「挑戦者AAA」:永島慎二の1967年
永島慎二/梶原一騎「挑戦者AAA」が、マンガショップより発売されてます。今回の復刻では「チャレンジャートリプルエース」とルビがふってありますが、連載当時は「ちょうせんしゃトリプルエース」だったはずです。
少年画報1967年1月号から12月号まで連載されたもので、この連載中、週刊少年キング1967年23号から永島/梶原コンビの第二作「柔道一直線」が始まります。
戦争孤児の主人公・黒羽は、少年院にいたとき悪のスパイ組織メフィストにスカウトされ、超人的な殺し屋として養成されます。組織を抜けた黒羽におそいかかる、メフィストからの刺客たち!
というストーリーで、主人公が少年院に慰問に行ったりしてますから、翌年始まるタイガーマスクの骨格そのままですね。読み直すまですっかり忘れてました。
1966年から1967年にかけては、わたしが少年画報をもっともよく買ってた時期です。毎号マグマ大使が表紙をかざってたころ。「挑戦者AAA」もはでなアクションが売りでした。前半の、東京湾にあるメフィストの秘密基地のエピソードは喜んで読んでましたが、後半、主人公がプロレスラーと戦う展開になるころは、まったく知りませんでした。いやー、何を書いても梶原一騎。
少年期からむちゃ達者な絵を描いていた永島慎二、初期には雑誌掲載も多いのですが、1959年からはほとんど貸本単行本しか描かなくなりました。その世界でいろいろと名作を発表。しかし1964年には生活の困窮もあり、虫プロに入社してアニメーションの世界に足を踏み入れます。
その彼がふたたびマンガに復帰したのが1966年末です。まず少年画報1966年12月号に「復讐」、週刊少年キング1966年49号に「大魔神逆襲」(映画のコミカライズ)を発表しています。この「大魔神逆襲」は、映画版が劇場公開されたとき、劇場で単体発売されたらしい。
http://hop2001.hp.infoseek.co.jp/data75.html
http://miuscg.hp.infoseek.co.jp/majin_comic.html
永島慎二のマンガ復帰は、まず「売れるマンガ」をめざしたところから始まりました。これに続くのが、少年画報で梶原一騎と組んだ「挑戦者AAA」です。
同時に虫プロ「COM」1967年1月創刊号から毎回短篇掲載を始め、1967年4月号からは代表作となる「フーテン」の連載開始。さらに青林堂「ガロ」1967年5月号から連続して短篇掲載が始まります。
そしてほぼ同時に、週刊少年キング1967年23号から、梶原一騎原作の「柔道一直線」の連載開始。秋からは冒険王に「豹マン」(ピープロが企画していた特撮ドラマのコミカライズ。結局放映されませんでした)を連載。さらにさらにさらに、1967年には過去のシリーズ「漫画家残酷物語」をトレスし、朝日ソノラマから新書版単行本として刊行開始。
1967年の永島慎二は、週刊連載ひとつ、月刊連載四つをかかえ、掲載誌はキング・少年画報・冒険王・COM・ガロとメジャー、マイナーをこえた忙しい作家となっていました。
ただし、作者は精神的にどうだったか。
一応ビルドゥングス・ロマンであるところの「柔道一直線」はともかく、もうひとつの「挑戦者AAA」に登場するのは、ナチスっぽい制服の悪の組織の幹部、覆面の首領、極悪な殺し屋、主人公をすぐ裏切る不良少年たち、無能な警察、騒がしいだけのマスコミ。後半になって主人公と心を通わす少年が登場するまで、やーな連中しか出てこない。梶原一騎らしいといえばそうなんですが。
ガンアクションやナイフでばんばん人は死ぬし、永島慎二の作品中、おそらくもっとも多数の死者の出たマンガでしょう。もしかしたら梶原一騎作品としても、時代劇以上に人が死んでるかも。
「挑戦者AAA」は、かつて永島が「漫画家残酷物語」で自身が批判した作品そのものであったはずです。
永島慎二は、マンガ復帰から1年もたたない1967年9月ごろから(自身の言葉によると)精神的に不安定になり、1968年4月からの外国旅行を計画し始めます。
「挑戦者AAA」は少年画報1967年12月号で終了。「柔道一直線」は週刊少年キング1968年22号までで休載。おそらくは九州編終了のころにあたります。
そして、1968年4月10日、永島慎二はアメリカ旅行に旅立ちます。現在の海外旅行を考えてはいけません。行きはサンフランシスコまでの船便。ニューヨーク、マイアミ、メキシコ、ロサンゼルスを回って、帰国は飛行機で6月17日。全行程80日間に及ぶものでした。
「柔道一直線」の再開は週刊少年キング1968年42号から。雑誌の中心となる人気作品が5ヵ月休載したことになります。
帰国後の永島慎二は、「柔道一直線」の連載を続けながら、青年誌を中心に精力的に作品を発表します。しかし、ついに1970年春、突然「柔道一直線」から降板してしまいます。当時「柔道一直線」はTVドラマ放映中で人気絶頂でした。作画は斎藤ゆずるにバトンタッチされます。
当然、他誌の仕事を続けることもできなくなります。ちょうどそのころ「フーテン」を連載中だったプレイコミックに載った「拝啓 読者どの」という文章。
1970年4月、自称マンガ家 永島慎二は体の調子が悪いと思い、気軽に医者に診てもらったところ、病気であるとの判決を申し渡される。病名は終身刑にも似た糖尿病。および、都会病 慢性気管支炎との事であった。約30年にわたり、その肉体と健康を誇っていただけに、その意気消沈たるや 見るも無残、精神状態は、すでに壊滅状態寸前であります。
このような事件を口実に、いっさいの仕事から逃れ、約1ヶ月間 のんべんだらりと時間をつぶし、何をやっても手につかず(以下略)
そしてCOM1970年5・6月号に自身の旧作マンガと共に掲載された文章。
この作品を描いた頃から、ちょうど一年ほどになります。この作品にあるように、一年めの現在も糖尿病に悩まされ、と同時に現在の小生のまんが家生活に対する姿勢に疑問を感じてきました。医者からいっさいの仕事のさし止めをくい、それでこれを機会にゆっくり休養しようと思いたった訳です。
さらにプレイコミックに再度掲載された1970年7月17日の日付入りの文章。
この度、P・C(プレイコミック)にて一年近く、れんさいさせて戴いた“フーテン”を未完ながら一度おわらせたいと決心しました。
このところ、又体の調子をくずして、再度入院することとなり、その上、現在の私は作品を作る意欲にかけます。
このまま描きつづけることは、たとえできたとしても、それは惰性にすぎず、読者諸兄および自分にまでもウソをつくと、イヤ、うそをつきつづけることになると考えるのです。
たしかに体調は悪かったのでしょうが、要は精神的にまいってしまったと。
この1970年に永島は渡米していません。斎藤貴男「梶原一騎伝」にある、1970年に永島慎二が「柔道一直線」を放棄してひとり渡米してしまったという記述は、あきらかに誤りであることを、再度、記しておきます。
実際に永島慎二の作品数が回復するのは1971年です。この年、少年サンデーに描いた「花いちもんめ」で、小学館児童漫画賞を受賞します。その後は「旅人くん」などを経て、しだいに知るひとぞ知るマンガ家、という存在になっていきます。
後年の永島慎二の人生の方向を決めてしまったのが、1967年の「挑戦者AAA」だったのでしょうか。
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