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September 30, 2007

カツマタ君て、だれっ

 うちの同居人が隣で、「カツマタ君て、だれっ」と叫んでおりますが、日本じゅうでこの言葉が聞かれたのではないかと。

 浦沢直樹『21世紀少年』下巻(2007年小学館、524円+税、amazonbk1)が発売され、『20世紀少年』全22巻、『21世紀少年』全2巻、計24巻で完結しました。

 『20世紀少年』につきましては、かつてわたしも、18巻まで読んだ段階でこんなエントリをアップしたことがありました。

○「20世紀少年をきっちり読み直す」(その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6

 今回の完結を機に、全巻を通読しました。毎度のことながら付箋はりまくっております。

     ◆

 『20世紀少年』は、三部に別れます。第一部が1巻~5巻、1997年から2000年12月31日「血の大みそか」まで。第二部が5巻~15巻、2014年から2015年の西暦の終了まで。そして第三部が16巻以降、ともだち歴3年の世界です。

 読み直してみて、つくづく第一部、第二部は傑作ですねえ。謎が謎を呼び、読者の想像を超えた展開が続きます。

 ちょうど20世紀の終わりになったとき、雑誌に第一部ラストの20世紀終わりのシーンが掲載されるという、稚気あふれた計画性も楽しい。というか、それをねらって始めた連載でしょう。

 第三部も、16巻の最初、ともだち=フクベエの少年時代が解明されるところはドキドキしました。ただし、結末を知った立場でそのシーンを読み返しますと、フクベエの少年時代を回顧している「ともだち」が、すでにフクベエじゃないんですから、整合性に問題ありです。

 第三部は、まずケンヂが生きてたことがわかったところで、軽くコケましたね。そんなマンガみたいな展開になるとは。マンガなんですが。

 そして第三部では主に、ケンヂが東京に向かう行程が縦糸として語られます。その先に待ち受けるラストは、当然、ともだちとの最後の対決ですが、ラスボスのはずのともだち=フクベエは、すでに第二部の途中で死んでしまっています。

 ともだち=フクベエは、超能力者で宗教的カリスマで性格が悪くて大量殺人者でヒロインの父で、しかも正体が謎であるという、実にラスボスにふさわしい存在でした。主人公=ケンヂが対決する相手としては、ベストのはず。

 しかしもう、彼はいません。第三部では、フクベエは死んだとくりかえし証言されます。となると当然、読者の興味は、フクベエが死んだあとのともだちとは誰か、という謎になってしまいます。

 ですから、ラストシーン、ともだちがカツマタ君だったとわかったとき、日本全国で「カツマタ君て、だれっ」という大合唱が起こったのもしかたがないことでしょう。

     ◆

 さて、カツマタ君とはだれでしょうか。彼が登場するのは以下の回です。

○1巻5話
 成人したモンちゃんが小学校の仲間との話題に出す。理科の実験が大好きのカツマタ君が、フナの解剖の前日に死んじゃって、夜な夜な理科室に化けて出て解剖している。

○11巻12話
 ヤマネの元同僚が、ヤマネから聞いた話として。小学校時代に仲の良かった子が死んだが、ヤマネは夜ごと学校に忍びこんではその子の幽霊と実験をくり返していた。

○12巻6話
 成人したユキジの言葉として。小学校六年生の時、実験が好きな子の幽霊が出ると男子が騒いでいた。

○14巻6話
 小学六年生のケロヨンが「四組の西尾」から聞いた話として、カツマタ君の幽霊が出た話をする(ただしバーチャルアトラクションの中)。

○16巻3話
 小学五年生のフクベエが、鏡の映った自分の顔を見ながら「君はカツマタ君?」(ただしヴァーチャルアトラクションの中)

 実はカツマタ君が生きているかも、とはだれも考えていないようです(フクベエの言葉は小学五年生時代のものなので、ちょっとおいといて)。しかし、小学六年生の理科室事件の時、謎の人物がいた、という描写は一応なされています。

○1巻5話
 その日学校に行ったのは、モンちゃん、ケロヨン、コンチ、ドンキーの四人のはずなのに、遠景で五人描かれている。

○14巻6話
 コンチが「誰かうしろにいたみたいな」 これを見ていた小泉響子も「あたしも人影がひとつ多く見えたんだけど」(ただしヴァーチャルアトラクションの中)

○14巻8話
 ドンキーが「さっきから、誰かついて来てるの知ってるよ」 さらに「オバケなんて、いやしないんだよ」(ただしヴァーチャルアトラクションの中)

 ドンキーだけは、彼がオバケ=カツマタ君であったことを知っていたのかもしれません。でもねー、これだけの情報ではやっぱ「カツマタ君て、だれっ」だよなあ。

     ◆

 子ども時代のカツマタ君が実際に登場するのは20巻以降です。もちろんまだカツマタ君という名前は明かされない、名なしの少年です。彼はサダキヨと同じナショナルキッドのお面をかぶってるか、後ろ姿として描かれており、その素顔は不明のままです。

