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April 28, 2008

ストーリーとプロットの違い

 ストーリー、そしてプロットという言葉はよく聞きますし、わたしも使ってるのですが、このふたつの違いは何か。みなさんは、ぱっと答えられるでしょうか。

 実はこれについてわたしが意識したのは、野田昌宏『スペース・オペラの書き方』(1988年早川書房)を読んだときでした。この本ではストーリーとプロットの違いについて、SF作家、今日泊亜蘭が自作を語る形で、このように述べられています。

 そりゃそうだよ、お前、いいかね、『光の塔』で言ゃぁ……だ。
 未来の連中が、自分たちの悲惨な現状をなんとかしようと、原子力を乱用してその原因を作った過去の歴史を改変しようと狙って未来から攻め込んできやがって……と、
 これが『光の塔のプロットよ。

 それに対して、な。
 まず、本の冒頭で主人公が木星から帰ってくる宇宙船のなかから窓外に奇妙な飛び火を見る。
 そして地球に帰って来てから渋谷で原因不明の絶電現象に出会わす。
 それから、新造の木星向け宇宙船が展示現場から消える、東海原子力研究所の壁のなかから窓外なんとも知れないシケた奴が現われる……。
 これらがすべて伏線となって……。(略)そいつらの正体はなンと未来からの侵攻軍だった……と、
 これが『光の塔のストーリーだ。

 この本には「プロットからストーリーへ」という章もありましたし、これを読んだわたしは、プロットとは設計図のようなものと理解しました。そしてストーリーとは、そのエピソードをどの順で語るかを含めた最終仕上がりなんだろうなーと。

 つまりミステリを例にあげるとわかりやすいのですが、AとBが出会い、AがBをトリックを使用して殺してしまう。探偵が登場して謎を解きAを逮捕する。これが物語の設計図であるプロット。

 この同じ設計図を使用しても、AとBの出会いから語り始める、殺人の場面から始める、探偵に依頼があるところから始める、事件後の裁判から始める、とまあ、仕上がりは無数に書くことが可能なわけで、こっちがストーリー。ストーリーのラストにクライマックスの盛り上がりが来るように作家はいろいろと工夫するものである。とこのように、20年間ずっと思っておりました。

 このつもりでひとと話してても、別に混乱しなかったしなあ。ウチの同居人もこんな感じで理解してたし。

 とーこーろーがー。
 
 Wikipedia をのぞいてみると、こんなことが書いてあるじゃないですか。

物語の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたものがストーリーであるのに対して、その出来事を再構成したものをプロットと呼ぶ。プロットは時間軸に沿っているとは限らないが、出来事の因果関係を示している。

 あれれ? これってわたしが思ってたのとまったく逆じゃん? わたしはずっとまちがっていたようです。どうもスミマセン。上の文章はタワゴトだと思って忘れてください。

     ◆

 そこで読んでみました。『E・M・フォースター著作集 8巻 小説の諸相 Aspects of the Novel 』(1994年みすず書房、中野康司訳)。

 ご存じ『眺めのいい部屋』『ハワーズ・エンド』を書いたイギリスの作家フォースターが、1927年にケンブリッジ大学でおこなった連続講義をまとめたものです。例が多く、平易な文章でたいへん読みやすいです。

 さてフォースターによると、ストーリーはこのように定義されます。

ストーリーとは、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものである。

 これはまあ、昔からの言葉の使い方、「ストーリー=物語」なんですからそのとおりかなと。いっぽうプロットという言葉も、もちろん昔から存在していました。

 有名なのは「アリストテレスのプロット」。アリストテレスは、劇のプロットには「葛藤、運命の転換、解決」という三段階が必要だと述べました。ただし、フォースターはこれを、あくまで演劇においての法則であり近代小説にはあてはまらない、としりぞけています。

 フォースターによると、ストーリーが「下等な段階の技法」であるのに対して、プロットは「もっと高級な技法」です。

プロットもストーリーと同じく、時間の進行に従って事件や出来事を語ったものですが、ただしプロットは、それらの事件や出来事の因果関係に重点が置かれます。

 フォースターの出す例がこれ。「王様が死に、それから王妃が死んだ」=ストーリー。「王様が死に、そして悲しみのために王妃が死んだ」=プロット。「王妃が死に、誰にもその原因がわからなかったが、やがて王様の死を悲しんで死んだのだとわかった」=もっと高度なプロット。

ストーリーなら、(読者は)「それから?」と聞きます。プロットなら「なぜ?」と聞きます。これがストーリーとプロットの根本的な違いです。

 フォースターによると、プロットは作者が作品に仕掛けたたくらみです。プロットという表現手段を使うと、謎で読者を引っ張り、ラストシーンでそれを解決して読者をあっと驚かせることも可能になるのです。

 ただし「あらかじめ小説のすべてを決定し支配するようなプロット」は、お話の害になることもありえます。あまりに厳密に作り上げられたプロットは登場人物の自由な行動を制限し、「登場人物のヴァイタリティーはプロットに吸い取られ干からびて」しまうこともあるからです。

