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October 07, 2005

マンガと色:「テヅカ・イズ・デッド」を読んで考えたこと

 伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」読み終わりました。新しい視点のキャラクター論(と、わたしは読みました)。

 著者は用語の意味をきっちり決めてから話し始めるという、えらくめんどくさいけど、正しい方法をとってます。たとえば、いわゆる「コマわり」という言葉でも、「コマ構成」「コマ展開」「コマわり」「ネーム」「コマ構造」という言葉に分けて、その微妙な差を定義してから論を進める。これはまず過去に語られたきた用語の意味を明らかにしてからでないと、先に進んで対話も批判もできないという意思のあらわれ。

 ひるがえって、日本のマンガ評論の用語はまだまだ統一されていないことになります。これはマンガ評論の歴史の浅さゆえでもありますが、マンガ制作の現場でも用語が変化しつつあるわけで、マンガってまだまだナマモノなのですね。おそらく、用語の統一が、評論を進歩させ、マンガを教育することへの第一歩になるのでしょう。

 キャラクター論として、「キャラ」と「キャラクター」を分けて論じるところがこの本のキモです。著者による「キャラ」の定義とは、(1)多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、(2)固有名詞で名指しされることによって(あるいは、それを期待されることによって)、(3)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの、とされます。人格、人生、生活を持った「キャラクター」のプロトタイプになるものである、と。

 著者は、キャラクターからキャラを分離し、マンガの三要素を、通常考えられている絵・コマ・言葉から、キャラ・コマ・言葉に言い換えて考えており、マンガを読む行為は、絵を見ているのではなく、キャラの行動や感情を読んでいるとしています。

 キャラはテクストから遊離することが可能となり、キャラ萌えも二次創作もこれにより説明されます。物語とキャラは、すでに不可分なものではなくなっている。

 現状認識にキャラ/キャラクターを分けて考えることが有効なのがよくわかりました。さらに、最終章では「のらみみ」「GUNSLINGER GIRL」「鋼の錬金術師」「PLUTO」を、キャラ/キャラクターを使って論じており、この視点が批評として実際に使えることを証明しています。

 物語とキャラクターは分けられないもの、物語をキャラクターより上位と考えてしまう旧世代読者(←わたしのような)にとっては、マンガの読み方を考え直すよう突きつけられた剣みたいな本でした。


 さて、以下は「テヅカ・イズ・デッド」読んでわたしが勝手に考えたこと。

 それはマンガの色の問題です。

 ルドルフ・テプフェルら、「前マンガ」の時代、印刷は木版か石版でしたから、マンガはモノクロでした。それがアメリカにおいて「イエロー・キッド」が新聞掲載になったとたん4色印刷となり、マンガは色を獲得します。

 「消えたタワーの影のなかで」掲載の初期のコミック・ストリップのうち、「イエロー・キッド」や「リトル・ニモ」は当然カラーであるとしても、白黒で完成された絵柄と思っていた「クレイジー・キャット Krazy Kat」まで、実はカラー印刷だったのには驚きました。マンガは、その始まりから、カラーがあたりまえだったのですね。

 日本ではどうだったのでしょう。戦前の雑誌や単行本はあまり知らないのですが、コドモマンガならば、宍戸左行「スピード太郎」(これは新聞連載でした)は4色印刷のカラーでした。大城のぼる「火星探検」は3色印刷(4色から黒を抜いたもの)。坂本牙城「タンク・タンクロー」は2色印刷です。戦前のコドモマンガも、色を持っていました。

 戦後の日本は貧しかったので、雑誌はもちろん、粗悪な紙への単色印刷が主流となりました。このため、マンガもモノクロとなります。このモノクロマンガが進歩した結果が現在。ついには「BASTARD!!」や「陰陽師」のような、トーン削りを駆使したウルトラハイグレードモノクロマンガが登場するに至りました。

 アメリカやヨーロッパでは、アンダーグラウンドやオルタナティブの時代になってモノクロマンガが増えてきましたが、やはりカラーマンガが主流みたい。

 戦後すぐの赤本マンガ単行本はどうだったか。これもあまりくわしくないのですが、2色印刷が主流だったらしい。「テヅカ・イズ・デッド」に出てきた、手塚治虫「地底国の怪人」も2色印刷でした。2色の場合、人物の肌は薄い赤で塗られるか、真っ白かのどちらか。男性は薄い赤、女性は白と分けられることもあります。

 「地底国の怪人」では、ラストで少女ミミー=ルンペンのこども(♂)=ウサギの耳男であることが明かされます。ミミーがカツラを取ると帽子をかぶったルンペンのこども。その帽子をとるとウサギの耳が出てくる。

 もちろん、マンガ的ごまかしです。カツラの下に帽子をかぶるのはフツー無理ですし、少女ミミーの顔と、ウサギの毛のはえた顔を同一のものと見なせるのは、伊藤剛が言うとおり、「簡単な線画で描かれたキャラ」だからです。

 ただし、色の問題も大きいと思います。このシーン、ウサギの顔は当然白ですから、少女ミミーもルンペンのこどもも、顔は白となっています。しかし本来、ウサギの白と人間の色白な肌はまったく違うものです。

 これは2色印刷という、準モノクロ印刷だからこそ可能な表現です。もし作品がフルカラーなら、描くことができなかったはず。日本マンガに色が乏しかったからこそ、このマンガ、そして耳男というキャラが成立したとも考えられるのです。

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