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February 02, 2008

マンガキャラとしてのムハンマド(その1)

 日本マンガはこの世のあらゆる事象をマンガにしてしまおうとしてきました。ムハンマドの生涯も劇的ですから、もちろんマンガの題材になりえます。しかしイスラム教スンニ派では神や預言者を絵にすることを禁じています。それでは、ムハンマドはマンガでどのように描かれてきたのでしょうか。

     ◆

 どこの図書館にも小学校にも置いてあるのが学習マンガ。学習マンガが世界史を扱おうとするなら、ムハンマドは無視できません。

 まずは集英社、1980年代のものから。

●『集英社版・学習漫画 世界の歴史人物事典』(1984年集英社、amazonbk1

 これは現行のものより、ひとつ古いシリーズになります。1984年に出版されたこのマンガ事典では、マホメット=ムハンマドについて2ページのマンガが掲載されていますが、とくに表現に特殊なものがあるわけではありません。

 この本にはムハンマドの肖像画の模写も載ってますし、マンガのなかでムハンマドはフツーに顔が描かれています。ムハンマドは、マンガ家(女性かな?)の個性なのでしょうか、さらっと描いたジミ顔の人。

 1984年の日本では、ムハンマドはマンガのキャラとしてごくふつうに成立していました。この本はその後も再版を重ねています(わたしが確認できたものは、1993年3月30日発行の第2版第22刷)。


 しかし1986年になると、集英社は同シリーズでこのような本を出しています。

●『集英社版・学習漫画 世界の歴史 6巻 マホメットとイスラムの国ぐに(イスラム世界)』(1986年集英社、amazonbk1

 マンガを描いてるのは、懐かしや、古城武司。タイトルはマホメット=ムハンマドですが、表紙イラストの真ん中の人物、これはムハンマドじゃなくて、サラディンです。右は初代カリフのアブー・バクルで、左はトルコ兵らしい。

 この本で集英社は、ムハンマドの顔を描いていません。ムハンマドの初登場は彼の誕生時ですが、布にくるまれてて姿は見えません。

 その次に登場するとき、ムハンマドは少年になっています。砂漠でラクダに乗ってますが、下から見上げる構図で逆光なので、顔や上半身は影になってます。

 このページの欄外にはこのような注意書きがあります。

この本では、マホメットの顔をえがいていません。それは、イスラム教徒のなかに、神や預言者の顔をえがいてはいけない、という教えがあるからです。

 この本でのムハンマドはからだは普通に描かれても、顔が描かれることはありません。その後もムハンマドは、逆光の影やうしろ姿が駆使され、顔が登場しません。

 古城武司は逆光をうまく使って、できるだけ描写が不自然にならないようにがんばっています。実はわたしが調べた限りでは、顔を隠したムハンマドとしては1986年のこの古城武司による作品がもっとも洗練されていて、後年のお手本になったような気がします。

     ◆

 1980年代、他社ではどうでしょうか。中公コミックス全17巻の伝記シリーズのうち一冊。

●『伝記世界の偉人 4巻 マホメット』(1985年中央公論社)

 のちに合本され、こういう形でもまとめられました。

●『ジュニア愛蔵版 世界の四大聖人 孔子・シャカ・キリスト・マホメット』(1989年中央公論社)
●『世界の四大聖人 1巻 キリスト マホメット』(2003年嶋中書店)

 手塚治虫監修、手塚プロダクション構成で、マンガを描いているのが原田千代子。現在も、はらだ蘭の名前で活躍されてます。

 この作品は集英社の古城武司版より一年早い出版ですが、この本にもこういう注意書きがあります。

イスラム教ではマホメットの顔を描いてはいけないことになっています。これとても大切な決まりなので、この本でもマホメットの顔は描かれていません。

 この本ではマホメットは、うしろ姿や黒塗りのシルエットで表現されてることが多いです。ただしこのマンガでは、表情をあらわす口は描きたい。というわけで、口もとだけコマのなかに描かれ、それより上はコマの外で見えなくなってる、という表現がされています。

