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March 14, 2008

今ごろ『戦後マンガ史ノート』を読む

 わたしは石子順造のあまりいい読者じゃありませんでした。彼の文章については、雑誌に掲載されてるのを読んだとか、対談を読んだとか、共著の本を読んだとか、その程度。『マンガ芸術論』(1967年富士書房)は読んでません。

 石子順造『戦後マンガ史ノート』は1975年紀伊國屋書店発行。ただし同じ紀伊國屋から復刻されていて、今も買うことが可能です(1994年紀伊國屋書店、1748円+税、amazonbk1kinokuniya)。

 で、読んでみました。

 発行されたのが1975年ですから戦後30年目。著者は1929年生まれで、1977年に若くして亡くなりました。本書が刊行されたとき46歳です。批評家としてマンガプロパーのひとではありませんが、片手間になされたのではない本格的マンガ批評の先行者として、現在もリスペクトの対象になっています。

 本書は昭和20年代、30年代、40年代と三部に分けての記述になります。書かれているのは情況論で、マンガ史を自身の興味に引き寄せて語るという意味で、無味乾燥な本にはなっていません。

 実はもっとも興味深かったのは、序に当たる戦前・戦中のマンガの部分と、昭和20年代の子どもマンガ以外についての記述だったりします。このあたりは、現在あまり語られることのない分野です。

 戦後マンガ史はどうしても手塚治虫中心に語られる傾向があります。劇画にしてもアンチ手塚としての側面が強調されることが多い。しかし本書では手塚の重要性は認めながらも、意外なほど手塚に関する記述は少ないのです。つまり手塚にあえて触れずに書かれたマンガ史という印象ですね。

 これには1968年の手塚治虫と石子順造の論争(というか、手塚からの文句。手塚は批評されることが大嫌いだったようです)が影響しているのかどうか。

 著者の興味の対象と共感は、まず貸本時代の「劇画」にあります。

生活者の私的な羨望や嫉妬や悲哀や憤怒が、一冊でもよけいに売れる作品をという意識とバランスされて、いやおうなく作品に結実していったとき、劇画は劇画として生まれ、たんに安直、安価な娯楽であることも超えて、独自な表現のレベルに立ちあらわれたのだとぼくは思う。

 これが著者による劇画への賛辞です。当時の著者はこう考えていました。

「劇画」は他の語と区別されずに使われる形で生きつづけ、今日のマンガの活況を支えているのであり、もうめったに死語となることはない思われる。

 しかし、昭和30年代に勃興した貸本劇画は、マスメディアに取りこまれることで変質していった、というのが著者の理解です。著者はこの変質を好ましくないものとしていますが、実はそれが時の流れでもあると感じており、「風化」という言葉も使っています。

つまり、劇画は今、風化にたえてどのような命を生きているのかと、ぼくは不安なのである。

 劇画は劇画ブームを経てマスとしての人気は得たものの、当初の荒々しい魅力を喪失していきます。著者の不安どおり、現代ではこの劇画という言葉も、注釈なしにはもう理解しにくいものになってしまいました。

 昭和40年代のつげ義春と赤瀬川原平を紹介したあと、本書はこのように締めくくられています。

中年のぼくは、昨今のマンガがかきたくないのにかかれている、と思えてならない。というより、かきたいものを見失わせてしまうあり方で、まるで安手の物品のような商品として生産されていると思えてならないのである。

 作家性を否定するかもしれない、商品としてのマンガへの嫌悪感であります。本書は、著者が好きだった劇画への鎮魂歌であると言えるのかもしれません。

 著者のこの感情は、現代から見ると少し古典的すぎるようにも思えます。本書以後も作家性を失わず、しかも商業的に成功した作品が多く登場したことをわたしたちは知っているからです。

 しかし石子順造の先進性は、以下のような情況分析にあります。マンガブームが終わったと言われた1970~1971年ごろのマンガ情況はどのようなものであったか。著者によると以下のように要約されます。

 (1)当時の内田勝体制「少年マガジン」の失速は、少年読者を忘れ、マンガ読者をいっそうの受動性に固定した送り手側の責任である。(2)青年層の読者は、マンガを自己表現の手段として選び始めた。(3)絵画性の強いマンガが出現し始めている。(4)娯楽商品としての大手企業の手になるマンガとは別に、個人の手による「本歌と替歌ほどのちがいがある」マンガが出現しつつある。

 まさに現代のコミケを予想、先取りしていることに驚きました。

 この本が発行されてからすでに30年。戦後というくくりでも、歴史は倍の60年が経過しました。

 本書が書かれた直後、すぐれた少女マンガが多く出現しました。本書には新しい少女マンガとして、池田理代子、萩尾望都、土田よしこの名がちらりと登場するだけです。24年組を中心とする少女マンガを、三流劇画を、石子順造ならどう読んだでしょうか。

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Tracked on March 15, 2008 at 12:13 PM

