ご連絡
なーんかもう、ばかばかしい話ですが、最近トラックバック・スパムがあまりに多いので、申し訳ありませんが、最近の記事に関しましては、トラックバックできない設定に変更しました。
以前は海外のギャンブル系が多かったのですが、最近は日本のエロ系ばかり。いいかげんにしろよ。
いずれトラックバック受付再開のつもりではおります。
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以前は海外のギャンブル系が多かったのですが、最近は日本のエロ系ばかり。いいかげんにしろよ。
いずれトラックバック受付再開のつもりではおります。
いやー、買った買った。重かった。
本日買ったマンガ。
・鈴木みそ「銭」4巻
声優業界の話は涙なくして読めません。
・みなもと太郎「みなもと太郎の世界名作劇場 ハムレット」
最近、唐沢なをきがよく使う宮沢賢治ネタの「まどうてください」。最初に使ったのはみなもと先生だったのね。
・吾妻ひでお「定本 ときめきアリス」
元版持ってるかどうか思い出せず、悩んだ末購入。持ってませんでした。でも掲載誌のスーパーアクションは全部持ってるのでした。誤植発見。
・黒鉄ヒロシ/ペリー荻野「日本チャンバラ狂」
なんというか、黒鉄ヒロシのこっち方面の仕事は分類不能だなあ。ケレンたっぷりにウンチクをマンガで語ってます。
・古屋兎丸「ライチ光クラブ」
ほんと丸尾末広そっくりに描いてます。
・のぞゑのぶひさ/岩田和博/大西巨人「神聖喜劇」3巻
・鳴子ハナハル「かみちゅ!」1巻
・岩永亮太郎「パンプキン・シザーズ」5巻
・「コミックファウスト」創刊号
台湾の作家、Vofanのうまさにびっくり。あと、講談社雑誌が北米版「SHONEN JUMP」編集長にインタビューしたりしてて、なかなかココロザシが高いです。
・「ユリイカ」2006年7月号 特集・西原理恵子
とりあえず、青木光恵の「朝日」→「文春」マチガイをチェック。
・大塚英志「キャラクター小説の作り方」
文庫になって再発売。
あと、アマゾンからもうすぐ届くはずなのが、
・「スーパーマン:フォー・トゥモロー」1巻
・福谷たかし「レジェンドどくだみ荘伝説」
ちょっとつかいすぎ。
日本マンガは今もほとんどモノクロですが、アメリカやフランスではカラーがあたりまえ。もし、日本でもフルカラーのマンガが標準だったら、どうなっていたか。
まず、安価でページ数の多いマンガ週刊誌が存在しなかったのじゃないかな。今も月刊中心だったかも。しかもページ数は今よりずっと少ない。雑誌じゃなくて単体の単行本で発表する形式も多くなってる。
そうなると、それぞれの作品のページ数がもっと少なくなってるはずです。何千ページも続く連載マンガはありえない。いいところ数百ページで完結。逆に短編マンガがもっと進歩したかも。
ページ数が少ないと、ひとつのアクションを数コマにわることもむずかしい。大きなコマの中では、多くのセリフが並ぶことになります。ひとつのコマの中で表現される経過時間が、さらに長くなる。
色が使えるのだから、カケアミなんか開発されなかったかもしれない。トーンの削り技を競うより、カラリングで勝負。
必然的にマンガ原稿料のページ単価は高くなってるでしょう。そのかわり、初版を百万部も刷るマンガ単行本なんか存在しなくなる。
日本マンガの進歩は、モノクロだったからこそ、と言えなくもないですね。でも、コンピュータのカラリングがあたりまえになった今後はどうなるかな。もっとカラーマンガ増えるかしら。
てなこと考えてたのは、オールカラーのエッチマンガ、唯登詩樹「MAIの部屋」1巻を読んでたから。いや別にエッチが読みたかったわけではないっ(←力説)。別冊ヤングマガジンの月刊時代は4ページ連載。隔月刊になってからは8ページ連載だもんなー。よく単行本になるまで原稿がたまったもんだ。
「モーニング」で連載されてる、すぎむらしんいちの「ディアスポリス 異邦警察」が各方面で評判なわけですが、「映画秘宝」2006年8月号の大西祥平のコラムにこんな文章がっ。
ところで、脚本クレジットにある「リチャード・ウー」なる謎の人物……設定やネームの微妙なクセから推測するに、湯けむり温泉に浸かっていたあの人では!? と、まったく根拠なしに書いてみる!
