フキダシの歴史
長谷川町子に関する本を読み始めて、はずみがついてしまい、『長谷川町子全集別巻 長谷川町子思い出記念館』(1998年朝日新聞社、1500円+税、amazon、bk1、文庫版もあります)なども読んでおりました。
長谷川町子のエッセイや対談、インタビューが収録されているのですが、これが彼女のマンガ以外の全仕事とすると、ずいぶん少ない。売り出し中の昭和25年ごろには、雑誌の取材で有名人のお宅拝見みたいなこともしていますが、しだいにこの手の仕事はどんどん少なくなっていきます。
この本には長谷川町子と、師匠の田河水泡の対談(昭和27年)も収録されています。ここでの田河水泡の発言がおもしろかった。
記者 吹き出しというのは?
田河 その人物がしゃべっている言葉をまるく囲うでしょう。それを吹き出しと言う。それから足のうしろへまるくポッ、ポッとあるのがけり出し……。
長谷川 それは私、知らなかった。
田河 僕がこしらえたのだ。名称がなくちゃ困ると思ってね(笑)。それからたたくでしょう。頭でもお尻でも……あるいはぶつかってパッと星が出る。あれはたたき出し……だから吹き出し、けり出し、たたき出しと三つあるわけだ。それが漫画の画面の効果を上げてゆく。
「吹き出し」は戦前から存在するマンガ用語として、長谷川町子にも通じる言葉でしたが、田河水泡が多用した足もとのケムリ=「けり出し」は、田河自身の命名で、弟子の長谷川町子ですら知らない言葉だったことになります。
「たたき出し」というのも田河水泡の命名でしょう。殴られたとき頭からとびちる☆とされてますが、これが変化すると、☆が消失し三本の線だけになって、「何かに気づく」表現になっていきます。
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さて、田河水泡は「吹き出し、けり出し、たたき出し」とマンガ表現を三種類ならべていますが、この中で、マンガをもっともマンガらしくしているのが、登場人物が発したセリフを記入するフキダシです。
フキダシは英語でスピーチバルーン、あるいはスピーチバブルと呼ばれます。英語版Wikipedia によりますと、遠く紀元前、中米のマヤ文明にまでその祖をたどることができるそうですが、ま、それはおいといて。
絵画で登場人物のセリフはまず、クチから空中にのびる文字として表現されました。これがもっともプリミティブな形であると言えるでしょう。文字の周囲に境界はありません。13世紀の神学者ライモンドゥス・ルルス(レイモン・ルルス)が描いたとされる絵物語では、この表現が見られます。
いっぽうで中世の彫刻や絵画の中の人物が、文章を書いた巻物をカラダの前方にぶらさげているのを見たこともあるのじゃないでしょうか。これはフィラクテール(phylactere )と呼ばれる巻物、巻紙です。
フィラクテールはギリシア語の「解毒剤」が語源であり、巻物とそこに書かれたふしぎな文章が我が身を守る意味があったと言われています。
絵画の中では、巻物には聖書の文章が書かれたり、持っている人物(予言者や聖者です)の説明がされたりしていましたが、そのうち人物のセリフが巻物に書かれるようになります。登場人物がこの巻物を持ってそのあたりを歩くわけです。「丸出だめ夫」に登場するボロットですな(←すごくわかりにくいたとえですみません)。
巻物が登場人物の手から離れ、空中にただようようになると、フキダシまでもう一歩。巻物の端っこは、人物の口の近くにあります。こういう空中にある巻物のことをフランス語ではバンドロール(banderole )と言うそうで、巻物じゃなくて旗とかリボンの意味になります。ネット上にある絵で例を出しますと、こんなやつね。
この空中のリボンが簡易化されたのがスピーチバルーンだと言えます。古いものだと、13世紀英国のヨハネ黙示録で、現在のスピーチバルーンと同様の表現が見られます。
18世紀になると風刺画の中にスピーチバルーンがよく登場するようになります。この絵では、語り手のクチ近くからバルーンがのびてセリフが書きこまれています。でもバルーンなのかリボンなのか、ちょっと微妙なところですね。でもこっちの絵になると、はっきりとリボンじゃなくなってます。
どちらも、今の目から見るとあんまりかっこよくない。フキダシの端は語り手の口のところにあります。まさに声を「吹き出し」ているわけで、「フキダシ」という日本語訳はそのまんまですね。
現代マンガの祖と言われるR・F・アウトコールト「イエロー・キッド」でも、当初はこの、クチからのびるかっこわるいフキダシが使用されてました。1895年11月10日付けのマンガで、オウムのクチバシや少年の口からフキダシがのびています。
しかしフキダシのしっぽが、いつまでも語り手の口にくっついていたのでは、かっこ悪いうえに絵としての自由度が低い。このためフキダシはしだいに人物から離れていきます。
「イエロー・キッド」でも、1907年ごろになりますと、フキダシのしっぽは人物の口から離れよう離れようとしており、1910年の作品ではフキダシのしっぽを口に近づけようという努力は放棄されていて、頭のてっぺんあたりでしゃべってることになってます。
別作家では、1905年から連載されたウィンザー・マッケイ「夢の国のリトル・ニモ」では、連載初期からフキダシは人物からかなり離れていて、これだけでも「イエロー・キッド」よりモダンに見えます。
このあたり、20世紀初頭で現在のように、「フキダシ内部の文章は、しっぽの指す方向の人物がしゃべっているのだ」という決まり事ができました。
その後、バルーンやしっぽを雲形に変えることで、心で考えている内面の声も表現できるようになります。さらにはぎざぎざに変化させ、大声でしゃべらせたりも可能に。
1970年代以降の日本の少女マンガでは、さらにひとまわりして、フキダシの枠がなくなり、文字だけが宙をただよう表現が多用されるようになります。まさに先祖返り。
最近の羽海野チカあたりになりますと、コマとコマの間を黒く塗りつぶし、そこに文章が置かれたりするようになります。
現代は、フキダシが解体される時代にはいっているようです。
Comments
図書館にあったので読んでみました。
若いころの写真なんかも載ってたのですが、
お姉さんの鞠子さんがマー姉ちゃんをやってた
熊谷真美さんにそっくりだったのにびっくりしました。
Posted by: mino | May 01, 2008 11:19 AM
かつてフキダシは画面内の登場人物にとってはじゃまになる物理的存在として認識されていました。でも今は、レイヤーのごとく画面に重なって存在するみたいですね。これはフォトショップが普及してからこうなったのかもしれません。
Posted by: 漫棚通信 | April 18, 2008 08:55 PM
2ちゃんねるのAAでは横にそのまま囲いも無く文(セリフ)が書かれているのが一番多いようですね。その場合絵(と言えるのか)を使いまわしで、セリフの部分のみを自由に変え、いろんな場面でまた使用することが出来るわけですね。
私は小学校低学年までは、漫画を読む時、セリフ部分は、頭の中で「分かれているもの」として見ていました。つまり自然と絵の上に乗っかっているものとして見ていたわけで、フキダシを剥がそうとよくその周りを爪でカリカリとした記憶があります。当然のように、フキダシの下にも絵があると思っていた様です。
まあ幼稚園児で「北斗の拳」などを読んでいた時代ですから、その書き込みと空白のギャップ、また当時の漫画のまだ今よりもキチンとしていた漫画様式にも原因があるのかなぁ。
Posted by: くもり | April 18, 2008 11:00 AM