W3事件再掲
W3事件の基礎文献として、以下のものがあります。
(1)手塚治虫自身の証言:ボクのまんが記〜「W3」の巻〜:「鉄腕アトムクラブ」1965年9月号掲載→「少年マガジン版W3」(1997年)に転載
(2)少年マガジン側の証言
(2−1)内田勝:「『奇』の発想」(1998年)
(2−2−1)宮原照夫:「ボクのまんが記〜「W3」の巻〜」を受けて:「少年マガジン版W3」(1997年)
(2−2−2)宮原照夫:神様の伴走者−手塚番−第5回神様の夢を叶えた男:「ビッグコミック1」2004年10月1日号
(3)虫プロ側の証言
(3−1)山本暎一:「虫プロ興亡記 安仁明太の青春」(1989年)
(3−2)豊田有恒:「日本SFアニメ創世記 虫プロ、そしてTBS漫画ルーム」(2000年)
(4)少年サンデー側の証言
なし?
上記より事件を時系列に記述してみます。
■1963年末:虫プロでアニメ「ナンバー7」の企画始まる。当初は初のカラー・TVアニメの予定だった。チーフは坂本雄作。
「ナンバー7」は1961年から「日の丸」で連載された手塚作品。坂本雄作は東映動画出身で、初期虫プロの中心人物。アトムのTVアニメ化を最初に提案したのは、どうもこの人らしい。最近なら、アニメ「ガラスの仮面」監督をやってます。
■1964年?月:東映の「レインボー作戦」(=「レインボー戦隊ロビン」?)と企画がかぶる。さらに放射能による突然変異ネタを避ける必要があった。このため「ナンバー7」の企画変更。宇宙もの+スパイものとなり、宇宙リス・ボッコがマスコットキャラとして登場することになる。
「レインボー作戦」と書いたのは1965年9月の手塚です。「レインボー作戦」が「レインボー戦隊ロビン」のことだとすると、企画に関しては東映の、というよりスタジオ・ゼロの、と言うべきでしょう。石森章太郎、藤子不二雄らがスタジオ・ゼロを創立したのが1963年6月。1964年にはすでに企画ができていたかもしれません。実際に放映開始されたのは1966年4月でした。「ナンバー7」も「レインボー戦隊ロビン」も、ともに集団ヒーローもの、戦隊ものでしたから、確かに企画がかぶってると言えますね。
■1964年?月:少年マガジン1965年6号から「ナンバー7」の連載決定。
■1964年?月:TBSアニメ「宇宙少年ソラン」の企画に宇宙リス・チャッピーが登場することがわかる。アイデアがもれたとして、犯人探し。当時虫プロ脚本家の豊田有恒は、手塚に疑われたのに怒って退社してしまう。
■1964年12月:「ナンバー7」の企画を中心になって進めていた坂本雄作が降板。同時に「ナンバー7」の企画中止。
■1964年12月31日:手塚治虫が描いた、少年マガジン1965年6号からの新連載「ナンバー7」の予告ページが入稿される。
■1965年1月4日:虫プロで会議。以下のことが決定される。手塚作品「W3」をアニメ化することにする。チーフディレクターは手塚。
ここで、初めて「W3(ワンダー・スリー)」というタイトルが登場します。
■1965年1月5日:上記の翌日、正月の仕事始めの日。手塚からマガジン編集部にクレームの電話。(1)「ソラン」は「ナンバー7」の宇宙リスを盗作した。(2)「ソラン」はマガジンでの連載が決まっている。(3)宇宙リスのアイデアがマガジンからTBSに漏れたのじゃないか。(4)「ナンバー7」はアニメもマンガも中止する。
12月中に「ナンバー7」中止が決まっていたのに、12月末にマガジンの予告用原稿を描くというのが奇妙。さらに1月4日の会議の翌日に、宇宙リスの件でマガジンにクレームをいれるのがまたヘンな行動です。
しかし、一応編集部から説得され、手塚はマガジンで「ナンバー7」にかわる連載を始めることになります。
■1965年1月末:アニメ「W3」のテスト版が完成。マガジンでの連載も決定。
■1965年3月:少年マガジンに「W3」連載開始(1965年13号=3月21日号、発売は3月10日)。
■1965年4月:連載5回目ごろ、「宇宙少年ソラン」の予告がマガジンに掲載。手塚からマガジン編集部に再度クレーム。「ソラン」と「W3」を同じ雑誌には載せられない。「宇宙少年ソラン」のマガジン掲載をやめるように。「ソラン」を取るか「W3」を取るか、と迫る。
宇宙リスのアイデア流出に少年マガジンが関与していないことは、手塚もすでに納得済みのはずだったのですから、この再度のクレームはムチャです。ソランの連載開始はアニメ放映開始に合わせて4月末の発売号から。このタイミングでマガジン編集部が手塚の要望を受け入れることはほとんど不可能でしょう。
■1965年18号=4月25日号の少年マガジンをもって、「W3」は第6回で連載中断、終了。
■1965年5月9日号の少年マガジンで宮腰義勝「宇宙少年ソラン」連載開始。
宮腰義勝は手塚治虫の元・アシスタントでもありました。手塚が自分の作品に宮腰義勝タッチのキャラクターを登場させる遊びをしたのは、どの作品だったでしょうか。
■1965年5月4日:TBSでアニメ「宇宙少年ソラン」放映開始。(火曜日午後7時)
■1965年5月30日号の少年サンデーで「W3」の連載開始。
前代未聞の雑誌引越しでした。わたしゃびっくりしましたよ。あれ?あれ?あれ?と思いましたもの。マガジン版と大きく変わったのは、主人公のデザインと宇宙人の名前(だけ)。その他、宇宙人、ロケットやロボット、主人公の兄やそのスパイ組織のデザインはまるきり同じでした。
■1965年6月6日:フジテレビでアニメ「W3」放映開始。(日曜日午後7時)
ちなみに、この半年後、1966年1月2日(日曜日午後7時)からTBSで「ウルトラQ」が放映開始されます。これはちょうど「W3」の裏番組で、この強力で斬新な怪獣番組は「W3」を圧倒します。そのためなのか、「W3」の放映時間帯は1966年2月から月曜日7時30分に変更されることになります。
Comments
今、現物が手元に無いので記憶に頼って書きますので、違っていたらご容赦いただきたいのですが
藤子不二雄A先生の「二人で少年漫画ばかりかいていた」のなかのスタジオ・ゼロのことを書いたパートにSFアニメ「ロケット・ロビン」の企画を「われら神代ッ子」や「モンスター作戦」(?)等のほかの企画とともにイロイロのところに持ち歩いたが良い反応が無い・・・、というような記述のある当時の業務日誌(?)からの引用があったような・・・
時期的に考えると「オバQ」「ウルトラQ」以前の昭和38年ごろではないかとおもうのですが(「ロケット・ロビン」と同時期の企画とされている「モンスター作戦」は東宝の怪獣映画から特撮シーンだけを抜き出して再編集するTVシリーズで海外輸出を狙っていたようです。)
Posted by: 流転 | March 15, 2006 11:26 PM