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October 31, 2006

ディズニーのマンガ

 タイトルが「ディズニーのアニメ」じゃないところに、ご注意。

 1999年、エグモントジャパン/河出書房新社から「ミッキーマウスコミック」という雑誌が創刊されました。ところが創刊号が1999年5月号、10号の2000年2月号であっというまに休刊。1年続かなかったわけで、日本ではいかにディズニーマンガに人気がないか、わかっていただけるかと。

 日本では、ディズニーといえばこれはもうアニメーション以外の何者でもなく、次に思い浮かぶのがディズニーランドのキャラクターでしょう(最近はこのふたつ逆かな)。日本人ならディズニーと言われてマンガを思い浮かべることはまずありませんが、海外じゃ違うのじゃないかな。ディズニーマンガは世界じゅうで発行されています。でも日本で人気を得るのはなかなかむずかしいみたいですね。

 「Disney Comics Worldwide」というサイトによりますと、現在90か国でディズニーのマンガが発売されているようです。日本ではディズニーの本といえば、ディズニーランドの本であったりミッキーの人形の本であったり、せいぜいディズニーアニメの絵本であったりするのですが、世界各国ではマンガがあたりまえ。ディズニーのマンガ本がほとんどない日本が例外的な存在のようです。(ただし日本以外でも、韓国版ディズニーマンガが存在しないというのは、ちょっと驚きでありました。隣国のディズニー事情はどうなってるんでしょうね)

 日本にディズニーがはいってきたのはもちろん戦前です。アニメーションが輸入され、そのキャラクター、ミッキーマウスが人気となりました。ミッキーを主人公にしたマンガも発行されましたが、さてこれ、おそらくはほとんどパチモンで日本で描かれたもの。本家ディズニーマンガを日本語訳にしたものはなかったのじゃないでしょうか。

 本国のミッキーマウスの新聞連載は1930年に開始。最初はアブ・アイワークスによって描かれましたが、すぐフロイド・ゴットフレッドソンにバトンタッチ。彼はパイカット目や白黒目のミッキーを1970年代まで描き続けました。現在復刻され読むことのできるミッキーマンガ古典の多くは、彼の手によるものですが、彼の作品が戦前の日本で翻訳されたのかどうかは知りません。

 さて戦後。小野耕世「ドナルド・ダックの世界像」によりますと、1947年ごろには、「ドナルド・ダックのてんやわんや」「ミッキー・マウスのアメリカ旅行」「ドナルド・ダックの南米旅行」などのマンガが邦訳出版されていたそうです。

 1960年、リーダースダイジェスト社が雑誌「ディズニーの国」を創刊しました。これはディズニーマンガを多く収録したもので、日本人作家の童話なども掲載されていました。しかし1964年にはリーダースダイジェスト社はディズニーから撤退し、講談社が雑誌「ディズニーランド」を創刊。講談社の初期「ディズニーランド」の記憶がもうひとつなのですが、「ディズニーの国」に比べてかなり幼少の読者向け、マンガ雑誌というより絵本に近くなっていたような気がします。

 日本ではディズニーキャラクターにこそ人気はあっても、彼らが登場人物として活躍するマンガになかなか人気にはなりませんでした。おそらく日本の母親たちは、ディズニーの絵本は子どもに買い与えても、マンガは買おうとしなかった。そして子どもたちも、ディズニーじゃなくて刺激にあふれた日本マンガを選びました。ま、わたしもかつて、レコード屋でばあちゃんに好きなもの買ってやると言われて、ディズニーアニメの物語レコード(←そんなのがあったんですよ)よりもサイボーグ009のソノシート(←そんなのもあったんですよ)を選んだクチですからねー。

 1976年から1977年にかけて、講談社が対訳の「英語コミック文庫」というシリーズを発売。ポパイなどもありましたが、主力はミッキーとドナルドでした。なぜか北杜夫・編。「ファイトでいこうミッキーマウス」とか「ドナルドダックの優雅な生活」など、十数冊が発売されてます。おそらくこれがディズニーマンガの日本へのまとまった紹介として、量的にはいちばんでしょう。

 その後、先述した1999年の雑誌「ミッキーマウスコミック」に先立つ1998年、河出書房新社がエグモント・ジャパン編「ミッキーマウス名作漫画集(Ⅰ・Ⅱ)」という税別3800円のお高い本を発売しました。今調べてみるとなんと発売後8年たった今でもふつうに現役で買えます。売れてるのかしら。

 エグモントというのはヨーロッパのマンガ出版社で、ディズニーマンガのアーチストを多数抱えているらしい。この本も、本家アメリカのマンガと、イタリア版ディズニーマンガ両方が収録されています。内容があんまりおもしろくないのが残念。もっといい作品があるのじゃないかなあ、小野耕世が絶賛する、カール・バークスの描くドナルドマンガをもっと載せるとか。でもミッキーが主役の本だから無理か。

 現在日本でのディズニーは、単品のマンガとしては日本読者には受け入れられないと考えたのか、あるいは日本側からそのキャラクターを欲したのか、ディズニーキャラクターが日本マンガに登場する形のコラボレーションが主流になってるようです。「なかよし増刊ラブリー」の「Disney's きらら☆プリンセス」(ウチの小学生によると、あまりにおもしろくないので「なかよし」本誌から増刊にトバされたらしい)と「小さな妖精プティの日記 from Disney Fairies」、ゲームと組んだ「少年ガンガン」の「キングダムハーツ2」などが最近のものです。

 というわけで、日本でディズニーマンガを読もうと思ったら、どうしても洋書を買うことになります。

 このあいだ発売されてからしばらく、買おうかどうしようか、迷いに迷ったすえ買った本がありまして、なんせ49.95ドルとたいへんお高い、「Disney Comics: The Classic Collection」という洋書。中身を見ずにアマゾンで注文するのは度胸がいるなあ。