○20巻11話
 キリコの回想として。小学生のカツマタ君が、フクベエ、ヤマネと話している。

○21巻7話
 誰かの回想シーン。おそらくカツマタ君自身の回想。「しんよげんの書」に、火星移住と反陽子爆弾を書き加える。

○21巻11話
 カツマタ君自身の夢=回想。中学二年生のとき、学校の廊下でケンヂ、ヨシツネ、ユキジとすれ違う。屋上に向かい、ナショナルキッドのお面をかぶる。これがラストシーンにつながります。

○22巻10話
 ケンヂの回想。小学生のカツマタ君が、ジジババの店でガムの当たりくじと地球特捜隊のバッヂを交換するところを、ケンヂが目撃する。

 『21世紀少年』上下巻になりますと、ナショナルキッドのお面をかぶったカツマタ君は頻回に登場し、ケンヂの万引きのぬれぎぬを着たことや、ラストシーンでは、ケンヂが中学校で放送した「20世紀少年」の曲で、自殺を思いとどまったことが明かされます。

     ◆

 小学・中学とケンヂと同じ学校だったのに、すでに小学生時代には同級生から死んだとウワサされていたという、かわいそうなカツマタ君。残念ながら、サダキヨとあまりにキャラがかぶりすぎ。

 いつもお面をかぶってる。友達がいない。いじめられる。誰にも注目されない。覚えられていない。死んだというウワサが流れる。

 カツマタ君とサダキヨは、お面をかぶれば容姿もそっくりですが、キャラクターとしても双子のように似ています。フクベエの影響を受けて、のちに殺人者となるところもそっくり。だったらひとりにまとめてもよかった……のじゃないかしら?

     ◆

 浦沢直樹ですから、救いのあるラストで終わります。

 ヴァーチャルアトラクション内の小学生ケンヂは、おとなケンヂに導かれ、(1)引っ越すサダキヨを見送り、(2)カツマタ君に万引きを謝ります。

 ヴァーチャルアトラクションを一種のタイムマシンと考えれば、これは過去改変モノのSFです。この結果、ヴァーチャルとはいえ別世界では、サダキヨもカツマタ君も悪の道に進まないかもしれない。

 実際ラストシーンでは、ヴァーチャルアトラクション内の中学生ケンヂとカツマタ君が“ともだち”になるかもしれない、とにおわせておわり。めでたしめでたし。

 って、究極の悪、フクベエはやっぱそのままじゃないかっ。あいつが諸悪の根源でしょうが。それをほったらかしにしたらあかんやろっ。結局、現実でもヴァーチャルアトラクション内でも、ケンヂ(あるいはカンナ)とフクベエの対決がなかったのが、なんともどうもであります。

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September 26, 2007

マンガと老い

 現在、日本のマンガ家で大御所となってるかたがたは、おおむね1950年前後の生まれでしょう。

 おおざっぱな世代わけでもうしわけないのですが、日本の戦後マンガが手塚治虫に始まるとすると、その次の世代がトキワ荘グループや、さいとう・たかをらの貸本劇画出身者。

 そして第三の世代が、少女マンガ家では24年組。男性作家も含めて、この世代がいわゆるニューウェーブの中心となります。

 その第三世代も60歳前後。あだち充や秋本治、それからみなもと太郎先生のように、以前と変わらず突っ走っているかたもいますが、多くのこの世代の作家は自分がこれから老いに向かうにあたり、いかに自分の仕事を年齢に合わせていくかを考えているのじゃないでしょうか。

 戦後第一世代、第二世代のマンガ家の多くは、若くして自分の世界をかっちり作り上げ、それをずっと描き続けました。彼らの多くは若くして一線を退くか、物故するひともあり。もし作者自身が現役のまま老いたとしても、読者はまだまだ若かった。

 現在、マンガを読む団塊の世代の年齢が上昇し、同時に現役でマンガを描くひとびともそれなりに年を重ねてきました。今後、マンガとマンガ家はどのように老いと向き合っていくのでしょうか。

 たとえば、現在の柳沢きみおのマンガに登場する人物は疲れた中年男が多いのですが、これから先も柳沢きみおがマンガを描き続けるならば、登場するのは老人ばかりになるのじゃないかしら。

 萩尾望都が短編に回帰し、青池保子が途絶していた長編を完結させたのが、わたしには象徴的に思われてしょうがありません。下の世代でも、1960年生まれのいましろたかし、1961年生まれの桜玉吉など若くして枯れちゃってるひともいますし。

 で、本日買ってきた本。ひさうちみちお『精G 母と子の絆』(2007年青林工藝舎、1000円+税、amazonbk1)。

 ひさうちみちおのマンガ単行本としてはずいぶんひさしぶりです。著者も1951年生まれ。ニューウエーブ・マンガの旗手でした。本書のテーマはそのものずばり「老い」です。

 自分と実母をモデルにしたマンガです。「ボケた」母親と同居して介護するお話。タイトルの「精G」は、主人公のあだ名です。

 主人公は京都に住むライター、50歳。同じ京都の実家に住む実母が「ボケ」てしまいます。この場合は老人性妄想症ですね。とくに夫に対する嫉妬妄想がひどくなり、母は実家を出て主人公と同居することになります。