おおっ、そうなのか。湯けむり温泉に浸かってた人というのは、江口寿史と組んだとき説教しまくったというあの人で、「オールド・ボーイ」方面のあの人で、「ボーダー」方面のあの人です。いや、思い浮かばなかったなあ。
日本がアメコミをどのように輸入してきたか。ちょっと書いてみますね。(ここで言うアメコミとは、アメリカンコミックスのメインストリーム、主にスーパーヒーローもののことを指してます)
1)神話時代
戦後、アメコミが日本で正式に発売されたわけではありませんが、いつの間にやらマンガや絵物語に影響を与えていたようです。おそらくは、米軍が持ち込んできたものが出回ったのか。
福島鉄次の絵物語「砂漠の魔王」(1949年〜1956年冒険王)におけるカラフルな色使いがアメコミの影響であると言われてます。また、水木しげるのマンガデビュー作「ロケットマン」(1958年)や「プラスチックマン」などは、もろアメコミのエピゴーネンキャラクターでした。
TV実写版「スーパーマン」の日本での放映開始は1956年でした。当然モノクロ。日本で放映されたアメリカTVドラマの最初期のもののひとつになります。「空を見ろ、鳥だ、飛行機だ、いや、スーパーマンだ」という有名なフレーズは、最初はアチラのラジオドラマで流れたらしいのですが、日本人が知ったのはTV。
マンガのほうは、おくれて少年画報社が1959年に「スーパーマン」という雑誌を創刊してアメコミ翻訳を掲載。1961年までに計14冊刊行。おそらく、これが日本初のアメコミの正式な邦訳じゃないかな。
同時期に、「少年画報」本誌では1959年9月号から1960年10月号まで、マンガ「スーパーマン」を連載しています。後半で作画を担当したのが、のちにタツノコプロをつくる吉田竜夫です。
でもこのころはまだまだ神話時代でありました。
2)日本製アメコミの試み
時は流れて。
1960年代後半、日本マンガは週刊誌の時代となっていました。雑誌売り上げの増加。読者の高年齢化。劇画を代表とする青年マンガの台頭。表現の進歩。1970年代にかけて、日本のマンガがどんどん変化しつつあったころ。
1966年、TV実写版「バットマン」が日本でも放映開始されました。これに再度動いたのが、少年画報社でした。
まず、1966年オールカラーの雑誌「バットマン」を創刊。これは翌年までに7冊発行されました。
そして、週刊少年キングと少年画報の両方で、桑田次郎の日本版「バットマン」を連載。特に少年キングのほうは、連載中だった平井和正/桑田次郎の「エリート」を中断してのバットマン開始でしたから、少年画報社、よっぽどチカラいれてたようです。
でも、これは結局失敗でした。日本では、TVドラマのバットマンがぜんぜん話題にならなかったからです。
DCがだめなら、マーヴルはどうだ。
1960年代になって、アメリカではマーヴルのハルクやスパイダーマンが「悩めるヒーロー」として、人気となっていました。これは1960年代末の日本および日本マンガの状況に一致していたといえます。時代は安保でありベトナム戦争であり、青年たちは悩んでばっかりいましたから。
別冊少年マガジン1970年1月号から池上遼一「スパイダーマン」の連載開始。構成は前半が小野耕世、後半は平井和正。続いて同年、西郷虹星「超人ハルク」が週刊ぼくらマガジンで連載開始。構成は小池一雄名義のころの小池一夫。
ともに仕掛け人は、当時週刊少年マガジンを含めて、三誌の編集長を兼務していた内田勝です。とくにぼくらマガジンは、ハルク以外にも、タイガー・マスク、仮面ライダー、魔王ダンテ、バロム・1、ウルフガイなどの変身ヒーローを意識的にそろえ、あえてアメコミ風雑誌をねらったものでした。
ただし、これも頓挫。ぼくらマガジンは1971年には消滅します。
この時期、スヌーピーで大当たりした鶴書房(ツル・コミック社)から、「WOO」という海外マンガ専門誌が創刊されました。ただし、1972年の創刊号表紙がフリッツ・ザ・キャットであることからわかるように、紹介されるのはどちらかというと現在言うところのオルタナティヴ・コミックが中心。
アメコミについては、WOO第3号で紹介されたのが、ジム・ステランコの「キャプテン・アメリカ」でした。ツル・コミック社は、「フラッシュ・ゴードン」や「ターザン」の日本語訳も出していますが、この時期のアメコミ紹介は長続きせず、WOOも短命で終わってしまいました。
結局残ったのは、スヌーピーだけでした。
3)スター・ウォーズとビジュアルSFブーム
1976年週刊プレイボーイが、突然、スパイダーマン翻訳を二色で連載しました。これはアメリカ建国200年に合わせた掲載でしたが、翌年からのスター・ウォーズ・ブームの露払いといった感じになりました。
映画「スター・ウォーズ」のアメリカ公開が1977年。日本公開が1年後の1978年6月。アメリカで大ヒットしてるという噂が流れてからの日本人、ロサンゼルスまで行って観る。ハワイまで行って観る。海賊版取り寄せて観る。日本公開までに○回観た、というのがステイタスというえらいことになってました。