 フォースターは、小説の主要な要素を「ストーリー=時間」「登場人物」「プロット=論理」であるとしました。

     ◆

 日本ではどうでしょうか。

 かつて自然主義小説の時代に、プロット無用論がとなえられたことがあったそうです。作者の小さな主観から作られたプロットは、作品の真実を傷つけるだけだと考えられました。

 たしかに意識の流れのまま順に記載されていくタイプの小説などには、プロットは必要ないかもしれません。

 少し古いのですが、丹羽文雄『小説作法』(1958年文藝春秋新社)に「プロット(構成)に就いて」という文章があります。

プロットとは、ふつうに筋と訳されているが、この訳は誤解されるおそれがある。脚色、結構、骨組、機構と訳すひともあるが、構成と訳しておいたほうが無難である。むしろ筋書ともちがう。私は、小説の運命はこの構成によって決定するものだと解している。

 丹羽文雄は、小説を物語性小説(ストーリー重視、時間連続重視)と構成性小説(プロット重視、因果関係重視)に分け、近代小説は後者であると述べています。

     ◆

 エンタメ、とくにミステリ要素を含んだものになりますと、プロットはもう存在してアタリマエ。というかプロットのないミステリなどは想像もできません。

 門下に多数の作家を輩出している山村正夫による小説作法も読んでみましたが、「ストーリー作りのプロットが決まったら」などという表現があります。

 ミステリのような謎と論理が主体の作品では、ストーリーとプロットを分けて考えること自体無意味なのでしょう。ストーリーとプロットは不可分の存在で、どうやら別の言葉として語られてはいません。

 ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方 How to Write Best Selling Fiction 』(1996年朝日文庫、大出健訳)という本がありますが、ここでクーンツはこう書いています。

世の中にプロットのない小説ほどおかしなものはない。なんといってもプロットは小説の最大必要条件のひとつである。(略)
ときたま、プロットのすべてを、登場人物たちの動くままにまかせるべきだと信じている批評家やもの書きに出くわすことがある。(略)
ばかげた話である。

 まさにプロット至上主義と言いますか、クーンツは、登場人物よりも、テーマよりも、プロットが大切と考えています。プロットこそ、ストーリー・ラインを登場人物から作家の手にとりもどすための手法であると。ここでいうプロットとは、ストーリーを論理的に組み直した全体の構成のことのようです。

もしも作家が登場人物たちに全権をゆだねてしまったら、知性という冷静で確実な案内人なしに、作品を書くことになる。その結果は、現実の世界に起こる多くのできごとと変わらぬ、形も意味もない小説ができあたり、そんな小説が多くの読者をがっかりさせるのは目に見えている。

     ◆

 ところが、プロットを重視しないエンタメ作家もいます。

 スティーヴン・キング『小説作法 A Memory of the Craft 』(2001年アーティストハウス、池央耿訳)によりますと、キングはこんなことを書いています。

私の場合、短編であれ、長編であれ、小説の要素は三つである。話をA地点からB地点、そして、大団円のZ地点へ運ぶ叙述。読者に実感を与える描写。登場人物を血の通った存在にする会話。この三つで小説は成り立っている。
構想はそのどこに位置するかと問われれば、私としては、そんなものに用はないと答えるしかない。(略)構想に重きを置かない理由は二つある。第一に、そもそも人の一生が筋書きのないドラマである。あれこれ知恵を巡らせて将来に備え、周到に計画を立てたところで、その通りにいくものではない。第二に、構想を練ることと、作品の流れを自然に任せることはとうてい両立しない。ここはよくよく念を押しておきたい。作品は自律的に成長するというのが私の基本的な考えである。

 「構想」が原語でどう表現されているのかは調べていませんが、これは「プロット」と同義で使用されていると思われます。クーンツの意見に真っ向反対しているばかりか、フォースターらの小説観にもケンカ売ってます。

 ただしキングは、むっちゃレアな例じゃないでしょうか。永井豪などと同じく、結末を決めずに書き出すひとのようですね。

 おもしろいのは、クーンツもキングも、そしてかつてのフォースターも、プロットと登場人物を対立する存在としてとらえているようです。プロットは登場人物を縛り、登場人物はプロットを破壊しようとするもの。

 よく登場人物が勝手に動き出すと言われますが、それをコントロールするのがプロット。どの程度コントロールするかは、作家の考え方で異なっています。

     ◆

 というわけでプロットとは、ストーリーを構成するエピソードを、論理的関連づけのもとで再構成したもの。登場人物の暴走を御するための作者の手段、ということになります。

     ◆

 さて、マンガではどうか。

 マンガのシナリオのお手本になるのは、映画や演劇のシナリオですが、とくに映画では「箱書き」という用語があります。箱書きとはシナリオのもとになる設計図です。これすなわちプロットを意味しています。

 映画は二時間程度で必ず終了するという制限を設けられています。さらにシーンとシーンの時間間隔や距離間隔も自在に変更でき、どんどん複雑にすることも可能ですから、観客の理解を助けるためにも、プロットのないストーリーは存在し得ません。

 それぞれのエピソードは時間配分も計算され、これがつながれて映画を形成します。映画では、ストーリーはプロットとほとんど同義でしょう。

 むしろ完成した映画から、もとの時系列ストーリーを思い浮かべるのに苦労したりして。クリストファー・ノーラン監督の「メメント」なんかねえ、あそこまでストーリーが分解されちゃうとねえ、もうタイヘン。

