お手上げの記:忍者武芸帳とトリアッティ
今回の話にオチはありません。
ことの始まりは、長らく積ん読状態だった四方田犬彦「白土三平論」を読み、かつ白土三平作品を読み直して、ひとりで盛り上がってたときのこと。ネット上の白土三平に関するサイトを覗いてますと。
白土三平ファンページという、ものごっついサイトがありまして、まあ、くわしいわ深いわ。そこの管理人、くもり氏の文章に、「忍者武芸帳」のあの有名な言葉についての言及がありました。
影丸の最後の言葉「われらは遠くから来た そして遠くまで行くのだ………」(初出写植ママ)は影丸(白土)独自の言葉としてネット上に広がっているが、これはイタリア共産党のパルミロ・トリアッティ(Palmiro Togliatti 1893-1964)の言葉を利用したものだ。
どっしぇー、これは驚くでしょう(別に驚かへんわ、というかたも、しばらくのおつきあいを)。
白土三平「忍者武芸帳 影丸伝」のラスト近く(最終巻の発行は1962年)。信長軍に捕えられた影丸は、四肢と首を五頭のウシに結び付けられ、処刑されます。処刑直前、影丸が無声伝心の法を使って、処刑を検分していた森蘭丸に伝えた最後の言葉。それが、
「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ………」
でありました。ね、名セリフでしょ。この白土三平が創造したと思われていた名言が、オリジナルでないとは。知らなかったのは、わたしだけだったのかっ。
では、パルミロ・トリアッティとは、いったい誰。
トリアッティ(1893-1964)は、アントニオ・グラムシ(←こっちの名はわたしもちらっと知ってました)らと共に1921年イタリア共産党を創立した人物。ファシスト政権下のイタリアからロシアに亡命。コミンテルンの指導者のひとりとなり、スペイン内戦にも参加。第二次大戦後は、イタリア共産党を「サレルノの転換」で左翼陣営の大同団結に導きました。
どうも現代史の偉人のひとりらしい。しかも彼は多くの演説や論文を残しており、単なる政治家というよりも、教養の人であり、思想家であり、文化人でありました。ただし、スターリン主義者であったとの批判もあるみたい。
うーむ、ならば「遠くから」はトリアッティの文章の中では、どういう文脈で使われているのでしょうか。これは読んでみたい。
で、まずは地元の図書館に行って、トリアッティの論文集とか伝記をあるだけ借りてきました。ところが、ぱらぱら読んでみても「遠くから」なんて文章は出てきません。がっくし。
方向を変えて、ネット上で探してみることにしました。すると。
トリアッティの盟友で、一緒にイタリア共産党を作った人物に、アントニオ・グラムシがいます。日本でのグラムシ研究の第一人者・石堂清倫が1997年国際グラムシシンポジウムでおこなった特別記念講演のタイトル、これが「遠くから遠くへ ヘゲモニー思想の新しい展開」。おお「遠くから」だ。
そして2001年石堂清倫が亡くなったとき、中野徹三の書いた追悼論文のタイトルが「遠くから来て、さらに遠くへ」。これか。
こうなると「遠くから」は、トリアッティよりも、グラムシ方面で有名なのじゃないか。てな迷いが出てきて、今度はグラムシの本を読んでみることにしました。ところが、これがまたグラムシてのは「獄中ノート」とか「獄中からの手紙」とか、膨大な文章を残してまして、けっこう読んではみたものの、とても手におえるものじゃございません。
まったく収穫なく、マンガがらみでグラムシを読んでるのは、世界中で自分だけなんだろうなあ、とムナシイ気持ちにもなってきました。ここで探索は、頓挫。
しょうがないので、ここはもう、聞いたほうが早いと、「白土三平ファンページ」管理人、くもり氏に質問をしてみましたところ、快く教えていただきました。ありがとうございます。
みなもと太郎著「お楽しみはこれもなのじゃ 漫画の名セリフ」の中で、「遠くから」はトリアッティの言葉であると指摘されておるぞ、と。
ええーっ。みなもと太郎「お楽しみはこれもなのじゃ」は、1976年から1979年にかけて「マンガ少年」に連載された、マンガについてのエッセイ。名作との誉れ高く、これまでに3回出版されています。1991年立風書房。1997年河出文庫。2004年角川書店。
当然、「忍者武芸帳」の「遠くから」についても言及されているのですが、わたしの持ってる立風書房版にはトリアッティに関する記述はありません。というわけで、角川書店版を買ってきますと、脚注のところに、
