史上最も忙しかったマンガ家
日本マンガ史上(すなわちそれは世界史上、ということになりますが)、最も忙しかったマンガ家はだれでしょうか。
手塚か石森か横山か赤塚か水木か。
確認してませんが、同時に最もたくさんの連載をかかえていたのは、梶原一騎あるいは小池一夫じゃないかと思います。でもあのひとたちは、絵を描いていたわけじゃないからなあ。
マンガ家というくくりにしますと、私見ですが、それは永井豪ではないかと。
ときは1972年。永井豪は以下のマンガを連載していました。
まずジャンプ。
●ハレンチ学園(第三部~ヒゲゴジラ伝~第四部):「週刊少年ジャンプ」41号まで
●マジンガーZ:「週刊少年ジャンプ」42号から
一号の休みもなく、ハレンチ学園からマジンガーZに移行してます。そのころマガジンでは。
●オモライくん:「週刊少年マガジン」24号まで
●デビルマン:「週刊少年マガジン」25号から
こちらも一号の休みもありません。そのころサンデーでは。
●ケダマン:「週刊少年サンデー」3・4号から45号まで
さらにチャンピオンでは、これが長期連載中。
●あばしり一家:「週刊少年チャンピオン」
そしてキングという雑誌もありました。
●スポコンくん:「週刊少年キング」2号から8号まで
というわけで1972年の初めごろ、短期間ですが、永井豪は週刊マンガ誌五誌制覇というのを達成していたのですねー。すごいですねー。きっと寝てません。おそらく空前にして絶後でしょう。(←違いました。「ジョージ秋山の場合」をご覧ください)
「デビルマン」という現在まで残る作品(デビュー40周年を記念して、愛蔵版としてまた復刊されてます。2008年講談社、2000円+税、amazon、bk1)は、こういう環境の中で描かれてたわけです。
(今回の記事は「永井豪とBBRの世界」というサイトのデータを参考にさせていただきました。ありがとうございました)
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Comments
高千穂さん
3日前は、ご苦労さまでした。ああいう席では、あまり会いたくないですね。
あの絵を描いたとき、マネージャーのT村さんに監修を頼んだのですが、その席で、「きみ、うちのアシスタントにならない?」とスカウトされました(^_^;)。
そもそも永井さんが石森先生のところから独立して忙しくなりはじめた頃、「永井さんがアシスタントを捜しているんだけど、紹介してやろうか?」と、同人誌の会長をしていた、ひおあきらから電話がかかってきました。喜んで紹介を頼んだのですが、「アシスタントは小山田つとむさんに決まった」とのことで、栄えある永井さんのアシスタント第1号になりそこねたのでした。こちらは高校生でしたが、永井さんのアシスタントになれるのなら、高校も中退する覚悟でした(^_^;)。
T村さんに誘いを受けたときも、編集プロに入ったばかりだったので断ったのですが、都合2回、永井さんのアシスタントになり損ねたことになります。でもアシスタントになっていたら、桜多吾作さんの後輩だもんなあ……。ならなくて正解だったかもしれません(^_^;)。
Posted by: すがやみつる | January 13, 2008 06:16 PM
仕事場の絵、泰宇さんの「おちる、おちる~」は当時、ダイナミクプロでかなり受けていましたよ。そうか。これはすがやさんの作品だったのか。
Posted by: 高千穂遙 | January 12, 2008 09:08 PM
重ねて申し訳ありません。別エントリで書き直してみました。
Posted by: 漫棚通信 | January 12, 2008 12:40 PM
「ジョージ秋山の隠し部屋」(http://chestjp.com/chest/jo-jiakiyamaura.htm)というサイトで、作品リストの前に、
>11月9日 Kさまより
>1969(昭和44)年「ざんこくベビー」連載 週刊少年チャンピオン 69年1号~71年24号
という注釈があります。70年13号というのは完全週刊化になった号で、それまでは隔週でした(その頃、同誌の柱に入っていた「世界の国旗100」などの一口知識などを書いていました(^_^;))。
Yahoo!オークションに出展されている70年後半の「週刊少年チャンピオン」をチェックしましたが、これらにも「ざんこくベビー」は連載されていました。
http://spreadsheets.google.com/pub?key=p58upnmKClaoSorPeK5sycQ
「ジョージ秋山の隠し部屋」というサイトを元に、「ざんこくベビー」の連載期間を71年までにしてみると、69~71年の秋山氏の週刊誌の連載状況は、こんな感じになるのではないかと思います。
Posted by: すがやみつる | January 11, 2008 06:59 PM
スミマセン、わたしのマチガイです。「ざんこくベビー」は1969年から1970年13号まで週刊少年チャンピオン連載。その後、1970年末より月刊のチャンピオンで連載再開されてるようです。
週刊少年チャンピオンの「ざんこくベビー」は、ぎりぎりサンデーの「銭ゲバ」の時期と重なってるみたいです。
Posted by: 漫棚通信 | January 11, 2008 05:58 PM
「いつか殺してやる」の『ざんこくベビー』は「少年チャンピオン」じゃありませんでした? このマンガも手伝ったはずなんですが。でも『ギョロメン博士』あたりとは連載時期がずれているのかな……?