 ミッキーやドナルドのマンガじゃなくて、アニメをマンガ化したものを集めた本です。「白雪姫」(1944年)、「バンビ」(1942年)、「ダンボ」(1941年)、「ふしぎの国のアリス」(1951年)、「ピーター・パン」(1953年)。マンガオリジナルのものとして「七人のこびととダンボ」(1944年)なんつー珍品もはいってます。

 ふつうの本というより、復刻版のコレクターズアイテムです。デザインやストーリーはアニメと同じですから、画家の力量が作品のデキを左右します。もっともダメダメなのが「ダンボ」で、あの泣ける名作がどうにもこうにも。「白雪姫」は、あの単純な線画に斜線でばっちり影を描いちゃったものだから、けっこう不気味な雰囲気になってますが、これはこれでおもしろい。

 もっともすばらしいのが「ピーター・パン」。絵がアニメ以上にむっちゃうまい。アクションシーンもばっちり。実はこの作品、「ディズニーの国」1963年8月号で日本語に訳されてまして、わたし大好きだったのです。いずれ名のあるひとが描いたのであろうと、今回この本で画家の名前がわかるかと思ってたのですが、やっぱディズニーマンガでは画家の名前は秘されているのでありました。

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October 29, 2006

ビミョーな「チェーザレ」

 惣領冬美「チェーザレ 破壊の創造者」1・2巻が同時発売。モーニングでじっくりゆっくり連載してますし、オビのコピーに「大人には本物を。」とありますから、雑誌のほうもこのマンガをオトナ向けとしてかなり力いれてるのでしょう。単行本カバーもオビがなければ字だけで構成されてますし、オトナっぽい、かな?

 毒殺で有名なボルジア家のお話です。チェーザレ・ボルジアをヒーローとして描こうという試み。

 チェーザレでマンガといえば、川原泉「バビロンまで何マイル?」がありました。こっちは、意に反して時間旅行をしてしまう日本人高校生男女が主人公という、TVドラマ「タイムトンネル」型のお話でしたが(←例が古いねどうも)、行ったのは恐竜時代と15世紀のイタリアだけ。ほとんどがチェーザレ・ボルジアとその妹ルクレツィアのエピソードに終始しました。

 作品の構成としては破綻しているのですが、陰惨な物語をなんとか軽く語ろうとする川原泉調と、本来のボルジア家物語の力によって、なかなか魅力ある作品になってました。チェーザレ・ボルジアっていかにも少女マンガにぴったりという感じがするし、ほかにもマンガ化されてるのかしら。

 「チェーザレ」のほうは、文献いっぱい調べてますし、何と日本語に訳されてない本も参考にしてるというのが売り。絵のほうも気合いがはいっていて、「ミケランジェロの天井画が描かれる前のシスティーナ礼拝堂」などが登場します。意欲と熱意を持って時間をかけて描いてるんですが、この作品がおもしろいかというと、これがまあ、微妙。

 1・2巻かけて何が描かれたかというと、これがひたすら状況の説明。物語はほとんど進行しません。登場人物はみんな腹芸ばかりしてます。お話はチェーザレと同じ学校に通うアンジェロという少年をとおして語られるのですが、こいつがまた信じられないぐらい天然で、世知に暗いものですから、まわりのひとが親切にいろいろと教えてくれるという設定です。というわけで、ずーっと説明セリフが続くのでした。いやマジメにがんばってんのはわかるんですが、あまりに何にも起こらないのでドキドキ感には欠けます。

 まだ2巻と考えるか、もう2巻と考えるか。おそらく10巻以上は続く物語の2巻でどうこう言おうとするのがまちがいなのか、せっかち読者としてはこのあたりで結論出すべきか(→買い続けるかどうか)。でも先は長いよー。まだルクレツィアも登場してないしね。悩めるところであります。

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October 26, 2006

もりもと崇の江戸と明治

 小池書院から、もりもと崇の単行本が二冊同時発売されてます。「大江戸綺人譚~のっぺら女房~」と、「鳴渡雷神於新全伝(なりわたるらいじんおしんぜんでん)」1巻。。「難波鉦異本(なにわどらいほん)」の掲載誌だった少年画報社「斬鬼」が2004年10月号で休刊してから、もう丸二年ですねえ。待ちかねました。

 前者は江戸時代が舞台の短編集。郭ばなしも多く、「難波鉦異本」の別バージョンふうです。もりもと崇の江戸ものは、杉浦日向子をぐっとエッチにした感じ。登場人物の思考や感性は江戸人のようでもあり現代人でもあり。きっとこのあたりのあやふやなところをねらっているのでしょう。

 「鳴渡雷神於新全伝」のほうは明治を舞台にした伝奇マンガ。こっちは江戸ものと違って時代は騒然としています。山田風太郎の明治ものでもそうですが、江戸と明治が混じった風俗がおもしろい。主人公の新聞記者は江戸時代を知らない世代。平成生まれをイメージしてるそうです。

 舞台が江戸にしても明治にしても、もりもと崇のように文献読んで時代考証して、虚実ないまぜにきちんとお話をつくるひとは貴重です。おとなのマンガだなあ。

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October 24, 2006

マンガスタイル

 「日本マンガのスタイルで描かれたアメリカンコミックやドイツのコミック」 これをどう呼称していいのかよくわかんないのですが、とりあえず、アメリカンマンガ、ドイツマンガ、と呼んでおきますが、これらをネット上で読むことができることを、コメント欄でhawawa氏から教えていただきました。これをせっせと読んでた、というか言葉がよくわかんないので眺めてたのですが、いやー、おもしろい。

