梶原一騎とネルー(その3)
(前回からの続きです。今回でおしまい)
愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実(まこと)であるだけで
それは地上における
もっともはげしい きびしい
みずからをすてて
かからねばならない
戦いである――
わが子よ
このことを
覚えておきなさい
(ネール元インド首相の
娘への手紙)
■インディラの結婚
若きネルーは「愛のない結婚はすべきではありません。ただ子どもを作るためだけで結婚するのは、罪悪だと思います」と手紙に書いていました。しかし当時のインドでは当然のように、自身はお見合い結婚。
かなりスキャンダラスに書かれたネルー家の伝記には、ネルーは「結婚をしぶしぶ承諾」したもので、インディラが幼いころ、「両親の間に愛はない」状態だったと書かれています。ネルーの妻、カマラ夫人にとって、夫はいつも政治活動をしているか投獄中。姑や小姑との関係にも苦しんだ彼女は、娘に対して、女性の幸不幸を決定するのが男であるという現状を語り、それを打破するためには女性の自立の必要であることを説いたそうです。いかにも戦前のアジアですなあ。日本にも似た話がありそう。
「愛は戦いである」が書かれたとするなら、それはネルーではなく、カマラ夫人の言葉であるべきだったかもしれませんね。
カマラ夫人は、1936年に36歳で亡くなりましたが、その後のインディラの結婚はインドの慣習を破るものでした。
インディラはイギリス留学から1941年に帰国しました。彼女は留学中に知り合ったゾロアスター教徒のフェローズ・ガンジーと婚約します。彼はゾロアスター教徒。1000年前にインドに移住したイラン系の子孫になるそうです。マハトマ・ガンジーとの縁戚関係はありません。
フェローズはヒンズーではない異教徒ですから、カーストもなし。ネルー家は最高カーストのバラモンの名家です。彼らの結婚は家族(ネルーとその妹たち)から強い反対を受けました。宗教の問題というより、富裕層だったネルー家と、中産階級のフェローズの社会的階級の違いが大きかったようです。
それでも、インディラとフェローズはがんばって結婚することが決まりましたが、今度はこれが報道され国民から非難されることになります。なぜネルー家の娘がゾロアスター教徒と結婚するのか。これはヒンズーへの侮辱である。これに対し、ネルーは新聞に釈明のための声明文を出さなければなりませんでした。
ふたりは1942年に結婚。その後インディラはインディラ・ガンジーを名のることになります。
インディラはずいぶんと「愛の戦い」をしました。それに父親であるネルーも、インディラの結婚を承認していたマハトマ・ガンジーも、彼女の結婚を国民に説明するのにたいへんなエネルギーを使わなければなりませんでした。
ホントにネルーが「愛は戦いである」と書いてたとしたら、彼女の結婚のときネルーは、ああ、あんなこと書くんじゃなかった、なんて頭をかかえたかもしれません。
■英語で書くとどうなるか
ネールはインディラに対する手紙を、いつも英語で書いていました。ならば、「愛は平和ではない 愛は戦いである」はどう書かれていたのでしょうか。
「Love is not peace. Love is fight.」になるのかしら。あるいは「Love does not mean peace. Love means fight.」てのはどうか。でもこれ、文意としてずいぶんヘンな英語じゃないかなあ。「Love is not peaceful.」ではますますヘンだし。「To love is to fight.」ならちょっとましか。これらの訳文を「Nehru」と並べてググってみましたが、残念ながら何もヒットしません。
「武器のかわりが誠実」は、「sincerity instead of weapons (arms)」になるのでしょうか。こういう言い回し自体が存在するのかどうかわかりません。なんとも、もとの英文に戻しづらい日本文のように思われます。英文の名文家として有名なネルーの文章にしてはどんなもんでしょ。
さらに「誠実」と書いて「まこと」と読ませる、このあざとさは、英文を日本語に訳したもののようには、どうも思えません。
そして、ネルーのインディラへの手紙をずいぶん読んできましたが、「わが子よ」あるいは「わが娘よ」という呼びかけは、見たことがないのでした。
■梶原一騎はなぜネルーを選んだのか
さて、ネルーの著書から「愛は平和ではない」を見つけることができなかったからと言って、この言葉を梶原一騎の創作と断定できるわけではありません。雑誌に掲載された記事かもしれないし、日めくりカレンダーの「今日の名言」に書いてあったのかもしんない。