 映画シナリオをお手本にするマンガでも、ほぼ同様です。ストーリーを考えることはプロットを考えることです。

 ですから少なくともマンガを語るときには、ストーリーと言ってもプロットと言ってもどっちでもいいのじゃないかと。適当ですけど、これでオッケーのような気がします。

 でも、ひとが使ってる「ストーリー」「プロット」は、どんな意味なのか、やっぱ知っておかなきゃなりません。わたしはクーンツの本、昔から持ってましたけど、今回あらためて理解できたような気がしたのでした。

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April 26, 2008

王道を歩く『少女ファイト』

 わたしが今もっとも続きを楽しみに待ってるマンガ、日本橋ヨヲコ『少女ファイト』4巻(2008年講談社、590円+税、amazonbk1)が発売されたわけですが。

 と思ったら、早々に講談社から文字欠落のお詫びとかが出たりして。こういうのどのくらいのひとが交換するのかな。

 それはともかく4巻では、前巻でのベットバレー(アンダーグラウンドでおこなわれるバレーボールの賭け試合)を受けて、主人公たちが謹慎することに。

 おお、これは、主人公が禁じられた私闘や野試合をして、師匠から破門される、のちにゆるされる、そして主人公が成長する、という黄金のあの展開だったのですな。

 梶原一騎作品のあれこれ、いやいや、もっとさかのぼって赤胴鈴之助やイガグリくんも、みんなこれは経験してきました。それどころか戦前の姿三四郎がすでにやってましたからね。

 私闘が禁じられてるのはわかってるけど、義や情のためにこの闘いからは逃げるわけにはいかない。闘うかどうか、それ自体に主人公が葛藤するわけで、こういうのが、いかにも日本人好みなのでしょう。

 こういう王道というか不滅のパターンが、今もくりかえし描かれるのは楽しいなあ。

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April 23, 2008

村野守美×池波正太郎

 こういう本が刊行されてます。

●村野守美/池波正太郎『池波正太郎江戸絵草子 女ごよみ』(2008年ホーム社/集英社、933円+税、amazonbk1
●『同… 男ごよみ』(2008年ホーム社/集英社、933円+税、amazonbk1

 

 村野守美が池波正太郎作品を描きました。江戸を書かせてこれ以上はないという名人の作品を、手練のマンガ家がマンガ化しています。1995年から1996年にかけて今はなき文藝春秋社のマンガ雑誌に描かれたものと、2004年からホーム社の「時代活劇」に連載されたものです。

 本書の作者紹介では村野守美の代表作をビッグコミックオリジナルの『垣根の魔女』としてますが、それはちょっと違うんじゃないかと。『オサムとタエ』なんかはどうかなあ。

 すでに1971年虫プロ「COM 」に登場した『ほえろボボ』で、村野守美はその圧倒的画力を披露していました。

 何がスゴイかといって、人物やイヌもそうですが、その背景がスゴイ。リアルというのとはちょっと違う、白黒のコントラストをきかせたスタイリッシュな背景。1971年当時の最先端ですが、今から見てもすばらしい。この背景は時代劇でも描かれ、写真を二階調化した感じの建物など、村野守美作品の背景はひと味違うのです。

 イエス小池『漫画家アシスタント物語』(2008年マガジン・マガジン)には、「劇画屋の絵はダメだ!」と怒鳴る村野守美先生が登場しています。やっぱその絵は、劇画とは異なる、リアルな背景へのアプローチだったのですね。

 本書でもその背景となる江戸風景はすばらしい。お話は池波正太郎ですからもちろんおもしろいのですが、これをちゃんとマンガ化できる人材が今どれだけいるのか。たいへん楽しく読みました。

 さて今回の作品集は村野守美の熟練の技、と言いたいところですが、ちょっと残念なことに、作品ごとの出来不出来がありすぎる。作品によってはえんえんとコピーの人物が続くこともあって、なんともはがゆいことであるのです。

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April 21, 2008

メメント・モリ『あぶな坂HOTEL 』

 萩尾望都ファンを自認しているわたしですが、『残酷な神が支配する』が連載されていた期間は、申し訳ないけど早く終わんないかなーと思っておりました。10年は長かった。わたし自身は現代怪談のつもりで読んでいました。それにしても児童虐待がテーマのこの作品、苦手でしたね。

 『残酷な神』終了後、萩尾望都は『バルバラ異界』を経たあと、絵本を書いたりしていましたが(絵じゃなくて文章のほうを担当)、最近は短編に回帰しています。『山へ行く』(2007年小学館)も短編集でした、これもそう。

●萩尾望都『あぶな坂HOTEL 』(2008年集英社、400円+税、amazonbk1

 「あぶな坂」というのは中島みゆきの歌だそうでして、わたしは今回初めて聞きました。

あぶな坂を越えたところに あたしは住んでいる 坂を越えてくる人たちは みんなけがをしてくる

 謎の「あぶな坂」に謎の女が住んでいて、そこにいろんな男たちが坂を転げ落ちてくる、という謎の歌です。女は喪服を着ていますので、どうやら不吉な歌らしい。

 萩尾望都は、ここを黄泉比良坂(よもつひらさか)であると考えました。この世とあの世の境、あぶな坂には「あぶな坂ホテル」が建っていて、亡者たちはここを経由してあの世に旅立っていく。あるいは生き返ることもあります。そのホテルには美人の女主人がいて、これがシリーズを通じた主人公、というか狂言回し。彼女、美人ですけど脱衣婆、あるいは三途の川の渡し守ということになり、日本的な死後のイメージですね。