 TOKYOPOPアメリカTOKYOPOPドイツでは、自分のところで発行してるアメリカンマンガやドイツマンガを、サイトで立ち読みできるようになってます。

 TOKYOPOPドイツでは、トップページの上の方、「STÖBERN」から「Manga Player」を選んで、その次のページの「MANGA PLAYER STARTEN」をクリックするとプレイヤーが立ち上がります。現在は約30のマンガの一部が読めます。多くは日本や韓国のマンガですが、ドイツオリジナルのマンガが少しあります。

 TOKYOPOPアメリカのほうは、トップページから「Online Manga」をクリック、どこか適当なマンガの紹介ページの「Read」の下を選べばプレイヤーが立ち上がります。こっちは40以上登録されてますが、ほとんどがアメリカンマンガ。メンバー登録が必要ですが簡単です。なぜか1巻1章は読めなくて1巻3章だけ読めるマンガもあります。

 ドイツでは、Anike Hage作の「Gothic Sports」にびっくり(リンク先Manga Playerからも読めます)。ドイツのギムナジウムを舞台にしたスポーツもの少女マンガ。まるっきり日本マンガスタイルで、これでドイツ人読者は登場人物をフツーにドイツ人少年少女と認識してるんだよなあ。しかもセリフは当然横書きですが、ページめくりは右から左に進む日本マンガスタイルだもんだから、日本の雑誌に載ってても全然違和感ありません。

 アメリカのほうのSvetlana Chmakova作「Dramacon」は、初めてコミック/アニメコンベンションに出かけた男女のドタバタ(リンク先Readの下からも読めます)。こっちは日本マンガスタイルの漫符=汗、涙、怒りの血管、額の斜線、さらにバックのベタフラッシュなどが頻発しますし、登場人物はまじめな顔とくずした顔の二種類を持っている。コマワリも少女マンガふうに複雑なところもあって、文法的にも絵的にも、日本マンガと変わるところがありません。

 そうかといえば、ほとんどアメコミ、でもキャラクターの顔だけマンガスタイル、ていうのもありますし、かつてのガロのマンガみたいのもありまして、いろいろな発見があって楽しいなあ。

 これに加えて、TOKYOPOPアメリカには「我 MANGA」というコーナーがあって、読者投降のマンガが読めちゃうんですねこれが。1ページだけのものもあれば、ちゃんとストーリーになってるのもあります。小中学生レベルのものも多いのですが、みんなマンガアーティストをめざしてるのかな。

 さて、こういうアメリカンマンガやドイツマンガをいろいろと読んでますと、「マンガスタイル」っていうのが何なのか、よくわからなくなってきました。おそらくは、目の大きなキャラクター、モノクロ、多様な漫符、コマ構成の複雑さ、多彩なテーマ、心理描写などがマンガスタイルなのでしょうが、実を言うと、それまでの古典的なアメコミやヨーロッパのマンガがどんなものかよくわかってないうえに、日本マンガにどっぷりつかって生活してきたものですから、かえって海外読者が日本マンガのどこに惹かれてるのか、もうひとつ理解できないところがあるのです。

 おそらくは、アメリカやドイツの読者のほうが、これらの比較をきちんと語れるのじゃないかな。日本人でありながら、日本マンガの魅力や特徴をさらっとすらっと語ることのできない自分が、はがゆいのでありました。

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October 21, 2006

汗は減っていくのか

 いろいろな漫符が発明され、そして消費されていく中で、もっとも古くからあり今も繁用されているものといえば、「汗」につきるのじゃないかしら。

 かつてどこででも使われていた空中に飛び散る汗はすでに古典的で、リアルな描写をするマンガにはあまり使われなくなりました。しかし、コメカミをつたう汗、「アセる」表現としての汗は、今も多くの作家が使っています。はなはだしい例では、物理的な汗以外の汗が全ページに登場したり。「カイジ」とかね。脱水症になるぞ。

 アメコミで描かれる汗は今でも、古典的な空中に飛び散る汗か物理的な汗ばっかりで、アセる汗ってほとんどないんですよねー。どうもアメコミには汗に「アセる」意味はないらしい。最近のマンガスタイルのアメコミはどうなのかな。

 コメカミの汗は日本マンガの偉大な発明であり、すごく便利な表現であることはわかるのですが、汗の多用はあまりに安易な気がして、わたし個人的には好きじゃないんですよ。でも、絵のうまい小畑健も井上雄彦も谷口ジローも、物理的な汗以外の汗をけっこう描いてます。五十嵐大介あたりになると、ほとんど見られなくなりますが。

 で、今日買ってきた「AERA」のムック「ニッポンのマンガ」掲載のマンガ群。浦沢直樹、高野文子、吾妻ひでお、諸星大二郎、谷口ジローの五作品のうち、高野文子と谷口ジロー作品には汗がない。

 もちろん高野文子作品は汗を必要とする内容じゃないからですが、谷口ジロー作品では、いつもなら汗を描いてもいいかな、と思うシーンにも汗がない。さらにもうひとつ、サスペンスフルな浦沢直樹作品にも、物理的な汗が三コマに登場するだけなのです。この作品、いくらでも「アセる」汗を描くことのできる内容ですが、これは意識して抑えていると見た。

 今後マンガが大人向け老人向けになるにつれ、静かなマンガも増えるでしょうし、表現としても日本マンガの汗は減っていくのじゃないかと思うのですが、さてどうなるか。

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October 19, 2006

ふたりの「ガブリン」

 小林まことの描く女性が、すごくかわいくなったのはどのあたりだったっけ。

 失礼ながら、旧「1・2の三四郎」の志乃ちゃんは、カワイイというような造形ではありませんでした。ヒロインの立場で登場しているのだから、一応、美人ということにしておきましょう、てなもんで。ふん、あなたなどよりその役にふさわしい女性はいっぱいいらっしゃってよ、という外野の声が聞こえてきそうなルックスでありました。

