吉田竜夫と梶原一騎
ガッチャマンにしても、マッハGoGoGoにしても、タツノコアニメの魅力の大きな部分を占めてるのが、吉田竜夫の、あのバタ臭くて色気のあるキャラクターであるのはまちがいないところです。
吉田竜夫/梶原一騎「チャンピオン太」全5巻が、マンガショップから出版されています。週刊少年マガジン1962年1号から1963年52号まで連載された、梶原一騎初のマンガ原作。力道山の弟子の少年プロレスラーが活躍する作品で、テレビ化もされた人気マンガです。
オタクトリビア的には、テレビ化されたときアントニオ猪木が死神酋長役で出演し、リングネームも危うく死神酋長にされかかったというのが、有名な話。
梶原一騎の自伝マンガ、原田久仁信作画の「男の星座」、これは未完に終わりましたが、この作品は、少年マガジン編集長の牧野武朗が梶原を訪れて作品を依頼するシーンで終わっています。その作品がこの「チャンピオン太」でした。つまり、「チャンピオン太」は梶原にとってメジャーへの第一歩でありました。
そこで組んだのが吉田竜夫です。
吉田竜夫は京都出身、1932年生まれ。梶原一騎より四歳上になりますね。京都で新聞の挿絵を描いたり、紙芝居を描いたりしたのち、1954年に上京。最初は挿絵画家を志望していました。当時から骨格のしっかりしたうまい絵を描いていました。しかも彼の描く人物の顔が目もとくっきりでかっこいい。
梶原一騎が17歳の時、懸賞小説に応募して入選した少年小説デビュー作が、少年画報1953年11月号掲載の「勝利のかげに」です。題材はボクシング。「男の星座」によりますと、このとき少年画報社を訪れた梶原一騎は、編集者から邪険に扱われます。少年誌はマンガの時代に移行しつつあり、もう小説はお呼びじゃないと言われてしまう。
そのとき、たまたま同時に少年画報社を訪問していたのが、マンガ家志望(←ホントは違いますが)の吉田竜夫と辻なおきであったということになってます。辻なおきはのちに「タイガーマスク」などで梶原と組みますが、京都出身で吉田竜夫の幼なじみでした。彼らは梶原と違って編集者に歓待され、別冊付録執筆の依頼をされていたと。梶原は嫉妬の炎を燃やします。
斎藤貴男「梶原一騎伝」にもこのエピソードは出てきてます。こちらで登場するのは辻なおきだけになってますけど。
いつもの梶原一騎のルサンチマンですが、しかーし、吉田竜夫も辻なおきも、この時期まだ上京してなかったはずです。当然ながらふたりとも少年画報の別冊付録は描いていません。このエピソードはどうもアヤシイ。
調べてみる限り、吉田竜夫の雑誌での最初期作品は、少年画報1954年11月号から1955年4月号に連載された「ジャングル・キング」のようです。山川惣治タッチの絵物語。
吉田竜夫と梶原一騎が最初に組んだのが、少年画報1955年1月号「荒野の快男児」です。空手家がモンゴルで活躍するお話。梶原一騎の小説に吉田竜夫が挿絵を描きました。
梶原一騎最初の連載となった作品も、吉田竜夫と組んだものでした。絵物語「少年プロレス王 鉄腕リキヤ」(冒険王1955年3月号~1957年12月号)です。
※梶原一騎/原田久仁信「男の星座」では、この作品の連載開始を1956年4月号としてますが、ウソです。「タツノコプロインサイダーズ」にも、1954(昭和29)年8月号~1954(昭和32)年12月号連載で、吉田竜夫のデビュー作であると、誤植がある上にワケわからんこと書いてますが、これもマチガイです。あー、たのむから書誌的なことはちゃんと書いてくれよー。
この連載開始時、ある事件が起こりました。作品のクレジットに吉田竜夫の名前だけがあって、梶原一騎の名が記載されていなかった。
