関東大震災とマンガ
ひとからいただいた「文藝春秋デラックス 日本の笑い マンガ1000年史」(1975年)というムックを読んでおりましたら、あっらー、巻頭で、宮尾しげをと鶴見俊輔が対談している。
何に驚いているかといいますと、宮尾しげをは、大正時代に「団子串助漫遊記」という子供マンガ(実際は絵物語)で人気を得たマンガ家で、1975年ごろのわたしにとっても歴史上の人物でありまして、その時代、雑誌の中でしゃべってるとは思わなかった。
調べてみると、宮尾しげをは1902年生まれ1982年没。そのころ73歳だったのですから、そりゃ対談もするわ。戦後は研究生活にはいって、民俗行事、祭礼、江戸小咄などに関する著書が多く、マンガ関係としても「日本の戯画」「鳥羽絵 人物略画」などがあります。
宮尾しげをは岡本一平門下。1922年(大正11)東京毎夕新聞に連載した6コマものの「漫画太郎」が1冊にまとめられたところ、販売三日目に1923年(大正12)9月1日の関東大震災。本はほとんど焼失。
その後「漫画太郎」のリメイクとして1924年(大正13)毎夕新聞に連載されたのが、子ども向け絵物語「団子串助漫遊記」。マンガの歴史を書いた本にはかならず登場する作品です。主人公のまだ前髪のある少年サムライ、団子串助が町を散歩していると電信柱にビラがはってある。「武術大会長崎に於て、三年後の今日」 電信柱とは時代はいつやねん、今日というからにはこのビラは1日しかはってないんだろうな、てな感じのギャグなんでしょう。父の串右衛門に許可をもらって江戸から長崎まで修行を兼ねた旅に出ます。
絵と文章が完全に分かれていて、厳密な意味で今日言うところのマンガではありません。この作品は大人気となり、この後、宮尾しげをは「軽飛軽助」「鼻尾凸助漫遊記」「漫画西遊記」「○助漫遊記」などの子ども向け作品を残しています。
鶴見俊輔との対談では「マンガ1000年史」(←100年史じゃないところに注意)のタイトルに沿って、正倉院の落書きや鳥獣戯画からの歴史を語っていますが、大正期の話もちょっとだけ。北沢楽天が旧世代、岡本一平が新世代だったとか、楽天は唯我独尊でエラソーだったとか。
串助は東海道を旅する話だったのですが、宮尾しげをもスケッチしながら五十三次を通して歩いたのが二度、汽車で乗り継ぎしながら歩いたのが一度。もちろん新幹線なんかあるわけもなく、特急つばめが蒸気機関車の「超特急」として東京−神戸間を9時間で走破したのが、1930年(昭和5)のことでした。
マンガと大震災は浅からぬ因縁があります。日本の子供マンガの原点とも言われる樺島勝一「正チャンの冒険」は、宮尾しげをの「漫画太郎」の3ヵ月後、1923年(大正12)1月にアサヒグラフで連載が始まっています。ところがその年9月の関東大震災で社屋は壊滅。10月20日からは朝日新聞で連載されるようになります。
もひとつの人気作品、麻生豊の「ノンキナトウさん」も、それまで報知新聞日曜版に掲載されていたものが、1924年(大正13)1月から毎日連載となりました。企画自体が「罹災民をよろこばせるような漫画」でしたから、マンガ内でトウさんは災害復興のため奮闘します。
正チャンはともかく、串助とノンキナトウさんは大震災が生んだとも言えるわけですね。
「正チャンの冒険」の連載分とは別の、「お伽 正チャンの冒険」が発行されたのが1924年(大正13)7月。「ノンキナトウさん」の単行本化が1924年(大正13)10月。「団子串助漫遊記」は連載をまとめ、1925年(大正14)3月大日本雄弁会講談社から単行本として発行されました。日本のマンガ単行本も、関東大震災後にどっと発売され始めたことになります。
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