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May 31, 2008

永島慎二巡礼の旅

 永島慎二が梶原一騎の原作で『柔道一直線』を描いていたとき、「連載途中にバックレてアメリカに旅だった」という豪快な伝説があります。

 斎藤貴男『梶原一騎伝』(わたしの持ってるのは新潮文庫版、今は文春文庫)にもそう書かれてましたし、似たようなことはWikipedia にも書いてある。わたしもその線で信じてました。

 ところがこれがマチガイであると指摘してくださったのが、豆本出版「パロマ舎」を主宰されている、のまとし氏。かつて永島慎二の内弟子をされていたかたです。

 指摘されてから調べ直してみますと、永島慎二がアメリカ旅行をしたのは『柔道一直線』連載途中の1968年。このとき『柔道一直線』は五か月間休載され、永島が帰国した後さらに一年半連載が続いています。永島慎二が『柔道一直線』から離れるのは1970年になってから。

 というわけで、冒頭のアレはデマですので、みなさん、信用しないように。これについてわたしがかつて書いた記事はコチラ

 で、そのパロマ舎ののま氏が「巡礼・永島慎二先生を訪ねて」というリーフレットを制作されています。一冊八ページの小冊子で、現在第3号まで発行。

 第1号は、「萬雅堂」こと樋口雅一氏へのインタビュー。樋口氏は虫プロ時代の永島慎二を語ってます。

 2号と3号は、安松健夫(原征太郎)氏。「むさしの漫画ぷろだくしょん」時代の話です。このグループは、永島慎二、石川球太、中城健、杉村篤(コン・太郎、のちにイラストレーターとして活躍、かつて角川文庫の筒井康隆は全部このひと)、ほうさやま尚武(峰たろう)、安松健夫氏らがメンバー。

 永島慎二のイメージといいますと、わたしなぞはまず、苦悩するマンガ家。ここまでマンガに悩み、またそれをマンガ内で表明してきたひとはそうはいません。何度もおこなった連載中断も、その「表現」であると受けとめることも可能かも。

 ただ各氏の思い出を読みますと、永島先生、若いころはずいぶんとぶいぶい言わしてたようです。なんつっても「真っ赤なパブリカのコンバーチブル」を乗り回してかっこよく登場したりしてます。貸本中心に描いてた時代にオープンカーですよ。つくづく貸本マンガ界のスターだったんですねえ。

 あと若き日の永島慎二が、鈴木光明のところに殴り込みに行ったとか、仲間をぽかぽか殴ってたとか、すごく負けず嫌いだったとか。この三冊だけでも裏話がいっぱいで、永島慎二の意外な一面を見ることができます。 

 のま氏によると88人にインタビューするのが目標といいますから、これは壮大なプロジェクトです。

 このリーフレット、切手200円分で頒布されてるそうなので、興味のあるかたはどうぞ。パロマ舎の住所はこちらのページの下の方にあります。

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May 28, 2008

マンガは伝統芸能化するのか

 「月刊IKKI 」2008年7月号の、相原コージ/竹熊健太郎『サルまん2.0 』最終回読みました。これに関する「たけくまメモ」の記事はこちら

 作者ふたりが失敗と認め、中断のかたちで終了したにもかかわらず、それなりにおもしろい最終回マンガになっているのがなかなかでした。

 竹熊健太郎は、マンガの未来はメディアミックスにあり、そこにおもしろさを見いだして遊ぶ余地が残されていると考えています。いっぽうで、マンガはマンガで完結すべきという考え方もやっぱりあります。今にいたっても、原作つきマンガ、映画や小説のマンガ化を忌避するひとはいます。

 その意味では、『サルまん2.0 』は遅すぎたというより、早すぎたのかもしれません。

 さて「IKKI 」7月号で興味を引いたのが、編集長・江上英樹の巻末詞です。竹熊健太郎が京都精華大学特任教授に就任することを受けての文章。

大学・専門学校に於ける“学問としての”漫画の興隆。これは漫画の伝統芸能化なのでしょうか?

 おっと、みんなきっと腹の底では思ってる、大学でマンガぁ? というアレです。

 研究され、鑑賞されるようじゃダメ。ま、たしかに街頭紙芝居が研究されるようになったのは、それが消滅してからではあります。1997年に刊行された「コミック学のみかた。」(朝日新聞社アエラムック)でいしかわじゅんが言ったように、マンガとプロレスは差別される娯楽として似た歴史を持っていますが、「プロレス学」なんてものは存在しないわけですし。

 さらにサブカルチャーを研究する、というところまではオッケーでも、マンガ「学」とか、「大学で」となると違和感や抵抗感が出てきます。今でも日本ではマンガ「学」は受け入れられてはいないようですね。

 ただこれにはふたつの立場があって、ひとつは、マンガなんぞが学問なんて、という昔ながらの考え。もうひとつは、マンガを卑小なものとして考えない、別の立場からのもの。

 マンガは「学」になったとき、学者のたんなる研究対象に成り下がってしまうのではないか。いつまでも巨大で雲をつかむように理解できない何かであってほしいという願望。

 大学でマンガぁ? という発言にはこのふたつが混じっているようです。同一人の内部にもふたつの考えが同時に混在しているのかも。

 たしかに紙とインクとペン、というきわめてアナログな手法で描けてしまうマンガは、伝統芸能化する可能性があります。でもどうだろう、最近わたしは、ヘタであってこそマンガ、という考えかたになりつつありまして、絵がすごくヘタでも、参入できるしヒットもする、という日本マンガの特徴があれば、伝統芸能にはならないのじゃないかしら。

