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February 27, 2006

もりもと崇の新作

 「難波鉦異本(なにわどらいほん)」で手塚治虫文化賞を受賞した、もりもと崇。これからの展開が注目された作品だったのですが、掲載誌の「斬鬼」が2004年10月号で休刊したのに伴ない、「難波鉦異本」も途絶。ちょっとアレな状態となってしまいました。連載マンガはこういうのがよくあるからなあ。みなもと太郎の連載も中断したっきりだし。

 もりもと崇のようなオリジナルの時代物は、マンガとして量産できないし、すごく大変そうです。小説やTVと比べても、マンガは個人営業で、しかも絵に描かなきゃいけないことを考えると、考証が。

 もりもと崇作品は、昨年から小池書院の「刃(ジン)」という月刊誌に読切がいくつか発表されていましたが、ついに、今発売中の2006年4月号から新連載が始まりました。待ッテマシタッ。

 タイトルは「鳴渡雷神於新全伝(なりわたるらいじんおしんぜんでん)」。舞台は明治15年の神戸−大阪。自由民権論者・岸田俊子(湘煙、歴史上の有名人)と淀川新聞の探訪員・矢藤専三(おそらく架空の人物)の前に、悪のヒロイン「かみなりお新」が姿を現わします。

 ヒーロー、ヒロイン、悪役、さらにねらわれてる(?)板垣退助がオープニングで一堂に会する、というのがなかなかの作劇です。

 ヒロインの岸田俊子はご存知の方も多いでしょうが、京都生まれの自由民権論者。文久3年(1863)生まれですから明治15年(1882)には19歳。17歳のときに皇后に漢学を進講したというから相当な才女です。明治15年からの各地の遊説では、とんでもないファッションで人々を驚かせました。黒白赤の三枚重ね、文金高島田に緋縮緬の着物と黒縮緬の帯、だったらしくて、「妖艶」だったと言われてますが、そうか? 今残ってる写真を見ると、かなり顔の長い女性ですが。

 これに対する「かみなりお新」も実在の人物で、全身に刺青をほどこした稀代の毒婦。土佐出身の女賊で、明治7年に収監。8年後のこの年、破獄したばかりという設定であります。

 いやー、山田風太郎の明治モノみたいな感じですね。いやがうえにも期待は高まるのでありました。頼むから掲載誌が生き延びてくれますように。

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February 24, 2006

史上、最も下品

 昨2005年の11月に、田中圭一の旧作が3作、一気に再刊されました。アスペクトから「ドクター秩父山」、ぶんか社から「ドクター秩父山だっ!!」、アスペクトから「昆虫物語ピースケの冒険」。

 どれも、下品、お下劣、下ネタ大爆発で大変よろしい。わたし、「ドクター秩父山」は旧スタジオ・シップ版の1巻だけ、「ドクター秩父山だっ!!」は旧ぶんか社版の1巻だけしか持ってませんでしたので、今回3冊ともそろえましたよー。「ピースケ」は凝った装丁の旧ぶんか社版持ってるもので迷ったのですが、アスペクト版には田中圭一、相原コージ、竹熊健太郎の下品な鼎談が収録されてるので、これも買っちゃいました。田中圭一の参加する対談からは、なにがなんでも下品にせずにはおかない、という強い意思が伝わってきますなー。

tanakakeiichi で、この画像をごらん下さい。これは今回のぶんか社版「ドクター秩父山だっ!!」の裏表紙カバーの絵なのですが、さて、これを見て諸兄は何だと思われるか。おそらく、内容を読んでいない人には、なにがなにやらわかるまい。

 ぱっと見てわかるのは、永井豪のパロディだな、と。田中圭一、手塚治虫と本宮ひろ志に続いて、永井豪のパロまで始めたか、と。「ゴー!ゴー!ゴー!みたいな!」と書いてありますが、この中央の少女、この作品に登場する「川口安緒(あんちょ)」という看護婦さんキャラクターでして、「みたいな」ってのは彼女が口癖にしているしゃべり方なのです。

