手塚ファン御用達
二階堂黎人「僕らが愛した手塚治虫」読みました。著者はミステリ作家で、もと手塚治虫ファンクラブ会長。手塚コレクターによる、手塚マンガの書影を見せてウンチクをあれこれ語るエッセイです。
図版がいっぱいでたいへん楽しい。手塚が描き直した作品のいろんなバージョンも多く掲載してくれてて、野口文雄の著書と並んで、ほーほーそうかと感心するばかり。わたしは基本的にコレクターではないのですが、それでも著者のコレクションはうらやましい。現在も小学館のPR誌「本の窓」に連載中だそうですから、いずれ続編が出るのでしょう。
ただし著者は、手塚マンガ大好き、少女マンガ大好き、でも劇画大嫌い。ちょっと狷介なかたですから、バランスのとれたマンガ史の記述は求めてもダメ。そういう本ではありません。
わたしは著者とそんなに年齢が違わないですし、マンガ体験や持ってる本もよく似てる。手塚マンガ大好きの人間ではありますが、手塚マンガ以外でも、劇画だろうが萌えマンガだろうがアメコミだろうが、エニシング・オッケーという立場です。当然、著者とはマンガに対する考え方も理解もかなり異なります。手塚治虫に対して感じてる、息子にとってのりこえるべき偉大な父親みたいな存在で全面肯定とはいかなくて批判もしちゃうけどやっぱたしかに大好きなんだよ、というアンビバレントな感情は、著者にはわかってもらえないかなー。
ですから、気になる記述もいくつか。劇画台頭時、手塚がスランプにおちいってたころの著者による理解。
ほとんどの劇画は粗製濫造の稚拙なもので、後世に残るようなものは少なかった。それでも、物量による影響は相当強烈なものがあり、しだいに、「手塚治虫や手塚流漫画はもう古い」という風潮が生じていたのである。
そうした評価は、主に漫画評論家が下したものだが、子どもたちの間にも蔓延した。
もう一か所。
作品に対する無理解な意見の他にも、「彼ら(引用者注・手塚とディズニー)のような丸っこくて優しい絵柄は流行遅れ」だと、漫画評論家たちが時流にへつらって、いい加減なことを盛んに言いふらしていたのである。そして、残念ながら、多くの読者がそれを疑いもせず、妄信してしまった。
ううーん、手塚を古いと「盛んに言いふらし」、かつ子どもにまで影響を与えた評論家って具体的には誰なんでしょ。当時の手塚子どもマンガの主力読者のはずのわたし自身、当時、マンガ評論なんか「COM」以外では読んだこともなく、そして当然ながら虫プロ発行の「COM」に手塚批判なんか載るはずはありません。でも、劇画おもろいわ、最近手塚あかんなあ、と感じてたのがホントのところ。わたしも何かを「妄信」してたのかしら?
あとこんな記述もあって、
一九六五年以降、少年雑誌がA5判の読み物主体からB5判の漫画主体になったことは大きな出来事であった。
雑誌「少年活劇文庫」は1948年の創刊号からB5判。「少年」がA5からB5に変更されたのが1954年1月。1965年というのはどうでしょうか。
石森章太郎の「ジュン」事件についても。
しばらくすると『ジュン』の人気にも翳りが生じてきて、連載が終わった。(略)だんだんと発行部数の落ちていた<COM>にとって、『ジュン』の人気の凋落ぶりは死活問題だったからだ。だからこそ、石森章太郎のその次の連載作品には、ヒットを確実に見込める『サイボーグ009』の<神々との闘い編>を持ってきたわけである。
「COM」の人気連載だった石森章太郎「ジュン」は、1969年2月号を最後に突然終了してしまいました。同時に連載中だった「章太郎のまんがSHO辞典」も中断。当時「COM」には石森の旧作の再録も載ってましたし、虫プロは「石森章太郎選集」を発売中。2月号の次号予告にはちゃんと「ジュン」の予告もありました。3月号の編集後記に「石森先生のご都合により」しばらく休載するとの告知が掲載されましたが、次に石森が「COM」に登場するのは1969年10月号「サイボーグ009 神々との闘い編」でありました。
というわけで、「ジュン」は別に人気凋落で終了したわけではありません。巷間言われているように、手塚治虫の「ジュン」批判が石森の耳にはいっての中断でありましょう。ちなみに虫プロが豪華本「ジュン」を発行したのは作品がまだ連載中の1968年6月。オビには手塚治虫の推薦文も。
ぼくは石森氏のストーリーよりも絵に魅力を感じる。『ジュン』が成功したのは、もっぱら映像だけを追求したことによると思う。
あいかわらず手塚先生、誉めてるのか何なのか、奥歯にもののはさまったような文章ですねえ。
