「少年サンデー創刊物語」に疑問あり
2009年3月4日発売の「週刊少年サンデー」2009年14号(3月18日号)はおもしろい表紙で、創刊号表紙の長嶋が松坂大輔でリメイクされていたわけですが。
この号にはこういうマンガが掲載されてます。
●「週刊少年サンデー創刊物語 ~夢の始まり~」取材脚本・浜中明/漫画・山田一喜/取材協力・藤子不二雄A・豊田亀市
1958年3月17日、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が同時に創刊されたときの話は、講談社/マガジン側からはいろいろと証言があります。しかし小学館/サンデー側からのそれはほとんど存在しませんでした。
今回のマンガは小学館側から当時の状況を語ったもので、これは貴重。サンデーに掲載されたことを考えても小学館の公式見解と考えてもいいでしょう。
ところがちょっと疑問点もあるのですよ。
まず少年向け週刊誌を発行しようという企画は、サンデーの創刊編集長である豊田亀市が提案したことになってます。トップダウンではなかったと。このあたりは、当時の小学館の内部状況がわからないのでなんとも言えません。
大きな疑問は、サンデー創刊の理念が「マンガ」週刊誌であったという点。これは今回のマンガ内でくりかえし表明されています。
でもねー、対する講談社のマガジンは、創刊時にはあくまで「少年向け週刊誌」であって、「少年向けマンガ週刊誌」ではなかったのです。
これは復刻されたマガジン創刊号を見ればわかることです。創刊時のマガジンは、マンガや小説、スポーツ記事、グラビア、科学記事などを集めた総合週刊誌でした。マンガ部分は総ページの半分もありません。
しかし今回のマンガによりますと、サンデーのほうは「マンガ週刊誌」をめざしていたと。
比較してみますと、マガジンのマンガは、高野よしてる、忍一兵(うしおそうじの変名)【追記:これはマチガイだそうです。コメント欄をご覧ください】、山田えいじ、遠藤政治、伊藤章夫。さらに別冊付録に矢野ひろし、水島順。
対するサンデーの作家が手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄、益子かつみ、横山隆一、山田常夫。たしかに後年に名が残っているビッグネームはサンデーのほうが多い、のではありますが。
もし創刊編集長の豊田亀市のもくろみが「マンガ」週刊誌をめざしていたとしたら、これはすごく先進的なことですが、ホントにそうなのか。当時の出版状況やマンガの扱いを考えると、やはり疑問が残ります。
当時は「マンガ」ブームではなく、「週刊誌」ブームだったはずです。各社とも週刊誌を創刊しようといろいろと画策していました。そこにマンガがとりこまれることがあっても、「マンガ中心」という企画がありえたのかどうか。これはあやしい。
あと気になったのが「やっぱり手塚先生は漫画の神様だ…」というセリフ。1958年の手塚治虫は、まだ神格化されてなかったと思いますよ。
いっぽう信じてもいいかなと思われる裏話もいろいろと描かれてます。
●少年向け週刊誌の企画は、マガジンよりサンデーのほうが早かった。
他の文献でも言われていたことですが、サンデー側もこういう認識であることがわかりました。
●サンデーが週刊誌に手塚治虫を確保するため、月刊誌連載を中止する見返りに巨額の原稿料を用意した。
これは手塚が断って実現しませんでしたが、以前よりウワサされていた話であります。
●連載マンガの穴が開いたときの代用原稿として、石森章太郎や赤塚不二夫の作品が用意されていた。
これははじめて聞きました。ホントかどうかは不明です。
●創刊競争の結果、同日発売となった。
発売日については両社トップによる調節があったかもしれないのですが、今回のマンガでは触れられてません。
●マガジンとサンデー、価格競争のため雑誌表紙の価格の部分を空白にしたまま、お互い印刷所で相手の雑誌が印刷されるのを待っていた。
これも初耳。本作のクライマックスとなってるエピソードですから、おそらくホントなのでしょう。
というわけで、いろいろと隔靴掻痒の企画マンガでありました。さらに小学館側の証言が出てきてほしいものです。
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Comments
>岡田様。
放送業界のことについては
ほとんど知らないぼくです。
びっくり!といのがまさに当ります。
まあ、子会社というか、ワキの小会社なんで
スケールが大きくなりすぎて<本体>の上の
判断を仰ぐ~みたいなことを経ないかぎり
実現はしませんね。
丸山昭さんからは、
いずれ、まだ公開していない
<取材済み資料>もあるので
まとめてから、発表します~
という連絡的コメントが
(小生の「はてなダイアリー」に)
ありました。
しかし「真実は闇の中」だとも!