 さて、彼女の両側に出現しているのは誰か。いっぽうはデビルマンの悪魔、いっぽうは天使キャラのようです。ふたりとも足がない。中央のあんちょさんの脚のつけねから、エクトプラズムのように出てきている。

 実はこれ、あんちょさん、自分の小陰唇をひっぱるクセがありまして、小陰唇を自由自在に巨大化させたり動かしたりできるようになってるんです。そしてついには小陰唇が意思を持ち、しゃべることも可能にっ。これが左右のおふたりであります。

 ああ、なんと下品なキャラであることか。しかもそれを堂々と裏表紙カバーにするとは。カバーの折り返しには小陰唇をひっぱって自分のおっぱいを隠してるあんちょさんも見られます。マンガ史上、最も下品な表紙絵として、表彰状を差し上げます。

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February 22, 2006

悲しい本「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」

 よっぽど無視しておこうかと思ったのですが、読んでいてあまりにあきれてしまったので、ひとつきっちり書いときます。

 竹内一郎「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」読みました。著者は、「さいふうめい」の名でマンガ原作を手がけ、短大などの非常勤講師もされている人物。手塚治虫が先行するどのような文化や作品に影響されてストーリーマンガをつくったか、というテーマの本、だと思います。

 私にとっては「何故日本にストーリーマンガが生まれたのか」は、非常に大きな謎であった。
 先行する西洋文化であるフレンチコミックやアメリカンコミックの影響を受けていないとはいえないが、やはりストーリーマンガは、日本独自の文化である。

 これがまず前提です。

 これに読者はまず困ってしまう。著者はストーリーマンガを「日本独自の文化」と言いきってます。著者の考えるストーリーマンガはアメコミやBDとは違うものとしていますが、コマがあり、フキダシがあり、主に物語を語るという意味で、海外マンガと日本マンガのどこが違うのか。

 著者の考えるストーリーマンガとは何かを、まず定義してから論を進めるべきなのですが、そこは曖昧にされたまま。著者の考えるストーリーマンガが、「日本で描かれているマンガ」のことだとしたら、「日本独自」になるのはあたりまえじゃないですか。

 ストーリーマンガの定義がされるのは、なんとこの本の巻末です。

ストーリーマンガは、まず物語ありきの、絵と文字を使った読み物である。

 これが、なぜ、日本独自の文化なのか。何も説明されない。この本はこういう雑な前提で始まっています。

 次に著者は、「ストーリーマンガは、一色刷りという特徴を持つ」と書きます。その理由は何か。

東洋には「墨絵」の伝統があった。

 ちょっと待てーっ。

 これで納得する人がいるのかしら。ここでは、アメリカでなぜカラーマンガが主流になったかについて何も触れられませんし(洋書を苦労して読まなくても、秋田孝宏の著書に書いてあるぞ)、日本の子供マンガの多くが二色刷りであった歴史はまったく忘れられています。

 突然に墨絵を持ち出すのは何なんだろうなあ。帰納でも演繹でもなく、こういうのは単なる思いつきにすぎません。

 ここまでで「はじめに」の3ページが過ぎただけです。あなたがこの本を読むにはどれだけの忍耐を必要とするか、相当の覚悟で読み進めてください。

 さて、著者が考える、手塚に影響を与えた先行文化とは。

 マンガなら北澤楽天、岡本一平、田河水泡、新関青花、大城のぼる。紙芝居。ディズニー・アニメ。映画的技法のマンガへの導入。宝塚歌劇。演劇。歌舞伎。

 何でも書いときゃどれか当たると思ってないか。それぞれについてこまかい検証があるわけでもなく、かつて誰か(多くは手塚本人)が言ったことをそのまま書き写してるか、テキトーな思いつき。