 ところが、「1・2の三四郎2」で主婦になった志乃ちゃんは、これはもう、オッパイはでかいわ、カラダはやーらかそうだわ、顔もすっかり美人系。

 この間に何があったかというと、たとえば「柔道部物語」のヒロインひろみちゃん。1巻ではだっさださの女の子。マンガ内ではかわいいと呼ばれているけど、それは単なる記号でお約束、客観的にはどうよ、という顔とスタイルでした。しかし著者がこのマンガで肉体を描き続けたせいか急速に画力がアップ。5巻のころになると、キャプションに「ますます色気に磨きがかかっていたのであった」とあるように、すっかり豊満でかーいらしい女性になっておりました。

 このころから女性の造形は小林まことマンガの大きな魅力となりました。「ちちょんまんち」なんて女性ヌードだけで読ませるマンガもありましたし。

 小林まことの描く女性は、オッパイや尻が立派に大きいだけじゃなく、腹回りの脂肪もしっかりありそうでふくよかなのが、たいへんよろしい。女性のおなかはこれくらいが……って、たんにわたしのオヤジ趣味ですが。インド映画の女優さんがこんな感じですなあ。

 かつて講談社「mimi」に連載された「ガブリン」1巻が単行本として発売されたのが1994年のこと。主人公はピンクの髪を持つ化け猫のおねえちゃんで、まあ色っぽいったらない。パパは鏡のオバケ、ママはバラのオバケ、その娘であり人間と結婚したがってるガブリンが、男の精気を吸い取ったり、逆にベテラン刑事を若返らせたりして、帝都を恐怖のどん底におとしいれる……なんてことはなくて、半裸の化け猫のおねーちゃんたちがそろってダンスをするようなマンガでした。

 ところが第2巻は発売されずじまい。たしかにちょとエッチで女性向けマンガっぽくはなかったけど、男性読者のわたしなどは好きだったんですけどね。

 で、講談社「コミックボンボン」のリニューアルにともなって、小林まこと「ガブリン」がリメイクされてこの春より連載。今回単行本1巻が出版されました。

 子ども向けマンガですから、こんどのガブリンはまだ小学生くらい。人間の父と化け猫の母が結婚して生まれたハーフです。髪形とかは昔のガブリンと同じですし、似た能力も持ってます。基本設定としては「奥様は魔女」のタバサちゃんみたいなものか。

 残念ながら、化け猫のお母さんだけではお色気が足りません(←コミックボンボンだからあたりまえですが)。そこをなんとか、お願いですから、ガブリンを成長させて活躍させてやってくれないかなー。「ふしぎなメルモ」みたいな感じで、どうかひとつ、と勝手な希望を書いときます。

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October 16, 2006

マンガの中の外国語:「のだめカンタービレ」の場合

(今回のエントリはコチラの続きになります)

 二ノ宮知子「のだめカンタービレ」では、クラシック音楽界が舞台だけあって複数言語がとびかっています。この作品で外国語はどのように処理されているでしょうか。

 この作品は今のところ、前半の日本編と10巻以降のフランス編に別れます。日本編での外国語は主に横書きで表現され、フランス編の外国語は主にフォントの違いで表現されています。

 「のだめ」の日本編にまず出てくるのが、2巻40ページの外国人教授ですが、最初のセリフは「デハ今日ハ第2楽章カラハジメマス」と縦書きカタカナでしゃべってます。2ページ後には「GET OUT!!(出てけー!!)」と横書きで叫んでますから、彼のセリフは英語だったようです。

 ミルヒーことシュトレーゼマンは日本語ぺらぺらという設定ですので、「ここで会ったがヒャク年め~♡」などとしゃべっていても、これはもう全部「日本語が下手な外国人がしゃべる日本語」なので、ちょっと特殊なタイプ。

 4巻に登場する、ミルヒーの秘書、エリーゼは、横書きでしゃべります。彼女に対して千秋が「Einen Augenblick!(ちょっと待ってください)」と呼びかけていますから、彼女のしゃべってたのはドイツ語ね。

 以後、「のだめ」日本編では、外国人がしゃべる言葉は横書きで表現されるようになりました。4巻99ページ、外国人講師が横書きで「弾いてください」、これに対してのだめが縦書きで「弾く? 弾くってなにを?」というギャグは、英語対日本語で会話されていることになります。

 8巻106ページ。カイ・ドゥーンという巨匠が縦書きで「カイ・ドゥーンです ヨロシコ」、これは日本語ね。その後、横書きで「ん? 君ドイツ語できるの!?」、ここからドイツ語に変化します。

 このように「のだめ」日本編の横書き外国語は、たいへんわかりやすい表現でした。

 例外として、日本編1巻12ページの回想シーン、子どものころの千秋と指揮者ヴィエラがしゃべってるとき、細いゴシック体のフォントが使用されています。あれ、これが外国語表現かな、と思うのですが、じつは回想シーンの会話文字はこのフォントで統一されていて、日本人同士でも同じゴシックが使われてます。というわけで、日本編ではフォントの違いによる外国語表現はありませんでした。

 もひとつ、5巻の特別編、少年時代の千秋の物語では、日本語外国語の区別をしないという、「のだめ」の中ではもっともルーズなフキダシ内表現を採用していました。


 さて、フランス編。日本人より外国人登場人物が多くなりますし、のだめたちもフランス語でしゃべることがほとんどになります。これでずっと横書きというのも読みにくいのじゃないか。ですから、フランス編で会話は基本的に縦書きされるように変化しました。そこで採用されたのがフォントの違いです。

 以前からマンガのフキダシ内のフォントは、漢字はゴシック体、ひらがなやカタカナは明朝体というのが標準でした。「のだめ」フランス編では、この「漢字ゴシックかな明朝」で書かれた部分は日本語、「全部ゴシック」で書かれた部分はフランス語であるとされました。