Posted by: 長谷邦夫 | March 12, 2009 11:15 PM
>長谷先生
そういったご事情がおありだったのですが。
漫棚さんのコメント欄をお借りして恐縮ですが・・。ご教授ありがとうございました。
Posted by: 岡田K一 | March 12, 2009 02:42 PM
>山登さん企画。
昨年、赤塚氏逝去の直後、名古屋のホテルへ
彼から電話があり、是非やってもらいたい
仕事がある~ということで、宇都宮でお会い
しました。
彼は、この時期のマンガの歴史を追った番組を企画
したいということでした。
ただ、この<創刊争い>の真実などが<不明>なので
ある程度の「フィクションが必要」と考えて、
「長谷さんに、ノンフィクション・ドラマ風なものを
交えたドキュメント」を構成して欲しいということ
でした。
一旦はお断わりしたんです。
何しろ、特番のそういったシナリオなんかは書いた
経験がありませんからネ。
しかし、彼はどうしても!ということでした。
で、プロローグ的な見本のシナリオを少し書いたんです。
(豊田さんが社長に迫るぼくのフィクションドラマも!)
ところが、ところが~です。
NHK組織では「ドラマ」部門と「ドキュメント」部門を
<融合した番組>は、前例が無くムリ!
と、言ってきて、急遽執筆を中断させられた!!んですよ。
どうも山登氏は、部長に起こられた感じですた。
「長谷さんには、執筆依頼した覚えはありません。
参考までに言っただけです」って言われてビックリ!!
では何で、ぼくがそうした経験が無いと言って
お断わりした後も、数回連絡を遣し、しまいには
日曜日「いま、宇都宮駅に居ます!」と、
約束も無い日に突然電話してきたのか??
ぼくは、それで、仕方なく書くことにしたんでた。
現在、似たような企画が進んでいるとか。
まあ、これはいままでのNHKドキュメントの
繰り返しでしょうね。
(依頼されたとき、5月にやりたいとおっしゃって
いましたから)
★ポシャって良かった。
新事実を確認出来ず<ミニドラマ>挿入で
制作していたら……冷汗ですね。
★★でも、ミニドラマを各所に挿入しつつ
少年週刊誌が、ジャンプの巨大部数まで
発展!!っていう「物語」は、面白いはずですよ!
Posted by: 長谷邦夫 | March 10, 2009 05:24 PM
はじめまして。
NHKのディレクターの山登義明さん(先日『新しい文化「フィギュア」の出現』を作った方です)が、「少年マンガ誌創刊」をテーマにした特番を5/5に放送予定で。関係者に取材を重ねられているそうです。
http://mizumakura.exblog.jp/10812470/#
どこまで、本音が出るかわかりませんが。こちらの番組で、何か新発見が出るのではと、期待しています。
Posted by: 岡田K一 | March 09, 2009 03:10 PM
みなさま、コメントありがとうございます。
>マンチュウさま
忍一兵=うしおそうじ説は、鷺巣富雄「スペクトルマンvsライオン丸 うしおそうじとピープロの時代」(1999年太田出版)80ページを根拠に書きました。ただし忍一兵とうしおそうじの絵がずいぶんちがうので変だなあと思っていたのです。ありがとうございました。
>長谷先生
付録だけ別の印刷所に回して秘密厳守だったというのは驚きました。サンデー対マガジンの熾烈な争いは、のちの小西湧之助対内田勝の奇妙な友情というか連帯感の話もありますし、いろいろと興味がつきません。
Posted by: 漫棚通信 | March 08, 2009 08:33 PM
>言ってたこt
マチガイです。
言ってたこと~ですね。
ごめんなさい。
Posted by: 長谷邦夫 | March 08, 2009 06:23 PM
今朝、竹内オサム氏から「ビランジ」が到着しましたが、
ここに有名な編集さんの丸山昭さんの連載がありまして
彼の文責で、数人の編集者(すべて講談社)の発言が
収録されていました。
それによると~
山田風太郎さんが、当時さかんに編集者に
「子供週刊誌を出せだせ!」と言ってたこt!
