文学をめざしたマンガ『ビッグコミック創刊物語』
滝田誠一郎『ビッグコミック創刊物語 ナマズの意地』(2008年プレジテント社、1524円+税、amazon、bk1)読みました。
これまでマンガとあまり接点のなかった出版社と著者なので、ちょっと心配しながら読んだのですが、これがよくできたいい本でした。
主人公は小学館の編集者・小西湧之助。学習誌に配属されたのち1963年に「ボーイズライフ」を創刊。その後「少年サンデー」編集長を経て1968年「ビッグコミック」の創刊編集長。以後小学館は「ビッグコミックオリジナル」「ビッグコミックスピリッツ」「ビッグコミックスペリオール」「ビッグコミックフォアレディ」などからなるビッグコミック・ファミリーを形成。小西はさらに「FMレコパル」「サウンドレコパル」「ビーパル」「テレパル」「ダイム」「サライ」などの創刊を指導した……という小学館のスター編集者です。
本書は小西湧之助の仕事、とくに「ビッグコミック」が創刊されたころを中心にレポートしたもの。
小学館「ビッグコミック」は1968年創刊。創刊時に、手塚治虫、白土三平、さいとう・たかを、石森章太郎、水木しげるという「ビッグ」な五人をそろえた雑誌でした。他誌と比べても巨艦大砲主義はあきらかですが、これが老舗の小学館、そして小西湧之助の手法でした。
わたしも70年代のほぼ10年間、「ビッグコミック」の購読を続けていましたのでずいぶん懐かしく読みました。ビッグは70年代、すでにマンネリ雑誌になってましたが、でもやっぱり青年誌の中心にあったよなあ。
小学館というのは講談社に比べて回顧とかあまりしません。たとえば現在、マガジンとサンデーが協力して創刊五十周年記念事業をしてますが、講談社がマガジンの回顧本を複数出版してるのに対して、小学館はひっそりとおとなしい。また「少年マガジン」の書誌データはこれまでいろいろ出版されて充実してるのに、「少年サンデー」のそれは公式なものがほとんどありません。マンガ編集者の回顧録も小学館はあまりないんだよなあ。これって小学館の社風?
というわけで小学館関係のマンガ資料は少なくて、本書でも小学館側の参考文献として挙げられてるのは「小学館八十年史」くらいしかありません。
だもんで、本書のもととなってるのは、編集者やマンガ家に対するインタビューです。これがじつに多くのひとに取材されていて、本書の中では小学館だけじゃなくて他社の編集者もいっぱい発言してます。多数の視点から当時のマンガ状況が再現されていて、小学館と「ビッグコミック」の物語になってるだけじゃなく、当時勃興しつつあった青年マンガ全体を俯瞰する記述。マンガ史に対する視点も的確です。
「ビッグコミック」以外にも「週刊漫画アクション」「ヤングコミック」「カラーコミックス」「プレイコミック」などの創刊号目次を掲載してくれてて、これだけでも資料性高し。
各社がつぎつぎと青年マンガ誌を創刊していたのに、講談社だけが青年誌を出していませんでした。遅れて出した1973年「劇画ゲンダイ」がすぐ失敗。その後「ヤングマガジン」が1980年、「コミックモーニング」が1982年に創刊され、やっと講談社の青年マンガ態勢が整うのですが、なぜこんなことになったのかも本書に書かれています。
おもしろいのは、小西湧之助が「ビッグコミック」を創刊したとき、マンガ誌でありながら「中間小説雑誌を目指」していたという話。
小西によると、「オレは一度も漫画家のことを漫画家といったことがない。作家と呼んだ」 彼は直木賞の社内推薦に、複数回、楳図かずおの短編マンガを推薦したとのことです。
当時のインテリであるマンガ編集者の多くは、マンガに対して愛情とコンプレックスがないまぜになった複雑な感情を持っていました。「少年マガジン」の宮原照夫も「漫画の文学化」をめざして、『巨人の星』や『あしたのジョー』を送り出したといいますし、「週刊漫画アクション」創刊編集長の清水文人も「漫画で文学をやる」と考えていたそうです。
マンガの読者年齢が上昇していく過程で、編集者たちがマンガを文学化しようと主導し、マンガ家がそれに答えてさらにマンガ表現が進歩していった、という図式です。
ただしその後、70年代後半から80年代にかけて、マンガはマンガとして成熟していくことになりますが、それはまた別の話。
さて、サブタイトルの「ナマズの意地」ですが、
『ビッグコミック』を創刊した小学館の第二編集部は、かつては行き場のない編集者が集まる“吹き溜まり”と社内で揶揄されていた。小西湧之助は吹き溜まりを水の澱んだ沼になぞらえ、自分たちを泥底に棲む夜行性の小ナマズにたとえ、“でも、いつか世の中を揺り動かす大ナマズになってやる”と誓った。
これが今も続く「ビッグコミック」のナマズのマークの由来だそうです。そうかアレはそういう意味があったのか。
基本的に「ビッグコミック」をヨイショする本で、最近のマンガ産業の問題点とか「ヤングサンデー」(これも以前の名称は「少年ビッグコミック」)の休刊の話とかは出てきませんが、貴重な証言と裏話満載。たいへんおもしろく読みました。
Comments
FMレコパルにナマズマーク!