 ホテルを訪れる亡者たちの物語。これが短編連作になってます。ですから本作品のテーマは真正面から生と死です。登場人物たちは、自分の死を知らず、このホテルにやってきますが、それを知ったとき何を見ることになるのか。あいかわらず萩尾望都の短編は、名人ワザでうまいったらない。でもテクニックだけじゃないんですよ。

 著者も、そしてこれを読むわたしも、もうそれなりの年齢。メメント・モリの意識は10年前より強くなっています。生死のテーマは、限りなく重いです。

 そして本書のサブテーマが、誰にとっても永遠に未解決となってしまう、親子の問題です。いくつになっても、自分が死ぬ瞬間になっても、親というのは(生きてても死んでても)ありがたいけどメンドーなんですよね。

 こういう問題を扱うことで、本書はりっぱにオトナのマンガになっているのです。

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April 17, 2008

フキダシの歴史

 長谷川町子に関する本を読み始めて、はずみがついてしまい、『長谷川町子全集別巻 長谷川町子思い出記念館』(1998年朝日新聞社、1500円+税、amazonbk1、文庫版もあります)なども読んでおりました。

 長谷川町子のエッセイや対談、インタビューが収録されているのですが、これが彼女のマンガ以外の全仕事とすると、ずいぶん少ない。売り出し中の昭和25年ごろには、雑誌の取材で有名人のお宅拝見みたいなこともしていますが、しだいにこの手の仕事はどんどん少なくなっていきます。

 この本には長谷川町子と、師匠の田河水泡の対談(昭和27年)も収録されています。ここでの田河水泡の発言がおもしろかった。

記者 吹き出しというのは?
田河 その人物がしゃべっている言葉をまるく囲うでしょう。それを吹き出しと言う。それから足のうしろへまるくポッ、ポッとあるのがけり出し……。
長谷川 それは私、知らなかった。
田河 僕がこしらえたのだ。名称がなくちゃ困ると思ってね(笑)。それからたたくでしょう。頭でもお尻でも……あるいはぶつかってパッと星が出る。あれはたたき出し……だから吹き出し、けり出し、たたき出しと三つあるわけだ。それが漫画の画面の効果を上げてゆく。

 「吹き出し」は戦前から存在するマンガ用語として、長谷川町子にも通じる言葉でしたが、田河水泡が多用した足もとのケムリ=「けり出し」は、田河自身の命名で、弟子の長谷川町子ですら知らない言葉だったことになります。

 「たたき出し」というのも田河水泡の命名でしょう。殴られたとき頭からとびちる☆とされてますが、これが変化すると、☆が消失し三本の線だけになって、「何かに気づく」表現になっていきます。

     ◆

 さて、田河水泡は「吹き出し、けり出し、たたき出し」とマンガ表現を三種類ならべていますが、この中で、マンガをもっともマンガらしくしているのが、登場人物が発したセリフを記入するフキダシです。

 フキダシは英語でスピーチバルーン、あるいはスピーチバブルと呼ばれます。英語版Wikipedia によりますと、遠く紀元前、中米のマヤ文明にまでその祖をたどることができるそうですが、ま、それはおいといて。

 絵画で登場人物のセリフはまず、クチから空中にのびる文字として表現されました。これがもっともプリミティブな形であると言えるでしょう。文字の周囲に境界はありません。13世紀の神学者ライモンドゥス・ルルス(レイモン・ルルス)が描いたとされる絵物語では、この表現が見られます。

 いっぽうで中世の彫刻や絵画の中の人物が、文章を書いた巻物をカラダの前方にぶらさげているのを見たこともあるのじゃないでしょうか。これはフィラクテール(phylactere )と呼ばれる巻物、巻紙です。

 フィラクテールはギリシア語の「解毒剤」が語源であり、巻物とそこに書かれたふしぎな文章が我が身を守る意味があったと言われています。

 絵画の中では、巻物には聖書の文章が書かれたり、持っている人物(予言者や聖者です)の説明がされたりしていましたが、そのうち人物のセリフが巻物に書かれるようになります。登場人物がこの巻物を持ってそのあたりを歩くわけです。「丸出だめ夫」に登場するボロットですな(←すごくわかりにくいたとえですみません)。

 巻物が登場人物の手から離れ、空中にただようようになると、フキダシまでもう一歩。巻物の端っこは、人物の口の近くにあります。こういう空中にある巻物のことをフランス語ではバンドロール(banderole )と言うそうで、巻物じゃなくて旗とかリボンの意味になります。ネット上にある絵で例を出しますと、こんなやつね。

