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October 31, 2005

悪の秘密結社

 小説、映画、マンガ、アニメ、特撮の中で、「悪の秘密結社」という言葉はどれほど使われてきたのでしょう。googleで検索すると4万件ヒットしますから、けっこう人口に膾炙してる言葉ですね。

 「秘密結社」という言葉自体は、明治時代からありました。多くは政治的な結社です。その国の法律上、非合法であった政治結社は秘密結社と呼ばれました。

 戦後になって日本の現行憲法の下では「結社の自由」が認められていますから、少なくとも戦後日本では結社は秘密である必要はないはずです。ですから「秘密結社」という言葉には「国際的」秘密結社というニュアンスがあります。

 娯楽作品に登場する「悪の秘密結社」の元祖は、おそらく、「007」シリーズの悪の組織「スペクター」でしょう。小説じゃなくて、映画のほうね。スペクターの一員であるドクター・ノオが登場する「007は殺しの番号」の日本公開が1963年。TV「0011/ナポレオン・ソロ」(日本放映1965年)の悪役組織も「秘密結社スラッシュ」でしたね。

 乱立する「悪の秘密結社」の中で、現在なお最も有名なのは、「仮面ライダー」(1971年から放映)に登場するショッカーです。毎週テレビで、「仮面ライダー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは世界征服をたくらむ悪の秘密結社である」というナレーションが流れてりゃ、「悪の秘密結社」という言葉が日本人の脳に刷り込まれたのも納得できます。

 「悪の組織」とかいうんじゃなくて、「悪の秘密結社」っていうのが、何やらかっこよかった。「悪」とひとことで言い切るのが、イサギヨイ。さらに、その目的が「世界征服」。なんとわかりやすい。

 仮面ライダーではこれほどまでに単純化されちゃった悪の組織ですが、これに先行する石森章太郎作品ではどうだったでしょう。「スカルマン」(1970年)の黒幕は、「日本じゅうのあらゆる企業……財界や政界までも牛耳っている大物」でした。ちょっと前の青年マンガの悪役と言えば、一時はこんなのばっかりでした。

 「サイボーグ009」(1964年)の黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)は、「死の商人の総元締め」という、非常に斬新な存在でした。目的はもちろんお金。ところが、そのうちに「やがては戦争であれはてつかれはてた世界を征服しようとしている」という設定が出てきて、おお、世界征服。ちょっとありきたりになっちゃった。

 ただし、その正体はすごい。「黒イ幽霊ハ人間タチノ心カラ生マレタモノ」で、「人間ノ悪ガ ミニクイ欲望ガ作リアゲタ怪物」なんだから、今読んでも漫画史上最高の名悪役ですなあ。

 手塚治虫になると、「アトム大使」(1951年)にはすでに、科学省長官にして、宇宙人を暗殺して回る赤シャツ隊の首領、天馬博士、なんていうチョー複雑な悪役がでてきますが。

 これらの複雑さからすると、「世界征服をたくらむ悪の秘密結社」がいかに説明不要で問答無用のわかりやすさを持っていたか。子供向け悪役の説明としては、まさに無敵であります。

 悪の組織を子供向けで単純に設定することは、手塚以来の複雑な悪の造形を廃して、先祖がえりすることでしたが、子供たちにはコレがよかったらしい。マジンガーZ(1972年)もガッチャマン(1972年、ギャラクターもたしか秘密結社でしたね)も、1970年代前半の悪の組織は、どれも単純に世界征服をめざしていました。

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October 28, 2005

マンガにビニール

 久世番子「暴れん坊本屋さん」によると、マンガ単行本にかけてあるビニールのことをシュリンクというらしい。しかも、これをキレイにかけられると、書店員はうれしいらしい。ほほう。

 今ではあまりにアタリマエの光景になってますが、マンガにビニールがかかってると、買うマンガは、(1)雑誌で内容を知ってるモノか、(2)レビューを読むか友人にすすめられてねらって買うものか、(3)いわゆる「ジャケ買い」か、になっちゃいますね。読者は決まったマンガしか買わなくなり、売れるマンガはますます売れ、売れないマンガとの格差は広がるばかり、なんじゃないかしら。現在一般的にマンガのビニールは、好ましくはないけど立ち読み防止にはしょうがない、と必要悪として受け入れられているのかな。

 マンガにビニールがかけらるようになったのって、いつだったっけ。

 (以下の文章の根拠はわたしの記憶だけです。地域によっても違うかもしれません)

 かつて1966年以後、新書版ブームが始まり、マンガ単行本の棚が書店にできたとき、この棚はレジのすぐ隣とか、レジの後ろにありました。まあ、マンガ全部でもそのぐらい量だったのですよ。

 おばちゃーん、その本とって、と言って本を出してもらいます。あるいは、白い目でにらむおばちゃんの横でつま先立ちになって、自分で本を引っ張り出す。ぱらぱらめくった上で(長々と立ち読みすることなどできません)、買うかどうか決めるわけです。すばやい決断力が必要でした。

 マンガの出版点数がどんどん増えて、マンガの棚は次第にレジから遠くなっていきました。するとどうしても立ち読みが増加する。マンガの棚がレジから死角になってたりしたら、それこそ読み放題。

 第一次マンガ文庫ブームも始まると、マンガ出版点数はさらに増加。マンガ棚の面積もどんどん増加し、それに連れて立ち読みも増加しました。見ててあまり気分の良い光景じゃなかったなあ。

 そんなとき、わたしの通ってた書店で、ある日突然、マンガにビニールがかけられてしまいました。これが、わたしの記憶では1977年のこと。当時わたしが住んでいたのは、京都市です。

 この習慣は、あっという間に全国の書店に広がり、マンガの立ち読みの光景は一変しました。店によっては新刊マンガ単行本だけはビニールかかってないから、立ち読みはそこと雑誌コーナーに集中。

