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June 21, 2006

アメコミの戦後史

 日本がアメコミをどのように輸入してきたか。ちょっと書いてみますね。(ここで言うアメコミとは、アメリカンコミックスのメインストリーム、主にスーパーヒーローもののことを指してます)


1)神話時代

 戦後、アメコミが日本で正式に発売されたわけではありませんが、いつの間にやらマンガや絵物語に影響を与えていたようです。おそらくは、米軍が持ち込んできたものが出回ったのか。

 福島鉄次の絵物語「砂漠の魔王」(1949年〜1956年冒険王)におけるカラフルな色使いがアメコミの影響であると言われてます。また、水木しげるのマンガデビュー作「ロケットマン」(1958年)や「プラスチックマン」などは、もろアメコミのエピゴーネンキャラクターでした。

 TV実写版「スーパーマン」の日本での放映開始は1956年でした。当然モノクロ。日本で放映されたアメリカTVドラマの最初期のもののひとつになります。「空を見ろ、鳥だ、飛行機だ、いや、スーパーマンだ」という有名なフレーズは、最初はアチラのラジオドラマで流れたらしいのですが、日本人が知ったのはTV。

 マンガのほうは、おくれて少年画報社が1959年に「スーパーマン」という雑誌を創刊してアメコミ翻訳を掲載。1961年までに計14冊刊行。おそらく、これが日本初のアメコミの正式な邦訳じゃないかな。

 同時期に、「少年画報」本誌では1959年9月号から1960年10月号まで、マンガ「スーパーマン」を連載しています。後半で作画を担当したのが、のちにタツノコプロをつくる吉田竜夫です。

 でもこのころはまだまだ神話時代でありました。


2)日本製アメコミの試み

 時は流れて。

 1960年代後半、日本マンガは週刊誌の時代となっていました。雑誌売り上げの増加。読者の高年齢化。劇画を代表とする青年マンガの台頭。表現の進歩。1970年代にかけて、日本のマンガがどんどん変化しつつあったころ。

 1966年、TV実写版「バットマン」が日本でも放映開始されました。これに再度動いたのが、少年画報社でした。

 まず、1966年オールカラーの雑誌「バットマン」を創刊。これは翌年までに7冊発行されました。

 そして、週刊少年キングと少年画報の両方で、桑田次郎の日本版「バットマン」を連載。特に少年キングのほうは、連載中だった平井和正/桑田次郎の「エリート」を中断してのバットマン開始でしたから、少年画報社、よっぽどチカラいれてたようです。

 でも、これは結局失敗でした。日本では、TVドラマのバットマンがぜんぜん話題にならなかったからです。

 DCがだめなら、マーヴルはどうだ。

 1960年代になって、アメリカではマーヴルのハルクやスパイダーマンが「悩めるヒーロー」として、人気となっていました。これは1960年代末の日本および日本マンガの状況に一致していたといえます。時代は安保でありベトナム戦争であり、青年たちは悩んでばっかりいましたから。

 別冊少年マガジン1970年1月号から池上遼一「スパイダーマン」の連載開始。構成は前半が小野耕世、後半は平井和正。続いて同年、西郷虹星「超人ハルク」が週刊ぼくらマガジンで連載開始。構成は小池一雄名義のころの小池一夫。

 ともに仕掛け人は、当時週刊少年マガジンを含めて、三誌の編集長を兼務していた内田勝です。とくにぼくらマガジンは、ハルク以外にも、タイガー・マスク、仮面ライダー、魔王ダンテ、バロム・1、ウルフガイなどの変身ヒーローを意識的にそろえ、あえてアメコミ風雑誌をねらったものでした。

 ただし、これも頓挫。ぼくらマガジンは1971年には消滅します。

 この時期、スヌーピーで大当たりした鶴書房(ツル・コミック社)から、「WOO」という海外マンガ専門誌が創刊されました。ただし、1972年の創刊号表紙がフリッツ・ザ・キャットであることからわかるように、紹介されるのはどちらかというと現在言うところのオルタナティヴ・コミックが中心。