東宝が1978年お正月映画として「惑星大戦争」を公開したなら、東映は1978年のゴールデン・ウィークに「宇宙からのメッセージ」を公開。すでに1977年からブームが始まってたのがわかるでしょ。わたし後者を劇場で見てます。コスプレした千葉真一と成田三樹夫が宇宙でチャンバラするという映画で、監督が深作欣二ですから、まるきり「仁義なき戦い」か「柳生一族の陰謀」か。
スター・ウォーズはもちろん大ヒットして、クリストファー・リーヴ主演の映画「スーパーマン」が製作され、日本公開が1979年。スター・ウォーズに続いて、ビジュアルSFのブームが到来したのです。しかも今度はアメコミが原作とあって、アメコミが注目されました。
当時の日本マンガは、少女マンガブームを経てニューウェーブがはやってたころ。ニューウェーブはSFと親和性が高く、多くのマンガ家がSFファンを自認していました。「SF映画・TV・アニメ・コミック・アート誌」とうたわれた「スターログ日本版」が創刊されたのが1978年8月です。
この時期に誕生したのが「月刊スーパーマン」です。カラーページはちょっとだけでほとんどモノクロ。翻訳スーパーマンが4作ぐらい、あとはエッセイなどという構成。1978年1月創刊号には、もちろんまだ製作中の映画スーパーマンの情報も載ってます。
いっぽうのマーヴル。
同時期に東映が実写版「スパイダーマン」をTV放映しました。1978年5月より。巨大ロボットの登場には開いた口がふさがりませんでしたが、木をゴキブリのごとくしゃかしゃか登るスパイダーマンの特撮にはけっこう感心。これって他の東映忍者映画で使われるより早く、スパイダーマンで初めて見せたテクニックじゃなかったかな。
そしてほぼ同時、1978年5月から光文社がマーヴルの新書版コミックを刊行開始しました。最初に刊行されたのが、「スパイダーマン」「ファンタスティック・フォー」「ミズ・マーベル」の三冊。これもカラーページはちょっとだけで、ほとんどモノクロです。この本には、copyrightとして「Toei(東映)」と記載されていました。
これに続いて光文社が1980年に創刊した「ポップコーン」という雑誌は、右開き日本マンガ半分、左開きアメコミ半分という変わった雑誌でした。しかしこれも、1981年に「ジャストコミック」に誌面が変更されたとき、アメコミはなくなってしまいました。
このように日本でのアメコミは、TV放映や映画公開にあわせて翻訳され、しばらくすると消滅、というのが繰り返されてきました。
この後も、たとえば1989年に映画「バットマン」が公開されたら、中央公論社から映画シナリオをもとにしたアメコミ版バットマンが刊行されたり、近代映画社から「BATMAN オリジナルコミック日本語版」(The Greatest Batman Stories Ever Told)という本が刊行されたり。後者はオールカラーでオールド・バットマンが読めるというケッコウな本でありました。
でも、継続的なアメコミの刊行が始まるのは、もう少し先。
4)小学館プロダクションとメディアワークス
1994年テレビ東京系で、アニメ「X-MEN」の放映が始まりました。これに合わせた形で、竹書房から日本人作家が描く「X-MEN」のシリーズが刊行。これはかなり珍品のシリーズでしたが、小学館プロダクションからは、ジム・リーの描く「X-MEN」の本格的な翻訳が始まりました。連続したストーリーで長編として読めるアメコミの刊行は、これが初めてだったでしょう。
「X-MEN」は17巻まで発行して、1996年からは「マーヴルクロス」としてX-MEN以外の作品も掲載していくことになります。さらに小学館プロダクションは、1996年に「スーパーマン/バットマン」という雑誌も創刊し、マーヴルとDCをともに手中にしたことになります。
しかし、これに先立ち、アメリカでは1992年に作家の独立によるイメージ・コミックスの設立がありました。これに提携したのがメディアワークス。「スポーン日本語版」の刊行開始が1996年です。
小学館プロダクションとメディアワークスが競い合った数年間が、アメコミ翻訳がもっとも活発であった時期でしょう。それぞれのシリーズだけでなく、「ウォッチメン」「バットマン:ダークナイト・リターンズ」「マーヴルズ」「キングダム・カム」といった過去の名作がつぎつぎと翻訳されたのが、この時期です。またインターブックスからは「サンドマン」のシリーズが発行されました。
しかし、小学館プロダクションは、「ヒーローズ・リボーン」シリーズの終了後、「ヘルボーイ」に重点を移してから刊行点数が次第に減少。メディアワークスも2000年に「スポーン」を終了させて、アメコミから撤退。1998年に創刊されたメディアワークスの「電撃アメコミ通信」、この2号は結局発売されないまま(なのかな?)。たしか大森望の日記には、2号用の原稿を書いた、との記事もあったんですけどね。
この時期のアメコミ刊行は空前のものでしたが、やはり膨大なアメコミ世界を考えると、一部をちょっとかじっただけのものです。地味なレギュラーシリーズを、地味にのんびり読んでいく、という読み方が本来のものなのかもしれませんが、日本人読者にはかなわぬことなのかしら。