 マンガが売れなくなったと言われ始めてもう長くなりましたが、このシュリンクてのは、これからもずっと続いていくのかどうか。

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October 25, 2005

石森章太郎の「少年」版「少年同盟」

 「ガロ」1995年1月号に「心に残る漫画特集」というのがありまして、いしいひさいちが描いた古城武司「ノックアウト勇」のパロディというような珍品も載ってました。ここに夏目房之介が「少年同盟の疑惑」という一文を寄せていました。

 「少年同盟」は石森章太郎の作品です。夏目の文章によると、

・ふつうの少年(多分小学生)が、ある日突然何の前触れもなく(当然必然性もなく)ロボットに拉致されて、悪の組織と対決する少年同盟という組織に入ることになってしまうという、じつに唐突なマンガであった。

・早い話が、子どもたちのてっとり早い超人願望を地続きの等身大で満足させようという話で、そういうところ当時の石森はホントにうまかった。

 この作品、虫プロの虫コミックスが刊行開始された1968年に、全3巻で刊行されています。「朝日小学生新聞」に1967年から1年間連載されたもの。

 ところが、夏目房之介の文章では、「少年同盟」は「少年」に連載されてたはずで、しかも自分の記憶にある、主人公とガールフレンドの胸キュンのいいシーンがないっ、いったいあれは自分が捏造した記憶だったのかっ、という「疑惑」が書かれてました。

 実は、この虫コミックス版「少年同盟」って、ずいぶんな作品でして、ストーリーはともかく、絵がムチャ荒れてて描きなぐり状態。石森章太郎のもっとも悪い部分が出た作品でした。まあそれでも読ませてしまうのが石森でもあるのですが。

 しかもクライマックス、3巻ラストの10ページは、こりゃなんだ、石森の絵じゃないっ。単行本制作時に、もとの原稿をなくしたのか。それとも新聞の締め切りに間に合わなくて誰かが代筆したのか。コレを「小学生新聞」に載せたとしたらオドロキです。まるきり小学生の絵みたいなの。こんなのでした。あるいはこんなの。せめて単行本にするとき、修正してくれよー。

 で、今回復刊された、「少年」1962年4月号に、「少年」版「少年同盟」の連載第1回が掲載されてます。「小学生新聞」版からさかのぼること5年。石森がまだトキワ荘に住んでたころの作品です。1962年の4月号から12月号までの連載でした。

 これがなんとまた、えらくいい作品で。絵はていねいでキャラクターには色気がある。女の子もかわいいぞ。コマも横長だったり縦長だったりずいぶん工夫してます。のちの作品はトレスや再構成じゃなくて、まったくの描き直しだったのね。だったら「少年」版には、夏目房之介の記憶にあるシーンもあったかもしれない。

 かつて曙出版から刊行されたことがあり、石森ファンクラブでも復刻版を出したそうです。

 全集には、「小学生新聞」版よりも、「少年」版のほうをぜひ収録してね。

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October 24, 2005

1962年の「少年」

 光文社が創立60周年記念出版として、「少年」1962年4月号の復刻版を出しました。目次などはコチラのページを。表紙は長嶋茂雄です。アマゾンで見るとまだまだ在庫ありそうですね。ちょっとお高いですが。

 組立て付録は「オルゴールレコード」となってますが、紙の縦笛に穴の開いた円盤を組み合わせたもので、息を吹きながら円盤をまわすと、曲になる、というものらしい。組み立てるのにはちょっと勇気が必要。

 このころの組立て付録っていろいろあったのですが、最近のものと違って、これがなかなかマトモに作れなくてねー。すぐ紙がふにゃふにゃになったりしちゃうんですよ。いまだに覚えてますが、手動のレコードプレーヤーとソノシートが付いてたことがありましたが、子供の手で完成するわけありません、ああクヤシかった。

 楽しい復刻版ですが、さて、光文社はなぜ、1962年を選んだのか。単にこの号の、本誌・付録・別冊付録の美品が揃ってただけなのかもしれませんが、「少年」にとって、この年が黄金期だったのでしょうか。目次を見ると、確かに、手塚治虫「鉄腕アトム」、横山光輝「鉄人28号」、白土三平「サスケ」、関谷ひさし「ストップ!にいちゃん」などのビッグヒットが揃っている時期ではあります。

 「少年」以前に、マンガ月刊誌の王者だったのが「少年画報」でした。四大連載と言われていたのが、武内つなよし「赤胴鈴之助」、河島光広「ビリーパック」、堀江卓「天馬天平」、桑田次郎「まぼろし探偵」。ピークは1959年で、その年の1月号は80万部ほぼ完売とされています。

 それぞれの連載終了が、「天馬天平」が1959年まで。「赤胴鈴之助」が1960年まで。第一期「まぼろし探偵」の終了が1961年。「ビリーパック」の作者・河島光弘が亡くなったのが1961年、連載は1962年まで。

 というわけで、1962年には「少年画報」の黄金時代は終わっており、マンガ月刊誌No.1の座は「少年」に移っていました。

 一方、マンガ週刊誌は1959年に少年サンデーと少年マガジンが創刊されていましたが、まだまだ苦戦中。1962年はまだマンガ月刊誌のほうが優勢な時期でした。ただし、マンガ月刊誌は次々と休刊していきます。

 講談社「少年クラブ」「少女クラブ」が1962年まで。光文社の「少女」が1963年まで。集英社「日の丸」が1963年まで。そして、1963年には少年画報社から第三のマンガ週刊誌として「少年キング」が創刊されました。

 少年サンデー初期の黄金時代に、三大連載と言われていたのが以下の三作品です。横山光輝「伊賀の影丸」の連載開始が1961年。赤塚不二夫「おそ松くん」が1962年。藤子不二雄「オバケのQ太郎」が1964年。

 この三つが揃った後、少年サンデーは1965年には50万部体制となっていました(そのころ少年マガジンは30万部。劇画路線に変わった少年マガジンが100万部を達成するのが1967年の夏です)。もし子供がコヅカイで週刊誌を月4回買うとすれば、月刊誌はなかなか買えるもんじゃありません。