これはイタリア共産党のパルミロ・トリアッティの言葉であるとつい最近知った。(04み)
と書いてあるじゃないですか。「04み」っていうのは2004年みなもと太郎によって追記されたという意味。そうか、やっぱりグラムシじゃなくて、トリアッティだったのか。それにしても、トリアッティがいつどこで言った文章なのかは、やっぱりわからない。
質問することにはずみがついてしまい、思いきって、みなもと太郎先生に直接聞いてみることにしました。
すると、これも早々にお返事をいただきました。羽仁五郎「明治維新史研究」のエピグラフ(巻頭に書く引用句のこと)に書いてあるぞよ、と。
読者の勝手な質問に対して、ほんとにありがとうございます。羽仁五郎は、さすがにわたしでも知っておりました、明治生まれの左翼の碩学。「明治維新史研究」も図書館にありましたので、さっそく借りてきました。で、巻頭にあるのがこれ。
“われわれは遠くからきた。
そして、われわれは遠くまで行くのだ”
──パルミロ・トリアッティ──
この本におさめられている羽仁五郎の論文が発表されたのが1932年から1935年。この本が1956年9月発行。エピグラフを含めた前書きが書かれたのが1956年7月。少なくともトリアッティの「遠くから」は、原著のイタリア語で1956年以前に書かれた(あるいは語られた)ものということになります。
日本でもトリアッティはコミンテルンの指導者として、一部の人には戦前から知られていましたが、彼の思想家としての部分が日本へまとまって紹介されたのは、彼の著書「イタリア共産党 イタリアの道と闘いの40年」(1959年合同出版)、「コミンテルン史論」(1961年青木文庫)、彼の伝記「トリアッティとの対話」(1961年三一書房)が日本で発行されてかららしい。もちろんそれ以前より、戦後イタリアの政治家として、トリアッティの名は有名だったに違いありません。
文章の調子から言うと、いかにも書いたものじゃなくて、演説の一部のように思えます。しかも、勝利宣言みたいな気もする。だったら1945年前後の演説がねらいめか。
年代が絞れましたので、改めて、図書館へ。公立図書館同士の貸し出しサービスというのがありまして、これを利用すれば、全国どこの図書館の本でも読めます(ただし、図書館外への持ち出しはダメ)。1956年以前の文章をねらって、地元の図書館にないトリアッティの著作を取り寄せることにしました。
合同出版のトリアッティ選集(旧版)全4巻、トリアッティ選集(新版)全3巻あたりから1956年以前に書かれたものを選んで読んでみましたが、やっぱりないなあ。
ただし、こういう文章がありました。旧版のトリアッティ選集第1巻(1966年)の石堂清倫の解説より。
本巻でとりあげたトリアッティの論文は、イタリア共産党の創立から、第二次世界戦争までの期間にわたる代表的なものである。「遠くから来て遠くへ行く」とトリアッティは言ったが、本巻は遠くからの部分である。
もう一ヵ所。
トリアッティはスペイン人民の歴史的創造にあずかっただけでなく、さらに「遠くへゆく」道を見いだし、それを今日のスペイン人民の闘争に結びつけることができた。
おおそうか、トリアッティは言ったか。間違いないんだ。
もし羽仁五郎がトリアッティの言葉をイタリア語からじゃなくて、日本語訳から引用したとすると、1956年以前に日本語に訳されたものということになります。ただし1956年以前のトリアッティ著の日本語の本って限られてて、「婦人問題講話」(1954年)と「トリアッティ平和論集」(1955年)しかありません。
そこで、期待してこの2冊を読んでみましたが、空振り。
トリアッティとグラムシの交点から考えると、トリアッティの書いた「アントニオ・グラムシ その思想と生涯」という本があります。日本での発行は1962年ですが、原著は1948年。これに期待して読んでみましたが、これも空振り。
羽仁五郎も引用してる。石堂清倫も引用してる。「遠くから」が日本語に訳されてるのは間違いないように思われます。しかし、わたしにはどうしても見つけることができませんでした。新聞や雑誌に掲載されたものなら、お手上げですが。
たとえば、トリアッティの言葉に、「われわれはだれか、そして、何をのぞんでいるか?」(←1944年に言ったらしい)とか、「人間はのぞんでいることをなしとげるのでなく、できることをなしとげるのだ」(←サルトルが書いた文章で紹介されてるらしい)なんて名言もあるのですが、日本では、これらの言葉は本になってるわけじゃなくて、雑誌に掲載されただけみたい。