 この空中のリボンが簡易化されたのがスピーチバルーンだと言えます。古いものだと、13世紀英国のヨハネ黙示録で、現在のスピーチバルーンと同様の表現が見られます。

 18世紀になると風刺画の中にスピーチバルーンがよく登場するようになります。この絵では、語り手のクチ近くからバルーンがのびてセリフが書きこまれています。でもバルーンなのかリボンなのか、ちょっと微妙なところですね。でもこっちの絵になると、はっきりとリボンじゃなくなってます。

 どちらも、今の目から見るとあんまりかっこよくない。フキダシの端は語り手の口のところにあります。まさに声を「吹き出し」ているわけで、「フキダシ」という日本語訳はそのまんまですね。

 現代マンガの祖と言われるR・F・アウトコールト「イエロー・キッド」でも、当初はこの、クチからのびるかっこわるいフキダシが使用されてました。1895年11月10日付けのマンガで、オウムのクチバシや少年の口からフキダシがのびています。

 しかしフキダシのしっぽが、いつまでも語り手の口にくっついていたのでは、かっこ悪いうえに絵としての自由度が低い。このためフキダシはしだいに人物から離れていきます。

 「イエロー・キッド」でも、1907年ごろになりますと、フキダシのしっぽは人物の口から離れよう離れようとしており、1910年の作品ではフキダシのしっぽを口に近づけようという努力は放棄されていて、頭のてっぺんあたりでしゃべってることになってます。

 別作家では、1905年から連載されたウィンザー・マッケイ「夢の国のリトル・ニモ」では、連載初期からフキダシは人物からかなり離れていて、これだけでも「イエロー・キッド」よりモダンに見えます。

 このあたり、20世紀初頭で現在のように、「フキダシ内部の文章は、しっぽの指す方向の人物がしゃべっているのだ」という決まり事ができました。

 その後、バルーンやしっぽを雲形に変えることで、心で考えている内面の声も表現できるようになります。さらにはぎざぎざに変化させ、大声でしゃべらせたりも可能に。

 1970年代以降の日本の少女マンガでは、さらにひとまわりして、フキダシの枠がなくなり、文字だけが宙をただよう表現が多用されるようになります。まさに先祖返り。

 最近の羽海野チカあたりになりますと、コマとコマの間を黒く塗りつぶし、そこに文章が置かれたりするようになります。

 現代は、フキダシが解体される時代にはいっているようです。

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April 15, 2008

山川惣治と絵物語

 「絵物語」は、わたしの子ども時代にすでになつかしのメディアとなっていました。絵物語は紙芝居の直系の子孫となるのでしょうが、どちらもほぼ同時期、1960年前後に消滅していくことになります。

 紙芝居がテレビに負けたと言われるのに対し、絵物語はマンガにより淘汰されたと言われています。

 「絵物語」という言葉も今では注釈が必要なのかな。でもWikipedia には「絵物語」の項目自体がありません。はてなダイアリーのキーワードではこんなふう。

戦後漫画勃興以前に人気を博した、物語と挿絵が渾然一体となった、「読む紙芝居」のようなジャンル。代表作家に、山川惣治、小松崎茂。

 形式から定義するなら、絵ヒトコマに対して一連の文章が対応し、これが連続して物語を形成するもの。絵には基本的にフキダシや擬音は描き込まれません。文章は絵のコマの外に書かれたり、コマ内部に書かれたりいろいろです。

 絵物語の二大巨頭を挙げるなら、これはもう山川惣治と小松崎茂なのですが、小松崎茂については多くの画集が出版されているのに対し、山川惣治のそれは、これまでふしぎなほど出版されていませんでした。

 これは、小松崎茂が絵物語以外にもプラモデルのボックスアートや雑誌の口絵で活躍したことによりますが、それにしても絵物語の巨人、山川惣治の本がないのはさびしかった。

 今回、山川惣治の画業をまとめた本としては、おそらく最初のものが刊行されました。

●三谷薫/中村圭子『山川惣治 「少年王者」「少年ケニヤ」の絵物語作家』(2008年河出書房新社らんぷの本、1600円+税、amazonbk1

 山川惣治は1908年(明治41年)生まれ。本書には十代で描かれた習作や、戦前の紙芝居、戦後の代表作まで、多くの作品が紹介されています。

 戦後、マンガの勃興にさきがけて絵物語ブームというのがあり、山川惣治はその中心的作家でした。というより、本書では、山川惣治が戦前「少年倶楽部」に掲載した作品こそ絵物語の始まりであると書かれています。そうだったのか。

 山川作品で有名なのはもちろん和製ターザンもの「少年ケニヤ」ですが、ケニヤは新聞連載でしたから絵が小さい。ペン画の実力を十分に見せたのはその前作「少年王者」のほうです。この本でも「少年王者」がトップに紹介されています(書影のイラストは「ケニヤ」ですけど)。この「少年王者」の大ヒットこそ、子ども向け出版社としての集英社の基礎をつくったのです。

 掲載されているのはカラーの絵が多いのですが、モノクロの細かいペン画もすばらしいので、こちらももっと見たかった。

 惜しむらくは山川惣治の紙芝居が、「少年タイガー」と「闇の白菊」「王子ジーグフリード ニーベルンゲン物語」しか紹介されていないこと。代表作「少年王者」の紙芝居版は、戦前も戦後も描かれたはずですが、これまで一回も見たことありませんから、もう現存しないのじゃないでしょうか。