 親の介護って、多くのひとにとって人生の大きな問題なんですよね。でもみんな現実にそれと正面から対峙するまでは、忘れたふりをしている。突然、妄想の強い母を介護することになった息子の心情はどうか。さらに、ひさうちみちおですから、初老である自分の「性」についても描かれています。

 著者にとってずいぶんきつい話のはずですが、マンガは実に抑制された語り口。母親の語る妄想を悲しく思う自分と、面白おかしく絵解きしてみせる自分。表現者は業が深い。

 巻末に、ひさうちみちおと林静一の対談が掲載されてます。老人の性を扱った谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』に言及されていて、なるほど、その手があったか。マンガがまだ描いていない「老い」は、いっぱいありそうです。

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September 23, 2007

読むべし『少女ファイト』

 日本橋ヨヲコ『少女ファイト』3巻(2007年講談社、590円+税、amazonbk1)を昨夕読み始めたところ、あまりのすばらしさに既刊三巻をじっくり再読(けっして登場人物の名前を忘れてしまってたわけではありません)。さらに著者の前作『G戦場ヘヴンズドア』までも読み直し(けっしてストーリーを忘れてたわけではありません)。今日は眠いなあ。

   

 バレーボールが題材のスポーツマンガです。天才的にバレーがうまく、でも心に傷を負った主人公(♀)が、試合に勝ったり負けたりしていくうちに成長していく物語なんだろうと。でも、お話はまだ対外試合も始まってなくて、チームも完成していません。はぐれものたちが集まってひとつのチームをつくりあげている段階。

 でもそこはイマドキの作品。この3巻では主人公たちのコスプレやらヘソ出しユニフォームやらが見られて、ずいぶんニヤニヤさせられてしまいます。

 日本橋ヨヲコの絵は、遠景近景のパースをきかせまくった、凝った構図の連続。バレーボールシーンでも、カメラも真上から、真下から、自在に移動しますし、人物そのものにもパースがついてることが多く、それを見てるだけで楽しい。上の1巻カバー絵の人物パースを見よ↑。

 さらに近景の人物は極端に太い線で描かれます。そのときはひたいに流れる汗までも意識的にぶっとい線で表現されることもあり、マンガが線でできていることを再確認させる、すぐれてマンガ的な表現です。

 あとキャラクターで気になるのが、目の表現。主要キャラクターたちの目は、それぞれ別々に描きわけられています。アップが多いということもあるのでしょうが、ここまで目の表現にバリエーションを持っているひともめずらしい。

 とまあ、すみずみまでおいしいマンガであります。じっくりなめるように読むのがよろしいかと。

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September 21, 2007

ふつうに売ってくれよー

 最近映画化されたアメコミについていろいろ調べてましたところ、このようなものが発売されているのを発見。2007年6月の発売です。

シン・シティ コンプリートBOX

 フランク・ミラー原作の映画「シン・シティ」のDVDは、現在ジェネオンエンタテインメントから三種類が発売されてまして、スタンダードエディション2980円、プレミアムエディション3990円、そしてこのコンプリートBOXが定価11970円。

 わたしとしましては、付録のこれに驚いた。

◆未発売日本語翻訳版原作コミック『THAT YELLOW BASTARD』を特別封入。しかも、既発売別売りの日本語翻訳版原作コミックも収納可能な豪華BOX付き。

 おいこらっ。

 フランク・ミラー『シン・シティ』シリーズはジャイブから二冊翻訳されてまして、『ハード・グッドバイ』(2005年、2800円+税、amazon)と『ビッグ・ファット・キル』(2006年、2800円+税、amazon)。前者はもう品切れのようです。

 『イエロー・バスタード』の翻訳も楽しみにしてたのに、いつのまにやらこんなかたちで発売されちゃってました。いかに今、アメコミの日本語版が売れないからといって、DVDの付録になってるとは……

 スタンダードエディションなら映画DVDは実売1500円。このコンプリートBOXが約一万円。これではいくら『イエロー・バスタード』が付いてても、さすがに買えません。いつかふつうに売ってくんないかしら。

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September 19, 2007

『アルカサル』完結

 青池保子『アルカサル 王城』13巻(2007年秋田書店、571円+税、amazonbk1)が発売されました。

 中世のスペイン国王、ペドロ一世の生涯を描くというこの壮大な物語、掲載誌「別冊プリンセス」の休刊により、お話も長らく中断されていましたが、この13巻でついに完結。前の12巻が1994年の発売ですから、13年ぶりかあ。

 前巻12巻は、主人公と異母兄との戦争、その真っ最中のいいところで巻が終わってました。ページの都合で以下続刊、と書かれたまま、それっきり続きは刊行されず。

 今回13年ぶりの13巻を読みますと、当時の連載では雑誌休刊までの間に、主人公が戦争に勝ち人生の絶頂期を迎えるところまで描かれてて、一応それなりに完結してたことがわかりました。

 ただし、著者はずいぶん不満だったと思います。読者としても戦争の結果がどうなったのかわからんし、編集者もそこまでの残った88ページだけで単行本を出すわけにもいかないし、三者とも不完全燃焼。

