少年倶楽部のマンガ
昭和前期の有名雑誌「少年倶楽部」には、どんなマンガが掲載されていたか。これを、尾崎秀樹『思い出の少年倶楽部時代 なつかしの名作博覧会』(1997年講談社、4000円+税)の年表から抜粋してみました。この本、『少年倶楽部』に掲載された作品以外の作品・作家も多く紹介されていて(もちろん、マンガ以外のほうが多いです)、わたしのような戦前子ども文化初心者にとってはたいへんありがたい。
・山田みのる『漫画日記』:大正9年10月号口絵、とじこみ付録
・「滑稽実話珍妙漫画展覧会」:大正12年9月号とじこみ付録
・宮尾しげを『鼻尾凸助漫遊記』:大正12年10月号(~大正14年6月号)
・宮尾しげを『孫悟空』:大正14年7月号(~大正15年8月号)
・宮尾しげを『坂田の金時』:大正15年9月号(~昭和2年12月号)
大正期の子どもマンガ家といえば、『正チヤンの冒険』の樺島勝一と、この宮尾しげを。代表作は『団子串助漫遊記』などです。
・「初夏マンガ祭り」:昭和2年6月号特集:マンガがはじめてカタカナ表記される。
・田河水泡『目玉のチビちゃん』:昭和3年2月号(不定期連載)
・田河水泡『のらくろ二等卒』:昭和6年新年号(タイトルを変えながら、昭和16年10月号まで)
・宮尾しげを『三人三太郎』:昭和6年新年号(~6月号)
・「漫画大進軍」:昭和6年2月号付録
・「漫画愉快文庫」:昭和7年新年号とじこみ付録、色刷り32ページ
・「漫画愉快文庫」:昭和7年2月号特集
昭和6年に『のらくろ』の連載開始。10年におよぶ長期連載になりました。昭和7年の「漫画愉快文庫」以来の短編マンガ特集は、こののちも繰り返しなされています。編集者の座談会によると、当時は子どもマンガ家が少なくて苦労したと。
連載『のらくろ』で人気上昇中の田河水泡先生に、四ページものの新連載を頼みました。これが『神州桜之助』です。これをこの企画の柱におくこととして、その他の多くは、外国雑誌から探した漫画をヒントに、軽妙なタッチの画家に頼んで、日本の子ども向きにまとめてもらったりしました。(元「少年倶楽部」編集部 松井利一)
昭和初期の日本子どもマンガのお手本が、外国マンガだったことがわかります。これ以後、少年雑誌界にマンガブームというべきものが起きたそうです。
・田河水泡『漫画ブックのらくろ突進隊』:昭和8年2月号付録
・田河水泡『のらくろ大事件』:昭和8年5月号付録
・島田啓三『冒険ダン吉』:昭和8年6月号(~昭和14年7月号)
・「漫画学校」:昭和9年新年号付録
・「漫画列車」:昭和9年2月号(~8月号)
・島田啓三『冒険ダン吉海賊島の秘密』:昭和9年3月号付録
・吉本三平『ハヤブサ小探偵』:昭和9年4月号(~12月号)
・吉本三平『漫画遊戯ブックハヤブサ小探偵』:昭和9年7月号付録
・田河水泡『漫画ブック大暴れ猿飛佐助』:昭和9年10月号付録
・「漫画大行進」:昭和9年10月号(~昭和10年12月号)
・中島菊夫『日の丸旗之助』:昭和10年新年号(~昭和16年9月号)
・『のらくろ軍事探偵・ダン吉島の暴れ正月』:昭和10年新年号折り本付録
「少年倶楽部」マンガのもうひとつの柱、島田啓三『冒険ダン吉』の連載開始が昭和8年。吉本三平は、幼年倶楽部『コグマノコロスケ』が人気だったマンガ家。昭和10年には中島菊夫『日の丸旗之助』の連載が開始され、少年倶楽部マンガのビッグ3が勢ぞろいします。
・田河水泡『のらくろ小犬時代』:昭和10年7月号付録
・田河水泡『のらくろ士官学校の巻』:昭和11年新年号付録
・島田啓三『漫画講談真田大助暴れ漫遊記』昭和11年新年号付録
・「漫画大進軍」:昭和11年新年号(~昭和15年12月号)
・「漫画の爆弾」:昭和11年5月号付録
・田河水泡『のらくろ鬼少尉』昭和12年付録
・石田英助『弥次さん喜多さん滑稽道中記』:昭和12年4月号(~昭和13年12月号)
・井上一雄『愉快小僧』:昭和13年新年号(~昭和16年12月号)
・田河水泡『のらくろ剛勇部隊長』:昭和13年新年号付録
・「少年漫画劇場/田河水泡『のらくろ肉弾中隊』・島田啓三『冒険ダン吉動く日の丸島』」:昭和14年新年号付録
昭和13年には戦後に『バット君』を描いた井上一雄の『愉快小僧』が続き、昭和13年はじめには、『のらくろ』『ダン吉』『旗之助』『愉快小僧』『弥次さん喜多さん』、短編マンガ集の「マンガ大進軍」というラインナップ。それぞれが短いページとはいえ、マンガのスペースが相当量占めていたことになります。