ですから、ここから先は、仮定の上に立った想像です。
梶原一騎は『愛と誠』連載開始にあたり、エピグラフを使ってみたかった。そのほうが、何かかっこいい「文学的」なマンガに見えるからです。そしてエピグラフにはその作品の主人公と同じ「愛」と「誠」という言葉がぜひ欲しい。でもそんな文章がすぐに見つかるわけはありません。そこで「愛」と「誠」が書かれたネルーの手紙を創造したのじゃないか。でも、なぜネルーなのでしょう。
日本人はネルーにどのようなイメージを持っていたのか。
戦後のネルーは、アジア・アフリカの良心の具現であり、平和思想のチャンピオンでした。理想主義を掲げた政治家であり、かつすぐれた思想家でもありました。1955年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では中心的指導者として、東西冷戦のなかでの非同盟を主張。
ネルーは、日本にとっては1949年、上野動物園にゾウの「インディラ」を贈ってくれた恩人でもありました(ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね、というあの歌はインディラを歌ったものですね。上野動物園での「象呈式」には、吉田茂首相やら都知事やらが出席して、それはもう大騒ぎ)。1957年、ネルーが、娘のほうのインディラを伴い国賓として来日したときは、ふたりとも「どんな映画スターもかなわない」ほどの大人気だったそうです。
ただし、1960年代になるとチベット反乱と中印国境紛争のため、ネルーの国内指導力は急速に低下。ネルーは1964年に亡くなっています。インディラは父親の死後、1966年にインド首相になりましたが、父親と異なりかなりの強権政治をやってまして、1971年印パ戦争とか1974年地下核実験とかもこのひとの時代のもの。
梶原一騎がネルーに対して、ある種の共感を感じ、理想像を見ていたのは確かでしょう。
ガンジーの非暴力・不服従、ネルーの非同盟。この思想は『愛と誠』のなかでは、岩清水弘と早乙女愛の行動に現れています。
岩清水は、非力な身でありながら、主人公・太賀誠と対等の決闘をしてみせました。それは暴力によるものでなく、勇気を比べるもの。地面に突き立てたナイフに後ろ向きにどれだけ近く倒れることができるか、という勝負です。早乙女愛は、集団によるケンカのど真ん中に出て行き、無防備に双方から投石を受けて大ケガをしながらケンカをおさめようとします。
ともにキリスト教的博愛よりも、ガンジー・ネルーによる、非暴力・不服従・非同盟の影響を強く感じてしまいます。
男礼賛、暴力礼賛と思われている梶原一騎にして、これは奇妙なこと。でも人間、ヒトスジナワではいかないものです。梶原一騎の心の中に住むもうひとりの梶原一騎は、ガンジーのような、ネルーのような思想や行動を、理想と考えていたのかもしれません。
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このあたりでオシマイです。ひととおりネルーの文章にあたってみたつもりですが、「愛は平和ではない」は見つかりませんでした。わたしにとって、この言葉は梶原一騎の創作なんじゃないかという疑惑は、ほぼ確信となっています。
ほとんどすべての梶原一輝作品には、平和な日本、マイホームパパ、教育ママ、すなわち堕落した日本への怒り、そして「現在」への不満がみちみちています。「愛は平和ではない 愛は戦いである」 常識の裏をいくようなこの表現。この言葉も、ネルーが娘に向けて言ったものではなく、梶原一輝が1970年代の日本人に向けて投げかけた言葉であると考えます。
でも、証明できたわけではなく、すべては可能性にすぎません。もしまちがってたらゴメンナサイ、先にあやまっておきますね。
Comments
そんなものがありましたか。情報ありがとうございます。英訳なのか、オリジナルなのか、うーむ、これは買ってみなければならないかしら。
Posted by: 漫棚通信 | March 19, 2007 08:15 PM
はじめまして。いつも楽しく読んでいます。
「ワイルドアームズ4」っていうゲームがあるんですが
冒頭にいきなりナレーションとして表記されるのがこの
「愛は~」を英訳した言葉なのですよね
このゲームの主な購買層の少年少女たちおいてきぼりのギャグ
製作者は業界有数の筋金入りのオタクなのでこれは確信犯でしょう
で、このあとさらに興味深い話が(タランティーノ関係)があるのですが長くなるのでまたいつか。
Posted by: 京野四郎 | March 19, 2007 09:06 AM