5)そして現在
現在のアメコミ刊行ペースは、ベストじゃないけど、冬の時代ほどはひどくはない、てな感じでしょうか。
メディアワークスはアメコミから撤退してしまいましたが、小学館プロダクションは今もときどきアメコミを発行してくれています。
新潮社がアメコミ新潮のタイトルで「アルティメット スパイダーマン」と「アルティメット X-MEN」のシリーズを出していましたが、ともに11巻で終了。
現在、もっとも多く、かつ継続的にアメコミ翻訳をしているのは、タカラ系の出版社ジャイブです。最新の刊行は、ジム・リーの「スーパーマン:フォー・トゥモロー」1巻。映画「スーパーマン リターンズ」の公開に合わせたもので、アメコミ刊行のこのパターンは、いつまでも変わらないのでした。
世間では、サッカー・ワールドカップで負けたの引き分けたのと大騒ぎなわけですが、ラグビー日本代表が、パシフィック・ファイブ・ネーションズという大会でトンガに大敗してサモアに大敗して、その間にイタリアに大負けして、次は今週末にオールブラックス・ジュニアに負ける予定なのは誰も知るまい。それにしても、ラグビー日本代表の、あのリポビタンDの広告つきのカッコ悪いジャージはなんとかならんか。あれレプリカジャージとして売ってんだよ。誰が買うんだ。
てなことぐだぐだ書いてますが、今朝、わたしが最近メインとして使っておったバイオノートがお亡くなりになってしまいました。こないだゆかに落っことしたのがまずかったのかなあ。この文章は同居人その2のノート(SOTEC)を拝借して書いてます。
本来メインマシンであるはずのマックG4があるのですが、食卓に座ってノートで書く習慣がついちゃったので。
というわけで、ノートを買い替えです。今のところ、DELLの安いのを考えてますが、あれって、注文してから到着まで2週間ぐらいかかるらしいからなあ。ご近所で何かちゃっちゃと買ってこようかしら。
あ、マンガの話題もちょっとだけ。久米田康治「さよなら絶望先生」4巻はむちゃ面白い。今どき風刺をテーマにしたマンガが存在するためには、こういうパッケージになるのね。ただし手書き文字が小さくて老眼には大変読みづらいのには絶望しました。
手塚治虫が代表作「ジャングル大帝」を発表し、トキワ荘グループが多く寄稿した雑誌「漫画少年」。多くのマンガ家志望者が投稿したことでも有名なこの雑誌の編集者が、加藤謙一です。
加藤謙一については、彼の伝記「『漫画少年』物語」が四男・加藤丈夫によって書かれています。加藤謙一は、かつて戦前の「少年倶楽部」を大部数雑誌に育てた編集長であり、その後、「講談社の絵本」という、日本の絵本の原型となったシリーズも担当しました。
「少年倶楽部」→絵本→「漫画少年」をつくった伝説の編集者で、いわば日本のビジュアル子ども文化の発信者、パイオニアでした。ご本人はビジュアルについてどのような考え方を持ってたのか。1968年に加藤謙一によって書かれた回想録、「少年倶楽部時代」を読んでみました。
講談社中心に描いていた人気挿絵画家、高畠華宵がライバル誌「日本少年」に移籍してしまった、いわゆる「華宵問題」のとき、社長から言われた言葉。
加藤君、雑誌というものはさし絵で売るものじゃないんだよ。活字で売るんだ。いい読み物で売るんだ。
これで目がさめた加藤謙一は、「雑誌は活字」であることを肝に銘じます。
少年倶楽部が読み物重点の編集にかわったのはこの時からである。
この後、少年倶楽部は多数の新しい挿絵画家を誌面に登場させますが、やはり編集の重点は作家のほう。吉川英治「神州天馬侠」、大佛次郎「角兵衛獅子」、佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」のようなビッグヒットは、当たり前ですが、文章重視の産物です。
「少年倶楽部時代」に登場する画家は、前述の高畠華宵の他には、松野奏風、斎藤五百枝、谷洗馬、伊藤彦造、椛島勝一、山口将吉郎、河目悌二、谷脇素文、田河水泡、芳賀まさお。
マンガの話題としては、「のらくろ」については多く書かれていますが、島田啓三「冒険ダン吉」は加藤が編集長を辞めてから連載開始されてますから、記載がありません。
わたし自身は、雑誌としての少年倶楽部を読んだことはありません。ただ、このころの少年小説を読むときは、「少年倶楽部名作選」などで復刻されているように、挿絵つきで読むに限ります。伊藤彦造や椛島勝一の挿絵があるとないとでは大違い。伊藤彦造は戦後にも挿絵を描いてますが、はっきり言って、このころの絵は密度が違う、勢いが違う。
戦前の挿絵つき少年小説、少女小説こそ、戦後マンガのルーツのひとつに違いなく、挿絵画家についてもっと筆をさいて欲しかったというのは、私の勝手な言い分かな。
さらに田河水泡「のらくろ」は、まさに一斉を風靡。少年倶楽部は戦前のマンガ文化も担っていました。ただし、マンガの重用も加藤の発案ではなかったらしい。最初にすすめたのは佐藤紅緑です。