 「鉄腕アトム」のTVアニメ放映開始は、1963年1月でした。続いて「鉄人28号」のアニメが1963年10月より。アニメでの人気を考えると、「少年」の売上は1963年以降のほうが多くなってたんじゃないかしら。

 アニメという新興のメディアとのタイアップは、マンガ月刊誌を大きく潤しました。しかし、アニメのスピード感や刺激は、のんびりした月刊誌マンガ作品の味わいとは異なるものでした。さらに、アニメの週1回の視聴習慣は、むしろ読者の月刊誌離れを促進させたかもしれません。アニメの隆盛はマンガ月刊誌にとって、諸刃のツルギでもありました。

 「少年」の1962年は、マンガ月刊誌トップを奪取したものの、週刊誌の足音がすぐ後ろから聴こえ、そして翌年からのアニメによる新時代が目前に迫っているという、微妙なバランスの上での黄金期だったのです。

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October 22, 2005

小山春夫の林崎甚助

 夏目房之介「マンガは今どうなっておるのか?」は、「マンガ研究は今どうなっておるのか?」ともいうべき本でありました。

 『マンガの「うまいヘタ」、評価基準の厄介な問題』は、前作「マンガ学への挑戦」の補遺ですし、巻末の「『PLUTO』と『アトム』、浦沢直樹試論」は、伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」のラストの「PLUTO」論と対応しており、単独で読むより、他の本を参照しながらのほうが面白い。

 わたしが個人的にウケたのは、四方田犬彦「白土三平論」の書評と、「淘汰されるマンガ家」に登場する小山春夫のご親戚のエピソードです。

 おお、小山春夫、ばんばん(←机をたたく音)。

 白土作品にはいろんな作家が参加してるので、いろんな絵のタイプがありますが、わたしがもっとも好きなのは、「ワタリ」や「風魔」、「カムイ外伝」での華麗な絵。アクションも背景も、少年マンガとしてもっとも上質なものでした。おそらくこれらの作品で、仕上げのペンを入れていたのが小山春夫。

 カムイ伝全集も刊行開始されたことだし、冒頭部を読んだまま積ん読状態だった四方田犬彦「白土三平論」をほったらかしにしていてはいかんと反省しまして、この後「白土三平論」を(そして白土三平作品を読み直しながら)読んでおりましたところ、

 「小山春夫『林崎甚助シリーズ』は、三洋社にいた岩崎稔らを原作者として、1969年から1970年にかけて『デラックス少年サンデー』に5回にわたって掲載された。作画に岡本鉄二、小堀純子、小井上繁一、国本サチ子の名前がクレジットされている。体調を崩した白土に代わって、小山が赤目プロを支えていた時期の作品である」という記述がありました。

 おお、林崎甚助シリーズ、ばんばんばん(←たたく音)。

 林崎甚助は、室町時代末期に実在した居合抜刀術の始祖とされる人物ですが、「忍者武芸帳」に登場する彼は、影丸たちとすれ違う、肺を患う剣士として描かれます。初登場時から居合の達人として描かれていますが、それは肺結核で体が弱いのをカバーするためです。

 マンガ内では父・浅野重治を悪役・坂上主膳に殺され、その仇を討つために放浪しています。実在の林崎甚助も、親の仇を討って有名になったらしい。最初の方の巻では「名も知らぬ剣士」という扱いでした。目は黒目だけ。斜線で両眼をよごされてるわ、頬はコケてるわ、喀血するわ。だからといって、着物までボロくなくてもいいと思うんですが。

 途中で病気が治ってからは、顔もすっきり美男子に、なぜか着物もこざっぱりと。

 「忍者武芸帳」のラストでは、もうひとりの剣士、重太郎とすれちがいますが、このときには弟子も数人連れてるし、顔色もいい、着物もすっかり上等になってて、最初のころとはまるで別人。

 で、彼の後日談が、小山春夫名義で描かれた「林崎甚助シリーズ」でした。

 小山春夫の描く林崎甚助のビジュアルは、「風魔」に登場する二階堂主水(これも実在といわれてる剣士ですが、「心の一法(一方?)」という催眠術みたいな技を持ってたという伝説があります)そっくり。女顔で着物の柄もやったらハデになってました。もちろん居合の名人ですから、剣術は無敵(だったっけ? 記憶だけで書いてますので間違ってたらゴメンナサイ)。

 小山春夫の描く林崎甚助は、発表当時の子供たちを惑わすような色気がありました。もし今なら腐女子の餌食になってるにチガイナイ。その点、小島剛夕、岡本鉄二や白土自身の絵ではもうひとつ。

 白土作品は、どうしても「忍者武芸帳」と「カムイ伝」中心に語られてしまいますが、「ワタリ」「風魔」「カムイ外伝」などの小山春夫による洗練された絵こそ、この時期、白土作品が子供マンガでも成功した理由のひとつだったと考えます。

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October 19, 2005

小説もキビシイ

 すがやみつる/横山えいじ「マンガでわかる小説入門」読みました。

 もうすぐ発売というとき、タイトルを知ってぷっと吹き出してしまいました。だって「マンガ」で「小説入門」ですよ。小説にとってはマンガは仮想敵なんじゃなかったのか。企画したのは女性編集者らしくて、いやこういうことを考える人がいるとは。

 で、できあがった本は、実は、すごくマジメでちゃんとしております。かっちりした横山えいじの絵も、学習マンガに向いてるみたい。

 しもぶくれ顔の若い小説家志望者が、スカタンな文章を書いては、指導役の作家にいろんなことを教わって作品を完成させていく、という体裁です。ギャグもいろいろありますが、書かれていることがいちいちごもっとも。「ほとんどの小説は才能ではなく技術で書かれているんですから」という発言があります。

 この本のポイントは三点。

 ひとつは、視点の問題をしつこく取り上げている点。マンガやアニメのイメージをそのまま文章に起こすと、視点の問題がどっかに行ってしまって、小説として稚拙になっちゃうぞ、と。小説における視点の問題はマンガで解説してくれるほうが、現代の我々にはよくわかる。

