野口英世と医術開業試験
いやマンガとはまったく関係ない話ですので、おもしろくないと思いますが。
手塚治虫『陽だまりの樹』と、村上もとか『JIN -仁-』を読み直しておりましたところ、これは江戸時代の医療状況をベンキョせないかんなあと思いまして。同じ幕府直轄の施設とはいえ、医学館と医学所の違いぐらいは知っておかないと、読んでてもよくわかんないですし。
そこでその周辺の本を読んでましたら、自然と明治時代から戦後すぐまでの医療制度の変遷についても調べてしまうことになりました。
明治時代の医学者のビッグネームと言えば、なんつっても、お札にまでなった野口英世であります。
野口英世は貧しい生家、そして手のやけどというハンディをのりこえて世界的な医学者になったことで有名。あなたもわたしも知っている、日本でもっとも多くの伝記が書かれたひとだそうです。
Wikipedia より。
・明治26年(1893年)、猪苗代高等小学校卒業後、上京。歯科医であり高山歯科医学院(現東京歯科大学)創立者の一人血脇守之助による月額15円の援助を受け、東京の芝伊皿子坂上の同学院で雑用をしながら済生学舎(日本医科大学)で医学を学ぶ。
・明治29年(1896年)、医学前期試験(筆記試験)に19歳で合格。同年の後期試験(臨床試験)で病名を言い当て、20歳で医師免許を取得(当時は“前期3年・後期7年”と言われた)。
Wikipedia の記述はマチガイが多いとよく言われてますが、ここまではっきりまちがってるのもどうか。
野口英世が尋常小学校六年、高等小学校四年を終了後、医師をめざして会津若松の会陽医院に書生として住み込んだのが1893年(明治26年)の5月。三年後の1896年(明治29年)9月に上京して、医師試験に臨みます。このあたりですでにWikipedia はまちがってます。
現代では、大学医学部や医大を卒業、かつ医師国家試験に合格して医師になるわけですが、これは第二次大戦後できたシステム。戦前は医学校を卒業しさえすれば国家試験なしに医師になることができました。
しかしさらにもっと昔、江戸時代には、わしゃ医者でござる、と宣言しさえすれば医療行為ができたわけです。じゃ明治時代はどうだったかといいますと、これがなかなか複雑で。
明治政府は、すでに明治元年の太政官布告で、西洋医学を採用することを決定していました。しかしその時点で、日本のほとんどの医師は漢方医なわけです。しかも日本の医師数は絶対的に不足していましたし、医師教育機関も不足。
西洋医は増やしたい。でも医学校は足りない。
明治時代には医術開業試験というものがあって、これは1876年(明治9年)に始まり1916年(大正5年)まで施行されました。これは上記のジレンマのもと、妥協を重ねて運営されていました。
1883年(明治16年)の医術開業試験規則の制定後は、試験問題は内務卿から派遣された主事者が地方の試験委員と協議して選定され、全国九か所で試験が開催される準国家試験となります。
ただし官立医学校や外国大学医学部の卒業者は無試験。これはのちに府県立医学校、文部大臣の指定した私立専門医学校の卒業者まで、無試験の範囲が広がります。
そのいっぽうで、従来からの開業医も無試験。維新以来公立病院に勤務する者も無試験。開業医の子弟で家名相続する者も無試験。僻地で開業する者も無試験。などなど漢方医のためのいろんな救済措置がありました。
じゃ、だれがこの医術開業試験を受けたのかといいますと、金銭的、能力的問題で官立医学校に入学することができなかったひとびと。私立の医学校卒業生や、病院の書生などをしながら医師をめざす者がこの試験を受けました。
野口英世もそのひとりでした。
医師開業試験の受験資格は一応、前期試験は一年半以上修学、後期試験はさらに一年半以上修学した者、とされていましたが、これは野口のように開業医の書生であってもオッケーで、あってなきがごとしのものだったようです。
野口英世は上京直後の明治29年10月、医術開業試験の前期試験(基礎科目筆記試験)に合格。後期試験のために済生学舎に通学を始めます。
日本医大および東京医大の祖である済生学舎は、医学校というより医術開業試験のための予備校と言うべき存在でした。一応修業は三年と定められていましたが授業は体系的なものではなく、入学時期も不定、医術開業試験に合格すれば、即卒業。
こういうコースをたどった医師はきわめて多く、済生学舎は、1876年(明治9年)の開校以来1903年(明治36年)に廃校になるまでに、1万5000人以上の卒業生(この学校では卒業生=開業試験合格)を送り出しました(済生学舎への総入学生が2万1400人ですから、医師になった率70%。これはけっこうなものですよ)。
27年間で15000人ですから、平均すると年間500人超がこの済生学舎から医師になっていた計算になります。明治36年ごろの正規医学校卒業生は全国で年間700人から1000人ですから、じゅうぶんそれに対抗する勢力になってます。実際、1906年(明治39年)に医師法成立後、各地に結成された医師会の幹部のほとんどは、済生学舎の出身者だったそうです。
当時の済生学舎や医学書生の雰囲気はどんなものだったか。斎藤茂吉のエッセイがあります。「三筋町界隈」というタイトルで1937年(昭和12年)に書かれたもの。ちょうど野口英世と同時期の明治29年ごろを回想しています。青空文庫でも読めます。