またあるとき「少年倶楽部には漫画が少ないようだが、いい漫画をたくさん入れるんだね。雑誌全体が明るくなるし、家じゅうの人がたのしめるからね」といわれた。華宵事件以来、読み物のいいのを集めることに夢中になって、漫画はあまり重要に考えていなかったので、そのほうは留守になっていた。そこを突かれたので私は愕然とした。そして目の前がパーッと明るくなったような気がした。漫画に対する開眼である。
というわけで、加藤謙一は、このころ、ビジュアル重視のひとではなかったようです。
ところが、その彼がのちに「講談社の絵本」シリーズを創刊し、戦後「漫画少年」を創刊するのです。1967年「少年倶楽部名作選」の出版のときは、挿絵やグラビアだけで「絵画編」としてぶ厚い一冊も編集しています。加藤謙一は、活字文化の明治人であり、かつビジュアル文化の発信人でもありました。日本の子ども文化の変遷を先取りしたような歩みですね。
この本で面白かったのは、「少年倶楽部は泥くさい雑誌だといわれたことがある」という記述。うーん、少年マガジンがいつまでたっても垢抜けないイメージを持ってるのは、講談社の伝統だったのか。
もいっこ、少年倶楽部は本来、小学五、六年生をターゲットとした雑誌だったのに、次第に内容が高度になり、読者離れにより部数を落としたという話。これも一時期の少年マガジンにそっくりな話ですなあ。
1977年の松本零士といえば、「銀河鉄道999」はあるわ、「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」はあるわ、「惑星ロボダンガードA」はあるわ、「大純情くん」はあるわ、当時は松本零士ブームだったから、死ぬほど忙しかったころ。
そのころの松本零士のマンガでは、一回宇宙船を描くと、それを二十回以上コピーして使用するというような例もありました。縮小コピーして、切って、貼って、修正して、と、マンガの描き方が、現在のデジタル時代にモニタ上でする行為と近づいてきていた。コピー機がマンガの描き方を変化させたことになります。
ここでいうコピー機とは、現在使用されている普通紙複写機のことです。これ以前には、通常「青焼き」と呼ばれるジアゾ式複写機がありました。現在も、コストが安い、精度がよい、などの理由で、建築設計図などに使用されています。
現在のコピー機の元祖がアメリカのゼロックス社で製品として開発されたのが1950年代末。マンガ・アニメ方面では、まず、1961年公開のディズニー「101匹わんちゃん」がゼロックスを使用して動画→セルへの転写をしました。
多くの犬が登場するので、トレスの手間を省くためだったのでしょうが、ゼロックスの使用で、セル上で鉛筆の線が再現できることになり、線の勢いとか味が出せるようになりました。ただ、線が荒い印象にはなってしまいますが。
日本では、1969年東映動画の「タイガーマスク」がゼロックスを使った荒々しい線で有名。ただし、ゼロックスはランニングコストが高く、時間もかかるので、日本ではあまり普及せず、そのかわりトレスマシンが使用されることが多かったそうです。動画とセルの間にカーボン紙をはさんで転写するのですが、ゼロックスのような線の強弱は出せないらしい。
これより昔のトレスは、もちろんハンドトレスですし、今はデジタルですね。
日本で、富士ゼロックスがコピー機を発売したのが1962年。国産の製品の発売は1970年以降だそうです。
松本零士のマンガ作品でいうと、ぱらっと探してみた感じで「男おいどん」(1971~1973年週刊少年マガジン)には、コピーは使用されてなかったようですが、そのあとの「ワダチ」(1973~1974年週刊少年マガジン)になって使われ始めてます。
まず最初は、モブシーンだったみたい。そして、回想シーンにも使われてます。
これが数年たつと、とくに宇宙船は、コピーがアタリマエみたいにまでなってきてます。ま、メカは描くの面倒ですからね。アニメ方式をマンガに導入したのかもしれません。
そのころになると、コピーが一般的にも普及してきて、ひとのノートを写すとか、同人誌とかがコピーでされるようになってきます。1970年代後半、でしょうか。本棚あさってたら、ひとから借りたレコードの歌詞カードを、わたしが手書きで写したのが出てきました(←ちょっと恥ずかしい)。これ、1974年。どうもそのころ、ウチ周辺ではコピー機は一般的じゃなかったみたいです。
これ以外のマンガでのコピーの使用法というと、コピーをわざとブレさせて、不気味な効果を出すとか。怪奇マンガで、つのだじろうあたりがやってたでしょうか。
連載末期の「弐十手物語」(神江里見/小池一夫)になると、毎ページのように同じ顔がくりかえし登場し、すごく変でした。口の形とか、眉が少しずつ違うのね。こういう使用法は、ちょっとどうか。
今は、カラー原稿のときにコピー使用が多いのかな。ただし、いずれこれらもデジタルに移行して、モニタ上ですべて完結することになるのでしょうか。
最近なにやら、懐かしマンガブログみたいになってますが、本意ではありません。もっとアップトゥデートな話題が欲しいっ。というわけで、今、開催中のワールドカップにひっかけてサッカーネタを。と言いながら、やっぱり古いお話。