さらに、白土三平が引用した「遠くから」は、羽仁五郎の著書のエピグラフから孫引きしたものか、あるいはその他の文献から取ったものなのか、という謎も出てきてしまいました。
ここまで読んでいただいたかたや、ご親切に情報を提供していただいた、くもりさま、みなもと先生には申しわけありませんが、結局わかりませんでした、というオチであります。
もし、「遠くから」についてご存じのかたがいらっしゃいましたら、よろしくご教授お願いします。そんな言葉、共産主義研究では常識じゃん、などとおっしゃるかたがいてくれると、大変ありがたいのですが。
ああ、くたびれた。
Comments
12年以上昔のエントリにコメントしてもいいでしょうか。もう決着済みかもしれませんが、1946年9月26日にイタリアの国会で語られた言葉のようですね。
https://it.wikiquote.org/wiki/Palmiro_Togliatti#cite_note-21
Posted by: mogg | February 10, 2018 03:35 PM
コメントありがとうございます。
>流転さま
思いっきりの遅レスですみません。やっと見つけた。「トキワ荘青春日記」昭和31年2月4日(土)の記述。
夜、藤本家にてスキ焼きご馳走になる。フトコロが心細く、おなかのほうもたよりなくなったとこだったのでじつにうまし。情けなし。食後、二人で学習始める。きょうはマルクスの『資本論』。あまりよく頭へ入らない。
おふたりが21歳から22歳。青春ですなあ。
>長谷先生
吉本隆明にこういう詩があったとは。たしかに彼ならトリアッティ知ってたはずですから、「とほくまでゆく」はその影響下のフレーズに違いないと思います。うーん、ならばこの言葉、1954年以前に遡ることになるのですね。
Posted by: 漫棚通信 | December 04, 2005 08:44 PM
話題の一部を、某俳句の掲示板にコピペ
させていただきました。そうしましたら、
吉本隆明が、以下のような詩を書いていた
との情報がありました。
「ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とほくまで
ゆくんだと告げるのである
とほくまでゆくんだ ぼくらの好きな人よ」
(『涙が涸れる』1954)
★明らかに影響を受けたもう一人ですね。
久保 隆氏というかたのカキコです。
Posted by: 長谷邦夫 | December 03, 2005 11:02 PM
本欄の趣旨からは外れてしまうのですが、藤子不二雄A先生の「トキワ荘青春日記」によりますと昭和30年ごろA、F両先生がマルクスの「資本論」をテキストにしてお二人で「勉強会」をなさったことがあるそうです。まさにそういう時代だったのですね。
Posted by: 流転 | November 29, 2005 11:48 PM
お騒がせしてます。一応わたしのチェックしたのが以下の本。読んだというより字面を眺めてただけですが。
トリアッティ著「コミンテルン史論」「イタリア共産党」「社会主義・民主主義」「トリアッティ選集(旧版)全4巻」「トリアッティ選集(新版)全3巻」「婦人問題講話」「トリアッティ平和論集」「アントニオ・グラムシ」
伝記など:フェルラーラ「トリアッティとの対話(上下)」、山崎功「パルミーロ・トリアッティ」、河野穣「イタリア共産党史」、山田薫「イタリア共産党と戦後民主体制の形成」
あとグラムシ関係が数冊。イタリア語で検索するというのは思いもよりませんでしたよー。これはびっくり。
Posted by: 漫棚通信 | November 29, 2005 09:03 PM
このたいへん刺激的なエントリに、なんともワクワクしております。
私も何冊かトリアッティ関連に目をとおしてみましたが、そのものずばりに出会うには至っておりません。ただ微力ながら違う方向から探ってみました。
「われらは遠くから来た そして遠くまで行くのだ………」
をイタリア語でなんと言うか調べてみると、
「veniamo da lontano e andiamo lontano」
と表現することがわかりました。