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May 26, 2008

マンガ雑誌の発行サイクル

 今はなき講談社の「少女フレンド」が週刊から月二回刊になったのが1974年。小学館の「少女コミック」が週刊から月二回刊になったのが1978年。

 そして集英社の「マーガレット」が週刊から月二回刊になったのが1988年。この年には「セブンティーン」も週刊から隔週刊になってます。

 マンガの中でも、少女マンガ系は早々に週刊サイクルから撤退してしまいました。理由の第一は雑誌売り上げの問題なのでしょうが、制作側にも「少女マンガ」の量産はきびしい、という理由があったのかどうか。いずれにしても、再度少女マンガ週刊誌が登場することは、ないと思います。

 この四月から五月にかけて、ひさしぶりにマガジンとサンデー二誌を毎週買い続けてたのですが、読者としてもわたしのような年寄りになりますと、週刊サイクルはきつかった。読み終わる前に次の号が発売されちゃいますからね。どんどんたまって書庫のスペースを占めること。

 ほぼ同時に、これもひっさしぶりに月二回刊であるところのビッグコミックを買い続けてたのですが(『中春こまわり君』を読むため)、習慣的に買うのなら、これくらいがちょうどいいんじゃないかと感じてしまいました。

 「週刊ヤングサンデー」が休刊かも、というニュースもありますが、日本では、若年読者はマンガ離れ、高年齢読者は週刊サイクルについてゆけず。すでに週刊マンガ誌は読み切れないほどの量を、読者に提供し続けているのかもしれません。

 アメリカじゃ「Shonen Jump 」も「Shojo Beat 」も月刊誌ですね。いつか週刊誌化される可能性は、限りなくゼロに近いでしょう。日本でもこれからすぐに週刊→月二回刊→月刊の流れが加速するのか、というとそうでもない感じ。

 『サルまん2.0 』が連載終了したそうで、残念なことです。ただし、かつて週刊の「ビッグコミックスピリッツ」に連載されイキオイで突っ走っていた作品が月刊誌に連載される、というのがわたしの最大の不安でもありました。やっぱ週刊誌と月刊誌はちがうものですし。

 読者の立場になると、今の時代、読切ならともかく月刊誌で連載作品を読むのはちょっときびしくて、わたしなどは、だったら単行本で読もうか、という気にもなってしまうのですね。

 あと月刊誌は、なぜか買いのがしちゃうんですよ。はっきり言いまして「月刊IKKI 」と「モーニング2」は、ともに大手出版社発行にもかかわらず、ウチの近所の書店では手にいれにくいったらありません。よほど少ない発行部数なのか?

 雑誌をマンガ単行本の供給元と考え、赤字でもかまわないと完全に割りきるようなビジネスモデルはまだ確立していないはずですから、これからも雑誌発行サイクルの試行錯誤は続くでしょう。

 ところがねー、自分で買わない雑誌=喫茶店とかラーメン屋に置いてある雑誌になりますと、これはもう週刊誌がタイヘンありがたい。読者は勝手ですな。「週刊漫画ゴラク」とかは、個人よりもそういった飲食店方面に売れてたりして。

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May 23, 2008

図書館利用法

 わが家は地元の県立図書館に比較的近いところにあります。歩いていくのも可能な距離。ですから図書館はよく利用するほうだと思います。

 最近調べものをしていて、読みたい資料があったので図書館でチェックしてみたけどこれがない。しようがないからいつものように、図書館どうしの貸出サービスを利用して県外から取り寄せるか、と考えておったのですが、ふと大学図書館ならどうかと思いつきました。地元の国立大学図書館の蔵書をチェックしてみると、これがヒット。あるじゃないですか。

 しかも学外の人間でも、閲覧だけじゃなくて館外への貸し出しが可能なようです(もちろん禁帯出の資料はダメ)。東大でも京大でも阪大でも、国立大学の図書館は学外の人間でも利用できるみたい。こういう方針になっているのか、知らなかったなあ。

 これが私立大学だとどうかというと、早稲田も慶応も、学外の人間は基本的にシャットアウト。ワタクシリツはきびしいねえ。

 今は多くの大学図書館が21時とか22時まで遅くまで開いてるんですねー。普通の公立図書館とは違います。かつて17時に閉まる大学図書館(ワタクシリツ)に対して、文句いっぱいたれてケンカしまくったのは、ウチの同居人です。

 でもねー、今もなーんか大学図書館って敷居高いですよねえ。でもそこに資料あるんだし、利用させてもらおうかどうしようか。

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May 21, 2008

だらだらと

●渡辺ペコ『ラウンダバウト』2巻(2008年集英社、552円+税、amazonbk1)は、ほのぼの楽しいなあ。でも登場人物を覚えてないので1巻読み直してたら、中学生男子が、プロテインまずいっ、とか叫んでるコマがありました。何言ってんだろうねえ、20年以上前からプロテインサプリメントてのはありましたが、あなたこれがダマばかりで溶けないわ粉くさくてまずいわ、とても飲めるもんじゃありませんでしたよ。今のプロテインはちゃんと溶けるしそれなりに飲める味に進歩してるし、これで文句言っちゃいけません。あ、渡辺ペコの前作『変身ものがたり』(2008年秋田書店、533円+税、amazonbk1)が買ったまま積ん読になってた。

 

●ササキバラ・ゴウが「まんがをめぐる問題」というサイトで、今年の四月からロドルフ・テプファーについて書き続けているのですが、そっち方面ではそれなりに知られているのかしら。大学の講義を聞くような感覚で、わたしはすごくおもしろく読ませていただいております。最近はホガース(バーンじゃなくてウィリアムのほう)の話になってて、どんどん歴史をさかのぼってます。テプファーのマンガがマンガとして成立するには「単にコマ割りの技法的な問題にはとどまらずに、その中に描き込まれる絵の情報量の少なさ自体も、重要だったのだ」という指摘には目からウロコでした。

●今年の日本マンガ学会第8回大会は、6/21、6/22に松山で開かれるそうですね。クルマすっ飛ばせばなんとか行けないこともないなあ。とか考えておりましたら、本日わが家のクルマがクギ踏んでバンク。タイヤかえたばっかりなのにー。