サッカーマンガといいますと、オフサイド(1987年)だのJドリーム(1992年)だのフリーキック!(1989年)だのシュート!(1990年)だのリベロの武田(1991年)だの俺たちのフィールド(1992年)だのホイッスル!(1998年)だのファンタジスタ(1999年)だの、いまだに現役でサッカーやってるキャプテン翼(1981年)だのが挙げられるわけですが、みんなそれなりに集団スポーツのマンガ化に工夫があって面白い。しかし、さらにさかのぼると、どうか。
石井いさみ「くたばれ!!涙くん」(週刊少年サンデー1969年~1970年)。サッカーマンガで有名なのは、まずこれでしょ。石井いさみは、「750ライダー」がほのぼの系だからってかんちがいしちゃいけません、熱血系・ケンカ系マンガの多いひと。
も少し前になると、水島新司「下町のサムライ」(週刊少年キング1966年~1967年)というのがありました。水島新司の週刊連載としては三作目で、初の中ヒット作品です。
しかし、いちばん知名度が高いのは、「赤き血のイレブン」(原作・梶原一騎、作画・園田光慶、週刊少年キング1970年~1971年)じゃないかな。なんせTVアニメ化されましたからねー。
マンガの雑誌連載とほぼ同時に放映されたアニメ版(連載開始が1970年2号で、アニメ放映開始が1970年4月)は燃える展開で、なかなか見せる作品だったのですが、実は原作マンガのほうは、あんまりよく知りませんでした。キングだったし。
で、後年になって読んでみたところ、これがあなた、どうにもこうにも。
埼玉県に新設された県立新生高校のサッカー部が、日本一になるまでの物語。モデルは浦和南高校だそうです。
お話は、赴任してきた元日本代表のゴールキーパー・松木監督と主人公の高校一年生・玉井真吾の出会いから始まります。
サッカー部創部、師弟の対立と和解、ライバルの出現、魔球の開発、県大会優勝、主人公の出生の秘密、国体優勝、と来て、ちょっとスケールダウンして、対アメリカンスクール戦、が最後の試合。エピローグ的に主人公が高校サッカーの三冠を制し、「日本に今度できるプロサッカー」に参加するところでおしまい(もちろんJリーグの発足は1993年ね)。
面白いかと言えば、はっきり、面白くありません。梶原一騎がやってることは、いつもと変わらないのですが、どうしてかなあ。あえて言うなら、主人公・玉井真吾が天真爛漫すぎるかな。梶原マンガの主人公は、もっとねちねちと悩まなきゃ。
梶原一騎、サッカーを知りません。どうやら、直接フリーキックとペナルティーキックを混同してます。作品終盤になっても、監督が試合中、タイムっ、とか言ってフィールドで円陣組んでますし。
当時、1968年のメキシコ・オリンピックで日本サッカーが活躍したあとでしたし、体育の授業でサッカーもありましたから、みんなそれなりにサッカー知ってたはずですから、この展開はないでしょ。もちろん、1970年に開催されたはずのワールドカップ・メキシコ大会についての言及は、なし(マンガのモデルになった浦和南の松本監督はメキシコに観戦に行ったそうですよ)。
マンガでサッカーを描くのは難しい。この時代のスポーツマンガは一対一の対決を描いていました。集団スポーツを描くにはまだまだ力不足。ですから、やはり魔球がお話の中心です。フォーク・シュート、スクリュー・シュート、サブマリン・シュート、ブーメラン・シュート、あと、かみそりドリブルとか回転ひねりキックとかが登場します。
こういうワンパターン展開の男の子向けスポ根マンガを読んでますと、女の子向けの「アタックNo.1」や「サインはV」のほうが人間関係を細かく描写するぶん、デキがいいなあと感じちゃいますね。
園田光慶の絵は、キメのアクション・シーンはすばらしいのですが、なんせていねいな絵と荒れた絵の差が極端。次第に他人の手がはいることが多くなり、ついに分量で五分の一くらいを残して園田光慶は降板してしまい、別人(深大路昇介)の絵で連載が続きました。
というわけで、この絵の混乱を見ているだけでも、物語には集中できず、完成度の低い作品になってしまいました。
ただし、今回読み直してみてちょっとびっくりしたこと(わたしの持ってるのは1994年の再版ですが)。
物語序盤、サッカーの試合を8mmカメラで撮影し、上映会をするシーンで、なんとコピーした絵が使われてます。
マンガにおけるコピー技が有名になったのは、松本零士の宇宙船あたりからでしょうが、この1970年という時代にコピーがあったとは。それとも、コピーじゃなくて印刷物を利用したのかな。
物語ラスト近くの数回、園田光慶以外の手で描かれた部分にも、園田の絵のコピーが貼りこまれてます。さらに、最終ページの最終コマ。ボールを蹴る主人公も、園田の絵のコピー。というわけで、最後のコマは園田光慶の絵で終わってるのでした。
ああ、もうっ。一昨日から今にいたるまで、わが家からは自分のブログだけじゃなくて、他のかたのも含めてココログブログがまったく読めなくなってます。おかげでコメント欄にレスができなくて、みなさま、まことに申しわけありません。
ところが、ココログ管理画面にははいれるので、エントリだけは更新を。いったいどうなってるんだか。なにがなにやらわかりません。