 おもしろいのは、複数の外国人と複数の日本人が同時に存在しているとき。日本人同士でもフランス語を使って、まわりに会話内容を伝えようとすることが多いのですが、たとえばフランス語が苦手な片平や、留学初期の黒木がまじると、彼らは日本語=漢字ゴシックかな明朝しか使っていません。フランス語が達者になると、共通言語としてフランス語をしゃべるようになるんですけどね。

 フランス語が強調されるときは、アルファベットでフランス語そのものが記載されます。フランス到着したときの10巻レストランのシーン。のだめがフランス語がわからないというギャグですが、「Est-ce que je peux prendre la commande?」とフランス人給仕は日本語訳なしでしゃべっています。

 10巻193ページ、レストランで日本人ゆうことのだめが日本語でケンカをしている。そこへフランス人ジャンがゴシック体で「ゆうこ!」と発言する。「ゆうこ」はフランス語でも日本語でも「ゆうこ」ですが、フランス人がしゃべってるからゴシック体。それに続いてアルファベットでフランス語のセリフが書かれます。つまり、日本語の会話中、フランス語が割り込んできたということが強調されているのです。

 11巻153ページ、レストランオーナーにゴシックで「この曲は弾けるか?」と譜面を渡されたのだめ、漢字ゴシックかな明朝で「ロッシーニの……なに?」 これに対してオーナー、ゴシックで「セヴィリャの理髪師」 日本語とフランス語が混じったシーン。

 しかし、ちゃんと読んでほしいギャグになると、フォントの違いだけではたよりない。10巻58ページ、日本人のだめとフランス人フランツが、それぞれの母国語でスカタンな会話をするシーン、のだめが漢字ゴシックかな明朝で、「試験の時ごちそうしてくれたお菓子」「あれどこで売ってるんですか?」 これに答えてフランツが全部ゴシックで「ボクの部屋にも遊びにきてよ!」 さすがにフォントの違いだけではわかりにくいギャグなので、それぞれ「日本語」「フランス語」と表示してあります。

 15巻72ページ、ディナーのときは当然フランス語会話なのですが、のだめと千秋がこっそりと漢字ゴシックかな明朝で、「バカ飲めよ一杯くらい」「ワインだけだぞうまいのは」なーんて言ってるシーン。これも「日本語」と表示があります。

 混乱しているのが中国のシーンです。11巻109ページで、千秋が中国スタッフと全部ゴシックでしゃべってますが、ここではフランス語なのか? そんなはずはないでしょう。11巻139ページ、孫RUIと千秋のデートシーン、ふたりは全部ゴシックでしゃべってます。さらに店員も全部ゴシック。この時期、RUIはフランス語しゃべれないはずで、店員もまさかねえ。本来、ここは英語のはずでしょう。あと、11巻176ページで、RUIママも全部ゴシックでしゃべってます。

 これが修正されたのが、13巻99ページ、孫RUIがパリに登場したシーン。フランス語の苦手な彼女は、ここでなんと、「漢字もかなも明朝体」でしゃべっていたのです。つまり、このシーンで、このマンガには日本語でもなくフランス語でもない第三の言語が表現されるようになりました。英語の登場。

 これにあわせて、千秋やRUIママも、RUIとしゃべるときは「全部明朝」でしゃべるようになります。つまり、英語ね。これに対してのだめは英語しゃべれないから、RUIに対しては「漢字ゴシックかな明朝」でしゃべったり、「全部ゴシック」でしゃべったり。これ以後、フォントによる外国語表現は、かなり複雑かつこまかく使い分けられるようになります。わかりにくいっ。けど、こまかく読むとおもしろいっ。

 最新16巻25ページ。オーケストラスタッフのテオが日本にいるデプリーストの妻に電話するシーン。ここは全部明朝ですから、おそらく英語。電話を千秋に代わって、全部明朝で「千秋です」←これはおそらく英語。これに対してデプリーストが漢字ゴシックかな明朝で、「やあ千秋」←きっと日本語。横からミルヒーが口を出すときは全部明朝で「ジミー」「マーメイド飲むー?」←きっと英語。ああっ、わかりにくいっ。

 というわけで、フォントに注目して読むことで、「のだめ」の世界がますます広がるのでありました。

 ただーし。

 こういう読み方をしてると、納得できないところも出てきまして、16巻153ページ、のだめと千秋がふたりきりでしゃべってるシーン。ここがなぜか全部ゴシックだっ。そんなはずはないだろう。ここは日本語=漢字ゴシックかな明朝じゃなきゃね。

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October 14, 2006

Bug-Eyed Girls

 SF用語に「BEM」というのがありまして、これは「Bug-Eyed Monsters」の略です。昆虫のように目玉の大きな宇宙人や怪物を意味しますが、古典的な造形ですから今はほとんど死語に近いのかもしれません。

 さてこれをもじって、少女マンガの登場人物を「BEG=Bug-Eyed Girls」と呼んだのは、米沢嘉博の初単行本「戦後少女マンガ史」(1980年)のオビでした。そのころは高橋真琴の絵などをイメージしてたのでしょうが、その後、一時小さくなってた少女たちの目は、今、史上もっと大きくなってるのじゃないでしょうか。いや、「ちゃお」とか「なかよし」方面での話です。

 ウチの小学生が買ってる「なかよし」をときどき読んでるのですが、みんな目がでかい。ふつう、顔の縦の長さの三分の一が、目の縦方向の長さです。鼻は目の下線より、上にあります。へたすると上唇も、目の下線の上にあります。いやなんというか。

 これはあれですな、突然変異的に大きな目が出現したのじゃなくて、目の大きさを競ってるうちにバランスを失して次第に大きくなってきたのだと見た。このまま行くと、顔の二分の一が目になるね。