●最近図書館から借りてきて読んでるのは、明治以後の日本の医療制度に関してのもの。明治維新から現在までの医療制度、医師教育制度の変遷は、まさに混乱と迷走の歴史と言っていいと思います。で、なんでマンガ関連の本しか読まないわたしがこういうジャンルのものを読んでるかといいますと、手塚治虫がらみだったりするのでありました。何やってんだか。

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May 19, 2008

からくれなゐにみづくくるとは

 どうしても「あの」付きで語られてしまう、あの、末次由紀『ちはやふる』1巻が発売されてます(2008年講談社、409円+税、amazonbk1)。

 過去の全作品が絶版回収となってしまいましたので、現在著者の作品で読めるのは、短編集『ハルコイ』(2007年講談社)と、本作のみ。

 わたし、少女マンガをそれほど読んでるわけではないので、著者が現代少女マンガのどのあたりに位置してるのかはよくわかっていません。そして末次由紀作品を読むのは、実は初めてだったのですが、この作品にはずいぶん感心させられました。これはいい。

 「ちはやふる」とくれば、遊女・千早と相撲取り・竜田川の悲しい(?)てんまつが思いうかびますが、この作品はそっち方面じゃなくて、百人一首=競技かるたの世界を描いたマンガ。

 小学六年で福井から東京に転校してきた新(♂)は競技かるた全国大会連続優勝を続けている強豪。彼に影響され、クラスメートの千早(♀)と太一(♂)は競技かるたに打ち込んでいきます。

 まず主要登場人物である三人の複雑な造形はどうか。転校生・新は、内気でいじめられっ子。しかし勝負となると、勝つために味方をも利用する冷徹な一面を見せます。優等生でスポーツ万能の太一は、親のプレッシャーもあって卑怯なこともしてしまう。しかしそういう自分がいやでしょうがない。主人公・千早は正義漢の天真らんまん少女ですが、美人でちょっとイジワルな姉がいて、彼女から自立しなければならないことに気づく。

 いや小学生の登場人物にして、彼らの人格につけられた陰影の深いこと。「青年誌のマンガなんて心理描写が拙くて あらすじ読まされてるみたいでつまらんのじゃ!!」と切って捨てたのは、松田奈緒子『少女漫画』ですが、本作もこれこそが少女マンガなんだと再確認できます。

 単行本の裏カバーでは、成長したハカマ姿の主人公が試合に向けて髪を結わえていますが、この絵が実に美しい。連載第一回のカラーページのようです。これに続くオープニング、競技中の主人公の大アップとモノローグ「お願いだれも 息をしないで」。このシーンの緊張感もすばらしい。

 描写でおもしろいのは、畳の下にあるカメラから、かるたやそれをのぞき込む人物を描いた構図。たしかヒカルの碁などにもこういう実写では不可能なアングルがありましたね。マンガの絵はこうでなくっちゃ。

 競技かるたそのものは、ずいぶん複雑なルールを持っていて、戦略性に富んだ、しかも体力を使う競技のようです。この巻では、その部分はまだちょっとしか登場していません。

 競技かるたをやってらっしゃるかた(四段A級)のブログによりますと、かるたを題材にした先行作には、おおや和美『むすめふさほせ』、竹下けんじろう『かるた』、小坂まりこ『まんてんいろは小町』、木下聡志『とらと歌かるた』、戸田泰成『キョーギカルタの女』、北原雅紀/森藤映子『氷雨かるた』など、これまでにもいろいろとあったそうです。いや専門のかたはくわしい。

 はっきり言ってマンガとしてはマイナーな題材ですが、だからこそ大ブレイクする可能性も秘めています。

 作品のすべりだしは上々。歴代かるたクイーンの最年少は中学三年生だったそうですから、主人公が高校生時代に優勝しちゃうかもしれません。次巻からの高校生編で、三人の友情やら恋愛やら三角関係やら内面描写やらと同時に、ライバルが登場したり競技や勝負のおもしろさを描くことができるなら、と大期待であります。

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May 16, 2008

手塚先生泣かせのテクニック

 唐沢俊一氏による当ブログ記事盗用事件が発覚してから、もうすぐ一年。最近になっても「トンデモない一行知識の世界 唐沢俊一の「雑学」とは」で、氏の雑学なるものがいかにデタラメであるか検証され続けています。いやいくらでも出てくるものですなあ。

 そこでわたしもヒトネタ提供しましょう。

 唐沢俊一「裏モノ日記」2004年4月28日より。

 手塚治虫が泣かせのテクニックとして昔、石上三登志との対談で、
「例えば雪山で遭難した主人を助けた犬が、主人は助けたが力尽きて死ぬ。そこで満足していちゃダメで、僕はさらに、その犬を剥製にして、翌年、もう一度主人が雪山に登って、山の頂上にそれを置いていかせる。そこまでやる」
 という意味のこと(引用は不正確)を言っている。これが“商人”の感覚なのである。

 モトネタはこれ。石上三登志と手塚治虫の対談「キングコングがどうした!」(「キネマ旬報」1977年1月下旬号)。石上三登志「定本 手塚治虫の世界」(2003年東京創元社)に収録されてます。

 「手塚治虫の奇妙な世界」は1977年奇想天外社、1989年大陸書房(タイトルは「手塚治虫の時代」)、1998年学陽書房、そしてこの2003年東京創元社と四つの版がありますが、最初の奇想天外社版にはこの対談は収録されてません。最後の東京創元社版で増補されたもののようです。

僕が大学で講演した時、学生さんから「手塚さんはどうして、そんなに泣かせるヒューマニズムに徹した作品を描くんだ」と言われたので、「僕のはヒューマニズムでなしに、センチメンタリズムで、女の子を泣かせるためのものだ」と答えたんですが(笑)、僕には泣かせるコツが三つあるわけです。一つは、死なないだろうと思っていた主人公を、最後に殺すこと(笑)。もうすぐ死ぬだろう、と思わせたら、だめ。それと、三枚目を配置して、笑わしておくこと。

