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May 20, 2009

へ、へ、へと笑うひとたち

 手塚治虫が創造した魅力的なキャラクターのひとりに「スカンク草井」がいます。、なんつっても鉄腕アトム「電光人間」(1955年)での名演が有名。

アトムは完全ではないぜ
なぜならわるい心を持たねえからな

完全な芸術品といえるロボットなら
人間とおなじ心を持つはずだ
へへへへへへへ

へへ へへ
へへへへへ
完全なものはわるいものですぜ

 スカンクは「へ」で笑うひとでした。しかも「へへ」と「へへ」の間に一拍いれるという、ずいぶんと特徴ある笑いかた。

 スカンクのモデルは俳優リチャード・ウィドマークであると言われています。ウィドマークのトレードマークといわれたのが「ハイエナ笑い hyena laugh 」です。YouTubeで実際に見ていただきますと、こんな感じ

 でも、ウィドマークのハイエナ笑いは「へへへ」じゃないよなあ。

 手塚マンガにはほかにも、「へへへ」と笑う有名人がいます。

 鼻の大きなレッド公が『罪と罰』(1953年)で演じた、ポルフィーリイ予審判事です。ラスコーリニコフとポルフィーリイ判事の対決シーン。

へ!へ!
これはこれはこんなむさいところへようこそ

へへ 尋問?
だれをです?
あなたをですか?
証拠もないのに?
へ…へ…
そりゃァむだですよ

 彼も「へへへ」と笑うひとでした。

 けっこう上級の役人のくせに、ちょっと下世話な口調。

 なぜ予審判事がこんな口調と笑いかたをしてるかといいますと、小説の邦訳がこのようになっているからです。

 手塚が読んだ『罪と罰』は、1914年に邦訳された中村白葉訳のものか、1935年の米川正夫訳のものか、どちらかです。

 中村白葉訳のポルフィーリイはこんな感じ。彼は饒舌と狂騒的な笑いでラスコーリニコフを追い詰めてゆきます。

そのあとで不意に真向うから斧の峰打ちを浴びせかける。へ、へ、へ! 真向うから──あなたのお見事な譬喩に従えばですよ! へ! へ! それくらいのことを心得てない奴があるもんですか。あなたはそれを、実際そうお考えだったのでしょうか、わたしが官舎の話であなたを‥‥なにしようとしたなんて、へ! へ! あなたもずいぶん皮肉なかたですね。いや、もうよしましょう! あっ、そうだ、ついでにもう一つ。(第四部)

 まるで刑事コロンボ。

 米川正夫訳ではこうです。

その後で不意に斧を振って真向からみね打ちを食わせる、へ、へ、へ!その真向からですな、あなたの巧みな譬喩にしたがえばね! へ! へ! それくらいのことはみんな心得ていますよ。じゃ、あなたはわたしが本当に、官舎の話であなたを……なにしようとしたなんて、そんなことをお考えになったんですか……へへ! あなたもなかなか皮肉な人ですな。いや、もういいません! あっ、そうだ、ついでに一つ。

 受ける印象はほとんど同じ。「へ」も同じです。

 ポルフィーリイの「へ、へ、へ」と饒舌は、後年の訳でも同様で、現在一般的に読める岩波文庫の江川卓訳にも、新潮文庫の工藤精一郎訳にも「へへへ」が出てきます。

 『罪と罰』では、他の登場人物も「へへへ」と笑います。ラスコーリニコフ自身が夢の中で「へ、へ、へ!」と笑ったりもするのですが(第二部)、ポルフィーリイ以外に「へへへ」笑いを多用しているのは、スヴィドリガイロフです。

 スヴィドリガイロフは作中でもっとも悪魔的な人物です。米川正夫によると彼は、「放蕩に身を持ち崩した貴族」で、「いかさま賭博師」で、「かつて十三歳の少女を姦して縊死に至らしめ」、「下男を自殺に駆り立て」、「恩人である妻のマルファを毒殺した」ことになってます。

 物語の終盤(第六部)になって、ラスコーリニコフは自身の精神的双生児ともいえるこのスヴィドリガイロフと対決します。ここでスヴィドリガイロフは「へ、へ、へ」を連発しながら自分の考えを披露します。

人間は自分のことは自分で考えるもので、誰よりも自分を欺き終せるものが、誰よりもよく愉快に暮して行くのです。ハ、ハ! それを何だってあなたは、むきになって、誰にでも善行一点張り突っかかってらっしゃるんです? どうかお手柔らかに願いますよ、先生、わたしは罪深い人間なんですからね。へ、へ、へ!(中村白葉訳)