 「手塚は新関青花(健之助)の漫画が好きだった」と書いて、実際にどのような影響があったかを説明することをしない。

 手塚に影響を与えた多くの作品を紹介しているくせに、なぜか手塚自身も語っている海野十三に対する言及は全くない。

 劇画についての歴史を語る時、劇画側の文献をまったく無視して、手塚の文章だけを頼りにして書くこの態度は何なのか。

 この本には多くの文献から引用がされていますが、その文献の多くは、というか、ほとんどは手塚治虫自身の文章や対談です。著者は、それだけにたよって論を進めています。手塚の言葉には韜晦が多く、そのまま信用しちゃならんと、あれほど言われてるにもかかわらず、その言葉を絶対の真実として書かれたこの本は、研究書なのか。

 ラスト近く、手塚の「ささやかな自負」というエッセイが引用されています。それに対する著者の感想。

天才の自己陶酔と孤独がよく表れた文章である。手塚のいってることはおおむね正しい。

 わたしが以前に「どん底のころの手塚治虫」というエントリで指摘したように、この文章は手塚の低迷期に書かれたものでした。発言が「いつ」なされたものかに対する意識は、著者には存在しないようです。

 内容については、見られるところも、なくはない。現代の映画技法を利用して、初期の手塚作品の表現を解説するところなど、的外れと考えられるのものを多く含んでいるにもかかわらず、ここをきっちり書けばもっと良かったと思わせます。

 手塚が同業者に嫉妬深かったのはよく知られてますが、むしろ彼はライバルを必要としていたという指摘もなかなかです。
 
 ただし、この本のあまりに粗雑でひとりよがりな仮説の提出と論の展開は、評論・研究書としての形をなしていません。ところが、なんとこれ、学位論文を書き直したものだそうです。なんだろねえ。

 紙屋研究所では、ケンカ売ってんのかな、と書かれてましたが、いえいえそうじゃありません。

私は、子どものころから夥しいほどマンガを読み、マンガ原作を仕事にしている人間である。

 ああ、やっぱり、マンガばっかり読んでるとバカになるんだそうなんだ。悲しい本でした。


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February 20, 2006

夏目房之介講演「マンガと人生」

 徳島県立文学書道館で2月19日に開かれた、夏目房之介講演会に行ってきました。

 ここで「竹宮惠子の世界展」が開催されており、その関連企画でしたので竹宮惠子氏も聴講されてました。聴衆はかなり年齢層が高い感じで、やっぱ女性が多かった。

 「マンガと人生」のタイトルで、まず、企業家のみなさんも実はマンガ(本宮系、多し)に影響を受けてるという話をマクラに、人生を描く=成長するキャラクターについてが講演のメインテーマでした。

 夏目先生の講演はあれですな、緩急が落語の呼吸。ムズカシイ話を簡単に解説するのがお見事なもんです。「テヅカ・イズ・デッド」のキャラ/キャラクター論と、フレームの不確定性の話も出ましたが、70歳以上と思われるご老人がうんうんうなずいてたのは、たいしたもんです(それにしてもあのじいちゃん、誰だったんだろう)。わたしの同居人(一般人、テヅカ・イズ・デッド未読)もいっしょに講演聞きに行ってましたが、じゅうぶん理解できたみたいです。

 風木の話も当然出ましたが、著者(と、コアなファンいっぱい)を目の前にしての講演はやりにくかったんじゃないかと。

 夏目先生の著書にサインいただくとき、少しだけご挨拶しましたが、あわあわしていて失礼しました。サインは家宝とさせていただきます。

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February 17, 2006

「かわいい」論とほっぺた

 先日見ていたアメリカ映画では、女性が男性を指して「彼はcuteだ」と言ってました。どうも状況からすると、性的欲求をモヨオスようなニュアンスを含んでるみたいに聞こえる。

 やっぱり「cute」と「かわいい」はまったく別のものなんですねえ。コトバは難しいなあ。日本語の「かわいい」に含まれるビミョーさを考察した、四方田犬彦『「かわいい」論』読みました。

 「かわいい」の語源、他国語に訳すとどうなるか、から始まり、学生へのアンケート、女性雑誌での「かわいい」の使われ方、東京「かわいい」スポット探訪まで、現在の日本での「かわいい」とは何か、さらには「かわいい」が世界に進出する理由を探る。