それからもう一つ。泣かせたあと、余韻がほしいわけ。僕の作品では必ず余韻をつけるんです。泣かせっぱなしでなしに、最後にもう一回、その余韻のダメ押しで泣かせようというわけ。女の子を泣かせるのには、余韻をえんえんと付ける(笑)。

 手塚が創作の秘訣を明かした有名な対談ですので、知ってるひとは知っている。ですからわたしも、唐沢氏の言う「引用」がデタラメなのはすぐわかりました。

 しかし「雪山の犬がどうのこうの」というワケわからん文章になりますと、「引用は不正確」どころか、これはもう引用の域をこえてねつ造ですね。「という意味のこと」という部分は、かろうじてクリアしてるか。

 それにしても公開を前提にした日記で、どうしてちょっとの手間を惜しんで調べようとしないかなあ。石上と手塚の対談なんですから、どの本に載ってるかは簡単に予測できるはずなのに。

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May 14, 2008

手塚先生吼える

 手塚治虫が他のマンガ家や評論家について書いた、しんらつな文章のかずかず。


●手塚治虫への弔辞(「話の特集」1966年10月号)

・だいたいマンガ批評家はおとなが多すぎる。その批評たるや、ノスタルジーか、もしくは“自分が好きだからほめる”調のものである。

・ボクにいわせれば、白土三平氏や赤塚不二夫氏や、水木しげる氏を推賞する一部批評家ごとき、なんにもわかっちゃいない連中だと思う。あの作家達は優秀な作品を生んでいるには違いないが、それは現時点での評価であって、あと五年後にはどうなっているかわからない。そんなおとなに限って、手のひらをかえしたように、「ああ、そんな作家も、いたっけねえ」というだろう。

・かつておとなにかなり高く評価されたマンガ家が、相次いで本の上から消えていった。福井英一(イガグリくん)、武内つなよし(赤胴鈴之助)、前谷惟光(ロボット三等兵)、堀江卓(矢車剣之助)、うしおそうじ(おせんち小町)、山根一二三(まんがそんごくう)等々。現在活躍している、白土、赤塚や、横山光輝、ちばてつや、石森章太郎たちでもあと何年続くかわからない。

(ま、これは、それほど子どもマンガの人気というものはうつろいやすい、という論旨で書かれた文章ではあります。ただし評論家を切ると同時に、同時代のマンガ家にも矛先が向かってます)


●まんが賞の審査をして……(「COM1967年3月号」)

・ところで、なさけない話だが、今年ほど、まんがの不作の年はなかった。

・じっさい、小学館のにも講談社のにも、きわだって賞をあげようといえる人がひとりもいなかったのである。

・(講談社の賞では)審査委員十人が集まって、検討したのだが、これという絶対的な票がぜんぜん集まらない。しまいに、恐怖まんがの楳図一雄(ママ)にやったらどうだ、という冗談まで出るしまつである。

(この時代の楳図かずおを評価することは、手塚にとって「冗談」であったようです)

・石森氏のはみんなそれぞれ水準作だが、これという代表作がない。つまり安打はつづく三割打者だが、決定打がない選手みたいだ、と阿部進センセイ。ことに昨年の候補作である「サイボーグ009」は、石森氏の作品として代表的なものとはいえない。「ミュータント・サブ」は小粒すぎる、という評。

(すでに「009」は東映動画で劇場アニメ化され、かなりの人気がありました。ただしこの時点で少年マガジン版「009」は、まだあの「ジョー! きみはどこにおちたい?」という有名なラストにたどりついていません)

・川崎のぼるのは、講談社側がとくに「巨人の星」を推したのだが、なにせ原作がべつの作家であるというハンディがある。

・小学館のまんが賞はもっとひどくて、予選で候補にのぼった十人の作品のうち、圧倒的に審査員の票を集めたのは白土三平の「忍者武芸帳」だったが、これが、六年前の作品だということを、審査員がだれも知らなかったという情ない始末で、昨年一年間の代表作、という条件から脱落した。そのほかの候補作品は、ガタッと落ちてしまい、石川球太の「原人ビビ」、ムロタニ・ツネ象の「ビリビリビート」などあったがけっきょく今年は“受賞者なし”という結論になってしまった。

・けっきょく、ぼくや、馬場のぼる氏や、福井英一氏が『漫画少年』を中心にかいていた時代以後、ほとんどユニークな新人は出なかったということだ。

(ま、賞の選評というのは苦言を呈するというか、きびしい言葉が並ぶものですけどね)


●最近のまんが評論に思う(「COM」1967年6月号)

・政治評論、文芸評論、音楽評論、評論の評論が存在するジャーナリズムだから、まんがブームに則して、まんが評論が生まれても、おかしくはないわけなのだが、一言も二言ももの申したい点は、これらの評論が、お話にならぬくらい貧弱な資料をもとに無責任に書かれていることだ。

・しかも、加うるに、純粋に客観的な視野から書かれたものがほとんどなく、たいてい筆者ご自身が、マニアをもって任じ、熱っぽく論じていることである。

・(まんがマニアによる)これらの評論は、内容がかなり偏重しており、最近の二、三の評論でも、長編児童まんがにかなりのスペースをさいているのを見ても、調査や分析の方向に、かなり独善的な欠点があるのはいなめない。

(この時代にマンガプロパーの評論が出現し始めましたが、彼らが評価したのは劇画や「ガロ」。手塚先生はこれがずいぶん気に入らなかったらしい)


●児童まんがひとくさり(「COM」1967年8月号)