 結末部は、200ページ前後編を2007年の春夏にわけてイッキに雑誌掲載されました。主人公、ドン・ペドロの死と、その後ドン・ペドロの子どもたちの運命やスペインの政局まできっちり描いて、堂々の完結です。

 著者の言葉によりますと、「作家に定年はないといわれますが生物としの老朽化は逃れようがありません」「重厚長大な歴史物を描ける時間も体力も先が見えてきた昨今もはや遅滞はなりません」とのことです。著者も1948年生まれで60歳目前。この冷静な自己や状況の分析はりっぱ。青池保子、えらいなあ。

 この時期に長らく中断されていた作品を完結させることができたのは、作品の人気、編集者の存在、著者の気力・体力、いろんなことがいいタイミングで一致したのでしょう。まれなケースで、しあわせな作品です。

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September 15, 2007

ラリホーの変遷

 「ラリホー」って何でしょうか。

 言わずとしれた、ゲーム「ドラゴンクエスト」に登場する呪文のひとつです。これをとなえると敵が眠ってしまうというありがたい呪文ですが、むしろ敵がとなえて味方が眠ってしまうほうが困ります。

 ドラクエ1作目の発売が1986年。社会現象にもなった3作目の発売が1988年。以後ラリホーは、日本ではそれなりに一般的な言葉になったのじゃないかしら。

 ドラクエの呪文は、炎が「メラ」、閃光が「ギラ」、爆発が「イオ」、冷気が「ヒャド」というふうに、擬態語や連想する言葉から名づけられてます。眠らせる呪文「ラリホー」のもとになったのは、もちろん「ラリる」でしょう。

     ◆

 「ラリる」は、1960年代の「睡眠薬遊び」に関連した言葉として流行しました。「クスリでラリる」わけですな。「ラリパッパ」なんて表現もありました。

 ハイミナールやブロバリンなどの睡眠薬を服用していい気持ちになる「睡眠薬遊び」が流行し始めたのが1960年ごろ。ピークは1963年と言われてます。

 永島慎二のマンガ『フーテン』に、ダンさんたちが睡眠薬パーティを開いているシーンがあります。このマンガの舞台が1961年です。

 「ラリる」の語源については、睡眠薬を飲むとろれつが回らなくなって、「らりるれろ」が頻発するようになるから、という説があります。確かに酔っぱらいは「そうれすね」なんて言ってますからね。

 もひとつの説は、「乱離骨灰」説です。広辞苑によりますと「乱離(らり)=乱離骨灰(らりこっぱい)の略」「乱離骨灰=ちりぢりに離れ散ること。めちゃめちゃになること」とありまして、「らりにする」という言い回しがあったらしいです。でも、1960年代に流行した若者コトバの語源が江戸時代の古い言い回しから、っていうのはちょっとどうでしょうか。

 ま、それはともかく、1960年代前半、フーテンのお兄さん、お姉さんがたは、睡眠薬を飲んではラリってたわけですね。薬物乱用なんだから、ダメですよこんなことしてちゃ。

     ◆

 いっぽう1967年、日本で放映されたハンナ・バーベラ制作のアニメーションに「スーパースリー」というのがありました。バンドを組んでる三人組が、実はXメンみたいな超能力を持っていて、諜報組織に属して悪人と戦うというお話。

 このカートゥーンの主題歌が「♪ラリホー ラリホー ラリルレロン♪」というものでした。YouTube で見られます↓。

  http://www.youtube.com/watch?v=OreKtQx0pUE

 歌ってるのは、関敬六、石川進、愛川欽也ですね。

 「スーパースリー」の原題は「The Impossibles」で、アメリカでは1966年放映。ちなみに英語版のオープニングはこれ↓。

  http://www.youtube.com/watch?v=0NnGf_ZHcbI

 日本語版の主題歌は日本で作詞作曲されたものでしょうけど、ラリホーというのは別に日本で作った言葉じゃありません。ラリホーは主人公たちのかけ声、battle cry として英語版アニメーションの中でも使われていました。英語では「Rally Ho」と書きます。この「Rally Ho」が「The Impossibles」が制作される以前に使われてた言葉かどうか、さすがにこれはよくわかりませんでした。

 「スーパースリー」のラリホーは能天気な感じのかけ声で、しかもノリのいい主題歌つき。だもんで、みんなけっこう覚えてるようです。『ちびまる子ちゃん』の登場人物がラリホーと言うことがありますが、あれは「スーパースリー」のラリホーです。

 最初は「ラリホー」に酩酊や睡眠の意味なんかなかったはずです。でも日本には、いっぽうに「ラリる」があって、もういっぽうに「ラリホー」があったわけです。これはいずれくっつくのが自然のなりゆきだったのでしょう。

 というわけで、「ラリる」が「Rally Ho」と出会って、ドラクエの呪文「ラリホー」になりました。ただし「ラリホー」は睡眠の呪文のはずなのに、どうしても酩酊をイメージしてしまいますね。

