『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を読む
大塚英志・大澤 信亮 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を、面白く読みました。とくに、身体性の描写の面から戦前から70年代までのマンガ史を俯瞰した第一部はすばらしい。「アトムの命題」の直接の続編になります。
著者による、現在の日本マンガの基礎が戦時下に誕生していた、という主張は、日本マンガ史をすっきり展開してくれます。分断されていた、戦前マンガ史と手塚以後の戦後マンガ史をつなぐ試みはいろいろなされていますが、そのさらなる一歩と考えたい。
第二部は、政治がサブカルチャーに口を出すんじゃねえよ、という不快感がまずあって、いろいろ数字を挙げてこの「国策」が失敗するぞと教えてくれる床屋政談です。気分的には同意ですが、おそらく数年後には現実に結果が出ているでしょうから、それを待ちましょう。
第一部で各マンガを大きく「戦争と身体性」というくくりで説明されると、おお、そうだったか、と目からウロコ状態です。ただし当然ながら、それぞれはかなり単純化され、ちょっと強引に語られますので、厳密に検証された場合正しいかどうかはまた別です。
・「鳥獣戯画」「北斎漫画」は現代日本マンガの起源ではない。
・昭和初期、海外アニメーションの輸入により、日本マンガにキャラクターブームが起きた。
ここまでは、まずまず常識的なところ。この本に北沢楽天などは登場しませんが、これは本の性格上、省かれて当然か。この前提のもと、著者は戦時下に以下のことがおこったと書きます。そして、それぞれが、現代までいたる日本マンガの特徴になっていると。
(1)科学的なリアリズム:兵器の正確な描写、透視図法の導入→兵器やメカに対するフェティッシュな美。
(2)記号的な身体性:海外アニメーションの影響による死なないキャラクター→身体性の対極にあるキャラクターの肥大。
(3)戦局を見る視点:戦局を描くモブシーンの誕生→世界観を取り込んでいく視線
(4)映像的手法:科学的リアリズムと透視図法により、カメラワーク的な視線の導入。
(1)については感心しました。現代においても日本マンガの特徴のひとつとも思える、単純な線によるキャラクターには似合わないリアルな背景は、飛行機や戦艦の描写から始まったというのはすごく納得。
ただし兵器とあまり関係ない宍戸左行「スピード太郎」の遠近法は「遠近法もどき」であって、正確な透視図法ではない、という記述がありますが、ちょっと言い訳っぽいかなあ。
(2)について。斬られても殴られても死なないキャラクターの起源はアニメーションのナンセンスギャグ。これについても同意です。戦争を舞台にすることでこの描写はエスカレート。確かにそうかもしれない。
(3)はけっこう強引に思える論ですが、わたしにはこの部分に対する知識がありませんのでパス。いちばん「?」な箇所でもあります。
(4)については文章が不足しているところ。「カメラワーク的な」と言えばコマ構成のことになるのでしょうが、これに対する説明はありません。この本、全体にそうなんですが、マンガをマンガたらしめているはずのコマ構成についての言及が少ない。わずかに「新宝島」と酒井七馬作の「怪人ロケット魔」を比較するところぐらいか。
続いて、著者は復刻された大城のぼるの三作品を論じます。
・火星探検(昭和15年5月):転向左翼である小熊秀雄が原作。科学的リアリズム。
・愉快な鉄工所(昭和16年2月):参考資料の使用。さらなるリアリズムへ。ファンタジーの縮小。
・汽車旅行(昭和16年12月):単調な物語。遠近法の徹底。人物もリアリズムへ。ファンタジーの消失。
著者によると、この三作品は戦時下の指導・統制に対する、作者・大城のぼるの抵抗の歴史であると。つまり、戦時下の統制によってファンタジーが制限され、日本マンガはますますリアルな描写をすることになった。
読み方の多様性を考えると、大城のぼるの三作を並べてこう読むことはあってしかるべしと思います。少なくともこのような読み方は、わたしには思いつきませんでした。
そして、手塚治虫の登場。
著者は、手塚治虫の戦時中の習作「勝利の日まで」と「ロストワールド」では、上記の戦時下マンガの特徴に加えて、「死にゆく身体」とグロテスクな暴力性を獲得した、と記します。著者によると、ここが戦後マンガの始まりとなる地点であると。すごくすっきりした説明で、前作「アトムの命題」よりわかりやすい説明です。
ただし、田河水泡の作品などにも「死にゆく身体」が存在したことは、すでに指摘されており、ここでも著者による論は単純化されています。
戦後マンガの話になると、かなり複雑になっていきます。
・手塚治虫、酒井七馬の合作「新宝島」において、手塚の持っていた(1)暴力性が後退、(2)記号的な身体性に後退、(3)透視図法からアニメーション的ゆがんだ遠近法へ変化。つまり、手塚が戦時下に獲得した表現を、酒井が消去することにより「ディズニー的なもの」の再受容。
・「ジャングル大帝」で「死にゆく身体」「身体の中の血肉」の再獲得。
・日米講和下に描かれた「アトム大使」
・内面描写の進歩。手塚治虫「罪と罰」、石森章太郎「龍神沼」、さいとう・たかをの貸本劇画、二十四年組。
・梶原一騎による「成長する身体」
・「性的な身体」の描写→セックス、やおい、萌え。
戦時下に手塚治虫が解放しようとした身体性が、戦後に一時揺り戻しで抑止され、これが70年代から80年代になって解除されていった、という歴史観で語られます。
新書という制約もあって、かなり駆け足ではありましたが、「死なない、成長しないディズニーのキャラクター」と、「死にゆく、成長する、性的な日本マンガキャラクター」を対比させてマンガ史を論じる方法は大変勉強になりました。そして後者の誕生が戦時下の手塚治虫に起源を持つというのも、まとめとしてすっきり。ただし、これが正しいかどうかは今後の地道な研究が必要になるでしょう。
本題とはずれますが→著者は意識していないでしょうが、日本マンガが、やおい、萌え、を経験したからこそ、著者がこのような視点を得ることができたように思います。わたしたちの視野を広げてくれたという意味でも、萌えを軽視すべきでないと考えるのですが、さて、10年後、萌えというコトバは生き残ってるかどうか。
Comments
初めまして!
マンガの表現技法について詳しくないの
非常に丁寧に読み解かれていて勉強になりました。
Posted by: ちぇこ | April 13, 2009 01:53 PM