加太こうじ版「黄金バット」
先日、永松健夫「黄金バット」を読み直してました。わたしが持ってるのは、1947年より明々社から発行が始まった単行本の復刻(1975年桃源社)ですが、コマがあってフキダシがあって、絵物語というよりほとんどマンガだよなあ、とかいう感想はちょっと置いといて。
わたしにとって「黄金バット」といいますと、これはもう1967年TVアニメ版の黄金バットです。黄金色のガイコツのマスク(素顔?)に半裸の体も黄金色。赤黒のマントをひるがえし、高らかな笑いとともに登場するナゾの正義の味方は、今考えてもアメコミ風デザインでカッコいいったらない。
このマンガ版は、少年キングで一峰大二、少年画報で井上智によって描かれました。一峰大二版は、今もコミックパークで買うことができます。
で、この一峰大二版「黄金バット」、表紙に作・加太こうじ、画・一峰大二と記載されてます。あれ、永松健夫じゃないの?
実は、1966年東映映画実写版の黄金バットも、1967年TVアニメ版黄金バットも、ともに監修・加太こうじ、原作・永松健夫とクレジットされているのです。
紙芝居の黄金バットは、1930年(昭5)に作・鈴木一郎、絵・永松武雄(のち健夫に改名)の手によって誕生しました。絵元は東京の「話の日本社」で、黄金バットの大ヒットによって紙芝居はブームになったらしい。
永松健夫は、昭和7年からなぜか紙芝居の黄金バットを描かなくなってしまいますが、その後、絵を描いたのが、加太こうじや菊地広雲らだそうです。
戦後は、1946年1月から、加太こうじが紙芝居の「黄金バット」の台本と絵を描いていました。
いっぽう、単行本版の「黄金バット」は元々社(のちの少年画報社)から永松健夫作で1947年から発行。「なぞの巻」「地底の国」「天空の魔城」が出版され大ヒット。永松健夫の黄金バットは、1948年に発刊された「少年活劇文庫」(のちの少年画報)にも連載されました。ムックとかでよく見る、絵物語のヒット作としての「黄金バット」はこっちですね。
顔はガイコツですが、金髪の長髪。大きな帽子、緑の服に白タイツ。大きな襟飾りと袖にもでかいレース飾り、さらに赤いマントという、はっきりいってものすごいスタイルの黄金バットが永松健夫版。
大空社から、永松健夫版の紙芝居、加太こうじ版の紙芝居、両方が復刻されてます。加太こうじ版のほうの黄金バットは、「黄金バット ナゾー編」のタイトル(10枚だけですが)。これを見てみますと。
ここでの黄金バットは、緑の服に白タイツ、赤いマントは同じですが、帽子と髪の毛がなくて、頭はガイコツそのままでつるりとしたハゲ。襟飾りと袖飾りもシンプルになってて、かなりおとなしい。
悪役のナゾーは、元ナチスドイツの科学者、ベルリン陥落のときスイスに逃れ、アルプス山中にひそんでいるという設定です。全身を黒い服でつつんでいるのは、戦争のときに負傷したかららしい。
巨大ロボット「怪タンク」が登場するのは、永松健夫版と同じ。
アニメ版黄金バットのカッコよさは、オリジナル永松健夫版からはかなり遠く、むしろ加太こうじ版からデザインされたようです。
アニメや映画のストーリーも、古色蒼然とした永松健夫版よりも、加太こうじ版を元にしているという記述がありますが、これは加太こうじの紙芝居を知らないからなんとも言えないなあ。
永松健夫は1961年に亡くなっています。加太こうじは筑摩書房から「小説 黄金バット」も出版してますが、これは黄金バットの話じゃなくて、昭和初期、黄金バットを作り出したひとびとの群像劇らしい。永松健夫も登場するのでしょう、機会があれば読んでみたく思います。
Comments
帽子をかぶった絵物語版黄金バットはもちろん永松健夫のもの。アニメ以降の黄金バットは永松健夫と加太こうじの両方がクレジットされてるようですね。半裸のアニメ版黄金バットのデザインは、かつては©第一企画となってました。
Posted by: 漫棚通信 | September 11, 2006 08:58 PM
そもそも、黄金バットの著作権はどこに所属しているんですかね。