 最初に出てくるのが、枕草子です。古語の「うつくしきもの」って、現代語になおすと「かわいいもの」だったんだ、そうだそうだ、忘れてました。

 清少納言のこの文章、かわいいものをずらずらと挙げてますが、これが現代日本人の考えるカワイイモノと全く変わらない。これがまず大きなオドロキ。「かわいい」は日本固有の伝統である、と言われると眉にツバつけちゃうほうなのですが、枕草子から書き起こされると、納得させられてしまいました。

 「かわいい」の語源は「かほ・はゆし」(=顔・映ゆし)で、本来は「恥ずかしくて顔がほてる」意味だそうです。そして、学生アンケートで、「かわいいと呼ばれたことがありますか」という設問に、「突然の失敗」(方言丸出しでしゃべった時、など)というのがでてくる。

 そうかっ、「ドジッ娘」とは、コトバ本来の意味で「かわいい」ものだったのかっ。さらには、以前わたしが「ほっぺたのアレはなんやねん」というエントリで書いた、あの、ほっぺたのヨゴレは、「顔が火照る」→「かわいい」という意味をこめた、「かわいい」記号だったのかっ。

 カワイイはほっぺたに宿る。

 ほっぺたのヨゴレが描かれるのは、コドモだけ。オトナに描かれることはほとんどありません。「コドモ」(=未成熟、小さい、保護される対象)+「ほっぺたのアレ」→「顔が火照る」→「かわいい」となるのかそうか。てなことを考えながら読んでおりました。

 もちろん、「かわいい」についてのすべてを網羅した書物ではなく、ほんの取っ掛かりを示したものですが、いろいろ考えさせられて、面白かったです。言葉はナマモノですから、もしかすると10年後、「かっわいー」の意味は変わってるかもしれない。今、読むべき本なのでしょう。

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February 14, 2006

スーパー・フィクションとスーパーアクション

 星野之宣の新刊「2001+5」は、単行本未収録の作品を集めたものですが、多くは双葉社「月刊スーパーアクション」に掲載されていました。とくに、「STARSHIP ADVENTURE Star Field」シリーズはスーパーアクション休刊にともなって未完となってたものです。

 1979年、双葉社から「Weekly 漫画アクション増刊 スーパー・フィクション」という増刊号が発売されました。「スーパー・フィクション」すなわち略して「SF」です。サイエンス・フィクションにひっかけたネーミング。

 SFがカッコよかった時代。スターウォーズの日本公開が1978年、スーパーマンとエイリアンが1979年。雑誌「日本版スターログ」の創刊が1978年。SFが社会的人気を獲得し、オタク(まだそんな言葉はなかった)にとって、SFは一般教養のひとつでした。そんな時代のマンガ雑誌。

 とか書いてますが、わたし、「スーパー・フィクション」の第1号を持ってません。実は買いのがしてまして、ウチにあるのは、「Weekly 漫画アクション増刊 スーパー・フィクション-2 恐怖怪奇編」1979年8/31号からです。続いて3号が「ショート・ピース12篇」1979年12/11号、4号は1980年4/19号と、不定期の季刊誌みたいに続いてゆきます。

 2号の目次を書いておきます。すべて読切。

・山上たつひこ「ファーブル新婚記」
・玄太郎「呪い人形」
・藤子不二雄(F)「神さまごっこ」
・諸星大二郎「ブラック・マジック・ウーマン」
・谷岡ヤスジ「お暑うございマスッ」
・花輪和一「怨焔」
・岩本久則「ムシムシ」
・二階堂正宏「サラリーマン」
・星野之宣「ホワイト・アウト」
・都筑道夫作のショートショート「薄雲の月」(イラスト/大友克洋)
・新田たつお「ウルトラ月光28号現わる」
・吾妻ひでお「ひでお童話集:のた魚/メリメリ木こり/やさしい少女」
・弘兼憲史「カンバセイション」
・いしいひさいち「死闘!!地底人対最底人!」