 アメコミについては、WOO第3号で紹介されたのが、ジム・ステランコの「キャプテン・アメリカ」でした。ツル・コミック社は、「フラッシュ・ゴードン」や「ターザン」の日本語訳も出していますが、この時期のアメコミ紹介は長続きせず、WOOも短命で終わってしまいました。

 結局残ったのは、スヌーピーだけでした。


3)スター・ウォーズとビジュアルSFブーム

 1976年週刊プレイボーイが、突然、スパイダーマン翻訳を二色で連載しました。これはアメリカ建国200年に合わせた掲載でしたが、翌年からのスター・ウォーズ・ブームの露払いといった感じになりました。

 映画「スター・ウォーズ」のアメリカ公開が1977年。日本公開が1年後の1978年6月。アメリカで大ヒットしてるという噂が流れてからの日本人、ロサンゼルスまで行って観る。ハワイまで行って観る。海賊版取り寄せて観る。日本公開までに○回観た、というのがステイタスというえらいことになってました。

 東宝が1978年お正月映画として「惑星大戦争」を公開したなら、東映は1978年のゴールデン・ウィークに「宇宙からのメッセージ」を公開。すでに1977年からブームが始まってたのがわかるでしょ。わたし後者を劇場で見てます。コスプレした千葉真一と成田三樹夫が宇宙でチャンバラするという映画で、監督が深作欣二ですから、まるきり「仁義なき戦い」か「柳生一族の陰謀」か。

 スター・ウォーズはもちろん大ヒットして、クリストファー・リーヴ主演の映画「スーパーマン」が製作され、日本公開が1979年。スター・ウォーズに続いて、ビジュアルSFのブームが到来したのです。しかも今度はアメコミが原作とあって、アメコミが注目されました。

 当時の日本マンガは、少女マンガブームを経てニューウェーブがはやってたころ。ニューウェーブはSFと親和性が高く、多くのマンガ家がSFファンを自認していました。「SF映画・TV・アニメ・コミック・アート誌」とうたわれた「スターログ日本版」が創刊されたのが1978年8月です。

 この時期に誕生したのが「月刊スーパーマン」です。カラーページはちょっとだけでほとんどモノクロ。翻訳スーパーマンが4作ぐらい、あとはエッセイなどという構成。1978年1月創刊号には、もちろんまだ製作中の映画スーパーマンの情報も載ってます。

 いっぽうのマーヴル。

 同時期に東映が実写版「スパイダーマン」をTV放映しました。1978年5月より。巨大ロボットの登場には開いた口がふさがりませんでしたが、木をゴキブリのごとくしゃかしゃか登るスパイダーマンの特撮にはけっこう感心。これって他の東映忍者映画で使われるより早く、スパイダーマンで初めて見せたテクニックじゃなかったかな。

 そしてほぼ同時、1978年5月から光文社がマーヴルの新書版コミックを刊行開始しました。最初に刊行されたのが、「スパイダーマン」「ファンタスティック・フォー」「ミズ・マーベル」の三冊。これもカラーページはちょっとだけで、ほとんどモノクロです。この本には、copyrightとして「Toei(東映)」と記載されていました。

 これに続いて光文社が1980年に創刊した「ポップコーン」という雑誌は、右開き日本マンガ半分、左開きアメコミ半分という変わった雑誌でした。しかしこれも、1981年に「ジャストコミック」に誌面が変更されたとき、アメコミはなくなってしまいました。

 このように日本でのアメコミは、TV放映や映画公開にあわせて翻訳され、しばらくすると消滅、というのが繰り返されてきました。

 この後も、たとえば1989年に映画「バットマン」が公開されたら、中央公論社から映画シナリオをもとにしたアメコミ版バットマンが刊行されたり、近代映画社から「BATMAN オリジナルコミック日本語版」(The Greatest Batman Stories Ever Told)という本が刊行されたり。後者はオールカラーでオールド・バットマンが読めるというケッコウな本でありました。