 手塚版『罪と罰』では、ムッシュ・アンペアというキャラクターがスヴィドリガイロフを演じましたが、これは原作のキャラクターをかなり改変した人物でした。手塚版スヴィドリガイロフは、人民解放戦線の一員で金持ちは制裁してかまわないと考えています。そしてラストでは自分を英雄であると信じて革命に身を投じる。

 さすがに原作どおりのスヴィドリガイロフを深く描きこむことは、子どもマンガでは無理でした。手塚自身も「漫画化にさいしては、かなり子ども向けにアレンジして、筋をダイジェストしました。なかでも重要な主役の一人であるスビドリガイロフは、すっかり役柄を変えてしまいました」と書いています。

 じゃあ、本来のスヴィドリガイロフはどこへ行ったのか。

 手塚が『罪と罰』を描いた二年後、『鉄腕アトム 電光人間の巻』に登場したスカンク草井は「へ、へ、へ」という笑いかたを与えられていました。そして彼は悪の哲学者でもあり、悪の理屈を語るのです。

 手塚治虫の中で、「へ、へ、へ」は『罪と罰』と結びついていたはずです。となると、スカンクは、ドストエフスキー的世界の登場人物です。

 わたしはスカンクこそ、手塚が描き得なかったスヴィドリガイロフを、あらためてよみがえらせたキャラクターじゃないかと思っております。

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Comments

今回のエントリに触発されて、ロシア人はどんな笑い方をするのか調べてみましたら、こんなのが見つかりました。
・Wikipedia「蚤の歌 (ムソルグスキー)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%A4%E3%81%AE%E6%AD%8C_(%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)
歌詞大意では「ヘヘヘ」「ハハハ」が使い分けられています。
たぶん参考文献に挙げられている伊東一郎・一柳富美子編訳「ムーソルグスキイ歌曲歌詞対訳全集」がそのまま引用されているんだと思いますが。
で、原語の歌詞らしきものは下にあります。
http://files.school-collection.edu.ru/dlrstore/f705a8a4-bec1-0fc9-dd8f-aa5f2b407ae2/%CCsorgsky_Pesnja_o_bloche_Opisanie.htm
(字下げされた部分が歌詞だと思われます)
ここでは笑いはすべて"Ха-ха-ха"([Х]は喉の奥から出す「ハ」音。ためいきに近い発音)で、「ヘヘヘ」「ハハハ」の区別はありません。

日本のロシア文学研究者の間では"Ха-ха-ха"を笑いの強度に則して「ヘヘヘ」「ハハハ」と訳し分ける伝統があったのではないでしょうか。

ちなみに露和辞典を見ますと、口語ですが
хихикать[ヒーヒーカティ]くすくす笑う。忍び笑いする
という動詞がありました。
"хихи"の部分はおそらく実際の「ヒヒヒ」という笑い声から来ているのだと思われます。
ロシア語でも「ヒヒヒ」という表現があるのに『罪と罰』の訳が「ヘヘヘ」になっているということは、原著ではきっと"Ха-ха-ха"なのでしょうね。

以上、何の根拠もありませんが。
(学生ん時きちんと勉強してれば……)


蛇足ですが、岩波文庫版の訳者は江川卓(たく)です。

Posted by: かくた | May 21, 2009 03:37 AM

「Ха-ха-ха」ですかー。ロシア語はまったくだめなので、ありがとうございました。
>江川卓
失礼しました。修正しました。

Posted by: 漫棚通信 | May 21, 2009 09:16 AM

笑いをХа-ха-хаとしか表記しないわけではありません。「罪と罰」では、例えば以下のマルメラードフの台詞のようにХе-хе-хе(ヘヘヘ)と表記している箇所もあります。

- А сегодня у Сони был, на похмелье ходил просить! Хе-хе-хе!

こと「罪と罰」に限っては、原文通りにハハハとヘヘヘを訳し分けているかと思います。
以下リンクより全文の原文が読めますので、興味がおありなら文字列検索してみてください。

http://az.lib.ru/d/dostoewskij_f_m/text_0060.shtml


Posted by: rzeka | May 21, 2009 11:02 PM

ありがとうございます。
原文をあたりますと"Хе-хе-хе"の方が圧倒的に多いですね。
最初に原文を探すべきでした。

発音に則すと「ヒェヒェヒェ」くらいになりますか。
でも日本語でこれでは怪奇ものになってしまいますね(笑)。

しかし登場人物、よく笑うなあ。

Posted by: かくた | May 22, 2009 12:12 AM

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