中坊時代が脳裏に浮かんじゃいます。
いやあ、お○ん○んだけ、あの頃に戻りたい。
Posted by: トロ~ロ | January 27, 2009 04:08 AM
みなさま、コメントありがとうございます。
>滝田さま
いい本なのに、出版されたことがもひとつ知られてないみたいなのが残念です(夏目先生も知らなかったみたいですし)。プレジデント社はもっと宣伝してほしい。
Posted by: 漫棚通信 | January 24, 2009 08:35 PM
レコパルの成功は、もとサンデーに居て活躍した
五十嵐さんを据えたことにあります。
彼は、早稲田時代「競技ダンス」をやっていて
音楽に深い知識があったんですね。
小学館には無いタイプのユニークさが
あった方です。
マンガもそういえば、ジャズメンの伝記的な
マンガを石ノ森らに描かせていました。
Posted by: 長谷邦夫 | January 24, 2009 06:38 PM
小学館のナマズマークの露出はFMレコパルというFM雑誌からのような気がします。
注目番組にナマズマーク、付録のカセットレーベルの頭にナマズとナマズマークが大活躍でした。
なるほど音楽雑誌だから音符からナマズかと思った覚えがあります。
それから少年サンデーやマンガくん、ビックコミック各誌に拡がったのを見て、音楽に関係ないのになぜと意外に思いましたね。
なるほど以前からの古いキャラクターだったわけですね。
Posted by: たま | January 24, 2009 03:29 PM
こちらも楽しみながら読みました。小西さんについては、石ノ森章太郎先生宅の新年会やパーティーで遠くから拝見する程度でした(年代的にも)。割烹前掛け姿で、お掃除オバサンの歌を歌い踊る姿が記憶に残っています。
直接、目をかけていただいたのは田中さんの方ですね。小学館漫画賞をいただいたとき、担当部門は違っていたんですが、わざわざ連絡役を買って出てくださいました。その直前、麻雀大会で一緒に決勝まで勝ち残って勝負していたばかりだったこともあったのかもしれません。「ビッグコミック」の増刊号や「ビッグゴールド」に起用していただいたんですが、力及ばずで、それ以上つづきませんでした。
中間小説的なマンガの作り……という意味では、やはり「小説現代」などを持っていた講談社の方が、マンガも小説的な作り方をしていましたね。「少年マガジン」の編集者からも、よく「人間を描く」という言葉を聞いたものです。小学館の編集者の方がシティ派やサブカル派が多く、それが雑誌のカラーにもなっていたように思います。
Posted by: すがやみつる | January 24, 2009 11:47 AM
よ~く、お付き合いすれば面白い方なんでしょうね。
でも、「ギャグ」「ユーモア」は、ほとんどダメ。
ビッグでは赤塚などは、全く評価ナシでした。
ほかのギャグ系についてもですが。
でも「ボーイズ」には、パロディページを
もっとも早く取り入れて「MAD」的な
ページで、赤塚にも描かせていました。
これを推進していたのが田中さんですね。
Posted by: 長谷邦夫 | January 24, 2009 09:19 AM
著者です。
「よくできたいい本でした」とお褒めいただき、ありがとうございます。
ご指摘の通り、これまで漫画界のことを取材したことがなく、それゆえ戸惑うことも多々ありましたが、元々が「漫画少年」でしたので取材はミーハー気分でとても楽しく、取材と称してもっと多くの方々にお会いしたかったくらいでした。
原稿を書きはじめた頃は、小西さんの心情、言動に馴染めず、思うように筆が進まなかったのですが、しだいに小西さんのことを前向きに理解できるようになり、それからは原稿もスムーズに書き進めることができ、自分なりに納得できる本を書き上げることができました。
このブログで取り上げられたのを機に、少しでも多くの人に読んでもらえればと願うばかりです。
Posted by: 滝田誠一郎 | January 23, 2009 10:40 PM
小西さん、やっとその業績が明らかに
されつつありますね。
ぼくの『マンガ編集者狂笑録』(水声社)でも
主人公で書いてみたかった人物でした。
しかし、意外にデータが不足で、あきらめました。
個人的に酒場でご一緒したのは
たった一回ですし、ぼくは
むしろ部下だった「田中一喜」さんの
才能を(とくに、ユーモア編集に)買って
いました。
小西さんは、お金持ちのボンで
いい意味でも、悪い意味でも
「わがまま」な人物でしたね。
ただ「時代」に恵まれ
部下も優秀でしたので
大出世!しました。
一時期は「社長」の声さえ聞えてきました。
ただ、創業家が株をほとんんど所有していましたし
実現は「夢」に近い~ということでしょうか。
まあ、続っぽい比喩で、シンプルに言ってしまうと
「日本車より外車が大好き!」人間。
事実、運転免許は、8種類くらい持ってる!と
自慢を聞かされました。
超大型トラックの免許~必要ないのに持ってるんです。
そういう「子供っぽさ」も、
編集者としては、いい面と悪い面があった。
苦労人の内田勝氏とは、正反対の人物ってことですかね。
Posted by: 長谷邦夫 | January 23, 2009 06:45 PM