 ふたつめは、絶版になった本がどう処理されるかのレポート。かなり悲しい光景です。

 そして、もうひとつ、これがキビシイ話なんですが、普通のデビューでは食っていけないことを教えてくれています。出版物の点数が増えているから、絶版になるサイクルも早いし、一点あたりの発行部数が減っている。1冊500円の本が印税10%、1万部で収入が50万円。年間6冊で300万円。ハードカバーでも初版5000部以下だから印税はあまり変わらない。

 だから新人賞を取って、少しでも有利にデビューを、と説かれてますが、こりゃ大変だわ。マンガとどっちがキツイのかしら、ってどんな創作も楽な道はないんでしょうけど。

 先輩作家が自分のことを自虐的に語ります。「資料収集や取材の手伝いをしたり」「新人賞の下読みをしながら小説の再修行をしてるんだけど」「でももうダメだね」 彼は眼高手低になってしまい、業界にスレて、小説を書いてても楽しくない。

 あるいは、編集者が希望に燃える主人公に対して、「うーん…… そうやってみんな泥沼にハマるのよね」 おいおい。

 こういうことを書いてある小説作法の本は初めて。でもこれを読んで小説家志望の人が減るかというと、そうはならないんですね、きっと。

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October 17, 2005

金がないのは首がないのと

 西原理恵子のマンガによく出てくる名言に、「金がないのは首がないのと一緒」というのがありまして、なかなか味わい深い言葉ですねえ。で、このフレーズを、わたしの同居人などは、サイバラの言葉であると思っておった。こらこら。

 ご存じのかたも多いでしょうが、この言葉はもちろんサイバラ作ではありません。「封印切」という有名な歌舞伎に出てきます。「金のないのは首のないのとおんなじや」てなふうに、微妙に言い回しが違いますが。

 「封印切」は、もともと近松門左衛門の文楽「冥土の飛脚」がオリジナル。「冥土の飛脚」の初演は1711年で、亀屋忠兵衛と遊女梅川の物語です。いつもの近松と同じく、現実の事件を脚色したものらしい。

 飛脚問屋亀屋の養子忠兵衛は、かっとなって為替金の封印を切ってしまい、遊女梅川を身請けするために使い込んでしまう。これはご法度ですから、ふたりは忠兵衛の故郷へ落ち延びる、というお話。

 のちに別人の手で「傾城三度笠」「傾城恋飛脚」などにも改作され上演されました。歌舞伎になったとき「恋飛脚大和往来」のタイトルとなり、これが別名「封印切」であります。

 さて、この「金のないのは…」というのは、忠兵衛の友人、丹波屋八右衛門のセリフです。この有名なセリフは、当然、近松が書いたものだと思ってましたが、「冥土の飛脚」の床本(文楽の脚本)を読んでみると、あれれ、こんなセリフないじゃん。

 歌舞伎の丹波屋八右衛門はやーなヤツでして、「わしは金のあるのが因果、お前は金のないのが因果。金のないのは首のないのと同じこと」という決めゼリフを聞くと、観客は、ああコイツはやっぱりやなヤツだ、と納得するのですが、この言葉、一面の真理でもあって、観客の心に突き刺さる。だからこそ、有名な言葉になりました。

 ところが、近松オリジナルの「冥土の飛脚」では、八右衛門は友人思いのけっこういいヤツなもんで、「金のないのは…」なんてイジワルなセリフは言わないんですね。どうも、文楽から歌舞伎へと改作されてるうちに、この名言ができちゃったみたい。

 今では、「下品な言い方で、庶民にとってはクヤシイけど、金というものの真理を言い表した良い格言」みたいな使い方をされてます。偽悪の人、西原理恵子が使ったからこそ、なおさら。

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October 15, 2005

オタクの誕生

 中森明夫「おたくの研究」が書かれたのが1983年。オタクの行動様式をとる人たちが二人称としてオタクという言葉を使用し始めたのは、1970年代末かららしい。

 ならば、命名される以前に、「オタクの行動様式をとる人たち」が出現したのは、いつだったのでしょう。

 古典的オタクの対象を、マンガ・アニメ・特撮と考えてみます。わたしの興味はマンガに集中してますが、かつてはアニメや特撮にも少し知識がありました。オタクを「集める人」と定義するなら、彼らは何を集めていたのか。

 マンガの場合は単純です。印刷物として、雑誌と単行本を集めていればよかった。ただし、本はやたらとスペースをとりますから、特に雑誌の収集は困難でした。ぶ厚いマンガ月刊誌を手許に残しておくのはまず無理でしたし(親が捨てます)、週刊誌なら冊数が多いから、なおさら。

 わたしは「巨人の星」なら大リーグボール2号、「あしたのジョー」なら力石の死の前後の少年マガジンをずっと買ってましたが、そんなもの保存しておけません。バラして、切抜きとしてためていたところ、ある日学校から帰ると、親に全部捨てられてました(マンガ以外にも黒魔術白魔術の特集ページとか面白いのがあったんだよー、しくしく)。

 というわけで、収集の対象は単行本となります。かつてマンガ単行本はハードカバーで高価なものでした。わたしたちが手軽に買えるようになったのは、まず、1964年からの光文社カッパ・コミクス。B5版で一部4色カラーや2色カラーも使われていましたが、ページ数は100ページ前後。アトムや鉄人が発売されましたし、同じ版形で他社のものもありました(東邦漫画出版社など)。

 マンガが新書版の形で発行されるようになったのは1966年コダマプレスのダイヤモンドコミックスからです。以後1966年から1968年にかけて、各社よりつぎつぎと新書版マンガが発売され(秋田書店:サンデーコミックス、小学館:ゴールデンコミックス、朝日ソノラマ:サンコミックス、集英社:コンパクトコミックス、講談社コミックス、少年画報社:キングコミックス、虫プロ:虫コミックス)、書店にはそれまで存在しなかった「マンガの棚」が作られるようになりました。安価な新書版の出現により、マンガ単行本は親が子に買い与えるものではなく、コドモがこづかいで買うものとなったのです。