「男の星座」には、これに怒った梶原一騎が編集部にどなり込み、担当編集者Hに土下座させるエピソードが描かれています。編集者Hによると、新鋭画家・吉田竜夫を冒険王と少年画報が取り合っており、吉田竜夫のプライドに迎合するために、梶原の名前を削ったのだと。
いや、デビューしてすぐの新人、吉田竜夫に対してそんな扱いはしませんって。これも梶原一騎の脳内ひとり相撲のようです。
斎藤貴男「梶原一騎伝」によりますと、当時の担当編集者・平田昌兵はそんな事件があったとは証言していません。絵物語の作者をひとりにクレジットするのは、当時の冒険王の習慣であったと語っています(これはこれで、あんまりな話ですが)。そもそも、吉田竜夫を採用したのも、最初に依頼して断られた湯浅利八からの紹介だったそうです。湯浅は京都時代の吉田の仕事仲間で、先に上京して絵物語の人気作家になっていました。
真相はどうあれ、梶原一騎がルサンチマンを悶々とため込んでいたのは確かなようです。
これ以後も、吉田竜夫と梶原一騎のコンビは続きます。
少年プロレス王:おもしろブック1955年11月号~12月号
竜巻三四郎:少年1957年1月号~6月号連載
大空行進曲:少年1957年1月増刊号
白虎大助:ぼくら1958年1月号~12月号連載
ふたりとも新人ですが、コンビの作品が続いています。絵物語にも新しい描き手が求められていたのか。それとも梶原が自虐的に書くように、原稿料の安い新人を重宝に使っていたのか。
この時期、梶原一騎は浅草でストリッパーと半同棲中、吉田竜夫も浅草に住んでいましたから、ふたりはけっこう飲み歩いていたそうです。吉田竜夫の奥さんは、かなり梶原をいやがってたらしい。梶原は吉田にかなり飲み代を借金してたのじゃないかというのが、吉田の実弟、久里一平と吉田健二による推測。
吉田竜夫は絵物語中心に活動していましたが、絵物語とはいいながら、コマがあってフキダシがあって、マンガとほとんど区別がつかないものもありました。梶原一騎原作の「竜巻三四郎」もそんな感じ。ほとんどマンガですね。「タツノコプロインサイダーズ」によりますと、「にっこり剣四郎」や梶原一騎作の「白虎大助」などの作品は、絵物語として連載開始されながら、いつのまにやらマンガふうに変化していたらしい。
その吉田竜夫がはっきりマンガにシフトしたのが、少年画報の「スーパーマン」でした。
少年画報社は1959年から1961年までアメコミ雑誌「スーパーマン」を刊行していましたが、同時に少年画報本誌にも1959年9月号から1960年10月号まで、マンガ「スーパーマン」を連載しています。最初はアメコミそのものを掲載してたらしいのですが、人気が出なかったらしく、1960年5月号よりは、吉田竜夫がマンガを描くことになりました。吉田竜夫は、日本で初めてアメコミを(版権をとって)描いたひとでもあったのです。
吉田竜夫は「チャンピオン太」が始まった1962年には、久里一平、吉田健二とともに三兄弟でマンガ制作会社タツノコプロを設立します。
「チャンピオン太」のあと、週刊少年マガジンでもういちど吉田竜夫/梶原一騎で「ハリス無段」(1963年~1965年)が連載されました。これがふたりがコンビを組んだ最終作品。こっちはアニメ「紅三四郎」の原型にもなりましたね。
この後、吉田竜夫とタツノコプロは1965年「宇宙エース」でアニメに進出。梶原一騎は1966年より始まった「巨人の星」が大ヒット。ふたりの接点はなくなり、別々の道を進むことになります。吉田と梶原、このふたりの関係は、絵物語の末期からマンガの勃興期にかけての戦友というべきものだったのだろうと想像します。
吉田竜夫1977年没。梶原一騎1987年没。ふたりとも歴史に名を残す巨人でした。
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