 本書にはくわしい書誌や年譜もあり、これはもうすばらしい仕事と言うしかありません。

 豆知識をひとつ。荒井由美の歌に「海を見ていた午後」というのがありまして、

山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には 遠く三浦岬もみえる ソーダ水の中を 貨物船がとおぉぉるぅ

と歌われています。この「ドルフィン」は山川惣治が経営していたレストランであった、ということもこの本を読めばわかるのでありました。

 この出版を機会に、山川作品の復刻がなされないものでしょうか。「少年王者」とかすごくおもしろいんですけどねえ。

 ネット上で絵物語についてのくわしいサイトは、うちのブログにもときどきコメントをいただく「しんご」氏による「山川惣治と絵物語の世界」が、ほとんど唯一のものでしょう。今回の本でも参考文献として挙げられています。

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April 11, 2008

家族が書いた長谷川町子

 『サザエさん』の作者、長谷川町子は三姉妹の真ん中で、母親を含めた四人の女性の物語は、かつて1979年、NHKの朝ドラにもなりました。タイトルは「マー姉ちゃん」、長谷川町子役が田中裕子、姉のマリ子が主役で熊谷真美ね。

 だもんでみんな、長谷川家ご一家についてはなんかこう、よーく知ってる親戚みたいな気がしてますが、ホントはそんなことはないはず。

 で、長谷川家三女のかたの書かれた自伝がこれ。

●長谷川洋子『サザエさんの東京物語』(2008年朝日出版社、1200円+税、amazonbk1

 著者は1925年生まれですから、ことしもう83歳ですが、軽妙な筆致がすばらしい。

 母親と三姉妹が福岡から東京に引っ越し、さらに疎開で福岡に戻り、戦後再度上京。家族はひとつの家に住み、家族で作った姉妹社という出版社から『サザエさん』を出版します。『サザエさん』が国民的人気マンガになったのは、この姉妹社の単行本が全国どこの書店にも揃えられていたことも大きな要因だと言われています。

 内容は三女から見た家族の肖像。多くは長谷川町子について書かれています。これはかつて長谷川町子自身によって書かれたものが、別視点で記述された大爆笑エッセイでもあります。

 あとがきによりますと。

町子は人前に出ることが苦手だった。私生活や生活など、実像を知る方が少ないので、いろいろの憶測や、似ても似つかぬ人間像が紹介されたりすることになった。それで、家族の中での町子を、ありのままに書き残しておきたいと思った。

 本書のおどろきは、実はラスト近くになってからの展開にあります。

 1983年、家を新築し引っ越す段になり著者はそれまで同居していたもとの家に残り、姉ふたりとは決別することになります。わたしの思いこみかもしれませんが、長谷川家の三姉妹はずっと仲良くしてたような気がしてたから、これにはびっくり。

 そして60歳近くになった著者は彩古書房という出版社をおこし、心理学関連中心の出版を始めます。彩古書房は、1983年から1995年ごろまで活動していたようです。千葉敦子『ニューヨークの24時間』というヒットも生んでいます。

 本書は『サザエさん』と密接にかかわっていた著者による、『サザエさん』に対する決別の書でもあるのです。

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April 09, 2008

ゲゲゲの家族

 自分の妻と娘が書いた本がほぼ同時発売、しかもテーマは自分、てのはどんな気分なんでしょ。

●武良布枝『ゲゲゲの女房 人生は……終わりよければ、すべてよし!!』(2008年実業之日本社、1200円+税、amazonbk1

●水木悦子『お父ちゃんと私 父・水木しげるとのゲゲゲな日常』(2008年やのまん、1200円+税、amazonbk1

 

 前者は、水木しげるの妻の自伝。後者は次女の書いたエッセイです。

 水木しげるは自伝をいっぱい書いてますし、足立倫行による評伝もあるのですが、家族に見せる水木しげるとなるとこれはまた別です。生の姿が登場してます。

 今やすっかり自然体のように見える水木先生も、かつては

読者やファンに対しては意識して「水木しげる」の役を演じなければならないと思うようになっていた(『ゲゲゲの女房』)

そうですから、やっぱりこれらの本に書かれてる水木しげるは貴重ですね。

 これまでも知られていたいろんなエピソードが示すように、水木先生、奇人です。しかし偉人が奇人であるのは当然で、だからこそそのひとの書いた本を読むのだし、そのひとのことを書いた本がおもしろい。

 仕事も生活も、徹底してワンアンドオンリーのひとですねえ。

 ふたつの本でエピソードがダブってることもあって、似た読後感です(アタリマエか)。『お父ちゃんと私』の著者、水木悦子は1966年生まれでわたしよりずいぶん年下のはずですが、逆に年上に思えてしまうくらい、家庭内が昔ふうでのんびりしている。水木家の時間はわたしの生きた時間とはずれて流れてる感じがしてなりません。

 ちょっとおどろいたエピソード。

●東映が「墓場の鬼太郎」アニメ化を申し入れたとき、映画にするかテレビにするかを聞かれた水木しげるは、迷わずテレビを選びました。「一年でも二年でも、飯が長く食えるほうがいいからだ」(『ゲゲゲの女房』)