 この増刊のスーパー・フィクション、わたしの持ってる最後は12号、1982年11/9号まで。不定期刊行だったもので、13号は存在するかどうかは知りません。

 そして翌1983年、「月刊スーパーアクション」が創刊されます。1983年6月創刊号の表紙は板橋しゅうほう、表紙のコピーが「新漫画時代」。中綴じ256ページで定価250円でした。

 巻頭のピンナップは大友克洋の描く幻魔大戦。ちょうど角川でアニメ化進行中。連載マンガが以下のとおり。

・平野仁/狩撫麻礼「B」
・板橋しゅうほう「アイ・シティ」
・山上たつひこ「ごめん下さい」
・諸星大二郎「西遊妖猿伝」
・新田たつお「カッコ1/2」
・黒咲一人「やっさん」
・西岸良平「ミステリアン」

 読切が佐多みさき。ギャグにいしいひさいち、谷岡ヤスジなどなど。スーパー・フィクション時代よりおとなしく、もうひとつ思い切りが足らないかな。

 「月刊スーパーアクション」の版形が平綴じに変わったのが1984年10月号です。表紙のコピーは「SF・冒険・幻想!オール・オリジナル・コミック!」と変わってます。連載陣はこんなふうに。

・板橋しゅうほう「Hey! ギャモン」
・いしいひさいち「ドーナツ☆ボックス」
・星野之宣「2001夜物語」
・原律子「改訂版大日本帝国萬画」
・藤原カムイ「チョコレートパニック」
・諸星大二郎「西遊妖猿伝」
・吾妻ひでお「ときめきアリス」
・山上たつひこ「鉄筋トミー」
・西岸良平「ミステリアン」
・花輪和一「護法童子」

 読切に冬口たくみ、ギャグにいしいひさいち、谷岡ヤスジ、など。ラインナップが相当かたよってきました。売れてたかどうかは知りませんが、一本スジが通ってきてます。

 このころの連載で忘れちゃならないのが、竹熊健太郎の街角風俗のルポルタージュ/エッセイ「圖説遊街民族誌(モダーン・エイジ・コレクション)」です。この号では晴海の国際貿易センターで開かれてたころのコミケのルポ。

 この記事では、コミケに参加する人種は(1)ミーハー種、(2)真性マニア種、(3)コスプレ種に分けられてます。

ミーハー(♂):何かと金が要るためか、服装に全く気を使わない人が多い。全国のマンガ専門店や、同人誌を扱う店を基点として広く分布。専門的な略語をちりばめた文語口調で知識を競い合い、奪い合う。

ミーハー(♀):近年、華やかな服装をする人と地味の極まった人の差が大きくなったが、どちらも現実社会から同じくらい遠ざかっている。

真性マニア(♂):ほとんど男だけであると言ってもいい。わりに年齢が上なので、実体験を含めた形でのマンガの歴史に通じており、その事で一般のマニアの尊敬を集めていると信じて疑わない。

コスプレ(♂):自らの重量や暑さでかなり披露している事があるが、目立たないことには意味がないので、一応会場内をひととおり歩きまわり自分の苦労やテクニックを誇示する。

コスプレ(♀):♂の場合とは全くウラハラに、工夫や努力よりもむしろ本人の容姿で人気が決定してしまう。

 いや、20年以上たっても基本は変わりません。時代を超えた観察力ですな。

 オタクという言葉は1983年に発生しましたが、竹熊健太郎の1984年の文章中、「オタク」はまだ一般的な言葉にはなっておらず、今は懐かしくなった「マニア」が使用されてます。ただし、年表中に『漫画ブリッコ誌上に於て中森明夫「おたく批判」(マンガマニア批判)一部に反響』という記述があって、この言葉、批判・揶揄として当時からみんなが気にしてるコトバではあったのね。

 さて、健闘を続けたたスーパーアクションですが、1987年9月号で終刊となります。通巻52号。最終号には、全表紙や全作品リスト、作家からのお別れの言葉が並び、皆から惜しまれる、いい終りかただったようです。