 最近の小学生向け少女マンガがどんなものかといいますと、ファーストキスがどうしたこうした、あこがれのきみがどうしたこうした、告白するのがどうしたこうした。ちょっとは恋愛から離れんかーいっ。ああ、オッサンが読んでると恥ずかしいったら。(←あたりまえです)

 「なかよし」の看板連載のひとつ、今年の講談社漫画賞を受賞した、安藤なつみ/小林深雪「キッチンのお姫さま」というのがあります。お菓子作りの天才少女が、北海道から上京し、いじめられながらもコンクールに出場したりする物語。もちろん恋愛は大きなテーマのひとつです。ああ、なにやらなつかしい展開。大映ドラマみたいでしょ。

 主人公は当然のごとく巨大目の持ち主で、設定やお話の展開には新しいところはあんまりありません。それがきっと今の小学生向け少女マンガなのでしょう。小学生読者はこれで、「お約束」とか「ベタな展開」を勉強している最中なのじゃないかな。毎回お菓子のレシピが掲載されてるところが、ちょっと実用的。

 このマンガで、最近、意外な展開がありました。主人公は、同じ学校に通う兄弟から好かれ、彼女もふたりの間で心ゆれるという三角関係だったのですが、このうちのひとり、秀才の兄のほうが、このあいだ交通事故で死んでしまった。

 三角関係、兄弟、交通事故、とくればこれはもう、あだち充「タッチ」だーと、ウチの小学生は騒いでましたが、わたしは「アタックNo.1」を思い出してました。まあまあ、子どものころにはそういうルーティンな展開や定型を知ることも大切、こういうのは本歌取りというてね、てなテキトーなことを言っておきました。

 「なかよし」のなかでは、安野モヨコ「シュガシュガルーン」なんかまだ目が小さいほうですね。もっとも目が小さいのは、「ローゼンメイデン」を描いたPEACH-PITの「しゅごキャラ!」でして、これはけっこう萌え絵でオッサンでも読めます。この二作が今の「なかよし」ではもっともおもしろいとオッサンは思うのですが、ともに「なかよし」の主流マンガではありませんので、世間の小学生読者からの評価についてはわかりません。

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October 12, 2006

岡野玲子インタビューふたつ

 今週のNHK「マンガノゲンバ」は、出演者が、天野ひろゆき、なぎら健壱、夢枕獏、中野晴行でありまして、取り上げられたのが星野之宣「宗像教授異考録」と岡野玲子「陰陽師」「妖魅変成夜話」だもんですから、なかなかに濃いメンバーと作品でした。だからといって番組がおもしろいというわけではない、というところがなんともですが。

 岡野玲子「陰陽師」は昨年全13巻で完結しましたが、この作品を読み解くことは大きな宿題として残されています。マンガ史に残る主要作品の中で、おそらくもっとも難解な作品でありましょう。プロットや表現は暗喩に満ち、作者は読者の百歩ぐらい前を歩いています。

 夢枕獏くらいじゃないと、この作品をちゃんと評価するのはムリじゃないのかな。でも原作者だから批評なんかするわけないし。わたしも知識がない、能力がない、とてもじゃないけど、陰陽師を解読するには力不足であります。だもんで、思考停止のままでした。

 今週の「マンガノゲンバ」では、陰陽師13巻の真葛が晴明を復活させようとする見開き2ページのシーンの原稿を見せてくれてました(といっても、13巻は見開きばっかりですけどね。ノンブルないから伝えづらいなあ、「十六 術」の回です)。

 陰陽師ってCG処理してるのかと思いきや、人物の絵にトレペを重ねて唐草模様を描いて、これが原稿では白で印刷される唐草。さらにもう一枚トレペを重ねて今度は黒で印刷される唐草が描いてある。うーん、あのもやっとした絵は、すべてアナクロで描かれ印刷段階で処理されたものだったのですね。

 あと、岡野玲子が筆でペン入れ、ってのも変ですね、筆入れしてるところも映ってました。背筋が伸びててかっこいい。墨も自分ですってます。

 インタビューがもひとつ。大阪芸術大学/小池書院が出してる「大学漫画」6号に、岡野玲子と作家柴崎友香の対談が載ってます。

 「陰陽師」、とくに12巻と13巻の難解な点は、まず、何でまたエジプトやらツタンカーメンが出てくるんだよう、わけわからんよう、というところなのですが、これに対して岡野玲子はこう語っております。

一般的にはギリシャ哲学の宇宙と数理と調和というのが哲学の基礎になってますが、実はその「以前」があって、古代エジプト文明には宇宙の根源的、調和的思想がすでにあって、それと同じくらい古く中国にも天地合一の哲学があったんです。

 だからエジプトだったの? 晴明の死と再生についても語られてます。

晴明と道満が対峙するシーンは、晴明を助けようとして働いている博雅や、保憲や真葛が、完璧に各々の役目をつとめればつとめるほど、晴明を死へと導いてしまうんです。それに気づいているのは保憲だけなんですね。対峙している晴明と道満はお互いの役割を了解している。その瞬間、殺と愛とが表裏一体であることがわかるんです。

 ごめんなさい、よくわかりません。

絹帯を締めてそのシーンを描き上げると、保憲が朗々と祭文を詠み上げる声が頭の中に聴こえて来て、実は真葛や博雅や保憲が打った一点や、五芒星や九字に晴明を蘇えらせる活路があることが、自分のハートから泉が湧き出るようにあふれて来てわかるんです。それが説話で有名な「射覆(せきふ)」の大柑子15個の数と一致していることも。

 ああ、わからんっ。射覆ってのは、晴明と道満が術比べをしたとき、長持の中の夏ミカン15個を晴明が術でネズミに変えちゃったという話ですが、いったい15にどういう意味が。

 というわけで、これで陰陽師読解の手がかりが、ちょっとだけつかめたような気が……やっぱしません。むずかしいわ。

 この対談では、陰陽師を全12巻と計画したのは、実は装丁の祖父江慎だった、なんて話もありまして、そりゃま、たしかに13巻よりは12巻だったほうがかっこいいですけどねー。装丁者がそこまでするか、というところは笑いました。

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October 10, 2006

その後の柔侠伝

 バロン吉元「柔侠伝」シリーズは、明治から現代まで続く、柔道家・柳家四代の男たちの物語。1970年週刊漫画アクションに連載開始。「柔侠伝」「昭和柔侠伝」「現代柔侠伝」「男柔侠伝」「日本柔侠伝」と描き続けられ、1980年に連載終了。まさに1970年代を代表する名作でありました。現実の歴史と離れてからの末期の展開はちょっとアレでしたけど。

 歴史に翻弄されつつ歴史にあらがい、権力に立ち向かう、主人公たち。あがた森魚/緑魔子「昭和柔侠伝の唄」なんてのもありました。覚えてます?