小学館が企画しているらしい~という印刷所リークの
ニュースで、講談社もやろう!となった。
(新井善久氏談話)
などが語られています!
ぼくは、付録を付けた講談社の方が早い!説
でしたので、ちょっとビックリ!
はてなダイアリーの方にも書きました。
う~~ム。
W3事件についての、証言もありました。
Posted by: 長谷邦夫 | March 08, 2009 06:21 PM
こんにちは。昔の話だと喜んでしまうしんごです・
>これは復刻されたマガジン創刊号を見ればわかることです。創刊時のマガジンは、マンガや小説、スポーツ記事、グラビア、科学記事などを集めた総合週刊誌でした。マンガ部分は総ページの半分もありません。
そうですね。昔は親がガッチリ財布を握っていて、なかなか雑誌を買ってくれませんでしたからね。私は「よたろうくん」山根赤鬼作のセリフの活字が大きくなったとき、父が「だんだん幼稚になるね。」といったのを憶えています。
昭和31年か32年「複眼魔人」の男装の麗人がズボンを脱ぐシーンで手塚治虫はPTAにやっつけられました。神様扱いではないです。こどもにしてみれば、大した描写じゃなかったんですが。こどもはマンガに熱狂していましたが、親はこどもに立派な人間になってほしく、上品な教養を身につけてほしいと思っていたんでしょう。
戦後の子供雑誌の読み物で本当に売り物になったのは、江戸川乱歩だけでしょう。戦前の少年倶楽部には吉川英治、高垣眸、大仏次郎、佐藤紅緑、佐々木邦、南洋一郎、山中峯太郎、海野十三などそうそうたるメンバーが人気を誇っていたのとえらい違いです。(これらの大部分は、敗戦とともに自信喪失してしまいました。乱歩は荷風・潤一郎みたいに退嬰的だというんで戦時中ホサレタので、消耗しなかった。)戦前は小説家が人気の的でした。
だから戦後、昭和30年ころから、漫画こそが子供の人気の中心だということはわかっていた。子供はいちばんに漫画を読み、次に絵物語を読み、グラビアを見、スポーツ記事をよみ、小説を読み、読者のページを読み、すみからすみまで読んだ。それで漫画が色刷りページでした。しかし財布を握っている親を納得させないと売れないということではないでしょうか。
>たしかに後年に名が残っているビッグネームはサンデーのほうが多い、のではありますが。
手塚治虫VS高野よしてるですから、まったく勝負になりません。当時の感覚からしてもサンデーの布陣のほうが上です。もし1冊どっちかを買ってもらうんだったら、手塚の載っているサンデーを、・・・といったかどうかはわかりません。どっちでもいいよというような子供でした、私は。
マガジンの企画が先行した。あせった小学館は乾坤一滴の大作戦に出た。手塚治虫など人気漫画作家を糾合して本格的に週刊誌で勝負しょうというわけです。マガジンは、やはり月刊誌がメインで週刊誌はちょっとあたりをみてから、くらいに思っていたかもしれない。二番手が先行者以上に力をいれることだってよくあることではないですか。
手塚治虫は漫画家の中ではいちばんだということはわかっていた。しかし神様とまではいわなかった。神様となったのは、(1)国産テレビアニメの創始者となった。(2)団塊の世代が大学生になってもマンガを読んでいた(3)COMで作った大借金から立ち直った(4)大人のストーリーマンガで晩年に「アドルフに告ぐ」などの大作で成功した。「ブラックジャック」など子供マンガでもアイデアがつきなかった。白土三平の「カムイ伝」が終わってからも現役で、まったく衰えを見せなかった。・・・これらのできごとがあってからですよ。
手塚治虫が国民作家となったのは、テレビアニメ「鉄腕アトム」からだった。それまでまんがで映画になったのは「赤胴鈴之助」武内つなよし作だけだった。「赤胴・・」はラジオドラマになって人気がでた。そして時代劇のシステムがあったので映画になった。「鉄腕アトム」も「ぼくのそんごくう」も「ケン1探偵長」も「赤胴・・・」に負けず劣らず面白かったけれど、映画にするほどのキッチュさがなかったし、金がかかりすぎた。手塚はニコニコわらって見ていたけれど、何かは思うことがあったでしょう。手塚と映画の結びつきは東映がアニメ「西遊記」の作画監督(?)に手塚の力を借りたことではじまった。