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February 12, 2006

手塚治虫記念館

■宝塚の手塚治虫記念館に行ってきました。開設されてから10年以上。わたしには初めての訪問だったのですが、いやー、良かった。

 今年の2月20日までの企画は「鉄人28号 vs. 鉄腕アトム展」。アトムと鉄人の原画が見られます。アトム大使と電光人間(主にスカンクのシーン)の原画は、眼福でしたねー。1950年代の手塚は、わたしにとっては、最もすばらしい絵を描いていた時代なのです。このあたり異論が多くてアレですが、そうなんだって。ホワイトによる修正がやたら多いのは、のちに何回も単行本化されたので、そのたびにヨゴレを消してたのじゃないかしら。

 いっぽうの鉄人は、1960年代の作品ということもあって、ま、描きなぐりです。でもそれが横山光輝の特徴といえばそのとおりですが。かつて青鉛筆でのアミ指定というのがあったのを、なつかしく見ました。

 常設展のほうは、手塚の大阪単行本時代の原画(複製)が、見る価値ありです。赤本時代の手塚の原画がいかにていねいでこまかい線で描かれていたのか、これは驚きました。この原画のクオリティがあったからこそ、描き版の仕上がりに手塚はあれほど不満を持ってたんですね、納得。

 祝日の土曜日に行ったのですが、なかなかの混雑で盛況でしたよ。再訪を希望してるのですが、一緒に行った家族になぜか不評でねー。一所懸命ながめてるのが、けっこうなお年のオッサンばかりというのが、なかなか。

■あと、ついでと言ってはなんですが、大阪中之島の国立国際美術館、プーシキン美術館展ものぞいてきました。マチスの「金魚」があんなに大きな絵であることにびっくり。

■もひとつ、今日、マジレンジャーの最終回でした。主要登場人物がずらりと並んで見得を切る、そうか、白波五人男なのね。

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February 09, 2006

「クーの世界」そして「夢の空地」

 小田ひで次「夢の空地」を読み始めてみたところ、あら、この作品、2000年にアフタヌーンに連載された「クーの世界」の続編なのね。あとがきには、前作を読んでいなくても味わえる、と書いてありますが、そうもいかんでしょ。

 というわけで、講談社「クーの世界」1・2巻を読んでみました。2000年の発行ですが、今でも普通に買えるみたいです。

 この「クーの世界」が良かった。

 主人公は中学生の麗寧(れねい、♀)。彼女は「つづき夢」を見るようになるのですが、そこは異様な怪物、動物、妖精の跋扈する世界。そこで彼女は死んだ兄にそっくりのクーと、幼なじみの亮太にそっくりのキョムに出会います。

 「クーの世界」内のいろいろな奇想が面白く、さらにクーの世界に対する根源的な疑問が物語を押し進めるチカラとなります。この世界は何なのか。夢の世界か、死後の世界か。リアルなのか、妄想なのか。

 (1)奇想と(2)世界の成り立ちの謎という、異世界モノの王道を踏襲した作品でもあり、これに(3)少女の不安定な心をからませて、いや、よくできてます。

 で、「夢の空地」であります。

 タイトルは「クー」→「くう」→「空」→「空地」という仕掛けで、「クーの世界」の直接の続編になります。

 前作のあとを受けて、中学二年の麗寧はクーの世界で三度目の冒険に出ますが、この話は回想として少し語られるだけ。そして現在、彼女は22歳、画家のタマゴになってます。彼女は現実世界でクーやキョムの姿を目撃し、自分が狂ったのじゃないかと恐れる。

 さあこれがわからない。

 前作でクーの世界とは何だったのか。最初の1巻では夢の世界であるとオチがつきます。言ってみればアリスの不思議な国や鏡の国みたいなもの。しかしエピローグとして、夢の世界の住人たちが現実世界を訪問するというエピソードがおまけにあり、さらに現実世界の亮太とキョムは同一人物かもしれないと匂わせる。つまり夢やら現実やら、どっちでも取れるように読者を迷わせる終わり方をしていました。