Posted by: デビッド・スー | September 11, 2006 11:06 AM
あのセリフは「愛と誠」なの?イカンイカン。
Posted by: みなもと太郎 | June 09, 2006 04:45 PM
そういえば、昨年、この『愛と誠』の原作を読ませていただいたのを思い出しました。この文体は、完全に講談、あるいは戦前から昭和30年代はじめくらいまで隆盛を誇った講談雑誌、倶楽部雑誌に掲載されていた小説のものですね。とくに軍記ものと呼ばれる作品が、こんな調子でした。源義経の八艘跳びやら楠木正成、新田義貞の活躍などは、こんなメディアを通じて当時の人々の基礎教養になっていったわけです。子ども向けには紙芝居があり、メンコや凧にも鎧武者の絵のものがたくさんありました。
東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時、突如おこる剣戟の響き……なんてセリフも、いつのまにかどこかで染みついちゃうんですね(時代ものについては、歌舞伎、芝居、浪曲などの影響も大きかったと思いますが)。
これら伝統的な「語り」の文体が、おそらく映画、テレビの発達によって、「描写するもの」に変わっていきます。その過程で「視点」というものにも変化が出てきますが、昨年上梓した『マンガでわかる小説入門』は、そんなことを書いてみたくて手がけた作品です。さらに、ただいま大学で認知心理学をはじめとする人間の認知活動に関する授業を多数うけているのですが、そこでも、たとえば「構図(アングル)」だけでない「視点」を含む漫画表現などにも思いを馳せつつ講義を聴いています。
たぶん漫画は、映画やアニメだけでなく、また文学だけでなく、大衆娯楽としてはより漫画に近い大衆小説などにも、大きな影響を受けているはずです。最近の漫画評論書には、ようやく、文学との関連で視点について考察したものが出てきましたが、娯楽小説との関連性にまで触れたものは多くないようです。そんなことも、少し考えられたらな……と思っているところです。
ぼく自身は、いま、架空戦記小説を主な仕事のフィールドにしていますが、内容については1960年代までの少年航空戦記漫画をイメージしつつ、文章は、倶楽部雑誌調を意識しています。また、「字で書いた漫画」を意識しているので、擬音もたっぷり入ります。それをおもしろがって、擬音の部分だけゴシックにしてくれた出版社もありました。
Posted by: すがやみつる | June 09, 2006 03:20 PM
コメント欄、放置していてすみませんでした。しばらく接続トラブルになってましたが、やっとココログブログが読めるようになりました。
梶原一騎の原作原稿の文体については、以前書いたことがありますが、こんな感じです。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_5.html
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_6.html
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_7.html
読んで面白く、マンガ家が感情移入しやすいのが梶原流ですが、原作者の意図を正確に伝えるという意味では、小池一夫のシナリオのほうがいいんじゃないかと感じました。
Posted by: 漫棚通信 | June 09, 2006 02:31 PM
いいなあ。私の少年時代(京都)、回ってくる紙芝居屋のオッチャンは子供を集める拍子木以外は持っておらず、それも語りの時には使用しませんから、「鳴り物入り」の紙芝居は知らないんですよ。太鼓などを使用するマンガを描いた事がありますが、それは後知恵の空想です。
それから真樹日佐夫原作の「ワル」だったかで、珍しく学校の図書室に来た不良が「俺の好きな(作家名を挙げて)剣豪小説が一冊も無い」とボヤくシーンを記憶してます。今時の不良の兄ちゃんが剣豪小説を愛読するかなァ、と小首をかしげましたが、そのホンの一昔前まではラーメン屋なんかにマンが週刊誌があるように、大衆小説誌が置かれていたわけですね。私はそんな本で富永一朗の「ポンコツ親父」を知りました。
