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February 22, 2006

悲しい本「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」

 よっぽど無視しておこうかと思ったのですが、読んでいてあまりにあきれてしまったので、ひとつきっちり書いときます。

 竹内一郎「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」読みました。著者は、「さいふうめい」の名でマンガ原作を手がけ、短大などの非常勤講師もされている人物。手塚治虫が先行するどのような文化や作品に影響されてストーリーマンガをつくったか、というテーマの本、だと思います。

 私にとっては「何故日本にストーリーマンガが生まれたのか」は、非常に大きな謎であった。
 先行する西洋文化であるフレンチコミックやアメリカンコミックの影響を受けていないとはいえないが、やはりストーリーマンガは、日本独自の文化である。

 これがまず前提です。

 これに読者はまず困ってしまう。著者はストーリーマンガを「日本独自の文化」と言いきってます。著者の考えるストーリーマンガはアメコミやBDとは違うものとしていますが、コマがあり、フキダシがあり、主に物語を語るという意味で、海外マンガと日本マンガのどこが違うのか。

 著者の考えるストーリーマンガとは何かを、まず定義してから論を進めるべきなのですが、そこは曖昧にされたまま。著者の考えるストーリーマンガが、「日本で描かれているマンガ」のことだとしたら、「日本独自」になるのはあたりまえじゃないですか。

 ストーリーマンガの定義がされるのは、なんとこの本の巻末です。

ストーリーマンガは、まず物語ありきの、絵と文字を使った読み物である。

 これが、なぜ、日本独自の文化なのか。何も説明されない。この本はこういう雑な前提で始まっています。

 次に著者は、「ストーリーマンガは、一色刷りという特徴を持つ」と書きます。その理由は何か。

東洋には「墨絵」の伝統があった。

 ちょっと待てーっ。

 これで納得する人がいるのかしら。ここでは、アメリカでなぜカラーマンガが主流になったかについて何も触れられませんし(洋書を苦労して読まなくても、秋田孝宏の著書に書いてあるぞ)、日本の子供マンガの多くが二色刷りであった歴史はまったく忘れられています。

 突然に墨絵を持ち出すのは何なんだろうなあ。帰納でも演繹でもなく、こういうのは単なる思いつきにすぎません。

 ここまでで「はじめに」の3ページが過ぎただけです。あなたがこの本を読むにはどれだけの忍耐を必要とするか、相当の覚悟で読み進めてください。

 さて、著者が考える、手塚に影響を与えた先行文化とは。

 マンガなら北澤楽天、岡本一平、田河水泡、新関青花、大城のぼる。紙芝居。ディズニー・アニメ。映画的技法のマンガへの導入。宝塚歌劇。演劇。歌舞伎。

 何でも書いときゃどれか当たると思ってないか。それぞれについてこまかい検証があるわけでもなく、かつて誰か(多くは手塚本人)が言ったことをそのまま書き写してるか、テキトーな思いつき。

 「手塚は新関青花(健之助)の漫画が好きだった」と書いて、実際にどのような影響があったかを説明することをしない。

 手塚に影響を与えた多くの作品を紹介しているくせに、なぜか手塚自身も語っている海野十三に対する言及は全くない。

 劇画についての歴史を語る時、劇画側の文献をまったく無視して、手塚の文章だけを頼りにして書くこの態度は何なのか。

 この本には多くの文献から引用がされていますが、その文献の多くは、というか、ほとんどは手塚治虫自身の文章や対談です。著者は、それだけにたよって論を進めています。手塚の言葉には韜晦が多く、そのまま信用しちゃならんと、あれほど言われてるにもかかわらず、その言葉を絶対の真実として書かれたこの本は、研究書なのか。

 ラスト近く、手塚の「ささやかな自負」というエッセイが引用されています。それに対する著者の感想。

天才の自己陶酔と孤独がよく表れた文章である。手塚のいってることはおおむね正しい。

 わたしが以前に「どん底のころの手塚治虫」というエントリで指摘したように、この文章は手塚の低迷期に書かれたものでした。発言が「いつ」なされたものかに対する意識は、著者には存在しないようです。

