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March 10, 2006

解体されるマンガ:冬野さほの場合

 冬野さほ「ポケットの中の君」を読んでから、彼女のことが気になってしょうがない状態になってしまい、今手に入る「ツインクル twinkle」「まよなか midnight」も買ってしまいました。

 1993年「ポケットの中の君」が、あくまで「マーガレット・コミックス」というパッケージで発売され、少女マンガの形態をとどめたままでマンガの最前衛に位置していたのに対し、次作の1997年「ツインクル twinkle」になると、マンガという形式の解体がはじまっています。そして2003年「まよなか midnight」になると、すでにマンガではなくなっている。

 「ポケットの中の君」でもそうでしたが、著者によるマンガの解体は、まず、フキダシと絵との分離から始まっています。著者が多数のフキダシをあえて誰がしゃべっているかわからないように、そのあたりに浮かべる。しかも人物はコマ内に同時に複数存在し、しかもコチラを向いていない。結果、読者は雑然とした画面内でザワザワとした会話を聞くことになります。

 結果、誰が何をしゃべっているかきわめてわかりにくい効果が生まれ、作品は叙事より叙情に向かいます。

 続いてコマが解体されます。コマの連続による時間的な流れが消失するようになり、それぞれのコマは時間的な前後がなくなります。さらにコマはセリフを囲むフキダシの代わりにすぎないようになり、ついには単に絵を意味なく分割するものと化します。

 コマは時間的空間的区切りを表現するという本来の意味を失い、コマの内部で時間が経過し物語が進行するようになる。全体ではコマがいくつか存在するという意味で、かろうじてマンガといえなくもない、という状態です。

 同時に、著者はやたらにうまいデッサン力のある絵を封印します。キャラは子供が描いたようにつたなく描かれ、透視図法は捨てられます。そして当然のようにフキダシが消失。文字はそのあたりの宙をただようように。

 最終的に、コマがなく、フキダシがなく、透視図法がなく、キャラと背景と言葉が無秩序にならべられるようになり、この状態で物語が語られます。これは子供の落書きに限りなく近くなる。

 冬野さほにより前衛はつきつめられ、マンガは解体され、絵本、あるいは子供の落書きのようなものに先祖がえりします。「ポケットの中の君」「ツインクル twinkle」「まよなか midnight」を順に読むと、マンガの歴史を逆回転させているかのごとく概観することができるのです。

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Comments

コメントありがとうございます。わたしも冬野さほ初体験はコミック・キューでした。最近発売された江口寿史日記を読んで、彼女の名を再発見した次第です。1993年発売の「ポケットの中の君」が今17刷ですが、1997年の「ツインクル」は14刷です。人気は今もあるんですから、過去の作品もさかのぼって読めるといいんですけどね。

Posted by: 漫棚通信 | March 12, 2006 02:38 PM

いつも面白いお話楽しみに読ませていただいてます。
この方の漫画、コミックキューではじめて見て驚きました。
普段こういうアートっぽい?漫画に興味は無いのですが、たまたま作品のリズムにハマってしまったようで…
その時もうポケットの中の君しか店頭には無く、古本屋を回りましたけれど、他の作品は見つけられませんでした。
旦那さんのお手伝いもいいけど、本人さんにもどんどん描いて欲しいですね。

Posted by: asa | March 11, 2006 03:25 PM

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