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December 18, 2005

しつこくトリアッティ(その2)

(前回からの続きです)

 鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」は、吉本隆明によって代表的戦後詩十選のひとつにも選ばれています。

ひどく降りはじめた雨のなかを
おまえはただ遠くへ行こうとしていた
死のガードをもとめて
悲しみの街から遠ざかろうとしていた
おまえの濡れた肩を抱きしめたとき
なまぐさい夜風の街が
おれには港のように思えたのだ
船室の灯のひとつひとつを
可憐な魂のノスタルジアにともして
巨大な黒い影が波止場にうずくまっている
おれはずぶ濡れの悔恨をすてて
とおい航海に出よう
背負い袋のようにおまえをひっかついで
航海に出ようとおもった
電線のかすかな唸りが
海を飛んでゆく耳鳴りのようにおもえた
(後略)

 この詩で「遠くへ行こう」としているのは「おまえ」であり、語り手も「航海に出ようと」思っています。しかし後段では、

ところがおれたちは
何処へも行きはしなかった

と続き、結局、彼らは挫折します。ホテルと波止場だから、日活の裕次郎映画みたいなイメージですが、最初に雑誌に発表されたのは1949年。

 鮎川自身は、「戦争から辛うじて生き残ったとはいえ、精神的にも肉体的にも、そのさまざまな後遺症に悩まされていて、生きることに悪戦苦闘しながら生死の境をさまようような毎日であった」「この詩の背景をなすものは、戦争で荒廃した街であり、そのアンダートーンをなすものは、打ちひしがれて行きどころのない青年の心ということになるであろう」と書いています。

 これに対して1954年に吉本隆明の書いた「涙が涸れる」の、なんと希望に満ちていることか。革命を信じた人々だけじゃなくて、戦後日本が夢を持っていたことを象徴するような詩です。

 鮎川信夫は思想的にもトリアッティに関係なさそうですが、吉本隆明は、当然トリアッティの存在もその言葉も知っていたはず、というか、吉本隆明ならフツー知ってるだろう。希望にあふれた「涙が涸れる」は、「繋船ホテルの朝の歌」よりも、トリアッティの言葉にインスパイヤされて書かれたものと勝手に想像することにします。

 1970年前後の政治の季節、若者たちの前には、ともにトリアッティの言葉から導き出された、ふたつの言葉が同時に存在していました。ひとつは吉本隆明の「とほくまでゆくのだ」。もうひとつは白土三平の「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ」。

 トリアッティの言ったイタリア語、「ベニアーモ、ダロンターノ、アンディアーモ、ロンターノ」てのもなかなかカッコよくて、イタリア人を感動させたのでしょうが、日本語でもカッコいい。人を引き付けるチカラを持つコトバってのはあるもんですね。

 このふたつ、どっちの「遠くまで」が有名だったのでしょう。「遠くまで」と聞いて、吉本隆明を思い浮かべるのか、白土三平を思うのか。

 わたしなどは「遠くまで」といえばこれはもう、白土三平でしょ、吉本の詩なんて知らないよ、てなもんですが、ここで問題になるのが「忍者武芸帳」は、当時から一般に知られていたのかどうかです。

 「忍者武芸帳」の最初の貸本屋向け発行は1959年から1962年にかけてでした。いかに貸本マンガとしてはビッグヒットではあっても、どのくらいの読者が貸本としての「忍者武芸帳」を知っていたのか。その次に「忍者武芸帳」が発行されたのは、まず小学館の新書版ゴールデンコミックスが1966年。箱入り豪華本の貸本復元版が1970年。旧小学館文庫が1976年。

 「カムイ伝」の連載が1964年からで、「カムイ伝」の新書版単行本として小学館ゴールデンコミックスが刊行開始されたのが1967年から。これはヒットしました。でも、みんな「カムイ伝」は一所懸命読んでても、よっぽどのマニアじゃなけりゃ、さかのぼって「忍者武芸帳」なんか読んでなかった(ような気がします)。記憶によると、ゴールデンコミックス版「カムイ伝」は書店にいっぱい置いてあったけど、「忍者武芸帳」ってあんまり見かけなかった。

 評論家じゃなくて詩人としての吉本隆明が、この時代どれほど有名だったのかは知らないのですが、客観的にはこの時代、「遠くまで」と言えば、白土三平じゃなくて吉本隆明だったかもしれない。厳密には、アンケートでもとってみなきゃ結論は出ないでしょうけど。

