(前回からの続きです)
鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」は、吉本隆明によって代表的戦後詩十選のひとつにも選ばれています。
ひどく降りはじめた雨のなかを
おまえはただ遠くへ行こうとしていた
死のガードをもとめて
悲しみの街から遠ざかろうとしていた
おまえの濡れた肩を抱きしめたとき
なまぐさい夜風の街が
おれには港のように思えたのだ
船室の灯のひとつひとつを
可憐な魂のノスタルジアにともして
巨大な黒い影が波止場にうずくまっている
おれはずぶ濡れの悔恨をすてて
とおい航海に出よう
背負い袋のようにおまえをひっかついで
航海に出ようとおもった
電線のかすかな唸りが
海を飛んでゆく耳鳴りのようにおもえた
(後略)
この詩で「遠くへ行こう」としているのは「おまえ」であり、語り手も「航海に出ようと」思っています。しかし後段では、
ところがおれたちは
何処へも行きはしなかった
と続き、結局、彼らは挫折します。ホテルと波止場だから、日活の裕次郎映画みたいなイメージですが、最初に雑誌に発表されたのは1949年。
鮎川自身は、「戦争から辛うじて生き残ったとはいえ、精神的にも肉体的にも、そのさまざまな後遺症に悩まされていて、生きることに悪戦苦闘しながら生死の境をさまようような毎日であった」「この詩の背景をなすものは、戦争で荒廃した街であり、そのアンダートーンをなすものは、打ちひしがれて行きどころのない青年の心ということになるであろう」と書いています。
これに対して1954年に吉本隆明の書いた「涙が涸れる」の、なんと希望に満ちていることか。革命を信じた人々だけじゃなくて、戦後日本が夢を持っていたことを象徴するような詩です。
鮎川信夫は思想的にもトリアッティに関係なさそうですが、吉本隆明は、当然トリアッティの存在もその言葉も知っていたはず、というか、吉本隆明ならフツー知ってるだろう。希望にあふれた「涙が涸れる」は、「繋船ホテルの朝の歌」よりも、トリアッティの言葉にインスパイヤされて書かれたものと勝手に想像することにします。
1970年前後の政治の季節、若者たちの前には、ともにトリアッティの言葉から導き出された、ふたつの言葉が同時に存在していました。ひとつは吉本隆明の「とほくまでゆくのだ」。もうひとつは白土三平の「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ」。
トリアッティの言ったイタリア語、「ベニアーモ、ダロンターノ、アンディアーモ、ロンターノ」てのもなかなかカッコよくて、イタリア人を感動させたのでしょうが、日本語でもカッコいい。人を引き付けるチカラを持つコトバってのはあるもんですね。
このふたつ、どっちの「遠くまで」が有名だったのでしょう。「遠くまで」と聞いて、吉本隆明を思い浮かべるのか、白土三平を思うのか。
わたしなどは「遠くまで」といえばこれはもう、白土三平でしょ、吉本の詩なんて知らないよ、てなもんですが、ここで問題になるのが「忍者武芸帳」は、当時から一般に知られていたのかどうかです。
「忍者武芸帳」の最初の貸本屋向け発行は1959年から1962年にかけてでした。いかに貸本マンガとしてはビッグヒットではあっても、どのくらいの読者が貸本としての「忍者武芸帳」を知っていたのか。その次に「忍者武芸帳」が発行されたのは、まず小学館の新書版ゴールデンコミックスが1966年。箱入り豪華本の貸本復元版が1970年。旧小学館文庫が1976年。
「カムイ伝」の連載が1964年からで、「カムイ伝」の新書版単行本として小学館ゴールデンコミックスが刊行開始されたのが1967年から。これはヒットしました。でも、みんな「カムイ伝」は一所懸命読んでても、よっぽどのマニアじゃなけりゃ、さかのぼって「忍者武芸帳」なんか読んでなかった(ような気がします)。記憶によると、ゴールデンコミックス版「カムイ伝」は書店にいっぱい置いてあったけど、「忍者武芸帳」ってあんまり見かけなかった。
評論家じゃなくて詩人としての吉本隆明が、この時代どれほど有名だったのかは知らないのですが、客観的にはこの時代、「遠くまで」と言えば、白土三平じゃなくて吉本隆明だったかもしれない。厳密には、アンケートでもとってみなきゃ結論は出ないでしょうけど。
というわけで、以下にまとめ。
・(?)年:パルミロ・トリアッティが、「Veniamo da lontano e andiamo lontano」と語る。
・(?)年:この言葉が日本語に訳される(?)。
・1954年:吉本隆明が「涙が涸れる」の中で、「とほくまでゆくのだ」と書く。
・1956年:羽仁五郎が「明治維新史研究」のエピグラフで、「われわれは遠くからきた。そして、われわれは遠くまで行くのだ」を使う。
・1962年:白土三平が「忍者武芸帳」最終巻で、影丸に「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ」と語らせる。
・そして吉本、白土それぞれの本が再刊された後の1970年ごろ、「遠くまで行く」は有名な言葉になっていました。
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