 でも、継続的なアメコミの刊行が始まるのは、もう少し先。


4)小学館プロダクションとメディアワークス

 1994年テレビ東京系で、アニメ「X-MEN」の放映が始まりました。これに合わせた形で、竹書房から日本人作家が描く「X-MEN」のシリーズが刊行。これはかなり珍品のシリーズでしたが、小学館プロダクションからは、ジム・リーの描く「X-MEN」の本格的な翻訳が始まりました。連続したストーリーで長編として読めるアメコミの刊行は、これが初めてだったでしょう。

 「X-MEN」は17巻まで発行して、1996年からは「マーヴルクロス」としてX-MEN以外の作品も掲載していくことになります。さらに小学館プロダクションは、1996年に「スーパーマン/バットマン」という雑誌も創刊し、マーヴルとDCをともに手中にしたことになります。

 しかし、これに先立ち、アメリカでは1992年に作家の独立によるイメージ・コミックスの設立がありました。これに提携したのがメディアワークス。「スポーン日本語版」の刊行開始が1996年です。

 小学館プロダクションとメディアワークスが競い合った数年間が、アメコミ翻訳がもっとも活発であった時期でしょう。それぞれのシリーズだけでなく、「ウォッチメン」「バットマン:ダークナイト・リターンズ」「マーヴルズ」「キングダム・カム」といった過去の名作がつぎつぎと翻訳されたのが、この時期です。またインターブックスからは「サンドマン」のシリーズが発行されました。

 しかし、小学館プロダクションは、「ヒーローズ・リボーン」シリーズの終了後、「ヘルボーイ」に重点を移してから刊行点数が次第に減少。メディアワークスも2000年に「スポーン」を終了させて、アメコミから撤退。1998年に創刊されたメディアワークスの「電撃アメコミ通信」、この2号は結局発売されないまま(なのかな?)。たしか大森望の日記には、2号用の原稿を書いた、との記事もあったんですけどね。

 この時期のアメコミ刊行は空前のものでしたが、やはり膨大なアメコミ世界を考えると、一部をちょっとかじっただけのものです。地味なレギュラーシリーズを、地味にのんびり読んでいく、という読み方が本来のものなのかもしれませんが、日本人読者にはかなわぬことなのかしら。


5)そして現在

 現在のアメコミ刊行ペースは、ベストじゃないけど、冬の時代ほどはひどくはない、てな感じでしょうか。

 メディアワークスはアメコミから撤退してしまいましたが、小学館プロダクションは今もときどきアメコミを発行してくれています。

 新潮社がアメコミ新潮のタイトルで「アルティメット スパイダーマン」と「アルティメット X-MEN」のシリーズを出していましたが、ともに11巻で終了。

 現在、もっとも多く、かつ継続的にアメコミ翻訳をしているのは、タカラ系の出版社ジャイブです。最新の刊行は、ジム・リーの「スーパーマン:フォー・トゥモロー」1巻。映画「スーパーマン リターンズ」の公開に合わせたもので、アメコミ刊行のこのパターンは、いつまでも変わらないのでした。

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Comments

タンクガールやコンクリートマンを最初に紹介したスパコミが抜けてますよー。
まあ刊行数少なかったですけど。
ヘルボーイも最初はこっちで紹介してました。

Posted by: vang_adamczyk | June 17, 2013 06:37 AM

バーン・ホガースはアメコミ作家というよりも、解剖学に基づく人体デッサンの教科書をいっぱい書いてる美術教師というべき人物ですから(邦訳もけっこうあります)、さすがにあの絵のうまい山川惣治も参考にしたかもしれませんね。

Posted by: 漫棚通信 | June 24, 2006 09:46 PM

>斉藤あきらサンですね。

長谷先生、斉藤先生、たいへん失礼しました。てもとに資料がないので、適当に書いてしまいました。

国際こども図書館の蔵書検索で、斉藤 昭と入力しますと、集英社のおもしろ漫画文庫「一丁目一番地」「一丁目一番地 お誕生日の巻」がでてきます。たしかこの絵かきさんです。

