1962年の「少年」
光文社が創立60周年記念出版として、「少年」1962年4月号の復刻版を出しました。目次などはコチラのページを。表紙は長嶋茂雄です。アマゾンで見るとまだまだ在庫ありそうですね。ちょっとお高いですが。
組立て付録は「オルゴールレコード」となってますが、紙の縦笛に穴の開いた円盤を組み合わせたもので、息を吹きながら円盤をまわすと、曲になる、というものらしい。組み立てるのにはちょっと勇気が必要。
このころの組立て付録っていろいろあったのですが、最近のものと違って、これがなかなかマトモに作れなくてねー。すぐ紙がふにゃふにゃになったりしちゃうんですよ。いまだに覚えてますが、手動のレコードプレーヤーとソノシートが付いてたことがありましたが、子供の手で完成するわけありません、ああクヤシかった。
楽しい復刻版ですが、さて、光文社はなぜ、1962年を選んだのか。単にこの号の、本誌・付録・別冊付録の美品が揃ってただけなのかもしれませんが、「少年」にとって、この年が黄金期だったのでしょうか。目次を見ると、確かに、手塚治虫「鉄腕アトム」、横山光輝「鉄人28号」、白土三平「サスケ」、関谷ひさし「ストップ!にいちゃん」などのビッグヒットが揃っている時期ではあります。
「少年」以前に、マンガ月刊誌の王者だったのが「少年画報」でした。四大連載と言われていたのが、武内つなよし「赤胴鈴之助」、河島光広「ビリーパック」、堀江卓「天馬天平」、桑田次郎「まぼろし探偵」。ピークは1959年で、その年の1月号は80万部ほぼ完売とされています。
それぞれの連載終了が、「天馬天平」が1959年まで。「赤胴鈴之助」が1960年まで。第一期「まぼろし探偵」の終了が1961年。「ビリーパック」の作者・河島光弘が亡くなったのが1961年、連載は1962年まで。
というわけで、1962年には「少年画報」の黄金時代は終わっており、マンガ月刊誌No.1の座は「少年」に移っていました。
一方、マンガ週刊誌は1959年に少年サンデーと少年マガジンが創刊されていましたが、まだまだ苦戦中。1962年はまだマンガ月刊誌のほうが優勢な時期でした。ただし、マンガ月刊誌は次々と休刊していきます。
講談社「少年クラブ」「少女クラブ」が1962年まで。光文社の「少女」が1963年まで。集英社「日の丸」が1963年まで。そして、1963年には少年画報社から第三のマンガ週刊誌として「少年キング」が創刊されました。
少年サンデー初期の黄金時代に、三大連載と言われていたのが以下の三作品です。横山光輝「伊賀の影丸」の連載開始が1961年。赤塚不二夫「おそ松くん」が1962年。藤子不二雄「オバケのQ太郎」が1964年。
この三つが揃った後、少年サンデーは1965年には50万部体制となっていました(そのころ少年マガジンは30万部。劇画路線に変わった少年マガジンが100万部を達成するのが1967年の夏です)。もし子供がコヅカイで週刊誌を月4回買うとすれば、月刊誌はなかなか買えるもんじゃありません。
「鉄腕アトム」のTVアニメ放映開始は、1963年1月でした。続いて「鉄人28号」のアニメが1963年10月より。アニメでの人気を考えると、「少年」の売上は1963年以降のほうが多くなってたんじゃないかしら。
アニメという新興のメディアとのタイアップは、マンガ月刊誌を大きく潤しました。しかし、アニメのスピード感や刺激は、のんびりした月刊誌マンガ作品の味わいとは異なるものでした。さらに、アニメの週1回の視聴習慣は、むしろ読者の月刊誌離れを促進させたかもしれません。アニメの隆盛はマンガ月刊誌にとって、諸刃のツルギでもありました。
「少年」の1962年は、マンガ月刊誌トップを奪取したものの、週刊誌の足音がすぐ後ろから聴こえ、そして翌年からのアニメによる新時代が目前に迫っているという、微妙なバランスの上での黄金期だったのです。
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