当時、自分で買っていたマンガ雑誌は「漫画サンデー」だけで、あとは定食屋やラーメン屋で読んでいたもので、記憶に混乱があるかもしれませんが。
Posted by: すがやみつる | January 11, 2008 05:29 PM
すがや先生、あいかわらずあらゆるところに遍在されてますねー。
ジョージ秋山の1970年にチャンピオンが抜けてるな、と思って調べてみますと、1970年は月刊のほうで連載してました。週刊少年チャンピオンでは、1971年から「怪力ボンゴ」、続いて1972年から「ゴミムシくん」を連載されてたようです。
Posted by: 漫棚通信 | January 11, 2008 02:31 PM
水島作品について書かれた文章のほうに「ぼくらマガジン」があったことをコメントしましたが、これはジョージ秋山氏の“6誌同時連載”を意識してのものでした。編集プロを退社したあと、森田拳次先生の関係から秋山氏の助っ人アシスタントにならないかと紹介され、住まいが近かったこともあって、毎週1本、顔だけペンが入った原稿を渡され、自分のアパートで徹夜で仕上げ、翌日、届けにいくパターンをしばらくつづけました。『デロリンマン』『ズッコケ仁義』あたりを手伝うことが多かったかな。専属アシスタントが、毎週日曜日は、きちんと休めるように……ということで、助っ人を募集したとのことでした。
『ギョロメン博士』の1回目(巻頭カラー+1C)は原稿だけ預かったのですが、秋山氏が海外取材のため、完成したものは、ぼくが講談社まで届けることになりました。その取材旅行中に、いわゆる『アシュラ』騒動が起こり、帰国した秋山氏は仕事場にいると仕事にならないので、どこかに雲隠れ。連絡がつかなくなってアシスタント代をもらえず、困ったことがあります。
この『ギョロメン博士』は連載1回目ということもあって40ページくらいあった記憶がありますが、通常の連載マンガは、ギャグということもあって1回につき13ページでした。
秋山氏の仕事は週に1日(一晩)だけで、ほかに1日(一晩)、「少年キング」連載の『柔道一直線』(斎藤ゆずる氏になってからのもの)を最終回まで手伝っていました。
Posted by: すがやみつる | January 11, 2008 10:20 AM
ご教授ありがとうございます。なるほどー、銭ゲバ、アシュラのころ週刊誌五誌に連載されてましたか。みなさん忙しいときにこそ、名作、問題作を描かれてるものですねえ。
Posted by: 漫棚通信 | January 11, 2008 05:22 AM
はじめまして。週刊マンガ誌同時五誌制覇ですが、ジョージ秋山氏も70年に
銭ゲバ:週刊少年サンデー(13号~71年6号)
ズッコケ仁義:週刊少年キング(20号~46号)
ほらふきドンドン(~31号)、アシュラ(32号~71年22号):週刊少年マガジン
どくとるナンダ(~23号)、ギョロメンハカセ(36号~71年13号):週刊ぼくらマガジン
デロリンマン(~39号)、現約聖書(41号~71年23号):週刊少年ジャンプ
と達成しています。同時期には月刊冒険王や少年画報(月二回刊)でも連載を抱えていたようです。ページ数は不明なので、豪先生とどちらが忙しかったのかは難しいところですが。
Posted by: V林田 | January 11, 2008 12:55 AM
リンク先、拝見しました。労作ですねー、感心しました。わたしの記事中、永井豪氏については「同時」五誌制覇と書くべきでしたね。
Posted by: 漫棚通信 | January 10, 2008 08:12 PM
はじめまして。週刊マンガ誌五誌制覇のマンガ家については、V林田氏が詳細なデータを作成されています。