Comments

 しかし、あの「石子順」という馬鹿はなんとかならんのでしょうかね。石子順三さんのお名前を聞くたびに思います。なんか最近は大学教授になったようですが「勘違い」でなっているのかも知れませんが。

Posted by: SHIN | March 16, 2008 at 05:21 PM

すみません、石子順造先生でした。

Posted by: SHIN | March 16, 2008 at 05:22 PM

『戦後マンガ史ノート』は大昔、新書で読みました。

この本には、つげ義春や水木しげるによるかれらの貸本まんが家時代の制作状況の回想が引用されています。

「貸本マンガ時代の制作態度は、いまからみればまったく不真面目なものだった。ほとんど食うためにのみ描いていた(本当は、そのことが不真面目かどうか疑問なのだが)。そのうえ一生マンガで生活していけるとは思っていなかったからなおさらで、自分の描いた本なんか残しておかなかったし、二、三年もすると、自分で作ったストーリーまで忘れてしまう始末だった。それくらい気持が集中していなかったわけだ。
 貸本マンガ界そのものも、日陰のような存在だったから、不真面目や出鱈目だけでなく、盗作や模倣も大手を振ってまかり通っていた。誰も文句を言う者もなかった。賢明だと思う。そうでなければ狭い穴倉の中の秩序は保たれていなかったと思う」 (昭和44年9月10日発行『つげ義春初期短編集』の「あとがき」より)

「貸本マンガというのは、激しかったです。あれは一人で全部かきますから、売れなかったら、全部責任がくる。本当にもう必死です。安い原稿料で、一冊三万円くらいで、命がけでかくわけですよ。二回出して売れないと、クビです。あのころはもう、心から笑ったことはないです。……」 (『サンデー毎日』・昭和45年2月15日号より水木の言)


石子はこのふたつの文章を、「貸本マンガ家としてのかれらの生活者としてのありようは、想像以上にひどいものであった」ことの証言として引用しています。

しかし冷静に読めば、つげはその文章の中で、かれの貸本まんが家としての「制作態度」をかいているにすぎないことがわかります。水木の文章になると、制作条件のきびしさを通して、水木の作家としてのありかた以外の部分がすけてみえますが、どこにもかれらの作家としてのありかた以外の部分、すなわち「生活者としてのありよう」が直接には語られているわけではありません。

劇画について論じるとき、まんが表現についての独特な考え方のせいで、石子は「貸本マンガ家としてのありよう」を、それを一面としてふくんだ「生活者としてのありよう」ないしは人間としてのありようと混同したりすりかえたりするようです。

石子が貸本まんが家としてのありようを生活者としてのありようにまぜこんでしまう原因のひとつは、水木やつげの証言にあるような、「盗作や模倣も大手を振ってまかり通っていた」り、「二、三年もすると、自分で作ったストーリーまで忘れてしまう……くらい気持が集中していなかった」りする、貸本まんが家の作家としての未成熟もあったとは思います。

石子によれば、

「(当時の人気まんがである手塚まんがを、貸本まんが家の多くは、)図象的に真似できても、キャラクターの設定や物語までは、めったに模倣できなかった。はっきりいいきってしまえば、かれらには手塚が持ち合わしていたような知識やヒューマニズムも、あるいは近代科学に対する一定の理念も不足していたのである。そこで、ストーリーにしても、映画で探偵ものがはやればたちまちそれを寸借し、読みやすい大衆小説からも借り、流行歌の歌詞からすじをでっち上げることなどは、ごく当たり前の工夫だったのである。」 (『戦後マンガ史ノート』)

石子のこの文章は多分正しいのでしょう。しかし「劇画」の命名者である辰巳ヨシヒロの

「それぞれグループのようなものをつくって新しい手法を研究し、なんとか新しいマンガ(と思っていた)を開拓しようとしていた」 (辰巳ヨシヒロ『劇画大学』)

ということばを次のように解釈するに至っては、論理的強制とはいえ、アレレと思わざるをえませんでした。

「新しいマンガを創造しようというような自負に満ちた創作者の苦しみというよりは、明らかに劣悪な条件の下で働きつづける生活者の、生活のための苦闘そのものではなかろうか。」 (『戦後マンガ史ノート』)

「辰巳のその言葉は、かき手として置かれていた自分たちの職業上の要請を、みじめさと裏腹な自尊心で強く飾って、創作者としてのタテマエにすりかえてみせたものであったにちがいない、とぼくは思う。」  (同上)

こう石子は書いていますが、辰巳の貸本まんが作家としての主体性を語っていることばを、「創作者」の面を「生活者」の面に「すりかえて」「タテマエ」にしてしまったのは、石子自身ではないでしょうか。

芸術にたいする石子の鑑賞眼の高さ・確かさがこんな傲慢な筆致を生んだのかなと思ったりします。

かれの流れを汲む人たちの評価する作家とその作品の芸術としてのレベルが、絵を一瞥しただけでもでもドキリとするものであることは今更いうまでもないことですが。

Posted by: 留公 | May 01, 2008 at 04:40 PM

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