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June 16, 2006

「少年倶楽部時代」の加藤謙一

 手塚治虫が代表作「ジャングル大帝」を発表し、トキワ荘グループが多く寄稿した雑誌「漫画少年」。多くのマンガ家志望者が投稿したことでも有名なこの雑誌の編集者が、加藤謙一です。

 加藤謙一については、彼の伝記「『漫画少年』物語」が四男・加藤丈夫によって書かれています。加藤謙一は、かつて戦前の「少年倶楽部」を大部数雑誌に育てた編集長であり、その後、「講談社の絵本」という、日本の絵本の原型となったシリーズも担当しました。

 「少年倶楽部」→絵本→「漫画少年」をつくった伝説の編集者で、いわば日本のビジュアル子ども文化の発信者、パイオニアでした。ご本人はビジュアルについてどのような考え方を持ってたのか。1968年に加藤謙一によって書かれた回想録、「少年倶楽部時代」を読んでみました。

 講談社中心に描いていた人気挿絵画家、高畠華宵がライバル誌「日本少年」に移籍してしまった、いわゆる「華宵問題」のとき、社長から言われた言葉。

加藤君、雑誌というものはさし絵で売るものじゃないんだよ。活字で売るんだ。いい読み物で売るんだ。

 これで目がさめた加藤謙一は、「雑誌は活字」であることを肝に銘じます。

少年倶楽部が読み物重点の編集にかわったのはこの時からである。

 この後、少年倶楽部は多数の新しい挿絵画家を誌面に登場させますが、やはり編集の重点は作家のほう。吉川英治「神州天馬侠」、大佛次郎「角兵衛獅子」、佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」のようなビッグヒットは、当たり前ですが、文章重視の産物です。

 「少年倶楽部時代」に登場する画家は、前述の高畠華宵の他には、松野奏風、斎藤五百枝、谷洗馬、伊藤彦造、椛島勝一、山口将吉郎、河目悌二、谷脇素文、田河水泡、芳賀まさお。

 マンガの話題としては、「のらくろ」については多く書かれていますが、島田啓三「冒険ダン吉」は加藤が編集長を辞めてから連載開始されてますから、記載がありません。

 わたし自身は、雑誌としての少年倶楽部を読んだことはありません。ただ、このころの少年小説を読むときは、「少年倶楽部名作選」などで復刻されているように、挿絵つきで読むに限ります。伊藤彦造や椛島勝一の挿絵があるとないとでは大違い。伊藤彦造は戦後にも挿絵を描いてますが、はっきり言って、このころの絵は密度が違う、勢いが違う。

 戦前の挿絵つき少年小説、少女小説こそ、戦後マンガのルーツのひとつに違いなく、挿絵画家についてもっと筆をさいて欲しかったというのは、私の勝手な言い分かな。

 さらに田河水泡「のらくろ」は、まさに一斉を風靡。少年倶楽部は戦前のマンガ文化も担っていました。ただし、マンガの重用も加藤の発案ではなかったらしい。最初にすすめたのは佐藤紅緑です。

 またあるとき「少年倶楽部には漫画が少ないようだが、いい漫画をたくさん入れるんだね。雑誌全体が明るくなるし、家じゅうの人がたのしめるからね」といわれた。華宵事件以来、読み物のいいのを集めることに夢中になって、漫画はあまり重要に考えていなかったので、そのほうは留守になっていた。そこを突かれたので私は愕然とした。そして目の前がパーッと明るくなったような気がした。漫画に対する開眼である。

 というわけで、加藤謙一は、このころ、ビジュアル重視のひとではなかったようです。

 ところが、その彼がのちに「講談社の絵本」シリーズを創刊し、戦後「漫画少年」を創刊するのです。1967年「少年倶楽部名作選」の出版のときは、挿絵やグラビアだけで「絵画編」としてぶ厚い一冊も編集しています。加藤謙一は、活字文化の明治人であり、かつビジュアル文化の発信人でもありました。日本の子ども文化の変遷を先取りしたような歩みですね。

 この本で面白かったのは、「少年倶楽部は泥くさい雑誌だといわれたことがある」という記述。うーん、少年マガジンがいつまでたっても垢抜けないイメージを持ってるのは、講談社の伝統だったのか。

 もいっこ、少年倶楽部は本来、小学五、六年生をターゲットとした雑誌だったのに、次第に内容が高度になり、読者離れにより部数を落としたという話。これも一時期の少年マガジンにそっくりな話ですなあ。

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