 マンガにおいてオタクの出現は、1966年から準備されていたことになります。

 では、アニメや特撮ファンは何を集めていたのか。かつて、映像を収集することは、特殊な趣味でした。

 8mmや16mmフィルムの市場が存在しなかったわけではありません。かつてのキネマ旬報に「なぜ映像を集めないのか」という記事が載ったことがありますが、フツーの人は映像そのものを収集することを、なぜかあまりしなかった(もちろんお金持ちの有名マンガ家とかは別)。

 映画なら、チラシやパンフレット、ポスター。TVなら雑誌や本。さらにはオモチャなど。ホントに欲しい映像以外の、周辺の情報が収集対象になっていました。

 映像がダメなら、音という手もあります。すでにテープレコーダーは存在してましたから、TVの前にマイクを置いて録音したり、映画館にテープレコーダーを持ち込んだりするヤツも。さらには、映画館の暗闇で、カメラのシャッターをきるヤツもけっこういましたねえ(ああ、恥歴史の記憶が…)。

 この状況が激変するのが、家庭用ビデオレコーダーの販売開始です。

 1975年、ソニーがベータ方式の家庭用ビデオレコーダーを22万円で発売。翌1976年をビデオ元年であると宣言しました。1976年にはビクターがVHS方式のビデオレコーダーを発売、1977年には松下もVHSを発売しました。

 わたしが初めてビデオレコーダーを手に入れたのは、1978年です。まだまだ高価なものでした。価格は覚えてないのですが、発売前の薬の副作用チェックというアヤシゲなバイト(旅館にカンヅメになって、毎朝、血を抜かれる)で得た報酬を全額つぎ込んで買ったものです(今考えると、かなりヤバかったかも…)。

 一般人は、これで初めて映像をコレクションできることになりました。ですから、サルのように何でもかんでも録画しまくりましたよ。この時点でアニメや特撮ファンも、周辺情報じゃなくて動画そのものを所有するようになり、マンガファンと同じスタートラインに立つことができました。

 オタクの行動様式として、「集める」と並んで大きなものが、「集う」ことです。

 コミックマーケットは1975年に開始されました。こういった集会に参加するには、ある程度の時間的、経済的余裕が必要です。地方在住のわたしが、この手の集まりに初めて参加したのは、1976年に名古屋で開催されたもの。ちなみにそこでのオークションでは、萩尾望都「ケーキケーキケーキ」(なかよし別冊付録1970年)が高値で取引されてました。マンガを「高値で取引」することが、始まっていた。すなわち、そのころ萩尾望都を好むようなマンガファンの一部に、経済的余裕ができていたのです。

 そして、これらの集会に参加することで、それまでの「集める人」は、同時に「集まる人」かつ「語る人」となりました。ここに、オタクの三要素、「集める」「集まる」「語る」(←わたしが勝手に言ってるだけです)が完成し、オタクが誕生したのです。

 というわけで、(1)1966年に新書版マンガ単行本をコレクションし始めた世代が成長して、(2)1970年代後半に経済的余裕を得てビデオレコーダーを購入し動画をコレクションし始め、(3)時間的余裕を得て同じ趣味の人間と集会を始めたとき、オタクが誕生した、という説はいかがでしょうか。

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October 12, 2005

クロサワとテヅカ

 竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」のコメント欄を読んでいたら、どっひゃー、黒澤明が脚本・監督、手塚治虫がアニメパート担当の映画が企画されてたと知ってびっくり。

 こりゃ知らなかったなあ。「たけくまメモ」によると、

そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。

 以下、長い引用で失礼します。

僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。

そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。

その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。

 そして、それは手塚とジョン・ギラーミンとの対談記事であったと。

 ディノ・デ・ラウレンティス製作、ジョン・ギラーミン監督の「キングコング」リメイク超大作は、日本ではお正月映画として1976年12月に公開されました。キネマ旬報1977年1月下旬号での手塚治虫と石上三登志の対談「キングコングがどうした!」(「定本手塚治虫の世界」所収)によると、1976年10月にギラーミンが来日した際、手塚とギラーミンの対談がおこなわれたそうです。

 ギラーミンとの対談記事は読めませんが、この石上三登志との対談では、手塚の黒澤に対する言及があります。

・たとえば、黒澤(明)さんも、コンテを大切に描く人でしょ。

・(ジョン・フォード「ドノバンサンゴ礁」の話題を受けて)やっぱり西部の荒野には、そういう海洋的なムードがあるんじゃないなか。ああいう空間が開放されたシーンは、すごく好きなんでしょうね。黒澤さんもそんな気がする。『デルス・ウザーラ』はもちろんそうだけど『七人の侍』にしてもそうだし、『隠し砦の三悪人』も。あれだけの野外シーンを撮れる監督は、世界にもちょっといないと思う。

 かなり黒澤のことを気にしてるみたい。黒澤明から手塚治虫にオファーがあったのは、1976年ごろのようです。

 このころの手塚といえば、1975年に日本漫画家協会賞特別優秀賞(「ブラック・ジャック」)と文藝春秋漫画賞(「ブッダ」「動物つれづれ草」)受賞。 1977年には原案のアニメ「ジェッターマルス」(アトムのリメイク)放映。「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞受賞。ほぼ同時に講談社版手塚治漫画全集刊行開始。てな時期でした。

 一方の黒澤明。不遇の時期を経て、1975年8月にモス・フィルムで撮った「デルス・ウザーラ」の公開。1976年に「乱」第一稿の脱稿。同年文化功労者に選ばれています。1977年には「黒き死の仮面」のシナリオを完成させていますが、実際に彼の次作となったのは1980年公開の「影武者」でした。

 「全集 黒澤明」は1987年から1988年にかけて岩波書店から6巻刊行。黒澤のシナリオを集めたものです。そして没後の2002年、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」などを収録した最終巻が刊行されました。この中に「黒き死の仮面」も収録されています。

