドデシネ)を比較して偏差を語ると、「日本人は広い視野を持とう」
って感じの結論になっちゃうんですよね。
日本は外国文化の輸入と国内での浸透度は高い方なのに。
日本はユーロ圏外の国でありながら、メヴィウスのフォロワーと呼べる様な作家を多く出した国なんですから。
日本は洋楽も外国の書物も時差無く、良く紹介してますよ。
それどころか欧米の文化に対する信仰すらある様に感じられる。
「日本漫画にはできない」「日本漫画にほ不得意」とか言われちゃうと
複雑な気持ちになります。
そりゃあ無い袖は振れんからなあ...みたいな。
Posted by: | November 14, 2009 09:57 AM
物凄いレアな海外マンガ情報、いつもありがとうございますっ!
Posted by: woody-aware | November 11, 2009 11:30 PM