     ◆

 さて、ドラクエ以後のラリホーはどうなったか。 

 米米クラブの歌に「ラリホー王」というのがありましたが、これはドラクエのラリホーを下敷きにした、ラリってる意味のラリホーでした。

 ゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズにもラリホーが出てきます。このシリーズには、「ハイホー」を挨拶の言葉にしてるドワーフの一族と、「ラリホー」を挨拶にしている一族が登場します。ここでの「ラリホー」は、「ラリる」意味がなくなって、能天気なかけ声に戻ってます。

 これが海外に逆輸入されますと、海外のあるサイトでは、「Rally Ho」の説明として、ゲーム「ファイナルファンタジー」でのドワーフの挨拶、と書いてあるところもあるくらい。すでにハンナ・バーベラのカートゥーンより、日本のゲームのほうが身近なのね。いずれにしてもアチラでの「ラリホー」には、日本人がどうしても付加してしまう「ラリる」イメージはないようです。

 じゃあドラクエが英訳されたとき、「ラリホー」はどうなったかといいますと、実はこれが「Rally Ho」じゃなくって、「Rarihoo」と訳されたのでありました。日米を行ったり来たりしてる間に、言葉ってのはずいぶん変化していくものですねえ。

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September 13, 2007

八十年一日

 毎日毎日、録画したラグビーワールドカップの試合を、ひとつかふたつずつ見続けてますと、家族から、ええかげんにせんかーいっとイヤがられてしまっております。わたしには野球を見る習慣はないのですが、世の野球ファンのお父さんたちもこんな感じでしょうかね。

 今週のお買い物。日本アマゾンで買わずに、わざわざアメリカアマゾンから送ってもらったのがこれ。

●The Complete Cartoons of the New Yorker (Black Dog & Leventhal Publishers、Robert Mankoff 編、2004年ハードカバー版60ドルamazon、2006年ペーパーバック版35ドルamazon


(書影はペーパーバック版のものです)

 雑誌「ニューヨーカー」に掲載されたマンガ=カートゥーンを集めたもの。「ニューヨーカー」のカートゥーンについては、現在もいろんなタイプの総集編単行本が発売されてます。これについてはこちらのブログの記事がくわしいです。

  踊る阿呆を、観る阿呆。:"The Cartoon"~The New Yorker 誌の80年(1)(2)(3)(4)(5)

 「The Complete Cartoons of the New Yorker」は上記ブログでも紹介されてて、前から欲しいなあと思ってた本です。

 この本、タイトルに「コンプリート」とはいっております。「ニューヨーカー」誌の創刊が1925年。すでに創刊80周年をこえています。「ニューヨーカー」はもちろんマンガ誌じゃないですが、基本的に週刊誌ですからそこに掲載されたカートゥーンは膨大な数。もしほんとにカートゥーンがコンプリートされてるとしたら、これは欲しくなってしまうでしょ。人間、「コンプリート」とか「完全版」に弱いです。

 お値段もそれなりでして、本日現在、日本アマゾンで買いますと、ハードカバー版が6703円、ペーパーバック版でも4341円。うーむと悩む価格であります。

 ところが先日、アメリカアマゾンをさまよっておりましたところ、ハードカバー版が定価60ドルのところが12ドルのバーゲンセール状態。アチラの本の定価はあってなきがごとしですが、それにしてもこれはお安い。なぜかペーパーバック版より安く売ってる上に、日本までの送料12ドルを払ったとしても24ドル、日本で買うより安くなるじゃないですか。思わず即買いしてしまいました(今はもうこのお値段では売ってません。あれはいったい何だったんでしょ)。

 むちゃくちゃ大きな本です。寸法が33.8×28.8×4.6cmで656ページというしろもので、でかいわ厚いわ重たいわ。書籍に掲載されてるカートゥーンの作品数がなんと2004本。といっても、もちろんこれで80年間のコンプリートのはずが無く、付録にCDが二枚ついてまして、これに収録されてる作品数が、6万8647本という腰が抜けるような数であります。

 ただし、アメリカアマゾンのカスタマーレビューを読めばわかるように、書籍のほうの評判はよろしいのですが、せっかくの付録CDの解像度が低いのが、みなさん大不満。確かに雑誌掲載のサイズで見るのはちょっと無理な解像度ではあります。ペーパーバック版の付録はCD二枚からDVD一枚に変更されてますが、解像度がどうなってるのかは確認してません。

 どちらにしても、日本人読者としてはまず書籍を読むだけで精一杯で、さすがにCDまで覗こうとはしてませんけどね。6万をこえるものを読破するのはこりゃタイヘン。作家ごとの検索として使用するべきものかしら。

 さて内容は。

 1925年から2004年までのマンガを一望するということは、これはもう歴史そのものを見ているようなもの。1925年てのは大正14年。1923年が関東大震災ですから、日本マンガでいうなら『正チヤンの冒険』やら『ノンキナトウさん』やら『団子串助漫遊記』の時代です。現代の日本マンガとはまったく別物。