 内容については、見られるところも、なくはない。現代の映画技法を利用して、初期の手塚作品の表現を解説するところなど、的外れと考えられるのものを多く含んでいるにもかかわらず、ここをきっちり書けばもっと良かったと思わせます。

 手塚が同業者に嫉妬深かったのはよく知られてますが、むしろ彼はライバルを必要としていたという指摘もなかなかです。
 
 ただし、この本のあまりに粗雑でひとりよがりな仮説の提出と論の展開は、評論・研究書としての形をなしていません。ところが、なんとこれ、学位論文を書き直したものだそうです。なんだろねえ。

 紙屋研究所では、ケンカ売ってんのかな、と書かれてましたが、いえいえそうじゃありません。

私は、子どものころから夥しいほどマンガを読み、マンガ原作を仕事にしている人間である。

 ああ、やっぱり、マンガばっかり読んでるとバカになるんだそうなんだ。悲しい本でした。


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Comments

ぼくがかつて赤塚名義で「新潮45」に
<手塚治虫の無責任なんでもアリ大系>
みたいなことを書いたことがあるんですが
~それを思い出してしまったんです。

つまり手塚さんの創作の引用大系を
冷静に分析・考察せずに、ちょっと
批判的発言をあえてしてみたわけです。

関川夏央さんからケチがつきましたが(笑)
新潮編集部側が、当時ウケ過ぎのマンガに
ちょっとイヤミを言ってほしい~という新潮的
企みがあり、サトウサンペイなど、いわゆる
大人漫画にも批判的に書いたエッセイでした。

その手塚先生の<何でもアリ>状態を
竹内さんは評価の方向から書いた。
あの時代なら、それもエッセイなら
ナントカ有り得たのかも知れません。

でも2006年ですからねえ。
まして「選書」。
手塚論も沢山ある状況としては
「見るべきところがある」のに
考察の方法が乱雑ってことに
なってしまうのだと思います。

Posted by: 長谷邦夫 | February 23, 2006 02:33 PM

コメントありがとうございます。
主張には見るべきところがあるとは思うのですが、形式や手順が納得できなくて…… 自然科学系の論文なら、目的、方法、結果、考察、まとめ、と型があるんですが、人文系はそのあたりどうなんでしょうか。

Posted by: 漫棚通信 | February 23, 2006 12:19 PM

ぼくは帯コピーをネット画像で見てコリャだめだ!と思いました。このような無神経というか
無知をさらしたオビを付ける編集者がダメだというのが、ぼくが繰り返し言ったことです。

あとがきで、故日下教授にはげまされ~みたいな言もありますね。
竹下さんは、最初、研究論文みたいなものを書いて教授に見せていた。それがやたら彼女にホメられたあたりから、錯覚が始まったかな~と思います。こんな調子でいいんだ…と。

故人のワルクチは書きたくにのですが、教授の中国マンガ研究発表(マンガ学会大会)もそれに類する点が多かったんですね。
伊藤剛さんに言わせると、もっとヒドイ!というわけなんですが。

そのほめられた論文を<平易に>選書用に仕立てたとき~今度は、無知・安易な編集者が「先生オモシロイデス!」なんて太鼓もちを
やったのでは~それがオビ文に現れています。

竹内先生ワルイ人ではないでしょうが、二重に勘違いを犯してしまったと思います。
マンガ原作というキビシイ世界で、かなりの実績を残されている方です。
編集者が漫棚さんのようにキチンと指摘なされば、彼もきずいて修正していった~という可能性は大です。原作なんかはビシバシ修正の入る世界ですからね。

これは、マンガ描きでありながら、
似たように研究の世界に少し
足を踏み入れたぼく自身への
自戒をこめたコメントでもあります。

読み出したとたん、ラストまで読まず
ブログに悪口書いちゃいましたから
それはちょっと失礼だったかなとも
思うんですが…でもでも、あのオビは
ほんとに失礼しちゃうワ!でした。(笑)

Posted by: 長谷邦夫 | February 22, 2006 11:42 AM

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Tracked on February 22, 2006 06:00 PM

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