Posted by: みなもと太郎 | June 08, 2006 07:46 PM
漫画原作の「文体」ですが、近いものとしては、昭和30年代くらいまであった「倶楽部雑誌」という大衆娯楽小説誌に載った時代小説などがあります。
時代小説は、もともとは講談の速記本からスタートしたものです。講談社も、もともとは東の講談速記本の雄でしたが(西は立川文庫)、本が人気を呼んだことで講談師たちが自分たちの仕事がなくなると危機を覚え、速記本の出版を許可しなくなりました。その結果、講談社では、オリジナルの講談本を出版するようになり、それが時代小説に発展していきました。明治時代の文学・文芸の流れとは別の流れを歩んできたわけです。
戦後、このような講談調時代小説を集めた雑誌が倶楽部雑誌と呼ばれ、司馬遼太郎、池波正太郎などの初期の活躍の場ともなっていました。現在ですと春陽堂文庫の古い作家の作品に、その頃の文体の流れを見ることができます。
セリフで叫んでいるのを強調するためか、「斬ったのはお主かあッ!」といった感じの文が多いのが特徴です。これは講談速記本あたりからの伝統でもあると思いますが、梶原一騎、小池一夫氏らは、年代的にも倶楽部雑誌で育っていたのかもしれません。小池一夫氏が時代小説を書かれたときの文体は、まさに、倶楽部雑誌時代のものでした。
大衆小説の文体が変わってくるのは、純文学作家が大衆小説にも手を染め、中間小説という言葉が登場してくる昭和30年代中盤以降です。
ちなみに牛次郎氏の原作の文体は、司馬遼太郎風でした。
梶原一騎氏の文章には、「しかり!」「すなわち」といった時代小説のボキャブラリーが多く、体言止めも多用されていたように記憶しています。これも講談の流れを組む倶楽部雑誌に多く掲載されていた時代小説の文体ですね。
それから小池一夫氏は、昭和30年代まで大活躍した山手樹一郎氏に師事していたはずです。
紙芝居も、語りがベースという点では、講談や浪花節の延長にあるのだろうと思われます。子ども時代に見た町内にやってくる紙芝居では、「あ~れ不思議なるかなライオンマンのムチ。頭上でグルーリ、グルーリと勢いをつけ、えいやっと一閃すれば、悪人どもはバッタバッタと薙ぎ倒され……(ドンドン=太鼓の音)」みたいなオジサンの名調子を今でも憶えています。
Posted by: すがやみつる | June 07, 2006 02:51 PM
そうなんです。梶原一騎の大時代な文体は確かに謎で、斉藤貴男の一連の梶原一騎研究にもあまり多く触れられていません。講談、講釈に軍隊用語が少し混ざってる感もありますが「大道芸」視点で考える、という漫棚さんのご指摘は貴重です。
もっとも梶原一騎に限らず、漫画原作者の文体は往々にして独特のものがあり、小池一夫の新聞連載小説を読んだ時も不思議な印象が残りましたですね。講談調とはまるっきり違いますが。
現在我々が公けで触れる文章の多くが「読む、見る」文章なので、戦前、それ以前からの「聞く、聞かせる」語り言葉とは日本語としての成り立ちから違うのでしょう。これ以上は専門的なことなので分かりませんけど。
円朝や中里介山の言葉、文体が正真の日本文学だった時代は遠くなりにけり、です。
Posted by: みなもと太郎 | June 07, 2006 11:24 AM
長文ありがとうございます。紙芝居は、末期も末期に数回見たことがあるだけです(おそらく昭和39年か40年ごろ)。梶原一騎が書いてた原作の文体がまるっきり語り芸でして、かつてはこれ、講談みたいだなあと思ってたのですが、最近、もしかすると紙芝居?と思うようになりました。「紙芝居昭和史」も読ませていただきます。
Posted by: 漫棚通信 | June 06, 2006 09:12 PM