 原作はもちろんエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」(「赤死病の仮面」)。文庫本で10ページほどの短篇です。

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 赤死病の蔓延する中世ヨーロッパ。プロスペル公爵は領内の領民の半分が死んだころ、千人ほどの貴族・貴婦人と共に城にこもります。外界との出入りをまったくなくし、領民を見捨て、城内にはたっぷりの食糧。そして公爵は、外界で病魔が猛威をふるっている最中、悪趣味な室内で贅を尽くした異様奇怪な仮面舞踏会を開きます。

 そこに血にまみれた死装束に身を包み、死者の仮面をかぶった背が高く、やせた男が登場します。侯爵がその装束に手をかけようとすると、中は空虚。仮面の男は悪疫そのものであり、彼の出現と共に城内のひとびとは次々と倒れ、すべて死に絶えてしまう。

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 有名なロジャー・コーマンのもの以外にも、いくつか映画化されてます。この話をもとに黒澤明が1977年に書いたシナリオが「黒き死の仮面」です。

「全集 黒澤明」によると、1975年の「デルス・ウザーラ」の成功を受けて、モス・フィルムからの依頼で書かれたものだそうで、舞台はロシア。親衛隊長ノヴィコフも、「デルス・ウザーラ」の主役、ユーリー・サローミンを想定して書かれています。原作の赤を黒に変更したのも、ソ連のシンボル「赤」に気を配ってのこと。

 モス・フィルム以外にも、「乱」のプロデューサー、セルジュ・シルベルマンも興味を示したそうですが、結局、映画化されませんでした。

 さて、黒澤明のシナリオ「黒き死の仮面」とは、どのようなものか。黒澤は、単純なイメージだけのポー作品を、人間の愚行、狂気、自滅の物語に変換させました。それはシェイクスピア劇のようです。

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 悪疫が流行するロシア。ドブロフスキイ侯爵の親衛隊長ノヴィコフの一行が城外の死者を葬り、村を焼き払ったあと、城に帰ろうとすると締め出されてしまう。城は大扉を閉めてそれを溶接して外界との交通を絶ってしまいます。

 見捨てられたノヴィコフ一行は、絶望的な状況の村々を彷徨したあと、他国に入ろうとして多くが倒され、さらにペストにかかって全滅。ただひとり残ったノヴィコフは城に戻り、城外からかつての部下に自分を撃てと命じる。銃声があってノヴィコフは倒れます。

 ここまでがプロローグ。場面は城内へ。侯爵は2ヵ月も贅沢な宴会を続けていますが、食糧が少なくなって、城内には不安な気分が流れています。

 侯爵夫人が発熱したことから、ペストの疑いが。貴族たちのペストに対する恐怖を利用して、侯爵の弟のパーベルのクーデターが成功します。侯爵は地下牢へ。それまで牢に入れられていた者たちは釈放されますが、そこで侯爵が出会うのは、牢から出て行こうとせずに死に装束を縫っている、道化。このシーン、まるきり「乱」の仲代達也とピーターですね。

 大広間では宴会。ところが侯爵夫人がペストでなかったことがわかり、パーベルとその一味は、これに気づいた女官長を殺し、さらにこれを目撃した修道士ら三人も殺害。

 もともと侯爵が計画していた魔物のバレエが発表されるいっぽうでは、侯爵夫人の館に放火する兵隊、それに対抗する親衛隊が入り乱れ、地下牢からは侯爵が出てくる。

 その混乱の中に登場する不気味な“黒き死の仮面”。彼を追うパーベルと一同が見たものは、パーベルが殺した女官長たちの死体。

 これを見た群集は「ペストだ!!」と声を上げパニックに。城内は大混乱となり、群集は城外に逃れようとして城壁へ。そして圧死、墜死。兵隊同士の内乱。教会と城館は燃え上がります。

 混乱の中、侯爵とパーベルの対決があって、侯爵が生き残ります。ラストシーンは炎につつまれた部屋の中にいる侯爵と“黒き死の仮面”。仮面をとると、その正体は道化。すべての登場人物が死亡します。こういう救いのないストーリーでした。

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 手塚治虫が担当するはずだったアニメシーンというのは、クライマックス前の、魔物のバレエだと思われます。室内のバレエシーンと、屋外の混乱が交互に描かれます。

(1)頭は鳥、下半身は馬。頭は馬、下半身は鳥。頭は豚、下半身は獅子。頭は魚、下半身は鼠、等々。
この頭と下半身の奇妙な組合せの扮装とその動きには、ユーモラスなところは少しもなく、変に生々しく、人間性のグロテスクな面を見せつけられる思いがする。

(2)頭は犬、足は帚木──親衛隊の紋章がラインを組み、奇怪なリズムで踊り出てくる。

(3)犬の頭と帚木の足のダンスが退場し、奇怪で醜悪な巨大な魚が登場する。
そして、その腹を引き裂いて、踊り手達が出て来る。それは、蒼白い裸体に、様々な人間の欲望の仮面を被った醜怪な群舞である。

(4)牡牛の仮面に僧侶の頭巾を被った男達、豚の仮面に尼僧の頭巾を被った女達が、上半身は天使、下半身は悪魔の衣装をつけた堕天使を中心に、輪を描いて乱舞している。

(5)終幕らしく、これまでの登場人物が入り乱れて踊っている。ただ、彼等はそれぞれ、背中に真赤な布の炎を背負い、矢を眼に、刀を胸に、あるいは首と首を縄でくくられ、腹と腹を長い槍で串刺しにされた、異様な扮装で乱舞している。
それは、まるで異端の秘密宗派の祭壇画の様に、奇怪で悪魔的な光景である。

 これは物語内では侯爵が計画したバレエでしたが、実際には黒澤明自身がこう描いているわけです。この悪夢のようなイメージは、登場人物たち、さらには観客である私たちの象徴でもあります。