・多分、いまのままでは、外国へだしても恥ずかしくないストーリーまんが、劇画の作家はひとりもいないだろう。

・絵にもなっていない絵ばかりでは、どうしようもないじゃないの。

・若い人たちが、まんが勉強にてっとり早く、先輩まんが家のまねをすることからはじめて、デッサンのデもしないことにはガッカリだね。

・というのは、先輩そのものが、ろくに絵の勉強もなしに、ふらーっと売れっ子になってしまったから。


●まんが家一言診断(「COM」1967年9月号)

・まず話題の劇画だが、デッサンを正確にやっているのは白土三平氏のみで、あとの御大連は絵がひどすぎる。さいとう・ゴリラ氏と川崎のぼる氏は、自己流だがまだいい、が中には、デッサンをもう一度やりなおしてもらいたい御仁がそうとういるのだ。

・それから白土センセイに一言申す。「カムイ伝」は、構成がよいので救われているが、「ワタリ」は荒れている。

・永島慎二さん。あなたにはあなたの個性が──うらやましいほどの個性があるのになぜはやりの画ふうをまねたり、高倉健のような顔がでてくるヤクザものを描くんですか?

・貝塚ひろし氏。まっとうなスポーツものが本命である貴兄が、新しい分野にとっ組む気持ちはよくわかる。しかし「どろぼっ子」は勇み足だったようだ。

・ちばてつや氏の「ハリスの旋風」はりっぱな作品だが、かなりマンネリズムなので、ひとつ稿を新たにしたほうがよくはないか?

・赤塚不二夫氏の「おそ松」のロングランには敬意を表するが、あまりおとなを意識しすぎると子どもの気持ちからはずれていくからご用心。

・石森章太郎氏に申し上げたいことは、SF小説にしろ、ほかのものにしろ、アレンジしても、ナマすぎるので、どうもイミテーション(まね)に見えることが多いのだ。

・望月三起也氏のは、どうかすると、ヤクザっぽいのがゴロゴロ登場するときがあるが、そうなると、ガタッと東映の深夜興行みたいにおちるのでさけたほうが質的に安全だ。

・久松文雄氏。原作つきのものを、もうそろそろ敬遠して、あなた自身のアイデアの傑作を見せてほしいがいかがだろう。

(現役マンガ家の文章として、ここまで過激なのはめずらしい)


●「COM」創刊一周年を迎えて(「COM」1968年1月号)

・少なくとも表面上は、まんが万々歳の年を迎えようとしている。だが、ほんとうはどうだろうか。うわべだけははでで、中身のない、きざなえせまんがのはんらん。それに迷わされての、安易で、ひとりよがりな作品ばかり描くまんが家志望者のむれ……危険なのだ。もっときびしく、つらいまんがの道をきみたちは知らなければならない。


●石子順造氏への公開状(「COM」1968年2月号))

・あなたが昨年末に、ある週刊誌に書かれた記事──その大上段にふりかぶった刀は、かなり的をはずれて、よこっとびに石へぶつかったような感じがします。あなたは、刀の使いかたを知らなさすぎた──というよりズブの素人だったことから起こった間違いでしょう。あえて、間違いだったと申し上げるのは、インテリであるあなたが、よもや本気でこれを書かれたのではないと思いたいからです。でももし本気だったとすれば、あなたはどうも、刃物を持つには、未成年すぎたように思えます。

・あなたにいま必要なのは、評論家としての資格です。資格というのは、まず一部の劇画やノベルティ・まんがしか、しゃべれないのではなく、「めざまし草」あたりからじっくり、一つのこらずまんがをお読みになることです。

(「めざまし草=目不酔草」とは森鴎外が創刊した雑誌。長原止水が風刺的なマンガを寄稿したことで知られてます。ってこんなものまで読めとはちょっとムチャです)


●火の鳥と私(虫プロ版『火の鳥黎明編』1969年12月発行)

・あと何年続くかわかりませんが、どうか「火の鳥」の評価は全編が完結したあとで、もう一度全部読みかえしていただいてからのことにしていただきたいと思います。そうでなければ、ご批判に対してお答えすることが困難な場合が多いからです。

(40年前のこの文章はわたしに強い印象を残しました。えっ、途中で感想言っちゃいけないの? 手塚先生、つくづく批評されるのがイヤだったようです)


●劇画について(「COM」1968年4月号ふろく「弁慶」)

・なによりも劇画に苦言を呈すれば、白土三平氏、つげ義春氏、水木しげる氏などの作品を除いて、内容が一般に希薄で安易なアクションでページを埋めている作品が非常に多いことだ。


●ささやかな自負(「児童心理」1973年9月号)

・ところで、漫画は著しい進歩をとげて──と書きたいところだが、残念ながらそうは思えない。しいていえばぼくが戦後漫画の開拓をしたあとは千篇一律のごとく、ぼくの手法の踏襲でしかなかったと思う。漫画ブームが何回か来、漫画世代が育ったが、漫画は劇画やアンチ漫画と称するものを含め、ほとんど新しい改革はなされていないのである。

・もし漫画に新革命の火の手が上がっていれば古株のぼくなどとっくに引退していただろうが、いまだに注文が相次ぎ、月産数百ページを書きとばし読者も支持してくれているとなると、うれしいがいささかさみしい気もする。いったい三十年間漫画家はなにをしてきたのだろうか。

・武内つなよし、堀江卓、桑田次郎、田中正雄、高野よしてる、白土三平、つげ義春、森田拳次……その他もろもろの売れっ子たちが第一線から消え、あるいは引退し、マスコミから忘れられて行った。そして今、書きまくっている新しい作家たちもいずれそうなる運命だろう。それが所詮マスコミ文化の宿命であろう。だが、それは漫画にとって悲劇だ。も一度漫画に新しい息吹きを吹き込まねばならない。そして、それのできるのはぼくしかないと思っている。


●「火の鳥」のロマン(「旅」1983年1月号)

・マンガのファンである三島由紀夫氏が、「火の鳥」を読んで、A誌に、
「手塚治虫もついに民青の手先となりはてたか」
と批判した。ぼくは、ぼくの意図をはっきり知ってもらわねば困ると思って電話をかけた。
「とにかく最後まで読んでから批評してほしいですね」