 どんだけ人気があったかというと、わたしの友人(←べつにオタクじゃないです)は、自分の子どもに柔侠伝の登場人物の名前をつけちゃったくらい。

 今年になってオンデマンドで出版されるとアナウンスされましたが、「柔侠伝」と「昭和柔侠伝」は昨年発売されたコンビニ本がまだ手にはいるためか(アマゾンにもあります)、今はオンデマンド版は販売休止になってるみたいですね。

 さて、連載終了から20年。2000年になって、リイドコミックに「新柔侠伝」が連載されました。これにはもう、おおっと瞠目かつ刮目したわけですが、残念ながら、単行本二巻で終了。これがどういうお話だったかといいますと。

 主人公は大学三年生の柔道世界チャンピオン、日向遙です。宿敵は幼なじみでもある真武会空手の鳴神紫苑。鳴神のバックには日本の政財界を牛耳る暁光グループがいます。国家権力と結託し、暴力行為で業績を伸ばしてきた世界的コングロマリット。男柔侠伝、日本柔侠伝でもこいつらが悪役でした。男柔侠伝のラストで勘一に倒された斬心流空手の黛環、の息子なんてのも登場します。

 日向遙に接触したのが、「世界じゅうに散らばって地下組織として国際的破壊活動を行っている」と敵からは言われちゃってる梁山泊グループであります。柳勘一が組織した梁山泊の生き残りですね。その総裁は、ビッグエックスと名のる総髪でサングラスの男。車イスで脚が不自由。額の傷を見ると、正体は柳勘平らしい。日本柔侠伝のラストではまだ子どもだったのに、ずいぶん年とっちゃったなあ。

 日向遙は梁山泊に協力して、暁光グループやその手先の暴力と戦うことになります。ところが、さあこれからというところで、オシマイ。ライバルとの戦いにも決着はつきませんでした。

 「新柔侠伝」の連載終了は2001年の春です。その後9.11が起こりましたから、反権力を標榜する梁山泊みたいな連中を主人公にするのは、なかなかむずかしい時代になってしまいました。

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October 05, 2006

「妖怪と歩く」:水木しげるの自伝じゃないのも読んでみる

 水木しげるは、自伝およびそれに類する作品を、マンガも文章もむっちゃたくさん描いてます。

●娘に語るお父さんの戦記:河出書房新社1975年・1985年、河出文庫1982年・1995年
●のんのんばあとオレ(文章版):筑摩書房1977年、ちくま文庫1990年
●のんのんばあとオレ(マンガ版):講談社/コミックス1992年、講談社漫画文庫1997年
●ほんまにオレはアホやろか:ポプラ社1978年、社会批評社1998年、新潮文庫2002年、ポプラ社2004年
●ねぼけ人生:筑摩書房1982年、ちくま文庫1986年・1999年
●コミック昭和史(1)~(8):講談社/コミックス1988年~1989年、講談社文庫1994年
●ぼくの一生はゲゲゲの楽園だ マンガ水木しげる自叙伝(1)~(6):講談社/コミックス2001年、「コミック昭和史」の自分史の部分を再構成
●水木しげる伝(上)(中)(下):講談社漫画文庫2004年~2005年、「ぼくの一生はゲゲゲの楽園だ」の文庫版
●水木しげるのラバウル戦記:筑摩書房1994年、ちくま文庫1997年
●トペトロとの50年:扶桑社1995年、中公文庫2002年
●カランコロン漂泊記-ゲゲゲの先生大いに語る:小学館文庫2000年
●生まれたときから「妖怪」だった:講談社2002年、講談社プラスアルファ文庫2005年
●水木しげるののんのん人生-ぼくはこんなふうに生きてきた:大和書房2004年
●水木サンの幸福論:日本経済新聞社2004年

 フハッ。

 ほかにも「水木しげるのカランコロン」(作品社1995年、のちに河出文庫で「妖怪になりたい」「なまけものになりたい」として2003年文庫化)、「妖怪天国」(筑摩書房1992年、ちくま文庫1996年)などもあって、これにも自伝的エッセイが含まれてますし、マンガ「敗走記」(1970年)もそうですね。

 さすがに全部は読んでません。こんなふうに大量にチェックすべき本があるものだから、実はこんな本が出てるのを知りませんでした。不勉強ですみません。

●足立倫行「妖怪と歩く 評伝・水木しげる」文藝春秋1994年(のち文春文庫1997年、その時のタイトルは「妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる」)

 いやー、これがまたなかなかの本でした。

 1992年から1994年にかけて、著者が水木しげるの取材旅行(鳥取県境港、アメリカ、ラバウルなど)に同行した記録、および水木しげる、家族、周辺のひとびとへのインタビューを通じて水木しげるの実像にせまろうとしたものです。

 自伝というのは、一面の真実でしかないというのが、この本を読んでよくわかりました。妻や娘たち、兄弟、友人たちに目を向けることで、水木しげるがさらに立体的に浮かんできます。