大きな誤植がひとつ。アニメ「悟空の大冒険」とアニメ「ぼくの孫悟空」の写真が逆です。ああ、最近誤植チェッカーみたいになっちゃってます、いかんなあ。
Comments
かの本につきましては、最近なんとまあサントリー学芸賞をとっちゃったものですから、マンガ評論をなめとんのかいっと、ちょっとした騒ぎになりました。当ブログにもトラックバックいただいた「宮本大人のミヤモメモ」などをご覧ください。
Posted by: 漫棚通信 | December 12, 2006 03:07 PM
「・・ストーリーマンガの起源」については、このブログでもっと痛烈な批評をされていたのですね。しばらく来ませんでしたので知りませんでした。失礼しました。
改めて読ませていただきました。この本は問題ありの本だったんですね。
でも「・・ス・・の起源」では、手塚治虫が劇の脚本を書いていて、作劇術にひいでていたというようなことが書いてあって、そこはいいことを言うとおもったんですが、これもどなたか先に指摘された方があるのでしょうか。
わたしが手塚の作品でふろくのほうがいいとおもったのは、コマひとつひとつまできちんと劇の計算ができていて、きっちり完成した作品になっているのはふろくのほうだと思ったからで、「・・ス・・の起源」の指摘から出発しているところもあります。
Posted by: しんご | December 11, 2006 10:50 PM
「僕らが愛した~」の「1965年~」の記述の前後には、1965年ごろに(1)マンガ週刊誌が月刊誌を凌駕し、(2)B5判のカッパコミクスをはじめとする雑誌総集編型単行本ブームがあった、ことが書かれていて、こちらはごもっともなのですが、「1965年~」の一文に関してはちょっと意味不明でした。
>マンガが天下を取ったのはふろくから
なるほど。これはかなり考えさせられるご指摘です。
Posted by: 漫棚通信 | December 11, 2006 09:16 AM
> 雑誌「少年活劇文庫」は1948年の創刊号からB5判。「少年」がA>5からB5に変更されたのが1954年1月。1965年というのはどうでし
>ょうか。
同感です。「少年クラブ」は、戦前からの雑誌で、その編集方針は「少年」なんかにくらべて、保守的だったんですが、それでも昭和30年の6月号からB5版になっています。昭和30年は1955年です。
少年雑誌のビジュアル化というのが、長い時間をかけて進行していったわけで、「少年クラブ」でも、マンガのために大判(当時はそう言っていました)にしたわけじゃない。むしろマンガは小さい版の方が似合っていることろもある。(コロコロコミックなんかですね)「鉄人28号」なんかは、本誌に載ったほうはちょっとコマがごちゃごちゃしすぎて、ふろくのほうがチープな感じで楽しめました。
大判になっても「少年クラブ」の巻頭は沙羅双樹文、山口将吉郎絵(山口先生をさきに言うべきでしょうか)の「源九郎義経」でした。長いこと絵物語が巻頭を支配していました。実際の人気は別としてですね。
おもしろブックは最初からB5だったんじゃないでしょうか。「コックリくん」なんかも載っていましたが、看板はやっぱり「少年王者」だった。まんがが主役だということがはっきりしたのは、武内つなよしの「小天狗大助」が巻頭カラーになり、「少年王者」のカラーページが減っていったころです。昭和31年ですね。1956年。
それから、少年雑誌を買うと、まずふろくから読むようになり、ふろくといえばマンガでした。これがしばしば読みきりでまとまっていて、なかには傑作があった。手塚治虫の雑誌時代の傑作はたいてい別冊ふろくです(でないですか)。マンガが天下をとったから大判になったんじゃない。小説→絵物語・マンガ→マンガというように進んでいった。マンガが天下を取ったのはふろくからです。
最近、まんが評論で「ストーリーマンガの起源」とかいうのを読みましたが、思い込みで書いているのか、絵物語の終息の時期が早すぎる。どうしてその時期と考えるのか、その根拠も書いていない。その年代の読者とか、作者の生き残りとか、マニアとかにインタビューして、間違いを正していないのかといいたい。純文学だと、文学雑誌の編集者の中には党派を超えた文学好きがいて、そのひとに見せると、へんなことを書いてあるとすぐ訂正される。WEBと違って、出版されるものが信頼されるのは、編集作業を経ているからなんですが、マンガ評論はろくに編集作業をやっていないのではないか。金をかえせといいたいです。(ホントは、図書館で借りたので、お金は遣っていません)
Posted by: しんご | December 10, 2006 09:20 PM