さて、昨日水曜の夜、TVをザッピングしてたら、コマわりされたマンガ原稿をカメラで撮って、その各コマの絵に音楽とナレーションを重ねた番組をやってました。バックに流れてるのが、かぐや姫の「神田川」。なに、これ。
で、その登場人物がやたらと濃い顔をしてまして、色がけっこう原色のどぎつい感じ。あれれれれ、これって、あのひとの絵じゃないのか。えー、誰、わからんわー。ほらほらあのセンセや、電人アローとか、黒い秘密兵器とか、ウルトラマンとか描いてた。
最後まで見て、スタッフロールが流れて、やっぱりそうだ、一峰大二先生だー。いやー、びっくりした。
何の番組かというと、これです。NHKの「あの歌がきこえる」という15分番組。
視聴者から、ナツメロにまつわるエピソードを募集して、それを原作にプロのマンガ家がカラーでマンガを描く。これをカメラで撮影して、音楽、ナレーション、セリフをかぶせて、物語として構成。
これまでにマンガを描いたのが、石井いさみ、牧野和子、池原しげと、大島やすいち、シュガー佐藤、吉田まゆみ、花村えい子、ビッグ錠、一峰大二。
やっぱ、一峰大二には驚くよなあ。これがまた「神田川」とミスマッチで、いやなんともいい感じ。再放送録画しよっと。
【追記】 一峰大二ご本人による、細かい作品履歴つきサイトがありました。懐かしい作品名がいっぱい。
1966年にコダマプレスが刊行開始した「KODAMA DIAMOND COMICS」(ダイヤモンド・コミックス、あるいはダイアモンド・コミックスと呼ばれます)というシリーズが、新書版コミックスの始まりといわれています。実際は小学館のゴールデン・コミックスの刊行開始とほぼ同時だったみたいですが。
コダマプレスは翌1967年5月に倒産するまで、わずか1年の間に50冊以上の新書版コミックスを発行し、新書版ブームのさきがけとなりました。
コダマプレスに続いて各社から新書版コミックスが発行され、やっと雑誌連載マンガをまとめて所有し、読むことが可能になりました。それまでは、連載マンガが単行本にまとめられるのはごく一部でしたし、高価なハードカバーが中心。
雑誌で長編連載→新書版単行本でまとめて読む、という現在の形式ができたのがこのあたりからです。また、こうしてまとめられることで、マンガが評価されることも可能になったと言えます。
ダイヤモンド・コミックスのリストを不完全版ながら作っていてちょっと驚いたこと。
新書版コミックスといえば、初期はほとんど子どもマンガか青年マンガ。それも男の子向けばかりだと思ってたのですが、コダマプレスのダイヤモンド・コミックスは、それだけじゃありませんでした。
もちろん、シリーズ最初のころの目玉作品は、手塚治虫「ロック冒険記」、白土三平「真田剣流」、赤塚不二夫「チビ太くん」などで、もちろん子ども向けなのですが、ダイヤモンド・コミックスでは初期からおとなマンガも多く発行されていました。
加藤芳郎「オンボロ人生」、サトウサンペイ「スカタンC.O.(カンパニー)とランチ君」、岡部冬彦「アッちゃん」、小島功「OH!大先輩」、富永一朗「ピコ」、鈴木義司「コーフン・カンゲキ全集」「俺はジャマスケ」、坂みのる「ピンカラキリちゃん」、改田昌直「ミステリー・カクテル」などが、そのラインナップ。
これはけっこう意外でした。この時点では、もしかすると、おとなマンガも新書版ブームにのって隆盛したかもしれないという、歴史のイフがあったのか(というほど、オオゲサなものではありませんが)。
しかし、その後、新書版おとなマンガの流行はありませんでした。おとなマンガにとっても、作品が新書版にまとめられることはチャンスだったはずなのですが、残念ながら、子どもマンガ、さらに劇画のエネルギーの前に吹き飛ばされる形になってしまいました。
この日本でのおとなマンガ凋落の原因のひとつは、おとなマンガそのものの問題もあるでしょうが、新書版で子どもマンガや劇画をまとめて読めるようになったことも要因のように思われます。新書版で読む長編マンガが、読者にマンガの魅力を発見させ、その力をさらに増したのかも。そして相対的におとなマンガの地位が低くなっていったのじゃないでしょうか。
1954年に創刊されたおとなマンガの牙城、文藝春秋「漫画讀本」が休刊するのが、1970年です。
先日、永松健夫「黄金バット」を読み直してました。わたしが持ってるのは、1947年より明々社から発行が始まった単行本の復刻(1975年桃源社)ですが、コマがあってフキダシがあって、絵物語というよりほとんどマンガだよなあ、とかいう感想はちょっと置いといて。
わたしにとって「黄金バット」といいますと、これはもう1967年TVアニメ版の黄金バットです。黄金色のガイコツのマスク(素顔?)に半裸の体も黄金色。赤黒のマントをひるがえし、高らかな笑いとともに登場するナゾの正義の味方は、今考えてもアメコミ風デザインでカッコいいったらない。
このマンガ版は、少年キングで一峰大二、少年画報で井上智によって描かれました。一峰大二版は、今もコミックパークで買うことができます。
で、この一峰大二版「黄金バット」、表紙に作・加太こうじ、画・一峰大二と記載されてます。あれ、永松健夫じゃないの?