 というわけで、以下にまとめ。

・(?)年:パルミロ・トリアッティが、「Veniamo da lontano e andiamo lontano」と語る。
・(?)年:この言葉が日本語に訳される(?)。
・1954年:吉本隆明が「涙が涸れる」の中で、「とほくまでゆくのだ」と書く。
・1956年:羽仁五郎が「明治維新史研究」のエピグラフで、「われわれは遠くからきた。そして、われわれは遠くまで行くのだ」を使う。
・1962年:白土三平が「忍者武芸帳」最終巻で、影丸に「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ」と語らせる。
・そして吉本、白土それぞれの本が再刊された後の1970年ごろ、「遠くまで行く」は有名な言葉になっていました。

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Comments

>夏目先生
ゴーギャン起源説に、きゃー、びっくりです。
本日はまだ仕事中ですので、続きは明日書かせていただきます。

Posted by: 漫棚通信 | January 07, 2006 08:30 PM

福田善之は1961年7月に戯曲「遠くまで行くんだ」を発表しています。

Posted by: くんせい | January 07, 2006 06:19 PM

 白土さんに私淑している知人が直接聞いてくれたんですが、それによると「遠くから〜」は、
〈ゴーギャンの絵のタイトル「われらはいずこより来たりて云々」からの白土さんの創作でした〉
 とのことでした。う〜む、トリアッティじゃなくて、ゴーギャンだったとは・・・・。意外な結末というか・・・・。

Posted by: 夏目房之介 | January 07, 2006 02:57 PM

わたしも長井勝一『「ガロ」編集長』を読み直してみました。赤本の時代に刷っていた部数が3万部、儲けが5-6万円だったのに比べ、貸本時代にはぐっと減って、普通で2-3千部、人気作家で4千部。
ヒットした雑誌形式の「影」が9千部、「街」が6-7千部。桜井昌一方式で1冊に20人の客と計算すると、「影」の読者が18万人、だそうです。
この計算でいくと、6千部の「忍者武芸帳」の読者が12万人となりますが、これを多いと見るか少ないと見るか、ああ、よくわかりません。

Posted by: 漫棚通信 | December 27, 2005 10:21 PM

長井氏は生前6000部と言っていましたが、それを聞いた香田氏は「私はもしかすると8000部くらいは作ったんじゃないかと思っている」と言っています(2000.12発行の「貸本マンガ史研究3」内インタビューによる)。そして巻を増す毎に下降の一途だったとも言っています。第一巻の厚さ・部数・価格は業界・読者共に衝撃を与えましたが、大きな話題性としてはそれまでだったようですね。業界とのいざこざでは途中第13巻からの価格変更などで細かい一悶着があったようですが、長井氏は当時そんなようなことはたくさんしておりますから(^^;。

Posted by: くもり | December 26, 2005 10:14 PM

 前回以降、多岐にわたり、かなりのページをめくっておりますが、いまだ見つけることができません。正月のいい楽しみになりそうです。

 長谷先生があげておられる6000という部数は、数日前に確認した'87年発行「幻の貸本マンガ大全集」(文春文庫ビジュアル版)巻末の長井・桜井両氏の対談でもふれておりました。

Posted by: 入江 | December 26, 2005 04:21 PM

後追いですが、武芸帖の刷り部数について、
『「ガロ」編集長』で長井氏は6000部と
書いています。

当時、一冊128ページ単行本を2000部
刷って完売しても20000円くらいしか
利益が出ない~それで256ページで
定価150円という第一巻を出したという
のです。異例ですね。

遊び人だった長井さんは一種の賭けを
したと見ていいでしょう。
その売れ行き部数を書いていないところを
みると、返本もあったろうし、貸本屋が全て
買ってくれたわけでもないでしょうね。

Posted by: 長谷邦夫 | December 26, 2005 09:37 AM

>すがやさん
そう蠍座は地下でしたね。勘違いです。
地下で三上寛が歌ったり、白石かずこ
さんが朗読したり…などは記憶がある。

ただ、演劇に興味を持つのは
ぼくはだいぶ後になってしまったんです。

Posted by: 長谷邦夫 | December 23, 2005 12:06 PM

皆様からえらく不評の映画版「忍者武芸帳」ですが、編集にムチャ時間がかかったそうで、一応1967年のキネ旬10位です。わたし自身は、1970年代末ごろに民放TVの深夜放送で見ましたが、ま、面白いかどうかというような作品じゃなくて、お勉強の気分だったです。ただし、映画の力が「遠くまで」という言葉を一般的にした可能性もあり、この言葉、1967年に流行したのかなあ。