・だがその三島氏も最後まで読むことができなかった。現在まだ連載が完結していないからである。

(これほど手塚が「最後まで」にこだわっていた「火の鳥」ですが、残念ながら完結を見ることはできませんでした)


●カミソリ感覚(「ユリイカ」1988年8月臨時増刊「総特集大友克洋」)

・大友さんを激賞する人の多くは、センスの新しさ、SF感覚、迫真力と仕掛けなどについてである。ぼくは同業者の立場から、絵柄についてホメる。内容につていては、新しい時代感覚は若い人なら誰でも持っているから、そのセンスがいつ枯渇するかは年月をまたなければならない。評価はその時にこそきめるべきである。しかし絵のタッチについてはオリジナリティに溢れていれば、それは生涯の宝物である。大友さんはその宝物を両手一杯に持っている。

・貴方が四〇、五〇歳を越しても枯淡の境などにはいらずにこのカミソリ感覚を保つことができれば、ぼくは心から脱帽します。ここ十年、いや、「アキラ」以後が貴方のタッチの真の勝負どころです。

(大友克洋特集の巻頭に掲載されたこの文章、当時読んだわたしは、いったいこれ誉めてんのかどうなのか、ずいぶん首をひねったものです)

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May 12, 2008

『イキガミ』再考

 パラレルワールドの現代、日本。国家繁栄維持法は、国民に命の尊さを認識させるため、無作為に選ばれた国民を1000人にひとりの確率で死亡させるという法律。小学校入学時に注射されたナノカプセルが肺動脈にひそみ、18歳~24歳で破裂して若者を突然死させる。本人にその死亡予告証=「逝紙」が届くのは死亡の24時間前です。

 主人公は死亡予定者に「イキガミ」を届ける公務員。24時間後の自分の死を知った若者たちは、どのような行動をとるのか。主人公はそれを目撃してゆきます。

 これが、間瀬元朗『イキガミ』の設定です。

 かつてわたしは『イキガミ』について批判的な感想を書いたことがあります。この作品に対するわたしの最大の不満は、登場人物の視線が国家やシステムに向かわず、彼らの行動が自分の周囲だけで完結している点でした。

 わたしが前の文章を書いた時点で、作品は3巻までしか刊行されていませんでしたが、最新5巻(2008年小学館、514円+税、amazonbk1)が発売されました。

 今回の5巻では、風向きが変化してきたようです。5巻のエピソードはふたつ。

 第9話では、イキガミをもらった若者は、死ぬまでの間に、(1)「良いこと」をして、(2)自分の生きた証を残し、(3)さらにイキガミのシステムを批判します。(1)(2)はこれまでどおり、いつもの展開ですが、(3)は、この物語世界でほとんど初めてなされたシステム批判でしょう。

 さらに第10話では、システムを妄信する者の行動が、システムに反してしまうという皮肉なオチ。おそらくこれまでのお話中、物語設定を利用してもっともトリッキーな展開を見せます。

 おお、物語はやっと、国家やシステムを敵としてとらえだしたようです。

 ところが。

 今も本のカバーには、「魂揺さぶる究極極限ドラマ」というコピーがあります。そして5巻のオビには、「いま、一番泣ける物語!!!」と書かれています。出版社はあいかわらず『イキガミ』を、死を目前にした人間の、感動のドラマとして売ろうとしています。

 このコピーって内容とずれてきてないかい。第9話はともかく、第10話は「泣ける物語」じゃないよなあ。

 すでに物語内部はイキガミ否定に向かっているにもかかわらず、本の広告は、イキガミが引き起こす「感動」を看板にしている。

 この明らかな分裂は、物語内部のホンネとタテマエの関係が、そのまま現実の世界にスライドしてきたような印象です。つまり作者=イキガミに疑問を抱いている登場人物。版元の小学館=システムを推進する国家。

 意識してなされているのではないはずのこのメタ構造は、作品内容から作品外に飛び出し、その売られかた、読まれかたを考えさせることになります。

 この5巻が物語の転換点となるのか、再度揺り戻して「感動」や「涙」を売りにし続けるのか、今後が注目です。

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May 10, 2008

第12回手塚治虫文化賞発表

 本日の朝日新聞で、第12回手塚治虫文化賞が発表されました。

●マンガ大賞:石川雅之『もやしもん』
●新生賞:島田虎之介(これまでに刊行されてる作品は『ラスト.ワルツ』『東京命日』『トロイメライ』)
●短編賞:大島弓子『グーグーだって猫である』
●特別賞:大阪府立国際児童文学館

 ちなみに大賞の候補作はこちら。

○吉田秋生『海街diary 1 蝉時雨のやむ頃』
○よしながふみ『大奥』
○五十嵐大介『海獣の子供』
○矢沢あい『NANA』
○柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』
○石川雅之『もやしもん』
○真鍋昌平『闇金ウシジマくん』
○あずまきよひこ『よつばと!』
○あさりよしとお『るくるく』
○山本直樹『レッド』

 審査員は、荒俣宏、いしかわじゅん、印口崇、香山リカ、呉智英、萩尾望都、藤本由香里、村上知彦です。

 わたしの予想がコレ

 オオハズレでありました。当てにいったのに、だめじゃん。石川雅之は歴代受賞者中最年少ですね。おめでとうございます。

 今回の手塚賞の大ヒットは、大阪府立国際児童文学館に賞をあげたこと。このタイミングはすばらしい。橋下知事は、よーく考えるように。

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May 09, 2008

連休読書

 この五月の連休中に読んでたマンガは、山上たつひこと手塚治虫なわけですが。

●山上たつひこ『神代の国にて 単行本未収録傑作選2巻』(2008年小学館クリエイティブ、1600円+税、amazonbk1

●山上たつひこ『原色日本行楽図鑑 THE VERY BEST OF Tatsuhiko Yamagami 4巻』(2008年小学館クリエイティブ、1700円+税、amazonbk1