 2巻になると、クーの世界に住む人々は、みんな現実世界の死を経験していることがわかります。つまり、そこはあの世であると。

 しかもこの巻では、同級生の伽弥と麗寧の祖母もクーの世界を訪れており、やっぱり夢やら現実やらわからないような終わり方をさせていました。物語内では、麗寧はクーの世界を自分の妄想の産物とは考えていなかったはずなのです。

 ところが「夢の空地」のオープニングで、麗寧はクーの世界をこのように説明しちゃいます。「クーの世界は死にきれなかった人々の集う…… いや……死んだ人を思い切れない私自身が作った幻想の世界……」

 1・2巻をかけて積み上げた話をあっさり幻想にしちゃった主人公。あれれ、と思いながら読み進んでると、現実世界でクーやキョムの姿を目撃した彼女は、「気が狂うって…… こういうことなのか……?!」

 「夢の空地」では、麗寧はクーの世界に行くことなく、逆に現実世界がクーの世界に侵食されます。これは一般的にはいわゆる狂気、あるいはホラーの表現です。しかし、「クーの世界」を読んできた読者にとって、クーの世界の住人たちは、血肉をもった愛すべきキャラクターとなっています。彼らが登場すれば、読者は喜んで迎えるでしょう。そんな中で、彼らを拒否してるのは主人公だけ。

 いかに中学生からオトナになってるからといって、麗寧の思考の流れは、納得いかんっ。彼女にとって「クーの世界」1・2巻での冒険は、さらに「夢の空地」冒頭での冒険は、あっさり幻想でしたとかたづけちゃっていいものなのか。幻想だと思ってた自分の考えのほうを間違ってたとは思わないものかしら。

 というわけで、この作品を読んでる間ずっと、麗寧が自身の狂気を恐れる描写に、まったく共感できないままでした。登場人物の思考のこんなところに引っかかった読み方するのは、わたしだけなのかなあ。良い作品の続編、かつ左綴じで世界進出をめざした作品なのに、残念。

 あとひとつ、「夢の空地」には、クーの世界にいるのは死んだ人間ばかり、という設定に合わせるため、「キョムは亮太の双子の兄で、幼いころに殺された」という話が突然出てきます。ハラホロヒレハレ、白土三平かーい、とおもわずツッコミをいれてしまいました。

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February 07, 2006

積ん読、未読、ザンゲ

 わたしはマンガ喫茶なるものに行ったことがありません。一度行ってみたいんですけどねー、そんなところに行く時間があるのなら、未読モノを読まんかーいと怒られちゃうし、自分でもこりゃいかんと思ってるんですよ、積ん読がたまってくると。

 かつては買ったマンガはその日のうちに読んじゃってたものだけどなあ。これが年取ったということですかね。

 大物からいくと、「ワンピース」。全巻持ってますが、おそらく第1巻すら読みとおしてません。アニメとかも見てたし、ストーリーはある程度知ってるんですが、これだけ揃うとなかなか手を出しにくくなっちゃった。今は家族のものになってるなあ。

 「ジョジョ」のシリーズも相当持ってますが、途中でダウンしたまま。さすがにスティール・ボール・ランは買ってません。

 完結してる作品なら「月下の棋士」。なんと、もうちょっとで読み終わるというところで放置プレイ状態。ストーリー、忘れちゃったかも。

 エンターブレインの韓国系作家の作品はほとんど持ってますが、これも途中で中断したものが多い。海外作家は読みやすいとはいえないからかなあ。アメコミは読んでないのがいっぱいたまってますが、これは英語力の問題で、一冊読むのに数日かかるようなのが多いから、半分はアキラメてるところもあります。

 女流系も放置が多くて、榎本ナリコ・多田由美あたりは読まなきゃいけないと思ってても、つい隣の本を選んじゃう。CLAMPもけっこう持ってますが、おそらく「カードキャプターさくら」さえ、まともに読み通してません。ああ。

