オタクの誕生
中森明夫「おたくの研究」が書かれたのが1983年。オタクの行動様式をとる人たちが二人称としてオタクという言葉を使用し始めたのは、1970年代末かららしい。
ならば、命名される以前に、「オタクの行動様式をとる人たち」が出現したのは、いつだったのでしょう。
古典的オタクの対象を、マンガ・アニメ・特撮と考えてみます。わたしの興味はマンガに集中してますが、かつてはアニメや特撮にも少し知識がありました。オタクを「集める人」と定義するなら、彼らは何を集めていたのか。
マンガの場合は単純です。印刷物として、雑誌と単行本を集めていればよかった。ただし、本はやたらとスペースをとりますから、特に雑誌の収集は困難でした。ぶ厚いマンガ月刊誌を手許に残しておくのはまず無理でしたし(親が捨てます)、週刊誌なら冊数が多いから、なおさら。
わたしは「巨人の星」なら大リーグボール2号、「あしたのジョー」なら力石の死の前後の少年マガジンをずっと買ってましたが、そんなもの保存しておけません。バラして、切抜きとしてためていたところ、ある日学校から帰ると、親に全部捨てられてました(マンガ以外にも黒魔術白魔術の特集ページとか面白いのがあったんだよー、しくしく)。
というわけで、収集の対象は単行本となります。かつてマンガ単行本はハードカバーで高価なものでした。わたしたちが手軽に買えるようになったのは、まず、1964年からの光文社カッパ・コミクス。B5版で一部4色カラーや2色カラーも使われていましたが、ページ数は100ページ前後。アトムや鉄人が発売されましたし、同じ版形で他社のものもありました(東邦漫画出版社など)。
マンガが新書版の形で発行されるようになったのは1966年コダマプレスのダイヤモンドコミックスからです。以後1966年から1968年にかけて、各社よりつぎつぎと新書版マンガが発売され(秋田書店:サンデーコミックス、小学館:ゴールデンコミックス、朝日ソノラマ:サンコミックス、集英社:コンパクトコミックス、講談社コミックス、少年画報社:キングコミックス、虫プロ:虫コミックス)、書店にはそれまで存在しなかった「マンガの棚」が作られるようになりました。安価な新書版の出現により、マンガ単行本は親が子に買い与えるものではなく、コドモがこづかいで買うものとなったのです。
マンガにおいてオタクの出現は、1966年から準備されていたことになります。
では、アニメや特撮ファンは何を集めていたのか。かつて、映像を収集することは、特殊な趣味でした。
8mmや16mmフィルムの市場が存在しなかったわけではありません。かつてのキネマ旬報に「なぜ映像を集めないのか」という記事が載ったことがありますが、フツーの人は映像そのものを収集することを、なぜかあまりしなかった(もちろんお金持ちの有名マンガ家とかは別)。
映画なら、チラシやパンフレット、ポスター。TVなら雑誌や本。さらにはオモチャなど。ホントに欲しい映像以外の、周辺の情報が収集対象になっていました。
映像がダメなら、音という手もあります。すでにテープレコーダーは存在してましたから、TVの前にマイクを置いて録音したり、映画館にテープレコーダーを持ち込んだりするヤツも。さらには、映画館の暗闇で、カメラのシャッターをきるヤツもけっこういましたねえ(ああ、恥歴史の記憶が…)。
この状況が激変するのが、家庭用ビデオレコーダーの販売開始です。
1975年、ソニーがベータ方式の家庭用ビデオレコーダーを22万円で発売。翌1976年をビデオ元年であると宣言しました。1976年にはビクターがVHS方式のビデオレコーダーを発売、1977年には松下もVHSを発売しました。
わたしが初めてビデオレコーダーを手に入れたのは、1978年です。まだまだ高価なものでした。価格は覚えてないのですが、発売前の薬の副作用チェックというアヤシゲなバイト(旅館にカンヅメになって、毎朝、血を抜かれる)で得た報酬を全額つぎ込んで買ったものです(今考えると、かなりヤバかったかも…)。
一般人は、これで初めて映像をコレクションできることになりました。ですから、サルのように何でもかんでも録画しまくりましたよ。この時点でアニメや特撮ファンも、周辺情報じゃなくて動画そのものを所有するようになり、マンガファンと同じスタートラインに立つことができました。
オタクの行動様式として、「集める」と並んで大きなものが、「集う」ことです。
コミックマーケットは1975年に開始されました。こういった集会に参加するには、ある程度の時間的、経済的余裕が必要です。地方在住のわたしが、この手の集まりに初めて参加したのは、1976年に名古屋で開催されたもの。ちなみにそこでのオークションでは、萩尾望都「ケーキケーキケーキ」(なかよし別冊付録1970年)が高値で取引されてました。マンガを「高値で取引」することが、始まっていた。すなわち、そのころ萩尾望都を好むようなマンガファンの一部に、経済的余裕ができていたのです。
そして、これらの集会に参加することで、それまでの「集める人」は、同時に「集まる人」かつ「語る人」となりました。ここに、オタクの三要素、「集める」「集まる」「語る」(←わたしが勝手に言ってるだけです)が完成し、オタクが誕生したのです。
というわけで、(1)1966年に新書版マンガ単行本をコレクションし始めた世代が成長して、(2)1970年代後半に経済的余裕を得てビデオレコーダーを購入し動画をコレクションし始め、(3)時間的余裕を得て同じ趣味の人間と集会を始めたとき、オタクが誕生した、という説はいかがでしょうか。
Comments
コダマプレスのダイヤモンドコミックス版『赤いトナカイ』(石森章太郎)が手元にあります。昭和41年(1966)9月10日発行ですね。
『ロック冒険記』『新選組』(手塚治虫)、『ミュータント・サブ』(石森章太郎)あたりを持っていたはずなんですが、コダマプレスで手元に残っているのは、これ1冊きりです。
1冊240円は、当時の中高生にも、けっこうな値段でした。小学生には手が出なかったのでは……。新書判コミックスが出て、少し小遣いの高い中高生以上が飛びつき、これがマンガ作品のファンではなくマンガ家のファンを生み出し……といった循環になったように思います。もちろん「COM」の創刊なども含めてですが。
Posted by: すがやみつる | October 19, 2005 05:36 PM
コメントありがとうございます。そういえばコダマプレスも朝日ソノラマも、もともとソノシートの会社でした。実はコダマプレスの新書版は持っておりませんし、書店で見た記憶もありません。倒産したのが1967年5月だそうですから、新書版の先駆者はすごく短い寿命だったのですね。
Posted by: 漫棚通信 | October 16, 2005 07:48 PM
コダマプレス!懐かしいですね。
福島さんという編集者。
赤塚不二夫の『チビ太くん』『まか
せて長太』などを刊行。ついでに
ぼくの『しびれのスカタン』フォノ
シートまで出した。
『東海道戦争』の企画は彼です。
SFなら何でも~と言ってくれた
んですが、ソノシート過当競争で
社が倒産。
それでも、ぼくは描き続けていました。
福島さんは「カラーコミック」(河出)の
創刊にかかわり、『東海道~』を連載
する予定でしたが、この雑誌もあっと
いうまにつぶれた。
不運な福島さんは、ふたたび音楽関係
に転職されてしまいましたが。
どうされておられるのかなあ…。
Posted by: 長谷邦夫 | October 16, 2005 12:24 PM