 そのうちに、鼻も描いてみたくなる。そこで鼻と口は描いて、目と顔半分を黒塗りの影ということにしてみる。逆光も混ぜてみる。とまあ、ずいぶん苦労した結果、ムハンマドは目さえ描かなきゃ、ま、いいだろ、という描写になりました。一年後の集英社・古城武司版に比べるとまだシバリはゆるいですね。


 ところが、1980年代末でもこういうのもあります。

●『まんがで学習 年表世界の歴史 2巻 大帝国のさかえ』(1989年あかね書房)

 マンガは、藤子不二雄の弟子筋に当たるそうですが、原島サブロー。

 ここでは2ページだけですが、ギャグタッチのムハンマドがふつうに顔も描かれ、マンガのキャラとして行動しています。

     ◆

 1991年、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』を日本語訳した五十嵐一氏が勤務先の筑波大学で殺害される事件がありました。それより先、ホメイニがラシュディに対して死刑を宣告したのが1989年です。この事件は、日本のマンガが宗教、そしてムハンマドをどう描くかという大きな問題を提起したはずです。

     ◆

 1990年代のマンガはどうだったでしょうか。まだ表現はゆれています。

●『学習にやくだつマンガの本 5巻 宗教』(1991年ポプラ社)

 表紙に描かれた横顔のマホメットらしき人物のイラストには、目がありません。ここでも、目を描かなければ顔を描いたことにはならない、という考えが採用されてます。

 なかのマンガを描いてるのはアニメ出身の倉橋達治。達者な絵です。ここでのムハンマドは、顔が完全に黒塗り。逆光でも何でもありませんが、ただそういうものであるとして描かれています。ただしヒゲが逆に白く描かれているので、なにやらおじいさんみたいになってました。


●『ぎょうせい学参まんが 世界歴史人物なぜなぜ事典 5巻 イスラム世界の成立 マホメット アリー イブン・ハルドゥーン』(1992年ぎょうせい、amazonbk1

 この本は今も現役で買うことが可能です。マホメット=ムハンマドの章は、葉月和夫がマンガを描いてます。またアリーが主人公の章にもムハンマドが登場します。この章を描いてるのは三森明。

 この本のムハンマドの章を描いてる葉月和夫は、うしろ姿や逆光ばかりではどうしてもイヤだったらしく、真っ正面からの顔も描いてます。ただし、ターバンの影にかくれて目から上はアミの斜線で隠されている、という表現。この場合光は上方から来るわけですな。ここでも、目を隠せば顔を描いたことにはならない、と考えられています。

 で、こうなると、マンガ表現はしやすくなりましたが、目から額のあたりまでアミ斜線がはいってるので、何やらアヤシゲな感じになってしまってます。また光源の位置とターバンの影との関係は無視されていますから、絵として奇妙。

 三森明のほうは、逆光で顔は黒塗り、という表現を使ってます。

 あとこの本、ムスリム三人の伝記であり、表紙に三人の顔のイラストが描いてありまして、こりゃどう考えてもひとりはムハンマドだよなあ。マンガで顔は描かないけど、表紙イラストはOKというのは、出版社の方針としてもどうなのか。


 小学館はどうでしょうか。

●『小学館版・学習まんが 世界の歴史人物事典』(1995年小学館、amazonbk1

 これも現役で買える本です。こっちはまた極端で、ムハンマドの肖像画が掲載されるべき部分は空白。さらにマンガ内のムハンマドは、顔どころか、からだも手足も描かれません。彼はコマの外にいるか、もしコマのなかに登場するときも、集中線で光源のように表現されてます。

 集中線で描かれた光源からフキダシが出て、そのあたりの人物と普通に会話しているわけでして、マンガとしてはもう居直った表現とでも言いますか。

     ◆

 ムハンマドの表現は、全身をまったく描かない小学館版から、顔だけを隠す集英社版、そして目だけを隠す中央公論社版やぎょうせい版、そしてふつうに全身像を描いているものもあり、まったく一定していません。出版社横断的に統一された基準もありませんでした。マンガ表現は、迷っています。

 偶像を禁じるということは、顔を描かないということなのか。手や足は、からだは描いてもいいのか。顔を描かないといっても、黒塗りにしておいていいのか、うしろ姿ならいいのか。目を隠せば、鼻や口やヒゲは描いてもいいのか。