 基本的には、マンガ家じゃなくて、人間・水木しげるに焦点をしぼった本です。それでも、W3事件のあと、手塚治虫と入れ違いに少年マガジンが水木作品を掲載した経緯など、宮原照夫にインタビューしてかなり詳しく書かれてますし、つげ義春や池上遼一へのインタビューなど、マンガ史方面の部分もおもしろい。

 サンフランシスコのホテルで偶然、水木とは初対面の米沢嘉博と出会うシーンもあって、今や感慨深いですなあ。あと若いころの松田哲夫が「ゲゲゲの鬼太郎」の脚本を書いたことがある、という記述には驚きました。

 宮原照夫によりますと、宮原に水木しげるをすすめたのは、当時マガジンに「風の石丸」を描いていた白土三平であったと。しかし貸本版「鬼太郎夜話」はあまりに強烈だったので、別冊少年マガジンには水木の新作(「テレビくん」ですね)を依頼し、マガジン本誌ではアレンジした鬼太郎モノを読みきりで三本載せ、様子を見る形での出発だったそうです。

 たしかに今の目から見ても、水木作品はマンガとして異端です。細密な背景に単純な線、等身の小さな人物。なぜこのような作品を水木しげるが描くようになったのか、この異端のマンガがなぜ日本で大人気を得たのか、これはこの本でわかることではありませんが、こういうヒントもあります。水木しげるによると、

「私は、風景については人が驚くほど自信を持ってるんです。小学生の頃に親父とたった一度訪ねたことがある豚小屋でも、“描け”と言われれば今すぐにでも描けます。どんなところ、どんな風景でもたちどころに描けるという自信があります」

 これに対して、

「人物が苦手だったんです。風景画は好きだけど人物画が嫌いだったんです」
「私、人より自然が好きなんです」

 実際、プロダクション制となっても水木しげるがアシスタントに何を描かせたかというと、やっぱ細密な背景に力を入れている。人物、とくに女性なんかはまるきり他人(たとえばつげ義春)にまかせきり。手塚治虫がマンガを記号の集合と言ったのに対し、水木しげるの場合、人物は記号だったかもしれませんが背景はそうではなかった。

 手塚治虫が記号で物語を語るのに対し、水木しげるは背景でこの世の成り立ちを語る。 

 この本では、水木しげるの姿が活写されています。突然大声で笑い出す奇行ともいえる癖。手塚治虫との確執。南洋で遊んで暮らしたいと言いながら実は仕事中毒。コレクションの鬼。妖怪への執着。水木しげるの人間的魅力がよく伝わってきます。

 著者の観察眼は鋭く、長時間をかけて取材していますし、水木からホンネを引き出すのにも成功している。それでもやっぱり水木しげるの底は見えません。融通無碍、正体不明の人物ですねえ。

 タイトルの「妖怪と歩く」ってのは、水木しげるが妖怪を友として人生を送ってるというより、著者が妖怪のような水木しげると歩いた、という意味を込めているのでしょう。

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October 03, 2006

動物園という思想「ZOOKEEPER」

 近代動物園は1828年ロンドン動物学協会が設立したロンドン動物園に始まるそうです。日本では上野動物園の開設が1868年。生物に対する自然科学的研究、大衆への公開による娯楽の提供、そして教育と啓蒙。ただし、本来動物たちが住む自然環境と大きく違う気候のもとでオリの中で動物を飼うという行為は、動物愛護の精神とはどうしても矛盾しているわけで、これまでも常に議論されてきたところです。

 考え出すときりがない問題で、ヒトが動物とどのようにつきあうべきか、さらに生とは、死とは何か、最近でいうなら、坂東真砂子問題までも。ああたいへん。

 とまあ、動物園と動物をめぐるいろんなことを考えてしまう作品が、青木幸子「ZOOKEEPER」1巻です。

 主人公・楠野香也(♀)は、動物園の新米飼育係。温度を視覚化することができるという、赤外線カメラみたいな特殊能力を持っています。

 作品では、動物たちのウンチクが語られ、何らかの問題が起き、主人公の特殊能力で解決される、よくできたストーリー。ところがそのバックに描かれる現実が、重い。

 パンダと野良犬、「保護動物」と「害獣」を分けるのは何なのか。動物を品種改良するヒトの責任は。動物園では生き餌としてモルモットを爬虫類に与えますが、そのモルモットを殺すのはだれの仕事か。密輸で摘発されたり、捨てられたりしたペットの爬虫類の末路は。

 娯楽としてよくできているだけでなく、動物園をとおして読者に対して宗教的哲学的な問いかけまでがなされている、すぐれた作品だと思います。

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October 01, 2006

米沢嘉博氏逝去

 持ってる本

戦後少女マンガ史
別冊太陽子どもの昭和史/少女マンガの世界Ⅰ
別冊太陽子どもの昭和史/少女マンガの世界Ⅱ
別冊太陽子どもの昭和史/少年マンガの世界Ⅰ
別冊太陽子どもの昭和史/手塚治虫マンガ大全
マンガと著作権
藤子不二雄論 FとAの方程式
ロボットマンガは実現するか
戦後野球マンガ史
マンガで読む「涙」の構造
漫画同人誌エトセトラ’82~’98
コスミコミケ(1)~(3)

 読んだことがある本

戦後SFマンガ史
戦後ギャグマンガ史
マンガ批評宣言
スピーチバルーン・パレード


 1980年に発行された「戦後少女マンガ史」は、現在進行中のできごとや作品と思われていたものを、歴史のなかに位置づけて記述するというきわめてちゃんとした著書で、当時のわたしには衝撃的でした。しかも著者はこのときまだ、27歳だったのですね。別冊太陽のシリーズ、とくに「少女マンガの世界」は、今でもくりかえし広げています。もっと著書を読みたかった……

 ご冥福をお祈りします。

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