実は、1966年東映映画実写版の黄金バットも、1967年TVアニメ版黄金バットも、ともに監修・加太こうじ、原作・永松健夫とクレジットされているのです。
紙芝居の黄金バットは、1930年(昭5)に作・鈴木一郎、絵・永松武雄(のち健夫に改名)の手によって誕生しました。絵元は東京の「話の日本社」で、黄金バットの大ヒットによって紙芝居はブームになったらしい。
永松健夫は、昭和7年からなぜか紙芝居の黄金バットを描かなくなってしまいますが、その後、絵を描いたのが、加太こうじや菊地広雲らだそうです。
戦後は、1946年1月から、加太こうじが紙芝居の「黄金バット」の台本と絵を描いていました。
いっぽう、単行本版の「黄金バット」は元々社(のちの少年画報社)から永松健夫作で1947年から発行。「なぞの巻」「地底の国」「天空の魔城」が出版され大ヒット。永松健夫の黄金バットは、1948年に発刊された「少年活劇文庫」(のちの少年画報)にも連載されました。ムックとかでよく見る、絵物語のヒット作としての「黄金バット」はこっちですね。
顔はガイコツですが、金髪の長髪。大きな帽子、緑の服に白タイツ。大きな襟飾りと袖にもでかいレース飾り、さらに赤いマントという、はっきりいってものすごいスタイルの黄金バットが永松健夫版。
大空社から、永松健夫版の紙芝居、加太こうじ版の紙芝居、両方が復刻されてます。加太こうじ版のほうの黄金バットは、「黄金バット ナゾー編」のタイトル(10枚だけですが)。これを見てみますと。
ここでの黄金バットは、緑の服に白タイツ、赤いマントは同じですが、帽子と髪の毛がなくて、頭はガイコツそのままでつるりとしたハゲ。襟飾りと袖飾りもシンプルになってて、かなりおとなしい。
悪役のナゾーは、元ナチスドイツの科学者、ベルリン陥落のときスイスに逃れ、アルプス山中にひそんでいるという設定です。全身を黒い服でつつんでいるのは、戦争のときに負傷したかららしい。
巨大ロボット「怪タンク」が登場するのは、永松健夫版と同じ。
アニメ版黄金バットのカッコよさは、オリジナル永松健夫版からはかなり遠く、むしろ加太こうじ版からデザインされたようです。
アニメや映画のストーリーも、古色蒼然とした永松健夫版よりも、加太こうじ版を元にしているという記述がありますが、これは加太こうじの紙芝居を知らないからなんとも言えないなあ。
永松健夫は1961年に亡くなっています。加太こうじは筑摩書房から「小説 黄金バット」も出版してますが、これは黄金バットの話じゃなくて、昭和初期、黄金バットを作り出したひとびとの群像劇らしい。永松健夫も登場するのでしょう、機会があれば読んでみたく思います。
前々回、すがやみつる先生からのコメントで、「川崎のぼるは、吐きながら仕事をしていたらしい」というウワサ話を教えていただきました。これって、わたしもどこかで聞いたことあるような。
さて、川崎のぼるは、最も忙しい時、どれほどの仕事をしていたのでしょうか。1960年代後半、連載マンガだけでも以下のようなものがありました。
■週刊少年サンデー
アタック拳:1965年37号~46号
川崎のぼるの週刊誌進出は、まずサンデーでした。マガジンの「巨人の星」にかなり先行しています。
キャプテン五郎:1965年51号~1966年9号
死神博士:1966年11号~28号
タイガー66:1966年31号~51号
アニマル1:1967年11号~1968年35号
アニメ化もされた、アマチュア・レスリングがテーマのマンガ。1968年はメキシコ・オリンピックの年でした。
歌え!!ムスタング(原作・福本和也):1968年30号~1969年19号
谷啓も登場する音楽マンガ。連載時期がアニマル1とダブってるのに注意。短期間ではありますが、この時期、サンデーには川崎のぼる作品が二作同時連載されてました。
ムサシ(原作・小池一雄):1974年35号~1977年20号
■週刊少年マガジン
巨人の星(原作・梶原一騎):1966年19号~1971年3号
大魔鯨(原作・高森朝雄):1966年30号~34号
こういう短期連載のとき、「巨人の星」が休載するかといえば、そんなことはないのですね。
白い魔神(原作・高森朝雄):1967年3/4号~8号
フットボール鷹:1977年3/4号~1979年14号
■週刊少年ジャンプ
男の条件(原作・梶原一騎):1968年10号~1969年19号
ご存じ、マンガ家が主人公の熱血マンガ。登場人物が売血したりします。
どうどう野郎:1969年20号~1970年10号
いなかっぺ大将タイプのギャグマンガ。
荒野の少年イサム(原作・山川惣治):1971年38号~1974年2号
山川惣治の絵物語「荒野の少年」のリメイク。
花も嵐も(原作・梶原一騎):1975年3号~38号
■少年ブック
スカイヤーズ5:1966年より1968年秋まで。
■小学館学年誌
いなかっぺ大将:1968年8月号より
(データに欠けがあったらごめんなさい)
つまり、最も忙しかったのは1968年の一時期。
週刊連載が、マガジンに「巨人の星」、サンデーに「アニマル1」と「歌え!!ムスタング」、ジャンプに「男の条件」の4本。月刊連載が「スカイヤーズ5」と「いなかっぺ大将」の2本。さらにこの年、「少年画報」7月号には読みきり作品も描いてます。うーん、たしかに吐くかもしんない。
【追記】 しまった、「男の条件」のころ、ジャンプはまだ週刊じゃなくて、月2回刊だったことを忘れてました。スミマセン。
【さらに追記】 週刊少年キング1966年2号~11号にも、川崎のぼる作の「ハリケーン99」という作品が連載されていたようです。
【さらにさらに追記】 週刊少年サンデーでは、1967年から1968年にかけて「イサムよ銃をとれ」という作品も掲載されていたようです。「アニマル1」と同じ時期になります。いやほんまよう仕事してはる。
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