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October 18, 2009

マンガの記号的表現に関するつれづれ

 海外マンガ、とくにグラフィックノベルというタイプのものを読んでいて日本マンガともっとも違うのは、漫符と呼ばれる記号的表現の少なさです。

 擬音も少ない、動線も少ない、バックには集中線もベタフラもないし、こめかみにつたう汗なんかまったく存在しません。

 ひるがえって日本マンガをながめると、そういう記号的表現を使ってあらゆる、とはいいませんが多くの演出がなされています。オノ・ナツメにしても谷口ジローにしても黒田硫黄にしても、はたまた本来アニメーションのひとである宮崎駿の描くマンガにしても、こめかみの汗なくして、現代日本マンガの登場人物の感情表現はありえません。

 戦後、日本マンガが大量に出版されるなかで、記号的表現はコピーされ開発され、どんどん進歩していったのですね。その結果、日本マンガはきちんと描いた「絵」がなくても、コマ構成と記号的表現をあやつることだけで劇的にお話を展開することが可能になりました。

 目を白抜き「○」で描いて、クチを四角く「Д」で描いて、額に斜線をいれて、大きなしずくの汗を空中に浮かばせておけば、絶望する人間のできあがり。

 人物のアップのバックにベタフラ。こめかみにひとすじの汗。フキダシにはトゲをつけてそのなかには「……」と書いておけば、衝撃を受けた人間。

 今となっては陳腐な演出ですが、現代日本マンガはこういう表現の集積で成り立っているのです。アラン・ムーア/エディ・キャンベル『フロム・ヘル』が日本マンガ的表現からいかに遠いところにあるか、読まれたかたにはわかるはずです。

 記号的表現の進歩が、日本マンガにおける「絵」の軽視につながります。

 編集者は、新人マンガ家の絵よりもストーリーや演出に注目するそうですし、「絵なんか描いてりゃそのうちうまくなる」というのはあちこちで聞く言葉です。

 絵の軽視はマンガへの新人参入の敷居を低くし、大量のマンガ志望者を生み出し、産業としてのマンガ出版を支えてきた。これがこれまでの日本マンガの出版システムです。

 日本マンガは絵の完成度にたよらない表現法と出版システムを並立して進歩させてきたのですね。こういうのは良い悪いの問題ではなく、実際にそうなっちゃったんだからしょうがない。

 さて、将来のマンガはどこへ向かうのでしょう。ますますコマ構成と記号的表現を先鋭化していくのか。あるいは絵の完成度を追求する方向に回帰していくのか。 

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Comments

 今回の文章、胸にグサリと突き刺さりました(^_^;)。

Posted by: すがやみつる | October 18, 2009 05:10 PM

いえいえ、日本マンガ的表現を好ましく思う読者がいるからこそ、日本マンガスタイルのマンガが世界で描かれるようになっているわけですし。

Posted by: 漫棚通信 | October 18, 2009 06:33 PM

 何だかとてもマンガの未来論を述べられて居るように感じられました…今回の文章。
 本当に“マンガ”ってどこ行っちゃうんでしょう今後…。
 その「未来」や“将来性”、可能性を知りたくなります。

うっでぃ・あうぇあ//

Posted by: woody-aware | October 18, 2009 10:24 PM

ちょうど米沢嘉博さんの「戦後ギャグマンガ史」を読了したところなのですが、
赤塚不二夫氏の失速についてのくだりで
「記号論を突き詰めて、絵の力を失った」てな事をおっしゃっていて、
本エントリと通じるものを感じて面白かったです。

Posted by: keora | October 18, 2009 11:43 PM

 ぽかんとふと考えますに、現在のマンガが衰退し忘れられた頃に、一つのマンガの歴史が終結し、そこから新たな全部の可能性が再び噴出して来て、またリバウンドして宇宙が開闢(かいびゃく)する化のような現象が起こりうるんじゃないかと、ふと愚考致します。マンガの未来。

 日本SFについても、忘れられた頃に「復活する」みたいな現象、起きるんじゃないでしょうか?明るい未来過ぎるかな?これは。


 現在、竹熊健太郎先生ですか?が取り扱われている雑誌『マヴォ』に於いて、記号論の果てみたいなマンガが現われて居る昨今、一方では、(未読ですが)『フロム・ヘル』みたいな絵の果ての作品みたいなものに取り組む人物も、日本には現われるんじゃないでしょうか?
 それが健全なマンガの発展なんじゃないかと思います。また、大学(卒)マンガとなりつつある(専門学校も含めて)それの《課題》←とも成る事ではないのでしょうか?