Posted by: 漫棚通信 | December 21, 2005 06:39 PM

 ぼくは自分のBlogにも書いていますが、貸本屋に出入りするキッカケが、この『忍者武芸帳』でした。1964年、東京オリンピックの年、中学2年生でしたが、クラスメイトから、「『影丸伝』って知ってるか? 首が飛んで凄いだぜー」と教えられ、そのマンガを読みたさに貸本屋に出入りするようになりました。

 行動範囲内には3軒の貸本屋がありましたが、『忍者武芸帳』が揃っていたのは1軒のみでした。その1軒の貸本屋で借りましたが、1巻を読んだところで続きを読むのは断念しました。好きだった『サスケ』や『ワタリ』『真田剣流』などに比べて絵が乱雑だったのが、読む気が起きなかった最大の理由です。通読したのは20歳を過ぎてから。古書店でまとめ買いした小学館の「ゴールデン・コミックス」版でした。その前に、高校生のとき、上京したついでに、新宿文化で大島渚監督の映画版を見て、「こんなので金を取るのか」と憤慨して、途中で出てきたのを憶えています。

(長谷先生、蠍座は、ATGの映画を上映していた新宿文化の地下にあった劇場で、芝居が中心でした)

 ぼくの家は非常に貧しく、マンガを描きはじめたきっかけも、「出自も学歴も関係なしに、若くして成功できる(稼げる)」という幻想からでした。そのため、どこか貧乏臭いイメージのあった「ガロ」系のマンガが苦手で、貸本店でも、スマートな作風の(日活無国籍アクション風の)、さいとう・たかを、園田光慶(ありかわ栄一)、南波健二といった本家劇画系の人たちの作品を愛読していました。ストーリー的には、佐藤まさあき、旭丘光志といった社会派系も好きでしたが。長谷先生の忍者シリーズも愛読しておりました。

「ガロ」系とくくられるマンガ家の中でも、水木しげるは別。戦記ものから『鬼太郎夜話』まで何度も借りました。苦手だったのは横田ゆうの『カックンおやじ』。あまりにも古くて1回借りただけで二度と借りることはありませんでした。「ガロ」で絵柄が変わってから読むようになりましたが、あの面白さがわかるようになったのは、もっとずっと後になってからのことです。

Posted by: すがやみつる | December 21, 2005 03:45 PM

>武芸帖は、さすがに無理があるなあ~と思いました。

長谷さんもそう感じました? 僕もそうだったんです。なので「大ヒット」という記憶ではない。やはりマンガを読む、という体験からすると、違和感のほうが強かった。マンガと映画の違いを考える上で非常に興味深いし、かなりよくできてたとは思いますけど。秋田さんが『「コマ」から「フィルム」へ』でふれてますね。
 こないだTVで観たデ・パルマの映画には、コマみたいに映画画面を割った演出が出てきて、ヘーとか思いました。あれの感想をブログに書こうと思って忘れてました(笑)。
 すいません、通信欄じゃなかったですね。テーマがズレてる(笑)。

Posted by: 夏目房之介 | December 20, 2005 11:52 PM

大島作品、新宿の蠍座
アートシアターでしたっけ…。
ぼくはここに掛かる作品は
全部見ていますが。
武芸帖は、さすがに無理が
あるなあ~と思いました。

こういう作品なら市川昆に
作ってほしかった。
大島さんのセンスとは、ずれて
しまうと感じたんです。

Posted by: 長谷邦夫 | December 20, 2005 11:16 PM

むう。
こういう話にも
「萌え話」にも
全然付いていけない
自分が居る。
はて。
自分とはいかなるものぞ。

Posted by: トロ~ロ | December 20, 2005 10:12 PM

コメントありがとうございます。
宮原照夫「実録!少年マガジン編集奮闘記」を今読んでおりますが、貸本としての「忍者武芸帳」の刊行開始が1959年12月、「翌60年の終わり頃から大学生・文化人の間で話題になり初め、この作品の歴史認識が唯物史観論争を巻き起こしたことは、今も脳裏に焼き付いている」と。いっぽう小学館ゴールデンコミックス版は1966(昭和41)年8月から1967年1月にかけて発行され、その10巻に香川登志緒がよせた文章によりますと、「幻の名作といわれる大作『忍者武芸帳』を読めたことが、私のことし(昭和41年)の大きな収穫でした」とあります。やっぱりそれまでの貸本マンガは読みたいと思っても、「幻」だったのかなあと。
「白土三平ファンページ」のくもり氏によりますと、大島渚監督映画「忍者武芸帳」(1967年2月公開)のため原稿紛失部分を小島剛夕が貸本印刷物からトレスし、その撮影終了後、刊行開始されたのが小学館ゴールデンコミックス版だそうです。映画公開時、わたしは映画の大きなカンバンを、わーこんなマンガ映画があるんだー、と長々とながめてた記憶がありますが、さすがに見には行ってません。