次に、原語+トリアッティ、原語+グラムシ、原語のみの順でヤフーイタリア、およびグーグルで検索してみました。
ヒットはするのですが、引用元・いつどこでの発言などの明記はなく、初出を導き出すには至りませんでした。
もう少し調べてみたいと思います。
Posted by: 入江 | November 29, 2005 05:32 PM
トリアッティの『平和論集』と、河野穣『イタリア共産党史』を読み直しましたが見つけることはできませんでした。コミュニストであるというのに、回答ができないというのがまことに残念。
Posted by: 紙屋研究所 | November 29, 2005 06:17 AM
>競うようにサルトルの「弁証法的理性批判」を読んでた
嗚呼、さういう時代もありました。
二十数年前の学生時代、古書店で手にとった西田幾多郎「善の研究」の奥付の頁には、所有者の走り書きが二回にわたって記されていました。
彼が人生に思い悩んだとき、自己を振り返るとき読んだ、という内容でした。
悩み多き青年達がヒントを求めて哲学書を読み漁る時代がありました。
いまの悩み多き青年達は、数多のハウ・ツー本やホ○○モン等の本やネットや2ちゃんや携帯電話に救いを見出せるのでしょうか。
せめて、チョムスキーの名前くらいは知っていてほしいけど。
いま新規の哲学書を一人で刊行している人が京都に居ます。
彼は「哲学書」というジャンルを失くしたくない、という想いで続けているのだそうです。
Posted by: トロ~ロ | November 29, 2005 02:00 AM
コメントありがとうございます。なんとか「遠くから」を見つけるつもりだったのですが、ダメでした。白土三平の左翼思想は第一に幼少期からの家庭環境によるものでしょうが、後からの勉強もかなりのものじゃないかと。小山春夫によると、赤目プロではみんな競うようにサルトルの「弁証法的理性批判」を読んでたそうですから、いやスゴイ。
Posted by: 漫棚通信 | November 28, 2005 07:56 PM
「遠くから」というのは寡聞にして存じ上げないのですが、白土三平氏が、戦前から活躍したプロレタリアート画家(一部では「洋画家」としてのみ紹介)だったことは、ご存じでしょうか。
http://www.m-sugaya.com/blog/archives/000235.html
こちらも↑の自分のブログで触れたりしていますが、「岡本唐貴」で検索してみてください。どんな画家だったかがわかるはずです。
その岡本唐貴氏を父に持てば、もしかすると漫棚通信さんが疑問に感じておられるようなことは、白土氏にとっては、もしかすると、幼い頃から身の回りにあった水や空気のような存在だったかもしれません。
Posted by: すがやみつる | November 28, 2005 02:14 AM
おおー!日本のトリアッティ研究者にとって「遠くから…」は当然のような記述があったのですね。「影丸の言葉」=「トリアッティの言葉(羽仁五郎氏著作より)」という結果、これは凄い研究成果です!!「影丸伝」(1959.12-1962.10作品)は白土氏がその都度勉強しながらストーリーを構成していった作品であることは無風の最期を「即身仏」にしている点でも明らかです。即身仏は1960年に初めて目を向けられ、科学的な調査は1961年に始まったようです。実は「即身仏」となる必須状況として、生きている間の修行(3年間、米や麦を絶ち、6年間、木の芽や皮のみを食べる、など)と、土中に放置しておく期間(数年間)が不可欠ですので、「影丸伝」中、無風が即身仏として登場するのはありえないことなのですが、そこら辺の「かじり」度合いから考えて、白土氏が「影丸伝」に「明治維新史研究」(1956年9月)から言葉を引用したのは(出版年代的にも)ほぼ間違い無いと感じます。あとはそれが完全に「トリアッティの言葉だ」と立証出来れば素晴らしいことですね。でもなんだか見つかりそうな雰囲気です。私はまだ「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ………」「われわれはだれか、そして、何をのぞんでいるか?」などと単発的に発言するトリアッティ像が掴めません。これの理解は「影丸」の理解に繋がるのかもしれませんね(笑) では研究頑張ってください!応援してます!
Posted by: くもり | November 28, 2005 12:15 AM