 そういう「沢山の人材の輩出」にマンガ家の高学歴化が寄与するかどうかは分かりませんが…。
 一方では、学歴に頼らないアマチュールの作家が(中卒とか、高校中退組とか)が、綺羅星(きらぼし)のようにその出身から“新しいマンガを創る”という「再現現象」も起きるかも知れません。(川原由美子先生とか、高校中退の組のマンガ家先生も居らっしゃるという事ですよね?)


 またマンガの発展途上国に、更に日本など(欧米も)“しのぐ”「マンガ文化」の展開の“可能性”が、(文化)土壌←として残って居るかが気に成ります。


 まだ決まりきって居ない「マンガ(文化culture)の国際化」の流れ、交流の興隆が起きるかも──。それとも「文化帝国主義」(サイード)でそういう動きが、市場marketとして、先進国と発展途上国との間に「文化差」を生み出してしまい、先進国文化が発展途上国など(中進国を含む)を市場化(一種の帝国主義imperialism?)を生み出しはしないかという事も。


 今西錦司(新、あるいは戦後「京都学派」の祖。生物学。)の「棲み分け理論」とかでも、考えてみるのですが…。
 日本国内のマンガ文化(生産・消費・流通)の棲み分けを、また“国際的な視点に立った”「マンガ文化の棲み分け」divideが起きないか、考えられないかを、考えるのですが……どうなんでしょうね。


 そうすると、現在の竹熊健太郎先生がブログでおっしゃっているような(出版の末期の)現象、あるいは「大政奉還」を、乗り越える考えが出来るかも知れない?、とも思うのですが…。

Posted by: woody-aware | October 19, 2009 11:05 PM

 「マンガ(文化)の棲み分け」というのは、divide(デジタル・ディバイド、みたいな)高さの次元では無くて、いわゆる「水平分布」の事だと承知します。

 高さ次元の分布(棲み分け)の可能性も有るかとは思いますが…「マンガ文化の高次元・低次元」サイドをどう考えるか、その“尺度”をどう測るかは、「マンガ学」の将来の課題なんじゃないでしょうか?「マンガ知識人」のやるべき事、なんじゃないかと思います。その尺度(度量衡)の体系を作り出す、即ち、「マンガの」長さ・かさばり・重さ、等を考え出すのは、将来の展望だと。

 文化の重み、軽さ、カルさ(カルチャー性)、広さ、大きさ、…といった「程度」の導入ですね。
 これは「文化学」の基礎事項の改良に寄与する・依存して居る事、パラメーターなんでしょうけど…。

 そうやって、マンガ学が「人文科学全体」に寄与する事が、将来出来るようになるのではないでしょうか?四方田犬彦先生の『漫画原論』といった御著作を超える事が出来るような、物語論、文化論が展開出来るようになるかも知れません。マンガ(研究)で。

 現在のマンガ学会の始まりは、前世紀(20世紀)末の、千葉大学の若桑みどり先生でしたっけ?、のご発言によるもの(「漫画ももう研究対象になりますよ。」)といった事も多かったか大きかったかと思われますが、マンガ研究では、その事をちゃんと「目標」として設定して置く必要がある、かも知れない(^^;)と愚考します。


 マンガは、文学が一列の「1次元」の羅列(リニア)の人文学研究だとすると、面の、つまり絵の「2次元」の人文学研究(ヒューマニズム、つまり500年ぶりの“人文主義”の研究の“第二の波”)と考える可能性も有ります。
 そう考える事によって、立体を「3次元」の人文主義の研究、「アニメーション」を動く絵として“フラクタル次元”(2.5次元とか)といった尺度で図れる・計れる・測れるようになるかも知れません。

 こういった考え方の導入、パラダイムの応用につきまして、我々「マンガ・アマチュアリズムの知識人」の役割は、それを底辺から支える事に在るのではないかと思うのですが、いかがなもんでしょうか?orz

Posted by: woody-aware | October 19, 2009 11:27 PM

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