登場人物全員鈴木先生
世評の高いマンガについて、わたし、アンチの立場に立つこともありまして、実は武富健治『鈴木先生』もそうです。
アレおもろいか、と問われれば確かにオモロイのですが、作者の意図の外側がオモロイのであって、作者のたくらみを喜んでるわけではないような気がします。
かつて2巻が発売された段階で、わたしはこのように書きました。
梶原一騎マンガの登場人物がすべて梶原一騎の分身であるのと同じく、『鈴木先生』の登場人物は、教師も生徒も親も、みんな作者であることがよっくわかります。
今回、4巻(2008年双葉社、819円+税、amazon、bk1)を読んで、いっそうこの思いが強くなりました。
4巻では、鈴木先生がご近所の公園で、中学生のセックスについて指導を行います。公園に集合したのは、主人公・鈴木先生、その教え子たち、その保護者。ここで登場人物たちは中学生のセックスについて、遠慮せずに討論を開始します。
意見があり反論があり、このシーン、ディベートマンガになってますね。
笑ってしまうのは、登場人物が全員、「鈴木先生」になっちゃってるところ。みんな一所懸命、汗と涙をだらだら流しながら、顔を紅潮させて、真剣に怒鳴りあってます。
「鈴木先生」のキーワードは「過剰」ですが、過剰なのは、作者だけじゃなく、鈴木先生だけでもなく、このマンガの登場人物全員がそうなんですよね。だからこのディベートのシーン、鈴木先生がいっぱい登場して会話してる感じ。
でも、読者である自分は、この輪には入ってゆけないよなあ、とも感じてしまいます。今もそうだし、かつて中学生時代のわたしも、そうだったでしょう。ディベートをする態度においても、そこで語られる内容においても、あそこに自分はいないなあ。わたしゃそういう性格なんですよ。というか、みんな、ほんとに鈴木先生の授業、受けたいか?
そこに参加できるかどうかで、このマンガの読みがずいぶん変わってくるような気が。
というわけでわたしは、「鈴木先生」世界から疎外された読者となってしまっているのでした。実は多くのひとがわたしと同じように感じながら読んでるのじゃないかしら。自分の行動や考えと、鈴木先生のそれとのズレをおもしろがってるのじゃないか、と想像するのですが、どんなもんでしょ。
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Comments
作者の経歴紹介も、巻が進むほど過剰になってきてニントモカントモ
Posted by: 1092 | January 21, 2008 04:46 PM
私も似たような感想を抱きました。
鈴木先生‥というか作者のテーマに対する脳内の葛藤をそのまま書き写したようなディベートシーンが多く、その点が、立場が違いすぎてそのまま書き写せないキャラクター‥例えば、一巻の小学四年生の女の子が最後まで出てこない辺りなどに反映されているように思います。
これをメタに突き詰めると『ホムンクルス』になるのかもと思ったり。
Posted by: Nanai | January 20, 2008 10:18 PM