 そもそもムスリムにとって、「ムハンマドのマンガ」というものは許容できるものなのか。

 ムスリムに質問したとしても個人によって意見もちがうでしょうし、仮に質問できたとしても宗教指導者がマンガ表現がどういうものか知ってるわけもなし。すべてが手探りです。

 以下次回

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Comments

 この種の自主規制(のようなもの)は日本人が勝手に忖度してやってもあんまり意味がないと思うんですけどね。ちびくろサンボの絶版なんかといっしょでそこにあるのは「日本の問題」だけだとしか思えませんから。
 以前アフガンでは偶像崇拝禁止の原則から肖像画まで禁止されてたって報道がありましたが、アラブ圏全域で見ればマンガ表現はけっこうあるらしくオリジナルのスーパーヒーローコミックスが英訳されてんのを最近知ってけっこうびっくりしました。その辺ちゃんと読むとイスラムの「神」の図像表現による描写もある程度確定的なことがいえるかもしれないですね、たしかネタ的にはオカルト系のヒーローだったんで。

Posted by: boxman | February 02, 2008 11:05 PM

私は学研『世界の偉人まんが伝記事典』(100人ぐらいを、一人2p程度で一気に紹介)が印象に残っています。
赤塚不二雄に似ている・・・よこたとくおかな?

ところで、配慮はそれはしてもいいんですけど、理屈からすると一宗教の教義を非信者に押し付けている、ことになるんですけどね。

手前味噌ながら拙ブログの過去の文章を。
======================

…そもそも、この禁忌は一宗教内部の話なのである。その教義に基づき、その信者が行うのは何も矛盾は無い。では「他者」が行う場合については?「人が嫌がることはやらない」「異文化には寛容に」・・・・・であるから、

◆非イスラム教徒は、ムハンマドを漫画や絵にしてはならない
◆イスラム教徒は、非イスラム教徒のムハンマド漫画化にクレームをつけてはならない

のどちらか?

Posted by: Gryphon | February 03, 2008 12:45 AM

アフガンでは偶像崇拝禁止の原則から肖像画まで禁止されてた<NHK記者が書いた「大仏破壊」という本によると、アフガンのタリバーンはイスラム教解釈学の中でも、一言で言えば「相当なイナカモノ」らしく、大仏破壊の時もアラブの中のエリート的なイスラム学者たちはだいぶ苦々しく思っていたようです。

ただ、サウジも本来ならかなり偶像には厳しいそうですね

Posted by: Gryphon | February 03, 2008 12:49 AM

boxman さん。
それはちょっと反論。
アラブといっても地域単位でがらりと違うし、絶対原理主義のワッハーブ派が支配しているサウジアラビアでは今もなお(アメリカとあんなに懇意な関係にも関わらず)基本絵画的表現は禁止のはずです。ある国では実質OKなことでも一歩別の国に行けば(解釈や政治的配慮から)禁止なんて珍しくもないのがアラブ圏の国々ですから。
それにイスラムはアラブだけが厳しいというのではなく
狂っているのかとしか思えないこの手の決まり事で有名だったのはペルシア系のイランだったり、アフリカのスーダンだったりしますからアラブイコールイスラムイコールひとかたまりと見るのは危険なんじゃないかと思います。どこに線引きされているかは所詮異教徒にはわかない上にイスラムの中もアラブ(スンニ派という大きな枠組みがあっても)の中でも細かい考えや習俗は違うことはありますから、イスラムの中ではこれが許されているからどこでも許されているとは限らないでしょう。(むろん最高裁判所の判例に近いイスラムの聖職者たちの判断というのがありますが)
それとboxman さんが仰っているイスラムのアメコミ、というのが例の99人のヒーローたち、のアメコミのことを仰っているのかなと思いますが、日本でも屈指のイスラム通の人たちが書いた本を読めば分かると思うのですが、別にイスラム教自体はアラーに絶対的な帰依を誓っていても、アラーそのものを疑うことまでは禁止してません(というより出来ません、神も仏もいやしない!に近い言い方も向こうにはあるようですので)
ただ日本などとは少し違うのはアラーは絶対であるから、逆にそのような考えも許されるというところでしょうか(絶対的な神はどっちにしろいるのだから、その中でそんな思いに浸っていても、それ自体を禁止するほどではない。無論それはおおっぴらに叫んだりするたぐいでは決してない)だからあれだけの人数をそろえてイスラムを称える物語を作ろうと思えば、その中にもそんなのはあるよね、みたいなもんがあっても別に不思議ではないのです。
また、イスラムだってキリストの精霊(神と精霊の、ではなく日本でいう神様的な意味での精霊)のような不思議な話や、キリストの聖人信仰とほぼ一緒な現世利益的なイスラムの聖人信仰だって向こうにはありますし、アラーが絶対だからといって、アラーの教えだけが全てだ、というほど狭い価値観で向こうだって動いているわけではないのです(同じ聖典であってもそれをいくらでも解釈出来る、と言う意味で)