●手塚治虫/みなもと太郎『手塚治虫WORLD 少年マンガ編 これがホントの最終回だ!』(2008年ゴマブックス、1300円+税、amazonbk1

●手塚治虫『おもしろブック版ライオンブックス』2巻(2008年小学館クリエイティブ、3600円+税、amazonbk1

   

 しかしあれですなあ、マンガの一線から退いて長い山上たつひこや、没後20年になる手塚治虫の新刊を、この時期になっても読めるとはねえ。現代作家以外だけ読んでてもマンガ生活できちゃいますね。

 それはともかく、四冊とも楽しく読みました。山上たつひこ『神代の国にて』は、かつて読んだことのある作品もあって懐かしい。山上たつひこがギャグ作家になる以前も以後も、前衛のひとであったことがわかります。

 『原色日本行楽図鑑』には、マンガだけじゃなくてエッセイが多く収録されてまして、これがまた虚構エッセイとでも言いますか、エッセイに書かれている内容がすでに虚構っぽいだけじゃなくて、作者の感想そのものも虚構っぽくて、いったい何を信用してよいやら、という文章です。これおもしろいなあ。

 みなもと太郎編の『手塚治虫WORLD 』は、むかしJICC 出版局から刊行されてたシリーズ『いきなり最終回』の、手塚治虫版。ただし手塚が単行本で描き直す以前の、雑誌版最終回を収録してくれてます。

 おどろいたのが『ジャングル大帝』の最終回。大空にレオに似た雲がうかぶ感動の名シーンがあるのですが、これ雑誌版では、1ページを12分割した、小さな小さなヒトコマだったのですね。わたしが読んだ『ジャングル大帝』は小学館ゴールデンコミックス版でしたが、すでにこのコマは1ページ全部を使ったものに修正されてました。

 みなもと太郎は「レオの特大ゴマは空々しく映る」と書いてますが、このゴールデンコミックス版は後年の講談社全集版よりケン一の顔の修正などが少ないですし、わたしとしてはここでの大きなコマが好きです。あれは(めずらしく)いい修正だったんじゃないかしら。

 『ライオンブックス』2巻では、「双生児殺人事件」が読めました。後半、他人が代筆してますが、ちょっと絵がアレすぎて誰が代筆してるのかよくわかりません。主人公の顔だけ手塚が描いた絵を切りはりしてます。さすがにこれでは、ということになったのでしょう。容疑者のひとりが女ことばをしゃべったり男ことばをしゃべったり、オマエは男か女かどっちやねん。確かに珍本です。

 わたし、2001年に『手塚治虫漫画大全集 DVD-ROM 』を買ったときには、これでもう手塚の本は買い納めだあ、と思ってたし、そういうふうにウチの同居人にイイワケしてたのですが(なんせ12万円でしたから)、なんのなんの、その後も手塚の本っていくらでも発売されます。カラー復刻なんかされちゃうと、これまた買ってしまうのでありました。

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May 07, 2008

マンガ編集者列伝

 長谷邦夫『マンガ編集者狂笑録』(2008年水声社、2800円+税、amazonbk1)読みました。

 実在のマンガ編集者を主人公にした連作小説。

 登場する編集者たちは、長井勝一、加藤謙一、松坂邦義、丸山昭、壁村耐三、峯島正行、内田勝、宮原照夫、長野規、長崎尚志。

 「たけくまメモ」に、「共犯者」としての編集者、という名コピーがありましたが、本書に書かれたマンガ編集者たちは、まさにこれ。新しいマンガを作家と共謀してつくりあげるために、この世とあの世の境界に立っているひとびと。彼らの記録であります。

 著者は評伝じゃなくて小説であると強調しています。確かに一人称で描かれる部分も多く、主人公であるそれぞれの編集者の内面に思いっきり踏み込んだ記述ですから、小説の形式でなければ書けなかっただろうと思います。人間同士の確執もあって、長井勝一と白土三平、内田勝と宮原照夫のそれなど、よくぞ書いたなあ、という印象です。

 『漫画に愛を叫んだ男たち』(2004年清流出版)も小説という形式でしたが、本書のほうがかなり技巧的になってて、フィクション度数が上がってます。長井勝一の章にトリアッティの話が出てきたりしますからね。巻末の参考文献に、ウチの「遠くから遠くまで」が記載されていて、これには驚きましたです。

 小説ですから、ここに登場するのは著者が出会ったそれぞれの実在の編集者でもあり、かつ全員が著者自身でもあるという複雑な存在。わたしはむしろ後者として読みました。登場人物みんながマンガを愛していて感動的ですが、これすなわち、著者の心情の投影です。

 ラストに登場するのが長崎尚志。ノスタルジーだけの本ではありません。将来のマンガ編集者像というのはどうなるかわからない。著者の目はさらに未来を見ています。

 本書でおもしろかったのが丸山昭の章と、内田・宮原の章。やっぱ著者がもっとも知ってる時代とエピソードだからでしょうか。

 で、気になったのは松坂邦義の章です。わたしこのかたの名前、知らなかったのですが、貸本マンガの名編集者として「貸本マンガ史研究」にインタビューが掲載されたりしてます。

 1971年から1972年にかけて、虫プロから「ベストコミック」という名前のB5判のマンガ再録雑誌が刊行されていたことがあります。ジョージ秋山、ちばてつや、手塚治虫、川崎のぼる、水木しげるらの特集号や、複数の有名作家の短編を集めた号などがありました。この雑誌、名作ぞろいでずいぶん楽しませてもらいました。「ぼくらマガジン」に連載された、ちばてつやの壮絶に救いのない話『餓鬼』が初めてまとまって読めたのも、この「ベストコミック」。

