先生、落ち着いて
二階堂黎人『僕らが愛した手塚治虫2』(2008年小学館、2200円+税、amazon、
bk1)読みました。
2006年に出版されたものの続編。著者は現役ミステリ作家にして元・手塚治虫ファンクラブ会長という経歴ですから、本書は評論じゃなくてファンブック兼研究書、という感じかな。
この「2」でも、レア本の書影とか雑誌連載時の原稿とかの図版が多く掲載されてて、楽しい本になってます。
ただし二階堂先生、今回は(今回も、かな)ずいぶんトバしてる部分がありまして。
虫プロ「COM」に掲載された手塚治虫と石子順造の誌上論争に触れてる部分。石子順造を「姑息な意図」「下劣な評論家」「程度の低い評論家」「未熟な評論家のこうした醜態」と切って捨ててます。
まあ、このあたりは手塚ファンならしょうがないかな、とも思うのですが、返す刀で評論家批判が一般論としてえんえんと書かれてるのですね。
マンガ界に限らないが、評論家の中には、独善的で、流行迎合傾向が強く、いたずらに作品や作家をこき下ろすことを好む者がいる。(略)
それに、評論家の中には、作家が評論家の評価を得たいために作品を創作していると勘違いしている者がいる。(略)評論家が何故、そんな妄想に陥るかと言えば、自分の評論が作家や読者から評価されないことに対するコンプレックスのせいだ。それの裏返しが、ああした言動になる。(略)
えー、「ああした言動」の部分が意味不明でして、この文章の前を読んでみても、「ああした」とは具体的に「誰が」「どうした」ものかがわからない。もしかして石子順造による手塚批判のことじゃなくて、「容疑者X」騒動のもろもろのことでしょうか(といってもミステリ・ファン以外には意味不明でしょうが、かつて「容疑者Xの献身」をめぐって二階堂先生とミステリ評論家の間にいろいろあったらしい)。
呆れることに、評論家の中には、自分の書いたものについて批評されると、「言論弾圧だ」とか「じゃあ、お前が評論を書いてみろ」などと騒ぎだす者がいる。これなどは、明らかに、自分の評論が創作物であることに無自覚な例だ。それが正当化されるならば、評論家に論評されたすべての作家は、「じゃあ、お前が小説を書いて(マンガを描いて)みろ」と、評論家に言い返さねばならなくなる。しかも、評論自体が作家の著作物に対する「言論弾圧」ということになってしまう。
うーん、「それが正当化されるならば」以降の部分が、レトリックとしてはもひとつという気が。
さらに評論家批判は続き、手塚/石子論争について書かれた部分の、なんと量的に半分以上がこの調子。マンガについての本と思ってた読者、置いてけぼりですから。先生、落ち着いて。
いや、全体としてはいい本なんですけどね。
Comments
漫画評論・批評における「思想の科学」グループの役割は、重要なものだったと思いますが、鶴見俊輔や佐藤忠男に関する記述があっさりしすぎています。まあ、手塚治虫は、あまり対象にされませんでしたからね。
Posted by: misao | January 06, 2009 11:46 AM