問題はそれを異教徒が勝手に判断してもらいたくはない、というところでしょう。あのムハンマドを巡る問題は本来はイスラム教徒が自分たちで判断すべき事柄を、なにも知らない異教徒のキリスト人が自分たちの勝手な理屈で微妙な触れて欲しくない範囲の話しをぶったぎって風刺に使った点にあるのであって偶像崇拝とは微妙に違う問題にあると言えるはずなのです。
またムハンマド自身はイスラムの中では他の誰とも代わりないタダのおっさんであって、アッラーから教えを託された点が違うだけ、の人にすぎず、その意味では誰かが書いていたことですが、偉大な人に違いはなくても、
結局これは公人といえども何の事情も知らない人が勝手にその人を揶揄していいのか、の話しになるではないかというのがこの問題に一番近いことなのではないでしょうか。

この話しはどちらかと言えば天皇の尊顔を正面から書いていいのかという日本映画が代々抱え込んできた問題に近いのではないでしょうか。
今まで明治以降の天皇の顔は正面から描かれることはまずありませんでした(どうも今回のエントリを見ると、管理人はそのあたりを考えながら書いたような気がする)特に昭和天皇は役者が出てもまともな形で出ているのではなくあくまでも演出上の書き割りを超えて画面に出ていることはなかったはずです(だからソクーロフの映画は画期的だったし、日本では作れない映画を最高に近い形で撮ってくれたことにはむしろ感謝すべきでしょう。あれには日本に対する本当のリスペクトがあった。余談ですが)


Posted by: まうまう | February 03, 2008 01:00 AM

>まうまうさん
えーと
>偶像崇拝禁止の原則から肖像画まで禁止されてたって報道がありましたが、アラブ圏全域で見ればマンガ表現はけっこうあるらしく
という書き方をしているのを見ればわかるように地域や宗派(さらにその内部でも)濃淡があるのは前提にしてます。ですから、なんに「反論」されてるのか理解に苦しむのですが。

>イスラムのアメコミ、というのが例の99人のヒーローたち
ちゃいます。インドネシアはアジアですからもともとけっこう情報も作家も作品も流通してます。
私がいってるのは
http://www.akcomics.com/indexenglish.htm
コレです。

Posted by: boxman | February 03, 2008 02:23 AM

>boxmanさん
おそらく「確定的なことが言えるかも知れません」と言う表現が誤解を招いたんではないでしょうか。

作者がいまなお神を信じているかはわかりませんが
サトラピの「ペルセポリス」には子供の頃の想像的存在としての「神」が登場していましたね。

Posted by: 目にか | February 05, 2008 03:02 AM

こんな動きがありました。資料として。

http://www.asahi.com/international/update/0212/TKY200802120301.html

ムハンマド風刺漫画家を殺害計画容疑、3人逮捕
2008年02月12日23時48分


http://www.technobahn.com/news/2008/200802081816.html
イスラム教徒がウィキペディアに反発、モハメッドの画像掲載は宗教の冒涜

【Technobahn 2008/2/8 18:16

Posted by: Gryphon | February 13, 2008 02:41 AM

Wikipediaへの抗議はともかく、前者には慄然です……

Posted by: 漫棚通信 | February 13, 2008 10:54 AM

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