 この雑誌を編集してたのが、松坂邦義でした。長谷邦夫はベストコミックの表紙イラストを描いたこともありますので、ここが接点なのかしら。

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May 04, 2008

江戸時代のモノクロマンガ『奇想の江戸挿絵』

 辻惟雄『奇想の江戸挿絵』(2008年集英社新書ヴィジュアル版、1000円+税、amazonbk1)読みました。

 著者はかつて『日本美術の歴史』(2005年東京大学出版局)という日本美術通史で、おそらく初めてマンガとアニメを美術としてとりあげたかた。「異端」であった若冲や国芳を再評価した『奇想の系譜』(2004年ちくま学芸文庫、原著は1988年)は有名です。

 「読本挿絵の中から現代の読者にアピールしそうなものを選んで」つくられたのが本書です。「草双紙」(=子ども向け絵本)がおとな向けになったものが「黄表紙」や「洒落本」。これが寛政の改革で弾圧され、代わって登場したのが「読本」だそうです。

 「読本」は挿絵入りの小説で、妖怪変化や幽霊がいっぱい登場します。本書は奇想に満ちた読本の挿絵を紹介したものです。読本の代表的作家が馬琴と京伝、代表的絵師が北斎と豊国。本書にも北斎の絵が多く掲載されていますが、いやとくに北斎、すごいわ。

 本書には大友克洋とか水木しげるの絵の引用があったり、コマ割りという言葉が登場したりしてて、現代の読者向けにマンガを意識した文章とつくりになっております。その記述、ちょっと違うんじゃない、と思うようなところもあるのですが、読本挿絵がマンガの遠いご先祖であるのは確かなようです。

 現代日本マンガは、モノクロで印刷されるという特殊性から、モノクロ表現がどんどん進化しました。近年はとくにスクリーントーンを使ったいろんな技が異常に発達しました。

 対して読本挿絵もモノクロ木版。その表現にはマンガと似たものが存在します。たとえば薄墨を使った重ね刷りは、現代のスクリーントーンもかくや、という表現を可能にしています。見開き二ページでどーんと薄墨で幻想の地獄を描き、それに重ねて黒で描かれたリアルな人物がこの地獄をながめている。

 薄墨で暴風を描く、飛んでゆく鉄砲の弾のケムリを描く、妖怪が吐く毒気を描く。こんな薄墨の使い方は、モノクロという特殊性と、「動き」を絵で表現しようとした結果ですね。

 本書に登場する妖怪変化はもちろん楽しいのですが、もっと目を見張るのがこれら「動き」の表現です。光や爆発、嵐や大雨を、江戸時代のモノクロ木版はどのように表現したのか。これは一見の価値あり。書影のカバー絵は、わかりにくいですが、北斎の描いた迫力満点の爆発シーンです。

 「挿絵」ですからマンガの「コマ」のように絵の枠があることが多いのですが、登場人物たちがけっこうこのコマから飛び出している。これはマンガでもよくやりますが、立体を意識させる表現です。また現代のマンガと同様、ページをめくることを意識して描かれた見開きページとかも紹介されています。

 「モノクロ印刷」「物語」「絵」「本」という縛りがあっていろんな表現が誕生した、という意味で、読本とマンガはずいぶん似ているようです。いやおもしろい本でした。

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May 01, 2008

いやお若い『ぼくたちのアニメ史』

 辻真先『ぼくたちのアニメ史』(2008年岩波ジュニア新書、780円+税、amazonbk1)読みました。

 最近の著者は、アニメ脚本家よりむしろミステリ界の大御所、と言ったほうがとおりがよいのでしょうか。わたしもかつて、『アリスの国の殺人』や薩次・キリコシリーズなどを楽しく読みました。本書と同時期に刊行された、牧薩次名義『完全恋愛』の評判も上々のようです。

 著者は1932年生まれ、テレビアニメ草創期から脚本家として活躍。もう本人でもわからないくらいの数の脚本を書いてらっしゃいます。「ジャングル大帝」も「アタックNo.1」も「キックの鬼」も「タイガーマスク」も「ゲゲゲの鬼太郎」も「コン・バトラーV」も、第一話の脚本はぜーんぶ、辻真先です。

 その著者が、個人的経験をとおしてアニメ史を概観したのが本書です。裏話も豊富ですが、アニメ史と題したからには、できるだけ客観的に記述するようにこころがけられています。

 本書では作品はひとである、と考えられています。作品を語ること、すなわちプロデューサーや脚本家を含め、スタッフを語るというスタンス。ですから本書にはアニメにかかわったひとびとの名がいっぱい登場します。そして著者による作品評価の基準は、「よくわかるが面白くない作品より、わからないが面白い作品のほうがずっといい」です。

 しかしまあ、なんつってもお若い。文章も若々しく、とても76歳のかたの文章とは思えません。枯れてませんねえ。しかも著者が脚本書いてたころの昔のアニメだけじゃなくて、最近のアニメにもくわしいったらない。

 わたしなんぞはもうアニメは門外漢としてたまにしか見なくなってますが、それは(1)アニメの数が多すぎる、(2)テレビアニメは一本だけ見たんじゃわかんないからシリーズ全部見なきゃなんない、(3)その結果アニメを見るのにはすごく時間がかかる、(4)アニメばっかり見てたらほかになんにもできなくなるよー、という理由だからです。

 ですからアニメをきちんと見てるひとたちには頭が下がるのですが、辻真先も、いったいどれだけ見てるんだ、というほどアニメ見てます。どうやって時間つくってんだろ。つくづくアニメを愛してるんですね。

 かつて手塚治虫文化賞にアニメ部門をつくろうという考想があったそうで、著者のところに朝日新聞が相談に来たそうです。しかし4クール52本のテレビアニメを見続けたひとだけが優劣を下すことができる、というのが著者の考えです。

 本書はアニメガイドとして利用するのも可能なつくりとなっております。この本読んだおかげで、わたしもいろんなアニメが見たくなってしまいました。

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