 この毒々しいバレエを、黒澤と手塚はどのようにアニメとしてイメージしていたのでしょう。アニメ背景の前で実写の人間とアニメキャラが踊るのか。それとも実写背景とアニメキャラか。すべてアニメで描くつもりだったのか。(ただし、このバレエシーンの演出を、黒澤はフェリーニに持ちかけたこともあったそうです)

 もしかすると黒澤は、“黒き死の仮面”もアニメキャラにするつもりだったかも。

・この人物は、仮面をつけ、死に装束を着ているが、硬く硬張った死人の顔付きをしたその仮面は、あまりにも生々しく、死に装束を着たその身のこなしはあまりにもおぞましい。
彼は、顔も装束も黒い斑点におおわれた姿をして、苦悶する瀕死の病人が熱にうかされてよろめき出たかのように、奇怪なリズムを踏み、痙攣する様に手足を動かして進み出て来る。
それは、「ペスト」による断末魔──その死の舞踏を思わせる。

 この異形のものこそ、アニメにふさわしいかもしれません。

 さらにもしかすると、ラストの大パニックシーンこそ、アニメだったのかもしれません。黒澤はクライマックスの大混乱を以下のように演出するつもりでした。

・これからのシーンで、再びすべての現実音は消える。そして、人間の愚行に対する悲痛な思いを、木管楽器が深く沈潜して唄いはじめる。そして、同じ思いをこめたすべての楽器が徐々に加わり、厳粛なリズムに乗り、荘重な悲歌を奏でる。それは、この城の狂乱を、その地獄の様相を見降ろす、中天の月の光の様に、静かで透明な曲でなければならない。

 このシーンがアニメだったら。想像し始めるときりがありませんね。

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October 10, 2005

ああ「デザイナー」の柾が…

 休日にTVつけっぱなしでぼーっとしてたら、ドラマ化されてる一条ゆかり「デザイナー」を見ちゃいました。亜美が鳳麗香にナイフで切りつけるという、マンガにないシーン。

 亜美役の松本莉緒も、麗香役の国生さゆりも、健闘しててなかなかハマッてるじゃないですか。松本さんって、確か姫川亜弓も竜崎麗香もやってましたねー。少女マンガみたいな顔と言えばそうかもしんない。

 で、ナイフを奪い合ってふたりが格闘したあと、亜美が気絶してひとり部屋に残されます。そこへ朱鷺が登場して亜美を連れ出す。って、こっそり隠れとらずに格闘とめろよ。

 で、朱鷺といっしょに柾が登場するんですが。

 マンガの柾ってねー、一条ゆかりのマンガだけど、おおやちきが描いてたんだよー。黒髪を腰までのばしててねー、たれ目でホリの深い顔しててねー、かっこよかったんだよー。役の上でも、裏の主役みたいなもんだったんだよー。

 それが、ああ、髪は長いんだけど、歌舞伎の連獅子みたいなんだもんなー。映画の「NANA」では、髪剃ってヤスを演ってたヒトだそうです。頼むからドラマ内でこれからカッコよくなってね。

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October 07, 2005

マンガと色:「テヅカ・イズ・デッド」を読んで考えたこと

 伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ」読み終わりました。新しい視点のキャラクター論(と、わたしは読みました)。

 著者は用語の意味をきっちり決めてから話し始めるという、えらくめんどくさいけど、正しい方法をとってます。たとえば、いわゆる「コマわり」という言葉でも、「コマ構成」「コマ展開」「コマわり」「ネーム」「コマ構造」という言葉に分けて、その微妙な差を定義してから論を進める。これはまず過去に語られたきた用語の意味を明らかにしてからでないと、先に進んで対話も批判もできないという意思のあらわれ。

 ひるがえって、日本のマンガ評論の用語はまだまだ統一されていないことになります。これはマンガ評論の歴史の浅さゆえでもありますが、マンガ制作の現場でも用語が変化しつつあるわけで、マンガってまだまだナマモノなのですね。おそらく、用語の統一が、評論を進歩させ、マンガを教育することへの第一歩になるのでしょう。

 キャラクター論として、「キャラ」と「キャラクター」を分けて論じるところがこの本のキモです。著者による「キャラ」の定義とは、(1)多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、(2)固有名詞で名指しされることによって(あるいは、それを期待されることによって)、(3)「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの、とされます。人格、人生、生活を持った「キャラクター」のプロトタイプになるものである、と。

 著者は、キャラクターからキャラを分離し、マンガの三要素を、通常考えられている絵・コマ・言葉から、キャラ・コマ・言葉に言い換えて考えており、マンガを読む行為は、絵を見ているのではなく、キャラの行動や感情を読んでいるとしています。

 キャラはテクストから遊離することが可能となり、キャラ萌えも二次創作もこれにより説明されます。物語とキャラは、すでに不可分なものではなくなっている。

 現状認識にキャラ/キャラクターを分けて考えることが有効なのがよくわかりました。さらに、最終章では「のらみみ」「GUNSLINGER GIRL」「鋼の錬金術師」「PLUTO」を、キャラ/キャラクターを使って論じており、この視点が批評として実際に使えることを証明しています。

 物語とキャラクターは分けられないもの、物語をキャラクターより上位と考えてしまう旧世代読者(←わたしのような)にとっては、マンガの読み方を考え直すよう突きつけられた剣みたいな本でした。


 さて、以下は「テヅカ・イズ・デッド」読んでわたしが勝手に考えたこと。

 それはマンガの色の問題です。

 ルドルフ・テプフェルら、「前マンガ」の時代、印刷は木版か石版でしたから、マンガはモノクロでした。それがアメリカにおいて「イエロー・キッド」が新聞掲載になったとたん4色印刷となり、マンガは色を獲得します。

 「消えたタワーの影のなかで」掲載の初期のコミック・ストリップのうち、「イエロー・キッド」や「リトル・ニモ」は当然カラーであるとしても、白黒で完成された絵柄と思っていた「クレイジー・キャット Krazy Kat」まで、実はカラー印刷だったのには驚きました。マンガは、その始まりから、カラーがあたりまえだったのですね。