 だから、アメリカのカートゥーンも80年間にどれだけの変化があったのかと思ったら。

 これがなんとまあ、80年間、変化がないのに驚いた。十年一日という言葉がありますが、まさに八十年一日。最初の数年はともかく、1930年代になってソグロウやサーバーが登場したときにはすでに、ニューヨーカーのカートゥーンはスタイルが完成されている感じなのです。

 もちろん絵柄や題材の変遷はありますが、1930年のタッチで現代を描く、あるいはその逆も十分に可能。さらに作家の活躍期間が長いったら。

 代表的作家として挙げられてるのが、10人。Peter Arno、George Price、James Thurber、Charles Addams、William Steig、Saul Steinberg、George Booth、Jack Ziegler、Roz Chast、Bruce Eric Kaplan。

 ソール・スタインバーグなんか、この本に収録されてるだけで1942年から1985年まで活躍してるし、アダムス・ファミリーのお化けマンガで有名なチャールズ・アダムスに至っては、1935年から1987年まで50年以上も掲載が続いてます。こりゃ長いわ。

 風刺が意外と少なくて風俗を扱ってるものが多いのも、ちょっと驚きでした。時代を撃つ、とかそういうタイプのモノではありません。おそらくアチラのひとにとっても先鋭的なところがなくて、ゆるく感じられるのじゃないでしょうか。でも、オシャレではあるなあ。日本ではもう、こういうのを目指すひとはいなくなっちゃったですね。

 「ニューヨーカー」のカートゥーンの完成されたオシャレ感は、日本のおとなマンガがマネようとしてついに到達できなかった境地であるような気がします。こういうタイプのマンガが存在し続けてるのが、ちょっとうらやましい。

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September 10, 2007

マンガを語るということ

 「BSマンガ夜話」復活だそうですね。こんなにめでたいことはありません。

 わたしはいわゆる漫研に属した経験はありません。だからかもしれませんが、誰かがマンガを(マジメに)語るのを聞くのが、こんなに楽しいことだったとは知らなかった。

 マンガの語りかたにいろんな方法があると教えてくれたのも、この番組です。作者の意図を探る。作品構造の分析。絵やコマ構成を含めた表現の問題。読者としての自分語り。読者にどういう影響を与えるかの分析。描かれた時代の中での受けとれられかた。マンガをめぐる状況を語る。マンガ史的な位置づけ。他メディアとの関係。番組で語られる内容はいずれも新鮮な驚きに満ちていました。

 マンガ夜話でのマンガの語りかた、切り口の多様さは、マンガには読む楽しさだけじゃなくて、語る(そしてそれを聞く)楽しさがあることに気づかせてくれました。

 自分でもネット上に文章を書くようになったのは、マチガイなくこの番組に刺激されたのが理由のひとつです。

 テレビ番組、という枠でいうと、成功した回、失敗の回、いろいろでした。ゲストやアシスタントがまったく機能しなかったり、逆に暴走したり、レギュラー陣の元気がない回もあったり。でもそこを含めて、すべておもしろい。それも生放送という制約があったからこそです。

 何が飛び出すかわからない生放送は、番組=パッケージとして完成されていない空間です。視聴者の参加している感じがより強くなり、臨場感は増し、失敗も含めて楽しむことができました。

 マンガ夜話の視聴方法は、まずラインナップが発表されたときから予習を始めることが必要。持ってるマンガなら読み直し、持ってないマンガなら漫喫で読むか、この際買ってしまいましょう。知らないマンガについて話してるのを聞くのは、楽しさが半減しますのでご注意。

 さて、今回のラインナップを勝手に予想。二年半ぶりに登場の、イレギュラー番組。となると、何でもいいというわけにはいきません。男性向けビッグヒット。女性向けビッグヒットを抑えたうえで、とんがった作品も入れるというのが正しい選択でしょう(と、エラソーに言ってみる)。

 『デスノート』は決まり。もいっこは『NANA』か『のだめカンタービレ』ね。そして五十嵐大介か浅野いにおでシメるのはどうざんしょ。

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September 08, 2007

ラグビーワールドカップ開幕

 さあ、ラグビーワールドカップ、フランス大会の開幕です。

 といっても、興味ないひとがほとんどかもしれませんけどね、四年に一度のビッグイベントですよ。今、googleのトップに行っていただければ「o」の字がラグビーボールになってますから、ポチっと押していただけると、ラグビーワールドカップ関連のニュースが見られます。

 日本でトップリーグが開催されるようになってから、日本ラグビーの試合は確かにおもしろくなりました。レベルもアップしたはず。でも、昨年のエリサルドヘッドコーチの解任トラブルは情けなかったですねえ。

 今回、日本代表はヘタすると史上最低の結果に終わるかもしんないというおそれもあります。でもそんな不安も含めて、この大会を楽しみたいです。

 さて、ワールドカップ記念、ラグビーマンガにどんなのがあったっけ。

 古くは竜崎遼児『ウォークライ』が有名。くじらいいく子の『マドンナ』も長く続きましたね。 なかいま強『ゲイン』、菊田洋之『HORIZON』とか。なぜかすべて小学館系ですな。