Posted by: 漫棚通信 | December 20, 2005 09:04 PM

貸本は再版なしが常識でしたね。
ぼくの60年~64年までの1冊
書き下ろしなどは、たぶん
3000部以下2000部に近い
方かな~と思います。

社長が台帳を見ながら、次の
注文を出すんですが…2000を
割ってしまったら、採算点で問題に
なったと思います。
原稿料の切り下げか、クビでしょう。
ぼくの場合は安いが値下げは辞める
までありませんでした。

これが、50年代のB6判1冊書き下ろし
だと8000部前後刷っていたかも。
曙出版の場合ですが、証拠はありません
が…(笑)、月に2~3冊の刊行で済ませた
ような時期もあったと思います。
これはかなり売れていた証拠かなと思います。
24000部売れば、どれくらいの利益か
不明ですが、A判時代になりますと、
急に月刊行の点数が増えるわけです。

これは1冊の売り上げ部数がかなり減った
ためと思われます。
白土本も最初特別売れたわけではなく、
夏目さんのおっしゃるように、後に話題に
なって知られた~ということでしょう。
曙出版ほど信用と実績が無かった版元
ですからね。

詩の雑誌も似たようなものですから
吉本詩もそれより少数だった可能性大
ですね。
すべてアイマイで、お役に立てません
が、そんな印象ということです。

Posted by: 長谷邦夫 | December 20, 2005 06:53 PM

 トリアッティ・シリーズ、興味深く拝読してます。僕も原典は全然知りませんでした。50年生まれなんで60年当時はまだ10歳で、貸本で『武芸帳』は読んでたかもしれませんが、全部通して読んだのはずっとあとだったと思います。それこそ70年前後に再評価的に。

>「忍者武芸帳」は、当時から一般に知られていたのかどうかです。

・・・・ですが、多分ほんとに読んで知ってた大人はほんの一握りで、「大学生に読まれた」ともいわれますが、どの程度かも不明ですね。ただ、じっさい当時の大学生でファンがいて白土を訪ねていったことはあったようです。今思い出せませんが、たしか「漫画主義」同人の人だったか、そんな文章を読んだ記憶があります。60年頃の大学生というと僕より10歳ほどの人ってことになりますが。
 一部の知識人の注目を集めたのも事実で、山口昌男や、佐藤忠夫、藤川治水など「思想の科学」系の人が雑誌に書いたり、本に書いたりしてますね。佐野美津男が「最近の児童漫画の代表作」としてあげているそうです(佐藤忠夫による)。週刊誌には、おもに残酷描写でとりあげられ、60年代当時でも「話題」ではあったようです。
 もっとも「遠くまで」を知っているとすれば、ちゃんと読んだ人でしょうから、ごく少数といっていいかもしれません。藤川治水は『子どもマンガ論』(67年)で『武芸帳』は「貸本専門のうち、高校生から大学生向き」だったと書いてますね。草森紳一は『マンガ考』(67年)で、60年安保当時が第一次白土ブーム、2~3年後が第二次で「週刊誌は、さかんに白土三平をとりあげていた」と書いてます。彼によると67年当時の「現在」は第三次だそうで、66年に大島渚が原稿を撮った劇場映画にしてます。四方田犬彦『白土三平論』では「たちまち大ヒット」だったとありますが。
 そうしてみると、「遠く・・・・」はむしろ70年安保につながってゆく60年代後半期に高校、大学生にある程度広い影響を与えたと考えたほうがいいかも。逆に、おそらく60年安保当時の大学生には吉本のほうがはるかにメジャーだったでしょう。ただ、それも全学連の新左翼系ってことになりますから、それほど広範だったかどうか。役に立たない情報であいすみません。でも、もっとしつこく掘り下げてほしい気もするもんで、つい(笑)。長々すいません。

Posted by: 夏目房之介 | December 20, 2005 02:37 AM

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