 日本ではどうだったのでしょう。戦前の雑誌や単行本はあまり知らないのですが、コドモマンガならば、宍戸左行「スピード太郎」(これは新聞連載でした)は4色印刷のカラーでした。大城のぼる「火星探検」は3色印刷(4色から黒を抜いたもの)。坂本牙城「タンク・タンクロー」は2色印刷です。戦前のコドモマンガも、色を持っていました。

 戦後の日本は貧しかったので、雑誌はもちろん、粗悪な紙への単色印刷が主流となりました。このため、マンガもモノクロとなります。このモノクロマンガが進歩した結果が現在。ついには「BASTARD!!」や「陰陽師」のような、トーン削りを駆使したウルトラハイグレードモノクロマンガが登場するに至りました。

 アメリカやヨーロッパでは、アンダーグラウンドやオルタナティブの時代になってモノクロマンガが増えてきましたが、やはりカラーマンガが主流みたい。

 戦後すぐの赤本マンガ単行本はどうだったか。これもあまりくわしくないのですが、2色印刷が主流だったらしい。「テヅカ・イズ・デッド」に出てきた、手塚治虫「地底国の怪人」も2色印刷でした。2色の場合、人物の肌は薄い赤で塗られるか、真っ白かのどちらか。男性は薄い赤、女性は白と分けられることもあります。

 「地底国の怪人」では、ラストで少女ミミー=ルンペンのこども(♂)=ウサギの耳男であることが明かされます。ミミーがカツラを取ると帽子をかぶったルンペンのこども。その帽子をとるとウサギの耳が出てくる。

 もちろん、マンガ的ごまかしです。カツラの下に帽子をかぶるのはフツー無理ですし、少女ミミーの顔と、ウサギの毛のはえた顔を同一のものと見なせるのは、伊藤剛が言うとおり、「簡単な線画で描かれたキャラ」だからです。

 ただし、色の問題も大きいと思います。このシーン、ウサギの顔は当然白ですから、少女ミミーもルンペンのこどもも、顔は白となっています。しかし本来、ウサギの白と人間の色白な肌はまったく違うものです。

 これは2色印刷という、準モノクロ印刷だからこそ可能な表現です。もし作品がフルカラーなら、描くことができなかったはず。日本マンガに色が乏しかったからこそ、このマンガ、そして耳男というキャラが成立したとも考えられるのです。

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October 05, 2005

スピーゲルマンの9.11

 「マウス」で有名なアート・スピーゲルマンが9.11について描いたマンガ、「消えたタワーの影のなかで IN THE SHADOW OF NO TOWERS」が発売されてます。なんと発行は岩波書店。

 スピーゲルマンはニューヨーク在住で、9.11のときには妻と街頭からタワーを目撃し、タワー近くの娘の高校に走って行くという経験をしました。この作品は、2002年2月から2003年9月にかけてドイツの週刊新聞に断続的に連載されたものです。

 驚いたのは、作品の内容よりも造本です。原著もそうらしいのですが、大型本で厚さが約18mm。ただし、1枚の厚さが1mm弱の厚紙を使っていますので、38ページしかありません。これで3800円+税。今日のアマゾンによると、アメリカ版が定価19.95ドルの15%割引で1975円、イギリス版が20ポンドの15%引きで3595円です。

 2ページの見開きが、新聞の1ページの連載分に相当しますから、本を横にして、下から上にめくりながら読みます。アメリカの新聞日曜版の形式に沿っており、1ページの中に数コマずつの複数のマンガが並べられています。あえてバラエティを持たせて描き分けられている。

 9.11に間近で遭遇した著者は、驚き、とまどい、そしてブッシュの戦争に対する反対の表明をします。で、この連載が10回分で20ページ。

 著者がもちいた手法は、コミック・ストリップ黎明期のマンガのパロディです。リトル・ニモのママが、ガスマスクをかぶってたりね。著者は悲劇を何とか滑稽化しようとして苦心していますが、現実に進行する悪意の応酬に呆然と立ち尽くしてる印象。作品が描かれたのが9.11から2年以内ということもあるのでしょう。

 本の後半は、19世紀末から20世紀初頭のマンガの復刻で、まず「イエロー・キッド」、「カッツェンジャマー・キッド」と「フォクシー・グランパ」の合作、「ハッピー・フーリガン」、「キンダー・キッズ」、「リトル・レイディ・ラブキンズとマファルー老人のさかさま物語」(1987年に邦訳あり『少女ラブキンズとマファルー老人の冒険』)、「リトル・ニモ」、幼い手塚治虫にも影響を与えたと言われる「おやじ教育」、「クレイジー・キャット」で計8作。で、これが14ページ。

 もし、新聞連載で読んだとしたらいい作品だと思ったかもしれませんが、このパッケージで読まされるとなあ。少なくとも日本語版は、売るつもりがあるのかというような値段設定です。いや、値段はともかくとしてもページ数とのバランスがね。これではあまりに読者が限定されてしまって、本にとっても不幸なのじゃないでしょうか。

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October 03, 2005

難解このうえなし「陰陽師」

 うーん、やっぱりそうだったよ、岡野玲子「陰陽師」最終13巻を読み始めたら、この官職なんだったっけ、コイツ誰だったっけ、この言葉の意味は、と、まったくマトモに進みません。どかんと横に既刊を積み上げて、いちいち参照しながら読んでるんですが、これなら1巻から読み直したほうがはやいか。それ以前に辞書片手に読むマンガってのはなあ。

 内容もきわめて難解、おそらく隠喩とかもいっぱいあるのだろうけど、わたしには読解できてません。同居人は早々にワケワカランと言って13巻途中で投げました。わたしにさっさと読んで解説しろと。わたしに解説なんかできるわけないでしょうが。

 だいたいなんでエジプトなんだよ、ツタンカーメンなんだよ。わかんねーよー。いつか感想を書ける日がくるのかしら?

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