 きたがわ翔『19 NINETEEN』にもラグビーが登場したそうですけど、わたし読んでません。

 かつてマンガに運動が得意な主人公が登場すると、必ずいろんな運動部が勧誘に来る、という伝統的展開がありました。ながやす巧/梶原一騎『愛と誠』とか、吉田聡『ちょっとヨロシク!』にラグビー部が出てきます。

 このパターンの古典は、ちばてつや『ハリスの旋風』です。でも石田国松がはいったクラブは、野球・剣道・ボクシング・サッカー。ラグビーはやってません。さらにその元祖、関谷ひさし『ストップ!にいちゃん』がどうだったか調べてみると、これまたサッカーはしてるけどラグビーはしてませんねえ。

 どおくまん『嗚呼!花の応援団』が映画化されたとき、応援団の青田赤道は助っ人としてラグビーの試合にかりだされてました。でも原作のほうではラグビーやってないんですよ。島本和彦『吼えろペン』の炎尾燃先生は、なぜかラグビー用のヘッドキャップかぶってますが、『炎の転校生』にもラグビーは出てこないんだよなあ。ああ、マイナースポーツ。

 小林まこと『1・2の三四郎』はもちろんラグビー部出身であります。でも三四郎も、グレート草津とか阿修羅・原みたいに、ラガーマンからプロレスラーになっちゃいました。

 あと意外なところでは、高橋留美子『うる星やつら』に、「女王陛下と愛のラガーマン!」「青春ラグビー地獄」というラグビーネタがありました。

 というわけで、今夜は今から日本対オーストラリアだっ。

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September 06, 2007

忍者と巻物

 かつて忍者が巻物を口にくわえて、むにゃむにゃと呪文をとなえて印を切りますと、足もとからどろんどろんと煙がたちのぼり、巨大なガマかなんかに変身することになってました。このイメージは、講談や立川文庫、無声映画時代からの伝統。さかのぼれば、歌舞伎にもこういうシーンがあったのでしょう。

 でも実際にあんなものをくわえるとなると、口の両端からよだれはでるわ、呪文なんかとなえられないし、あんまり実用的じゃない感じですね。

 しかし、忍者と巻物はもう絶対かかせない組み合わせになってましたので、戦後でも忍者マンガに巻物は登場してきます。最近の岸本斉史『NARUTO』でも、巻物は必須アイテムですし。

 巻物を奪い合うのが忍者物語でした。横山光輝『伊賀の影丸』(1961年~)でも、「半蔵暗殺帳の巻」なんかがそうでした。

 ただし、ここでの巻物はヒッチコックが言うところの「マクガフィン」です。お話さえころがってくれれば、豊臣家の秘宝でもこけざるの壷でも、なんでもかまいません。でも忍者だから巻物。

 白土三平の忍者マンガにも、あたりまえのように巻物は登場していました。

 今回復刻された白土三平『風の石丸』(2007年マンガショップ/パンローリング、1800円+税、amazonbk1)も、龍煙の玉とその中にはいっていた龍煙の書を奪い合う物語です。

 『風の石丸』は1960年、創刊まもない週刊少年マガジンに連載された作品です。それを手に入れれば天下を取ることも可能な龍煙の書をめぐって、主人公・石丸、伊賀忍者・はやて小僧、霧島忍者・筑波剣流、真田幸村、柳生十兵衛、怪商・越後屋七兵衛、鞭の名手・かすみのおばば、謎の少年・ね太郎たちが入り乱れて争うお話。

 実は『風の石丸』は、白土三平の最初の大長編『甲賀武芸帳』(1957年~1959年)のリメイクです。わたしこの作品読んだことがないのですが、あらすじや登場人物を見てみるとまるきり同じ。ただし登場人物が奪い合う巻物の名が、“龍煙の書”じゃなくて“甲賀武芸帳”であるところが違いました。

 少年マガジン版の『風の石丸』では、『甲賀武芸帳』のラストまでたどり着けず、実質途中で打ち切りの形になっているようです。ですからお話としてはいろんな伏線を放りっぱなしにしたラストではあります。白戸三平の絵は、丸っこい古典的造形の人物から、シャープな荒々しい線に変化しつつある時期です。

 四方田犬彦『白土三平論』によりますと『甲賀武芸帳』では、「コマとコマの境界を破って、越後屋がお婆の鞭で引摺りまわされるという事態が生じている」そうです。このコマの間を破って人物が移動する表現は、手塚治虫が得意としていたもので、もちろん後年の白土作品には登場しません。

 このシーンはリメイクされた『風の石丸』にもそっくり同じ形で表現されています。マンガのコマを映画フィルムの境界のように、不可侵に扱っていたと思われる白土三平ですが、この時期のマンガではコマを越境したり、人物や物体の先端がコマの枠を超える表現が見られておもしろいです。

 さて『風の石丸』はそのタイトルから、1964年のTVアニメ『風のフジ丸』の原作のように思われるかもしれませんが、実は違います。初期の『風のフジ丸』は確かに龍煙の書を奪い合う物語でしたが、その原作は白土三平『忍者旋風・風魔忍風伝』(1959年~1960年)です。『風の石丸』からはタイトルを借りただけ。ややこしいなあ。