 嶋中書店からいろいろ出た水木しげるの廉価本。喜んで次々買ったけど、そこに置いたままだよ。以前から読まなきゃと思ってトライしてはダウンしてるのが、林静一「pH 4.5 グッピーは死なない」。1991年に買って以来、何度も挑戦してるんですが、必ず寝ちゃう。

 単発の単行本に至っては数知れず。書庫のあちこちに散らばってます。こりゃどう考えても、未読は百冊こえてるな。ヘタすると二百あるか。(←バカ)

 こうなれば、もう、老後の楽しみということでひとつ。とか言いながら、今日読んでるのは、最近手に入れた、小田ひで次「クーの世界」2巻と、ウィル・アイズナー(アイスナーと発音するのかな?)「THE BEST OF THE SPIRIT」なのですね、これが。

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February 04, 2006

アニメの行く末

 昨日TVでやってた「風の谷のナウシカ」をぼーっと見ながら思ったこと。

■この世界では「風の谷のナウシカ」とか「ペジテのアステル」みたいに、住所→名前で呼びあうのが普通みたいだけど、これって白土三平世界に似てるよなあ。「夙のカムイ」とかね。日常生活で自分が名のることを考えたら、ちょっと恥ずかしい。

■かつて映画館で見たとき、休憩時間に安田成美のあのヘタな歌がエンドレスで流れてたのを思い出しました。「かぜのたにーのー、なうーしかー」 よくぞ、劇中で使用しなかったものです。

■ディズニーが、二次元アニメから撤退したうえにピクサーを合併しちゃったしというのは、すごいニュースだと思うのですが、アニメ方面ではどういうふうにとらえられてるんでしょうか。

 日本アニメは少なくとも数だけは隆盛を誇っているようですが、今後どうなるのやら。日本の得意な二次元アニメが生き残るには、と考えるに、進むべき道は「萌え」と「かわいい」しかないのじゃないかと。

 動くことでのアクションやギャグは3Dでもできる。でも「萌え」と「かわいい」は、もちろん3Dでも可能だとは思いますが、まだまだ二次元のほうに一日の長があるような気がします。

 いやね、最近、アメリカのポルノ映画の歴史を少し調べておりましたところ(理由は聞かないで)、あの大柄なおねーさんやおにーさんたちが、アーのフーの言うのとは対極にあるような、二次元美少女・美少年のエロ、これはきっと生き残るのじゃないか。なんてね、島本須美の声でしゃべるナウシカを見ながら思った次第。

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February 02, 2006

ネーベとグリツ

 もうすぐトリノオリンピックが始まったら、いやでも毎日お目にかかることになるのでしょうが、今回のトリノのマスコットキャラがこのふたり、ネーベとグリツであります。

 赤いほうがネーベ(Neve=雪)で女の子、青いのが男の子でグリツ(Gliz=氷)。ポルトガル人デザイナーの手になるもので、公募で選ばれたそうですが、キャラの国、ニッポンから見て、このデザインはどんなもんでしょ。

 「ジャパニーズかわいい」の基準からは、ちょっとなあ。あまり二次創作する気はおきないか。北京オリンピックのマスコット五人組のほうが、まだいいんじゃないかしら。

 トリノオリンピックの公式サイトに行くと、メディア向けの「INTRODUCING NEVE AND GLIZ」てな文書があります。これによると、ネーベとグリツのデザインを選んだ審査員は、イタリア人だけじゃなくて、アメリカ人とかギリシャ人もいます。これが欧米スタイルの「かわいい」なのか。

 さらに、この文書にはキャラのプロフィールなんて書いてないんですね。年齢とか出身地とか。アニメ化されて放映中らしいので、何らかの設定はあるのでしょうが、少なくともオリンピック委員会は、そんなものどうでもいいと考えているようです。

 年齢は不明とか秘密、でもいいからそこは書いておいて欲しい、と思うのはわたしだけなのかなあ。たとえば、モリゾーとキッコロなんか、キャラの背景がけっこうこまかく設定されてましたよね。これも彼我の差でしょうか。

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