●「鬼太郎」が「墓場」というタイトルのため、アニメ化企画が頓挫しているとき、少年マガジン連載マンガのテーマソングを作る企画が立ち上がりました。このとき作られたのが水木しげる作詞の「ゲッゲッ、ゲゲゲのゲ」というあの歌(いずみたく作曲、熊倉一雄歌)。この歌の評判が良くアニメ化が再始動しますが、タイトルを「ゲゲゲの鬼太郎」に変更したのも水木しげるの発案だったとのこと。(『ゲゲゲの女房』)

●水木しげるがゲーテに傾倒してたのは他の著作にも書かれていましたが、ゴーギャンやムンクにもずいぶんくわしい。(『お父ちゃんと私』)

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April 07, 2008

サザエさん世界の電話

 TVアニメ「サザエさん」にケータイが登場した、というので評判になったのが本年1月6日放映No.5968「なつかしの火の用心」でのこと。

http://image.blog.livedoor.jp/hardcace/imgs/1/1/11881ce8.jpg

 さすがにサザエさん世界も、いつまでも昭和というわけにはいかなくなってきました。

 だからといってサザエさん世界で携帯電話が全面解禁されたわけではありません。昨日2008年4月6日放映のNo.6006「ぼくは居留守番」では、カツオ君にガールフレンドのかおりちゃんから電話がかかってくる。磯野家の固定電話は、今もダイヤル式の黒電話です。

 外出先からのかおりちゃんの電話を、サザエさんは「公衆電話からでもかけたんじゃないの」と推理するわけです。2008年4月のサザエさん世界では、小学生が携帯を持ってるよりも、公衆電話から電話してきたと考えるのがまだふつうのようです。

 現実世界で自分の周りがどうだったかと思いおこせば、株屋がでっかいケータイ(いやまだそんな言葉はなかったはずですから移動電話、かな)をエラソーに見せびらかせていたのが1991年(平成3年)ごろ。

 わたしが1994年(平成6年)に香港に行ったとき、あちらでは、日本じゃまだレアだった携帯電話を、道を歩きながらみんな大声出して使ってるのに驚きました。

 香港では有線の電話網を敷設するより、無線の携帯電話を普及させるほうが経済的に有利であるとの説明でしたが、それから数年で、日本でもあっという間にケータイ、PHSが普及しました。あれは有線があろうがなかろうが、普及する運命だったのですね。

 携帯の普及以後、大きく変わったのが、待ち合わせの風景です。携帯が存在しなかったころ、待ち合わせというのはまさにスリリングでありました。一度すれ違えば、それっきり。現在そういう風景は消えましたねえ。

 サザエさん世界では今、携帯をもってるひともいる、という時期のようです。「なつかしの火の用心」で波平が使った携帯も、ひとから借りたものでした。

 このサザエさん二作の脚本は、どちらも雪室俊一でした。サザエさん世界ではどうも計画的に、一歩進んで二歩下がる、みたいにゆっくりゆっくり携帯電話を普及させていくつもりのようです。

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April 04, 2008

仮面をつけた著者

 エッセイ/レポートマンガの秀作をふたつご紹介。

 ひとつは、傑作『暴れん坊本屋さん』の作者、久世番子の新作。

●久世番子『番線 本にまつわるエトセトラ』(2008年新書館、640円+税、amazonbk1

 『暴れん坊本屋さん』は書店員でもある著者が書店内のエピソードを描いた爆笑エッセイマンガでしたが、こっちは書店の外に出て、本にまつわるあれやこれやをレポートしたマンガ。

 番線とは、それぞれの書店に与えられているコードのことだそうです。

 興味深い話題がいっぱいです。校正さんの仕事ぶりとは。辞書の編集者は何をしているのか。写植とは何か。わたし実は写植というものの実際がよくわかってなかったのですが、このマンガで(ちょっとだけ)わかった気がしました。

 国会図書館のレポートでは、実は本を守るために人間より本を大事にしてるとか。いやいや、それでこそ国会図書館。えらいっ。

 著者自身をあらわすキャラは、書影にありますよう前作と同様、クチバシがあって歯があって、頭の上には毛が一本、まんまる体型の裸、なにやらわからん生物です。何かのトリなのかしら。すでに久世番子として認識される物体となってしまいましたね。

 もうひとつは、同じ「ウンポコ」に連載されてるこれ。

●志々藤からり『イカサマアシスタントへの道』(2008年新書館、640円+税、amazonbk1

 こっちは地方在住マンガ家のアシスタントをしてる著者の、日常を描いたエッセイマンガ。選ばれるエピソードは、マンガを「描く場」のことだけに特化してます。となるとテーマは画材や体調や人間関係。

 で、このマンガの著者をあらわすキャラは、ヒトなみの身長がある巨大イカ。なんじゃそりゃ。ただし久世番子ほどは著者キャラが立ってないのが残念。

 しかしエピソードの語り口はいかにも軽妙で、深刻にならず読者をおもしろがらせてくれます。人生そんなにかるがると生きていけるわけではないはずですが、ま、そこが表現者の芸というものですな。