紙芝居と「黄金バット」につきましては1971年、立風書房より加太こうじ著「紙芝居昭和史」が刊行され、後に1979年「旺文社文庫」に、2004年「岩波現代文庫」に収録されましたから、これが現在入手可能です。岩波版はそれまでのより図版がかなり多く、分かり易くなっているので助かります。戦前から戦後にかけての黄金バットのキャラクターの変遷(GHQに「ドクロが正義の味方なのはおかしい」とツッコまれ、ほっといてくれ、と言えない敗戦国の悲しさ、やむなく仏像顔の黄金バットを登場させたエピソードなど驚愕しますが、逆にいえばGHQに目をつけられる位、当時の紙芝居は大きなメディアだったわけですね)も詳しいですが、立ち絵から絵ハガキ大の「初期紙芝居」、自転車で回る以前は小屋がけで入場料を取っていた等、貴重な記録満載で、著者の「自分史」でもある以上、若干の我田引水無しと言い切れぬものの概ね真摯な証言で、多くの関係者が物故された今となっては、今後もこれに勝る纏まった資料はナカナカ望めないと思われます。
「赤胴鈴之助」の武内つなよし氏はじめ、水木しげる、白土三平、小島剛夕、凡天太郎氏らがが紙芝居出身だそうですが、貸本劇画「トップ屋ジョー」(少年マガジン「パピヨン」の方が分かり易いか)の江波じょうじ氏が「紙芝居を描かないか」と業者に誘われた事がある(本人から聞きました。結局お断りしたとのこと)そうですから、昭和30年代末期、ギリギリ40年くらい迄、紙芝居健在ナリ、だったのかも知れません。「紙芝居昭和史」によりますと、本が書かれた昭和46年現在で全国に300人、東京で30人程の街頭紙芝居が残っているものの、新作は昭和35年以降描かれていない、とありますから、「新作を出したい」業者が江波氏等に声をかけていたのかも知れませんね。
ストーリー漫画が日本のみで大発展した理由に「他の国には手塚治虫がいなかったから」とは、氏の亡くなられた時に有名になったフレーズですが、これにもうひとつ「他の国には紙芝居が無かったから」も含まれるべきである、とズッと考え続けております。恐らく手塚氏もそう言われていたと思うのですが、いま発見できません。
西洋の街頭では紙芝居の代りに「パンチとジョディ(ジュディ)」という「夫婦ゲンカ殴りっこ」に代表される人形劇が人気を博し、ペーパードラマ「紙芝居」は遂に発明されなかったわけです。「パンチとジョディ」はルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」にも(赤の騎士と白の騎士はパンチとジョディのように殴りあう)との記述がありますから、19世紀の子供たちにも大人気だったわけで、オードリー・ヘップバーン、ケーリー・グラント主演の現代劇(1963)「シャレード」でも街頭で全く同じ(らしい)パンチとジョデイ人形劇に子供が集っていましたから、その寿命の長さは「タンタン(1929)」「イエロー・キッド(1890)」等のコミックをはるかに凌ぐ。この人形劇の亭主の名前がイギリスの(絵の多く入った、若者向け)雑誌の表題となり、幕末の日本で発行される「ジャパン・パンチ」につながり、日本漫画の初期名称「ポンチ絵」になっていくわけだから、「パンチとジョディ」と日本漫画に全く関係なし、とも言えないわけで、マア奥が深いわけですね。(1964創刊の「平凡パンチ」もイギリスの「パンチ」誌を意識した名称です)
紙芝居は第二次世界大戦時、宣撫工作の一端として国内、国外でも奨励された一時期がありますが、それはそれとして「紙芝居は海外の子供たちにもウケるであろう。ひょっとしたら21世紀に入っても新たな隆盛のチャンスあるやも知れず」と密かに考えておりましたが、密かでなく堂々と運動を繰り広げている人たちがおられたらしく、2006年5月24日付の毎日新聞で「フランスの子供たちに紹介」している「紙芝居文化の会」の活動が報じられておりました。掲載されていた写真で見る限り、紙芝居に喜ぶ子供達の顔は、昭和30年代の日本の子供と変わる所なく、日本で生まれた紙芝居は今後、マンガと同じく世界共通の児童文化に発展してゆくかも知れません。
又々大変長くなり申し訳ありません。
最後に「紙芝居文化の会」HP、ご紹介しておきます。
http://www.geocities.jp/kamishibai/
Posted by: みなもと太郎 | June 06, 2006 08:25 AM