大阪国際児童文学館の検索でみますと、最近ファンタジーのカバーイラストを書いておられる同名の方がおられます。いまも現役で活躍されているのでしたら、いいのですが。

Posted by: しんご | June 24, 2006 02:04 PM

>弟子
斉藤あきらサンですね。
一時期、フジオ・プロダクションの
外部的スタッフでした。
『建師健作』(牛次郎原作・マガジン)
ほかを作画しています。
60年代後半はSFなんかも描いてました。

Posted by: 長谷邦夫 | June 24, 2006 11:15 AM

「砂漠の魔王」の連載されていた「少年少女冒険王」にはアメコミの翻訳が載っていました。私は「漫画王」で「ドランゴ・キッド」「ブラック・ホーク」を読みました。これらには作者名の記載がなくて、ナナ通信特約とだけ書いてありました。

な、ナナ通信とは何でしょう。

こちらのBrogに紹介されていた、シャルル・ブランシャールの「劇画の歴史」を読みますと、山川惣治に影響を与えたといわれる(荒俣宏が角川文庫「少年王者」の解説にそう書いている)バーン・ホガースの紹介がありました。私はホガースは未見でした。ありがとうございました。ホガースのターザンから山川が決定的な影響を受けているかどうかは私には分かりませんでした。

小松崎茂はフレッド・ハーマンのアメコミをなぞるようにして、「ぼうけんビーバー」を書き、たいへん参考になったと言っています。(「小松崎茂絵物語グラフィティ」?)

福島鉄次は、連載当初、服の影を筆で書いており、その筆は決まった文房具屋で買っていたと言っています。(毎日グラフの特集)アメコミの書き手の中には筆で影をつける一派がいることは「劇画の歴史」にも記載がありました。

杉浦茂の「自伝と回想」を読むと、弟子の斉藤まことさん(だった?)が、アメコミの古本をもちこむと、杉浦氏はたいへんよろこんで、斉藤氏あての手紙に「十銭雑誌(10セント雑誌を杉浦先生はこう呼んでいた)いくらでも高く買います。」と書いてきたそうです。杉浦マンガの岩山の影のつけ方はアメコミの影響でしょう。

終戦後しばらくは、日本人は日本のものにさっぱり自信がなくなり、アメリカ一辺倒、アメリカ崇拝になっておりました。洋裁でワンピースを作り、アッパッパと称して、田舎のおばさんもこれを着ておりました。

日本のマンガ、絵物語作家も真剣にアメリカマンガ、映画を研究したと思います。この中でいちばんバタくさい作風の作家は手塚治虫で、群を抜いていました。

Posted by: しんご | June 23, 2006 09:14 PM

ジェリー藤尾は引揚げで上海から帰国したそうですから、1945年も近くなっての上海で、スーパーマンがどれほど知られていたのか、どのように伝わったのか、興味ありますねー。ただ現在の目から見て驚くのは、戦前映画の自国公開→日本公開のタイムラグがやたら短かかったことで、もしかしたら当時のアメリカの流行もあっという間にアジアまで来てたかも、などと考えてしまいます。

Posted by: 漫棚通信 | June 23, 2006 08:48 PM

中華民国を助けるための米航空義勇隊、「フライングタイガアス」なんて代物があったし、結構アメリカは戦時中も中国を支援してますよ。
それに日中戦争の時は租界もあったわけだから、おそらくその時点で出回っていた代物かもしれませんね。
有名どころではシンガポール陥落の後、軍部が接収品の中にディズニーと実写の映画を見つけたから、試写会でもしようと見てみたのが「風とともに去りぬ」に「ファンタジア」
それを見た人は「日本は戦争に”負けた”」と実感したそうです。

Posted by: しゃいあす | June 23, 2006 07:08 AM

ジェリー藤尾氏の自叙伝を読んでいたら、上海で過ごした少年時代、スーパーマンのコミックに夢中だったという記述がありました。おそらく彼は、日本人としてはいちばん早くスーパーマンごっこをした人なのでは。しかし、当時は太平洋戦争のさなか。いったいどういう経路でアメコミが中国へ渡ったのか気になります。

Posted by: とおる | June 22, 2006 10:07 PM

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Tracked on June 22, 2006 01:06 AM

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