 で、考えてみますと、著者自身のキャラが、ヒトですらない、というのがこれらの作品の軽さをつくっているのではないか。

 著者の自画像というのは、もちろんヒトとして描かれるのがふつうですが、自意識と微妙な関係があるのか、少女マンガ系ではくしゃくしゃっとテキトーな自画像を描くひとも多い。さらにシャイな作家になりますと、鳥山明のようにロボットにしてみたり、ヒトでない自画像を描くようになります。

 このヒトでない著者キャラクターがエッセイマンガに登場すると、ひと味違ってきます。『暴れん坊本屋さん』が成功したのは、エピソードのおもしろさもさることながら、何やらわからない、ヒトですらない、著者の暴れん坊キャラの魅力が大きかった。もしかするとあのキャラクターは、現実の著者とはまったく別の性格を持ってるのじゃないか。

 周囲のキャラはヒトとして描かれ、著者のみがヒト以外の何かであるというのは、マンガ内では別に奇妙なことでも何でもありません。ドラえもんにしてもねずみ男にしても、ヒトに混じってそういう異形のものが跋扈するのがマンガです。

 自分の似顔を描くことを放棄して、トリやイカと化した著者は、作品内で完全な匿名性を得ることができます。しかもマンガ内の肉体は変形も自由自在で、男女のヨロイすら脱ぎ捨てることが可能です。

 回りの登場人物はそれなりに素顔をさらしたひとたちで、そのなかで著者だけが匿名の仮面をつけ、自由に飛びまわることができる。これがマンガの軽さを生んでいるような気がします。

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April 02, 2008

サファイアは中学二年生

 えー、「なかよし」2008年5月号から、「サファイア リボンの騎士」(原作・手塚治虫、シナリオ・高橋ナツコ、まんが・花森ぴんく)が新連載されているわけですが。

 「なかよし」は付録ごとゴムでしばってあって立ち読みできませんので、ストーリーをご紹介。

     ◆

 時代と国は不明ですが、現代東京に似た都市。街のど真ん中にはセントラルタワーという超高層の電波塔(?)がそびえています。

 ところが一年前、突然その塔の先端に、島の形をしたものが突きささってしまいました。この謎の島は地上の人間を近寄せず、ひとびとはこれを「空島(そらしま)」と読んでいます。空島の上にはお城があったりしまして、これ実はシルバーランドであります。

 いっぽう、地上には白金学園という学校があり、そこに14歳の誕生日をむかえたサファイアという名の少女がいます。中等部三年にはかっこいいフランツ・チャーミングという先輩も在籍してる。

 で、このサファイア、オリジナルサファイア姫の、孫の孫の孫。実は彼女、シルバーランドの正当後継者らしいのですが、本人は知らない。シルバーランドのほうでは、ジュラルミン大公やらナイロン卿やら、鏡の中の魔女(ヘル夫人?)やらが、悪だくみをめぐらしながら、地上にいるはずのサファイア「王子」を探し回っております。

 魔女のしもべの攻撃を受けたとき、サファイアは妖精(?)のチンクの助けで、「リボンの騎士」のサファイア「王子」に変身し、悪を倒します。

     ◆

 というところまでが今月号。

 変身のかけ声が「めざめよ リボンの騎士(プリンセスナイト)! タラリラッター!!」で、彼女の必殺技が「よみがえれ! はるかなる銀の光(ルミナスアージェント)!!」。

 リボンの騎士というより、変身少女もの、セーラームーンかプリキュアか、といった感じではあります。

 まだ冒頭部なんで、おもしろいかどうか何とも言えませんが、マンガよりアニメ向けの設定かもしれませんね。

 それよりもわたしゃ、ジュラルミン大公とナイロン卿が、イケメンだったのに腰が抜けましたです。

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April 01, 2008

Wii Fit でやせるか

 ほとんどのひとには興味ない話でしょうが。

 わたしはデブであります。ものごごろついてからずっと太ってたし、大学時代にかなり運動してたころも太ってました。

 太ってる状態がデフォルトの人間でありますのでそれがあたりまえになってまして、いわゆるダイエットなるものをしたことはこれまでの人生で一度しかありません。30歳過ぎたころ、一年ぐらいは続いたでしょうか、ストレッチングと筋トレ中心でけっこういい体重まで落とせました。でもその後、転勤したり結婚したりして生活が変わり、数年かけてリバウンドしちゃいました。

 で、最近、Wii Fit を買ったのですが、これけっこういいじゃないか。10分間のボクシングエクササイズなんか、へとへとになります。自動で体重変化のグラフを描いてくれるのがいいですね。毎日体重をはかるのが習慣になってしまいました。

 今回は、食事制限はあまりしないと決めて開始してますので、週三回の飲酒習慣は変更してません。ただし甘いものは減ってるかな。

 Wii Fit でやせるか、という点ですが、わたしの場合は有効です。本日でWii Fit を始めて45日目ですが、4~5kg 減量できました。

 ただし大きな問題がありまして、Wii Fit やってると、読書時間が削られます。しかもベッドで本読もうと思っても、疲れてるもんだからすぐ眠ってしまう。明らかに読書量が激減してしまいました。というわけで近来になく積ん読が多くなってます。

 というわけで、最近更新頻度が落ちているのは、すべてWii のせいであります。マンガをとるか体重をとるか、とか迷ってるとすぐリバウンドしちゃいそうですけど。

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