しかしすでに、マンガ・少年読物に対する国家統制が始まっていました。昭和13年10月、内務省より「児童読物改善に関する指示要綱」が通達されます。少年雑誌界で「内務省通達」とか「雑誌浄化運動」と呼ばれるものです。
そこでは「廃止すべき事項」として、「小さな活字」「フリガナ」「懸賞」「自家広告」「次号予告」「連載予告」「ふろく(オマケ)、ただし正月号を除く」「卑猥な挿画」「卑猥俗悪ななマンガ、赤本マンガ」などがずらずら挙げらていました。
さらに編集上の注意事項としては、
「フィクションを現在の半数以下にする」
「時代小説を、小国民の生活に近い物語か、日本史を題材にしたものに変更」
「冒険小説を、探検譚あるいは発見譚に変更」
「これによって得たページを科学、歴史、古典の記事に振り分ける」
「マンガを減らす、とくに長編マンガを減らす」
などなど。これでもかというくらいこまごまと指導されています。この指導要綱が出されたのは昭和13年10月ですが、「少年倶楽部」では、すでにその前年、昭和12年7月号を最後にふろくが消えていました。日中戦争勃発とほぼ同じ時期。出版用紙の節約が要請されたとのことですが、内務省通達以前から国家統制が始まっていました。国家総動員法の成立が昭和13年の4月。以後、終戦までの少年倶楽部に付録がついたのは、昭和13年の1・7・10月号と夏休み増刊号、そして、昭和14・15・16年の1月号だけでした。
昭和14年2月号より、総ルビが廃され、一部のむずかしい漢字にルビがふられるだけになりました。雑誌の内容も変化していきます。山川惣治による絵物語の登場は昭和14年7月号からですが、紙芝居で人気だった『少年タイガー』を描いたわけではなく、『宣撫の勇士』『幻の兄』『ノモンハンの若鷲』『われ等の大地』『戦死した唐犬』『軍馬を育てる人々』『愛路少年隊』『間宮林蔵』『この国土のために』『北里柴三郎博士』『国友藤兵衛』『砂糖に打ち込む魂』『郡司大尉』『和井内鱒』などの作品。一部に内容が想像できないようなタイトルもありますが、いかにも内務省のOKが出そうな気がします。ただし山川惣治の執筆も昭和16年まで。
・島田啓三『カリ公の冒険』:昭和14年8月号(~昭和15年2月号)
・林田正『ほがらか王君』:昭和15年新年号(~昭和17年12月号)
・吉本三平『銃後の健ちゃん』:昭和15年5月号(~6月号)
・島田啓三『困らぬ小父さん』:昭和15年10月号(~昭和16年7月号)
昭和16年10月号、『のらくろ』の長期連載終了。その前月号では、これも長期連載だった『日の丸旗之助』が終了しています。
『思い出の少年倶楽部時代』の編集者座談会によりますと、田河水泡は内務省通達に対して、先頭に立って漫画擁護論をぶったため当局ににらまれていた、とあります。連載末期では、のらくろはすでに軍隊をやめていました。それにもかかわらず、『のらくろ』は情報局の命令で執筆中止になりました。
田河水泡の義兄に当たる小林秀雄のエッセイ『考えるヒント』の、『漫画』の項(執筆は1959年)によりますと、
「のらくろ」大尉は、悶々として満州に渡った。大東亜の共存共栄が、当時の政府のかかげた理想であり、「五族協和」は満州国の憲法であった事は、誰も知るところだ。勢い、「のらくろ」も、満州に行くと、仲間以外の附き合いもしなければならず、と言って、作者としては、漫画の構成上、人間を出すわけには行かず、ロシヤ人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀。或る日、作者は、情報局に呼び出されて、大眼玉を食った。ブルジョア商業主義にへつらい、国策を侮辱するものである。とくに最友好国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。
小林はこのことを「のらくろ発禁事件」と呼んでいます。
・井上一雄『健ちゃんの鍛錬』:昭和17年新年号(~12月号)
・島田啓三『ダンちゃんの荒鷲』:昭和19年新年号(~昭和20年7月号)
敗戦まで続いたのは、島田啓三『ダンちゃんの荒鷲』だけ。その次の昭和20年8月9月合併号は敗戦後の号、表紙には「仰げ日の丸、新日本の門出だ」という文字がありました。
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