月光仮面はテレビドラマと桑田次郎のマンガのタイアップで人気がでた。「まぼろし探偵」はテレビの実写ドラマになった。テレビは創成期で予算もすくなく、まともなメディアとおもわれていなかったので、ある程度個人が好きにやれたことがあったでしょう。東映「西遊記」の経験と当時のテレビの事情から国産テレビアニメ「鉄腕アトム」がはじまった。
手塚のえらいのはその道を自分で切り開いていったことです。ドイツの王様が音楽を愛したので、モーツアルトが生まれ、中国の王様が毎日ごちそうを食べたので中国料理がうまれた。アメリカ人が映画を愛したのでチャップリンがうまれた。日本人が映画を見たので黒澤明がうまれた。しかしストーリーマンガは大部分手塚がつくったのです。そしてストリーマンガの立派な仕事に共鳴するひとたちが国産アニメをつくった。
「少年サンデー物語」のマンガをかいたのは、おそらく若いひとで、その後の時代の感覚で書いているので、どうしてもへんになるのでしょう。
Posted by: しんご | March 08, 2009 12:57 PM
漫棚通信さんの少年サンデーがマンガ週刊誌を目指していたことに対する疑問にはまったく同感です。
当時の月刊少年雑誌が小説や子供向けの情報を掲載した総合雑誌であったものの週刊誌化を目指したものだと思います。
これは、少年サンデー創刊号の巻末の「創刊おめでとう」と題する文学博士波多野勤子の『みなさんたちのために、その旺盛な知識欲をみたし、いい話題を投げかける週刊誌があってもいいのではないでしょうか。そういった意味で、わたくしは、こんど小学館から出た「週刊少年サンデー」を大いに期待しております。』という文章からもわかります。また、少年マガジンは、マンガを別冊ふろくにつけているのに、少年サンデーは、記念ふろくとして「プロ野球オールスター集」をつけていて、月刊誌のように別冊マンガをふろくにつけていないことからも、こどもの知識欲や話題(創刊号の表紙にあるように「スポーツ」「マンガ」「科学」「テレビ」が4本柱でした)にこたえる週刊誌であったのだと思います。
なお、少年マガジン創刊号から連載された吉川英治原作のテレビ時代劇を漫画化した「左近右近」は、当初は、忍一兵の絵でしたが、すぐに波良章(はらしょう)に代わりました。この波良章こそがうしおそうじの変名です。
Posted by: マンチュウ | March 08, 2009 12:55 PM
『「奇」の発想』の内田氏の記述からも、
感じられることなんですね。
あと、もう一つ!
この方が決定的だと思うのです。
それはマガジンには<付録>が付いていたはず。
とすれば、この印刷って、本誌よりずっと早い
はずです。
原稿依頼にしても、当然ですよ。
月刊誌でも、色物同様に、別進行ですもの。
週刊ということになれば、追いかけられるので
1~2週前に進行し、本誌刷り上りに挟む
作業をしたはず。
サンデー豊田初代編集長のクレジットが
マンガには見られますが~~
その取材コメントはどうであったのか?
実にアヤシイ~マンガになっていますね。
いくら<自社>のお話しだから
他社のことは…っていう編集が、<子供だまし。>
いや、これは、成人し大人になった愛読者も
読むはずですよ。
彼らの中にも、そのズレを感じる方も多い
のではないでしょうか!
Posted by: 長谷邦夫 | March 07, 2009 10:32 PM
おっしゃる通りですよ!
マユツバです~と言いましても「証拠」は
無いのですが~、明らかに状況はマガジン
態勢を追いかけて、最後の最後は<頂上会談>??
かな?と。
(ぼくの、はてなダイアリーにも今書いたところです!)
大日本印刷の体勢の問題も隠れているような
気もします。
たしか、<発行日>だけがマガジンの日付が
数日早かったんですよね。
<発売は同時>でしょうが…。
どうも、証言出来る方が、現場に居られない時代…。
やはり宮原照夫氏の証言の方に分がありそうです。
このへん、旧編集者の証言が欲しいですね。
なんか、小学館側だけに都合のいいことに
なってますよ。
ケチな小学館社長が、手塚氏の止める本数分の
稿料を全部出すってのもね…???
Posted by: 長谷邦夫 | March 07, 2009 05:36 PM