 なぜアニメで「石丸」じゃなくて「フジ丸」になったかというと、スポンサーが藤沢薬品だったからだそうです。
 
 『忍者旋風・風魔忍風伝』も、『甲賀武芸帳』に似た作品ではありました。主人公は風魔小太郎。悪役は彼の育ての親・風魔十法斎で、奪い合うのが龍炎の書。アニメ・風のフジ丸はこの設定をそのまま踏襲していたはず(←実は毎週見てたのによく覚えてないんですよー)。

 整理しますと以下になります。

1)甲賀武芸帳:1957年:主人公は石丸:奪い合うのは甲賀武芸帳
2)忍者旋風・風魔忍風伝:1959年:風魔小太郎:龍煙の書
3)風の石丸:1960年:石丸:龍煙の書
4)アニメ・風のフジ丸:1964年:フジ丸:龍煙の書

 白土作品ではほかにも、『忍者旋風・風魔忍風伝』の続編、『真田剣流』(1961年~1965年)も、“真田剣流・丑三の書”という巻物をめぐる物語でした。

 東映動画の劇場用アニメ『少年猿飛佐助』(1958年)が、姿が透明になったりするずいぶん古典的な忍術ファンタジーだったのに対し、その6年後の1964年、同じ東映のTVアニメ『風のフジ丸』での忍術は、体術中心のモダンなものになっていました。これは白土三平作品を原作としたから、だけじゃなくて、ちょうど忍者のイメージが変化する時期に重なっていたからです。

 立川文庫からの流れのドロンドロンと煙を出す古典的忍術とは違い、戦後になってリアルな忍者が登場し始めます。五味康祐『柳生武芸帳』(1956年~1959年、これも巻物をめぐる物語)、司馬遼太郎『梟の城』(1959年)、柴田連三郎『赤い影法師』(1960年)、村山知義『忍びの者』(1962年)などに、ドロンドロンじゃない、新しい忍者が登場するようになります。

 山田風太郎の奇想に満ちた忍法帖シリーズも、ほぼ同時期に書かれ始めています。厳密にいうと別ものでしょうが、忍者という意味では同じように受け入れられていたのかもしれません。

 『忍びの者』は市川雷蔵主演で1962年に映画化されています。テレビでは『隠密剣士』なんかがありましたね。これも1962年です。忍者ブームというのがあったのがわかっていただけるかと。

 白土三平による忍者マンガも、この現代的忍者のイメージを形成するのに貢献しました。小説よりも、ビジュアル重視のマンガや映画、テレビのほうが、新しい忍者のイメージを作り上げたはずです。こういう新しい忍者像が成立すると、マンガの世界でも杉浦茂『猿飛佐助』『ドロンちび丸』のような古典的忍者は生き残れなくなっていきます。

 このころには巻物は、かつての忍術に必要な小道具から、物語を展開させるきっかけに変化していました。しかもちょっと使用されすぎて、手あかが付いてきた感じになってきたでしょうか。

 白土三平の代表作『忍者武芸帳・影丸伝』(1959年~1962年)は、“武芸帳“というタイトルを持ちながら、結局そういう巻物は登場しませんでした。この『忍者武芸帳』というタイトルは、長井勝一の希望によるものだったそうです。

 その後の『カムイ伝』(1964年~1971年)にも一応、忍者/巻物関係が見られます。この作品では、徳川家康の出自を証明する文書が、お宝としての巻物に相当するのでしょう。しかし物語はその部分を置き去りにして、はるか彼方へ展開していきます。いつまでも物語の中心に巻物があるようでは、大きな物語は語れません。

 白土三平の忍者マンガにとっての巻物は、最初のうちは物語を動かすマクガフィン。のちには捨て去るべきものになっていったようです。

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September 02, 2007

縦のものを横にする

 横のものを縦にもしない、という言い回しがありますが、まあモノグサでだらしないことをいいます。わたしがそれでして、いっぺん座ると何もしません。せいぜいテレビのリモコンをいじるのと、周囲にある本に手を伸ばすぐらい。

 職場のデスクなんざひどいものでして、積み上がった書類や本が崩壊寸前。まわりの目が冷たい。

 わたしも「漫棚」を名のってるだけあって、自宅には書庫が一応あるのですが、最近は本を本棚にかたづけるということをせずに、買ったもの、引っ張り出したものをゆかに積み上げていくだけ、ということをしておりました。

 これが困るのはいったいあの本はどこへいったのか、というのと、オレはあの本を買ったのかどうなのか、というのがワケわかんなくなることですね。まずこの山をくずすところから始めなきゃいけないのと、こないだからの猛暑がありましたので、冷暖房のない書庫に3分いただけで汗びっしょり。

 そこでちょっと涼しくなってきたのを機に、まず、縦の山を横にするところから始めてみました。ゆかに背表紙を上に並べてみるわけです。

Yukanoue
 これでちょっとは書名がわかるようになりました。ただし、足の踏み場がなくなるという大きな問題があるのですが、その問題はまた先送りで。

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