全2回の掲載を連載と見なし、原作の人も数えるなどすると十数名いらっしゃるようです。
http://www.kansuke.jp/grand.html
Posted by: 菰川 | January 10, 2008 06:37 PM
あ、このマンガ家の食事を取材した特集、見たことがあります。すがや先生のお仕事だったのですか。
Posted by: 漫棚通信 | January 10, 2008 03:37 PM
原稿の枚数では、たぶん、石ノ森章太郎、水島新司といった方々の方が多かったのではないかと思います。石ノ森先生の場合、1970年前後は、全マンガ週刊誌のほかに、「ビッグコミック」や「プレイコミック」「漫画アクション」などの青年誌から幼年誌、新聞、描き下ろしまでありました。
永井さんが精神的にも一番キツかったのは、初のストーリーもの『鬼』を描いたときじゃないですかね。実際、倒れてしまって西郷虹星、川手浩次さんらが助っ人に駆けつけていました。その一番厳しいときに、編集プロの仕事で永井さんの仕事場を取材したことがあります。永井さんのお母さんに永井さんの1週間の食事の献立を取材したのですが、自宅に戻って食べることはほとんどなく、結局、マネージャーの記憶をたどりながらの創作めいた内容になりました。
仕事場の様子を絵に描いてもらわないといけないのですが、マネージャーから「そんなヒマはないからそっちで描いて」といわれ、ぼくが描くハメになったのですが、事務所に下絵を入れた原稿を置いておいたら、いつのまにか清つねおさん(現在は似顔マンガ家)の手で人物だけペンが入っていました。
先日、仕事場の整理をしたときに、その切り抜きが出てきたので、自分のサイトにアップしておきました。よろしければご覧になってみてください。背景はぼくが担当しています。19歳のときの絵です(^_^;)。
http://www.m-sugaya.com/nagai_go_1970.pdf
献立についてのコメントは、当時、大人気だった維持評論家・石垣純二氏によるものです(これもぼくが話してもらった内容を原稿に起こしました)。掲載誌は「月刊少年マガジン」の1970年1月号か2月号くらいだったと思います。この特集では、『スパイダーマン』を描いていた池上遼一氏をはじめ、当時の人気マンガ家多数に食事の取材をし、描いてもらった仕事場のイラストの原稿集めに飛びまわっておりました。
Posted by: すがやみつる | January 10, 2008 02:07 PM
月産ページ数では
永井、石森、松本零士の他、
水島新司、柳沢きみおも候補かと。
水島新司はサンデー、マガジン、キング、
チャンピオン、マンガくんプラス「あぶさん」の
時期があったような気がします。
最高月産800Pという記事を読んだのは
石森章太郎だったでしょうか。
曖昧な記憶ですみません。
Posted by: looser | January 10, 2008 09:41 AM
以前アフタヌーンの付録の漫画←今度単行本になるらしいですが、のなかで、月に400だか600ページだか書いていた時期があった、というようなことを言われていました。アニメ原作を幼児向け漫画雑誌にジャカスカ書いていたころのことらしいです。なんで生きていられたのでしょう(笑)
Posted by: まるう | January 09, 2008 10:45 PM
マンガ家個人の忙しさというのは、製作体制や作品にもよると思うのですが、永井豪先生の人気週刊誌上位同時五誌連載というのは凄いですね。
Posted by: くもり | January 09, 2008 02:03 PM