・当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。
・そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。
・当時の医学書生は、服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑(けいべつ)の眼を以(もっ)て見られた向もあったとおもうが、済生学舎の長谷川泰翁の人格がいつ知らず書生にも薫染していたものと見え、ここの書生からおもしろい人物が時々出た。
・ある時、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文(げきぶん)のようなものが廻(まわ)って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒(こんぼう)か何かを持って集まって行った。
・医学の書生の中にも毫(すこし)も医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六(なみろく)もの、涙香(るいこう)もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。私が少年にして露伴翁の「靄護精舎(あいごしょうじゃ)雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変り種の感化であった。
・開業試験が近くなると、父は気を利(き)かして代診や書生に業を休ませ勉強の時間を与える。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集って喧囂(けんごう)を極めている。中途からの話で前半がよく分からぬけれども何か吉原を材料にして話をしている。遊女から振られた腹癒(はらい)せに箪笥(たんす)の中に糞(くそ)を入れて来たことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいても毫(すこし)も邪魔にはならぬらしい。その夜(よ)更(ふ)けわたったころ書生の二、三は戸を開(あ)けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目に見ていた。
とまあ、けっこう当時の風潮どおり、バンカラ学生も多かったようです。
野口英世は前期試験の一年後、1897年(明治30年)秋の後期試験(これもWikipedia まちがってます)に合格し、医師となります。
さて、このときの合格者、多くの伝記では80人受験して4人合格、と記されています。有名な渡辺淳一『遠き落日』(1979年集英社)でもそうですし、子ども向けの伝記などもほとんどこの記述。
4人/80人で合格率5%。野口、スゴイ、と誉めてるわけですね。
でもねー、済生学舎だけでも年間500人の医師を輩出してたわけです。この時期、試験は年二回ですが、合格率4人/80人てのはいくらなんでもおかしくないかい。さらに言うなら、「前期三年・後期七年」というのはホントか?
たとえば、東京女子医大を創立した吉岡弥生も、1889年(明治22年)に上京し済生学舎に通い、一年後に前期試験に合格、その一年半後に後期試験に合格してます。上京してから二年半で医師になってるのですね。
いや野口も吉岡もとてつもなく秀才だったのはマチガイないのでしょうが、国家の方針として、試験をそんなに難しくしてしまうと、医者になれるやつはいなくなっちゃうし。
野口英世の時の後期試験、ホントの合格率は、出願者総数1219名、欠席者等をのぞき受験者1084名、合格者224名、だそうです(合格率21%、これぐらいなら納得できます)。
実はこの4人/80人という記述は、最初に野口英世の伝記を書いた奥村鶴吉『野口英世』(1933年岩波書店)のマチガイを、のちの伝記が踏襲してしまったことが指摘されてます(唐沢信安『済生学舎と長谷川泰 野口英世や吉岡弥生の学んだ私立医学校』1996年医事新報社)。
しかし21世紀になって刊行された本でも、4人/80人説が記載されていたりして、伝説というのはいつまでたっても残っちゃうものですね。
1906年(明治39年)医師法が制定され、医術開業試験は1916年(大正5年)を最後に廃止されます。これで日本には医師の国家試験というのがなくなり、大学や医学専門学校の卒業試験がそのかわりになりました。
その後、日本は戦時体制に移行していくのですが、戦争中に日本の医学レベルはずいぶん低下したと言われています。戦争で軍医がどんどん足らなくなり、軍の要請で1939年(昭和14年)に設立されたのが、七つの帝国大学と六つの官立医大の「臨時附属医学専門部」。手塚治虫が入学したのがこれです。
さらに1943年(昭和18年)以降は、各地に公立の医学専門学校もつぎつぎに設立されました(卒業生が出る前に戦争終わっちゃいましたが)。
戦後、アメリカの指導で早くも1946年(昭和21年)に、インターン制度(卒業後一年間の無給研修)と医師国家試験が義務づけられ、手塚治虫もこれを経て医師になっています。
ちなみに1947年(昭和22年)5月の医師国家試験の受験者数は1646名、合格者1364名で、合格率83%でした。
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